特別企画−ネパール映画事情(1)
若い力の歌
〜青年海外協力隊と映画〜

 

駒ヶ根から中央アルプス駒ケ岳を望む
 
 


 私事だが、僕は2007(平成19)年1月10日から ネパールの首都カトマンズに来ている。国際協力機構(JICA)が派遣する青年海外協力隊(JOCV)の隊員として、2年間カトマンズで日本語教師をする予定だ。もちろん、今やインターネットは世界中どこでも使える。だから、この「映画史探訪」も出来る限りこの地で更新していこうと思っている…。とは言うものの、ここではビデオレンタルで気軽に映画を観ることはできないし、文献資料もなかなか手に入らない。だから今まで通りの更新とはいかなくなる 。

 
しかし海外で2年間過ごすというのはめったにないチャンスである。この機会に少し違った視点から映画を見ていこうと思う。


 
僕がなぜ青年海外協力隊に参加したのか、あるいはどのような経緯で参加するに至ったのかは、詳しくは僕のブログ「たこのあゆみ」 のほうを読んでもらいたいので、ここではごく簡単に経緯だけ紹介したい。

 僕が青年海外協力隊の試験を受けたのは2005(平成17)年12月の17年度秋募集。それまでの高校の国語教師の経験が活かせるかと思い、日本語教師の職種で受験した。翌2006 (平成18)年2月に合格が決まり、2006年度2次隊でネパールへの派遣が決定した。
 2006年10月5日から12月13日まで、長野県駒ヶ根市にある駒ヶ根青年海外協力隊訓練所で70日間の派遣前訓練に参加し、ネパール語などの訓練を行った。そして、明けて2007年1月9日に成田から出発。タイのバンコクで 1泊した後、10日にネパールのカトマンズに到着した。
 任期は2009(平成21)年1月7日までのちょうど2年間である。
   

 

 

「白線流し」の舞台にもなった
青年海外協力隊駒ヶ根訓練所
 

 
 


◆「白線流し〜旅立ちの詩」

 青年海外協力隊を扱った映像作品と言えば、少し前だが、テレビドラマ「白線流し〜旅立ちの詩」(2001年フジテレビ)を思い浮かべる人がいるだろう。実際、僕の同期の仲間の中にも、このドラマで協力隊のことを知ったという人がいる。
 1996年に放送された連続ドラマ「白線流し」(フジテレビ)は、大学受験を控えた長野県松本市の高校3年生・七倉園子(酒井美紀)と、働きながら同じ高校の定時制に通う大河内渉(長瀬智也)の2人を中心に、7人の少年少女たちの友情と恋を描く青春ドラマである。
 “白線流し”とは岐阜県高山市の斐太高校における卒業の儀式で、卒業式の日に卒業生たちが学帽の白線とセーラー服のスカーフを一本に結び付けて、大八賀川に流すというもの。ドラマの最終回で園子の提案で、7人がそれぞれの“さよならしたい自分”を書いた白線を川に流す…。
 連続ドラマは高校卒業の時点で終わったが、その後数年おきに彼らの後日談を描くスペシャルが計5本放送された。自分の夢や将来に思い悩む園子の成長と自立の物語となっている。
 2005年に放送された「白線流し・最終章〜夢見る頃を過ぎても」は「最終章」と銘打たれ、一応完結している。とはいうものの、内容的にはこれで完結というわけではなく、今後も続きが作られそうな感じがする。一部の人たちの間では第二の「北の国から」(1981〜2002年フジテレビ)になるのではないかとも言われているようだ…。


 さて、「白線流し〜旅立ちの詩」は2001年に放送されたスペシャルの3本目の作品で、子供の頃からの夢だった天文台の仕事を辞めて夢に迷った渉(長瀬智也)が、青年海外協力隊に参加する。渉は高校時代に工場で働いていた経歴を活かし、溶接の職種で、スリランカに行くことになる。
 渉は派遣前訓練のために駒ヶ根青年海外協力隊訓練所にやってくる。園子(酒井美紀)もまた、渉に会うために駒ヶ根訓練所を訪れた。ドラマは実際に駒ヶ根訓練所でロケが行われている。
 僕はこのドラマを放送当時観ておらず、恥ずかしながら訓練中にドラマの存在を知った。そこで訓練が終わってから出発までの間に慌てて観たのだが、ついこの間生活してきた訓練所内の場所がいろいろ映っていて何ともいえず嬉しかった。例えば、渉がスリランカのシンハラ語を勉強しているのは駒ヶ根訓練所の36番教室なのだが、現在でもアジア言語は訓練所の30番台の教室で授業が行われている。ちなみに僕の時のネパール語の教室は34番と35番教室だった。
 渉が国旗を掲揚する場面も登場する。訓練中は毎朝、訓練所の玄関前で「朝の集い」が行われる。その際には各国の国歌のテープに合わせて国旗を掲揚する。
 もっとも、園子と渉が語り合う芝生は残念ながら記憶に無かった。おそらく訓練所周辺のどこかなのだろう。どうも、このドラマは物語の舞台に関してはかなり忠実にロケを行っているように思われる。
園子は僕の母校・早稲田大学の出身なのだが、教室や図書館ばかりか居酒屋まで実際に早稲田の町でロケをしていたからである。
 「旅立ちの詩」のラストで渉は成田空港からスリランカへと旅立っていく…。

   

 
 
◆マジックとイリュージョン

 2003年に放送された「白線流し〜二十五歳」では、渉はスリランカから日本に帰国していることになっている。残念ながら渉のスリランカでの活動は、数枚の写真と、隊員仲間の美里(原沙知絵)との会話の中で断片的に語られるだけである。「旅立ちの詩」で渉が園子に語った会話から推測するに、渉は日本から送られた天文台の工事に携わったようである。

 渉は帰国後、隊員仲間だった美里と結婚する。美里は保育園で働いているから、おそらく保育士の職種で協力隊に参加したのだと思われるが、2年間の任期を終えずして日本に帰国している。実際、発展途上国で2年間の任期を全うするのは想像以上に大変なようで、毎回 派遣者の10〜20%前後が任期を短縮して帰国してしまうとのこと。中でも、健康上の問題というのが一番多い。美里も健康問題で帰国している。
 渉と美里は元隊員同士で結婚したが、実際にこのようなことは多い。何しろ協力隊の隊員は、派遣国や職種に限らず、同じ志を持ったもの同士であるから、恋愛関係が成立しやすいようだ。僕がいた駒ヶ根訓練所では、訓練期間中に成立したカップルを、「(駒ヶ根)マジック 」(略して「KM」とも)と呼んでいた。先日、ネパールの仲間たちとその数を数えてみたところ、全部で15組のカップルの成立を確認することができた。駒ヶ根訓練所にいた隊員は約200人。つまり、そのうち15%に「マジック」が起きたということになる。ちなみにもう一つの訓練所である福島県二本松市の青年海外協力隊二本松訓練所でも同じ現象を「(二本松)イリュージョン」と呼んでいる。不思議な現象という意味でこのように名づけられているのかもしれないが、僕は別の意味にとらえている。“マジック”で成立したカップルは、訓練が終わって数週間のうちにそれぞれ別の任国へ旅立っていく。同じ国に行かない限り、当然2年間会うことはない。そうしているうちに、自然消滅してしまうこと も多い…。もともと「マジック」というものは、人が消えたり、どんな不思議なことが起きても、実はタネも仕掛けもあって、終わってみれば元の日常のままである。訓練所で成立したカップルも、そのようにして何事もなかったかのように戻ってしまうのである。もちろん、マジックによって成立したカップルの中にも稀にゴールインする人たちもいる。

 それ以上に多いのは、同じ任国で隊員同士のカップルが成立することである。こちらを「(任国)ミラクル」と呼ぶ人もいる。日本人があまりいない発展途上国で、隊員同士が恋愛感情に発展するのは、なるほどよくわかる。さらに、帰国後に日本で成立する場合も多いという。元隊員が任国での体験を友人に話したくても、そういつまでも興味を持って聞いてはくれない。聞いてくれるのは同じ協力隊経験者ばかりというわけ。また、帰国した隊員がなかなか社会復帰できないということも良く聞く話である。結局、帰国後に元隊員同士がお互いを慰めあううちに恋愛に発展するということなのだろう。渉と美里の場合も帰国後に仲を深めた例だといえる。
 ちなみに、協力隊員と現地人との間に恋がめばえて結婚に至るといった例もよく聞く話である。

 

 「白線流し」シリーズの主題歌はスピッツが歌った「空も飛べるはず」(作詞作曲・草野マサムネ)。このドラマがきっかけで、現在も協力隊員の間で愛唱されている。先日の派遣前訓練の終わりに、隊員たちが様々な発表を行う実演会があった。その中には、隊員有志による「空も飛べるはず」の演奏と歌の出し物があった。僕もその中に参加して歌ってきた。
  
 
 



駒ヶ根訓練所35番教室
ドラマではこの隣の36番教室が使用された
 

 
    
◆「嫌われ松子の一生」と協力隊
 
 最近の映画では、「嫌われ松子の一生」(2006年「嫌われ松子の一生」製作委員会)でほんの少しだけ協力隊について触れられていた。
 映画の最初のほうに、主人公・川尻松子(中谷美紀)の甥で物語の語り部である笙(瑛太)の恋人・明日香(柴咲コウ)が、彼の留守番電話に青年海外協力隊としてウズベキスタンに行くことを伝えて去っていく場面がある。
 いったい彼女は何の職種で協力隊に参加するのだろうか、という疑問がまっさきに浮かんでくる。だいたい2ヶ月もの派遣前訓練があるのだから、その間彼氏がそのことを知らないはずはないではないか。ひょっとしたら、彼女が行こうとしているのは任国ではなく、訓練だったのかもしれない。 ちなみにウズベキスタンは学習言語はウズベク語あるいはロシア語
で、2006年の訓練地は駒ヶ根のほうだった。
 
 
  ◆青年海外協力隊とは  
 



派遣前訓練修了式
 

 
   
 ここで、青年海外協力隊(JOCV)とはどのようなものなのかを簡単に説明しておきたい。青年海外協力隊は1965(昭和40)年、外務省所管の海外技術協力事業団(OTCA)の事業としてスタートした。一般的には、1961年に始まったアメリカの平和部隊(ピースコー/APC)をヒントにしたと言われているが、実際には構想は1957(昭和32)年当時からあったそうである。1965年の12月から翌年にかけて、最初の協力隊員26名がラオス、カンボジア、マレーシア、フィリピン、ケニアに派遣された。以来、事業は連綿と受け継がれ、2006年までに81ヶ国に累計27,826人を派遣している
(*1)。1974(昭和49)年には、海外技術協力事業団が海外移住事業団と合併し、国際協力事業団(JICA)として発足。協力隊事業もそこに引き継がれる。2003(平成15)年10月には国際協力事業団は独立行政法人・国際協力機構(JICA)として再スタートを切った(*2)
 
 青年海外協力隊と言うと、一般的には未だに開発途上国で井戸を掘るイメージがあったりするが、それはもちろん協力隊活動のごくごく一部に過ぎない。現在は農林水産、土木建築、保健衛生、教育文化、スポーツなど100種類以上の職種で活動を行っている。現に僕も日本語教師という、教育分野でネパールに行くのである。

 協力隊は年2回、春(6月)と秋(12月)に募集が行われる。そして、合格すると約70日間の訓練を経て任国に派遣される。訓練は僕のいた駒ヶ根訓練所と、二本松訓練所の2ヶ所で行われる。出発は毎年7月(1次隊)、12月(2次隊)、3月(3次隊)の年3回
(*3)。僕は18年度2次隊で、従来なら 2006年12月に出発するはずだったのだが、今年度は年明けの1月出発となった。
   

*1 「クロスロード 12月号」2006年12月
*2 2008年10月にJICAと国際協力銀行(JBIC)が統合予定
*3 2008年度から7月・10月・1月・3月の4隊次派遣となった
  
 
  ◆「アサンテ・サーナ/わが愛しのタンザニア」  
 



「アサンテ・サーナ」(1975年)
(「発展途上国と日本人」19ページ)
 

 
 

   
 さて、青年海外協力隊を真正面から取り上げた映画として、「アサンテ・サーナ/わが愛しのタンザニア」(1975年)があるということを、駒ヶ根訓練所に来てから知った。1975(昭和50)年の青年海外協力隊活動10周年を記念して製作された映画である。2代目協力隊事務局長・伴正一(1924〜2001)の「協力隊PRはドラマで」(*4)という発想のもと、アジアで協力隊の活動を見て協力隊にほれ込んでいた映画監督・谷口千吉(1912〜2007)の協力を得て、タンザニアでの半年に渡るロケの末に製作された。青年海外協力隊が全面協力している。製作当時、劇場公開を期待され、松竹の社長・城戸四郎(1894〜1977)に売り込まれたが、城戸は試写会で居眠りを始め、「谷口君にも似合わぬ…」ともらしたそうである。結局、以後は民間で自主上映されるに留まった。これは、ぜひとも訓練の最中に観ておきたい。そこで、訓練所のスタッフに見ることができないかどうかを尋ねてみた。すると、訓練のカリキュラム外に自主的に行う「自主講座」としてなら、ビデオを貸し出してくれるとのことだった。また、そのためには他にも協力隊員を集めなければいけない。そこで、張り紙をして、観たい仲間を募ったところ、すぐに30人近くの人が手を挙げてくれた。
 少しでも多くの仲間に観てもらうために12月6日(水)と7日(木)の2日、2度の上映を行うことに決まった。


 さて、「アサンテ・サーナ」はどのような映画かというと…。
 谷口は監督・製作・脚本を担当している。また、谷口の妻で女優の八千草薫(1931〜)が特別出演しているのも、映画の売りの一つとなっている。ちなみに、「アサンテ・サーナ」とは、スワヒリ語で「ありがとう」の意味である。

 映画は、タンザニアの首都ダレスサームの国際協力事業団(JICA)事務所に、主人公の青年海外協力隊(JOCV)隊員・坂田(達純一)が到着するところから始まる。坂田は、任地のウジャマアマ村から、カウンターパート(現地人スタッフ)のジュマ(フランク・ムズレイ)と共に、日本から届いた灌漑用ポンプを受け取りにやってきたところである。ちなみに八千草の役はJICA駐在員の妻である。

 坂田とジュマは、事務所から託された日本からの手紙を他の隊員達に配りながら、ウジャマアマ村へ向かう。途中、ヒッチハイク中の日本人ヒッピー青年・梶(大口広司)を乗せ、3人旅となる。
 現在、協力隊員は、任国での車の運転を禁止されているが、当時はそうではなかったようで、坂田がハンドルを握る。それはともかくとして、アフリカの道なき道とはいえ、坂田は120キロものスピードでジープを飛ばしている。しかも、JICA事務所では他の隊員たちとビールを飲んでいるのだから、相当問題があるのではないか。万が一事故を起こしたらどうする…? 映画のストーリーとは無関係のところばかりがどうしても気になってしまう。

 映画の最初のほうでは、坂田が訪ねる協力隊員たちの活動の様子が紹介される。ある隊員は、足の不自由な子供たちにサッカーを指導している。また、ある隊員は大草原の真ん中で機具なしで外科手術をしている。女性達に竹細工の指導をしている女性隊員もいる。まるで、協力隊のPR映画のようにも思えてくる。

 主人公の坂田はすぐにカッとなる性格だ。任地に戻る途中、何も知らずに現地住民たちに豚肉の缶詰を食べさせた梶を、何も言わずいきなり殴りつける。彼らはイスラム教徒で、豚肉を食べることが戒律により禁止されているのだ。
 この性格が災いして、後に坂田は問題を引き起こしてしまう。

*4 青木公「OBはつらいよ」83ページ
    以下同書82〜85ページを参照

 

 
 



青年海外協力隊員の証のエンブレム
 

 
 


◆主人公坂田と協力隊活動
 

 ウジャマアマ村では、水汲みは女たちの仕事だ。危険な崖を、女たちは水壷をかついで上り下りしなければならない。そんな折、ジュマの恋人アイーシャの母親が、崖から落ちて死んでしまう。ウジャマアマ村に帰ってきてそのことを知った坂田は、ポンプを飲料水の汲み上げに使うよう主張する。もちろん、村の男たちは、ポンプを灌漑に使いたい。坂田と村人たちは意見がぶつかる。腹を立てた坂田に、村人たちは「あなたはよそ者だ。アフリカのことはアフリカ人が決める。」との言葉を投げつける。

 次の日から、坂田は、村人たちの灌漑用水路の工事には加わらず、独りで崖に女たちのための階段を作り始める…。

 協力隊員の立場から見て、こうした坂田の態度をどう評価したらいいのだろうか。現地からの要請に対し、ボランティアが直接答えると言うのが、ボランティア精神の基本であり、青年海外協力隊の理念ともなっている。とすれば、坂田は住民たちの願いである灌漑用水路工事に加わるべきだったのではないだろうか。あるいは、この時の坂田のように自分の信念を貫き通すのが良かったのか。ひょっとしたら、それ以外の方法があったのかもしれない。例えば、一人ではなく村人と共に階段を作るというような…。おそらくこのことに近い事態は、協力隊員なら誰でも多かれ少なかれ、任国で出会うだろう。その時、僕はどの方法を選ぶだろうか…。今はまだ何とも言えない。

 最終的に、坂田は村人たちと和解。灌漑用水路も、階段も無事に完成する。出世のために水路の完成後に村を出て行くつもりでいたカウンターパートのジュマも、村に、恋人のアイーシャの元に残る決意をする。


 高熱で倒れた坂田の看病のためにウジャマアマ村にやってきたJICA駐在員夫人(八千草薫)は坂田のことを「トンネルの真ん中を掘る人みたいだ」と言う。トンネル工事は、「最初と最後にやった人だけが評価される」のだという。この言葉の意味はどういうことなのだろうか。

 協力隊の任期は、わずか2年間である。その間に一人の協力隊員ができることは限られている。さらに、協力隊活動は「赴任国の住民と同じ物を食べ、同じ言葉で語り、その土地の文化・習慣を尊重しながら社会に溶け込み、その地域の人づくり・国づくりに力を添える」ことを目指している。このことは、ごく当然のことにも思えるのだが、実際は口で言うほど簡単ではない。協力隊員は派遣前訓練で任国で必要な言語を学ぶ。英語を学習する隊員の場合は別として、ほとんどの隊員にとっては初めて学習する言語である。僕はネパール語が学習言語だったが、もちろん生まれて初めてのネパール語だった。毎日5時間の授業が、70日間の訓練中に計225時間。膨大な時間とも思えるが、英語で言えば中学2年生の途中までの量を消化したに過ぎない。さらに現地でも語学訓練があるが、それだけですぐに専門的な仕事というわけにはいかない。
 また、任国での生活は、今までの日本でのものとはまったく違うものになる。習慣も大きく異なれば、食べ物も違う。ちょっと地方に行けば電気も水道もない。風土病があり、なおかつ病院設備は整っていない。そのため任期途中に帰国を余儀なくされる隊員も多い 。
 言葉もなんとか使えるようになり、ようやく生活に慣れた頃、任期は残り少なくなっている…。



 「アサンテ・サーナ」の中で、坂田は村人たちに「自分が帰った後、ポンプが壊れたらどうするんだ?」と問いかける。坂田がいる間は、ポンプが故障しても、修理ができる。部品も日本から届く だろう。だが、坂田が帰った後は? ポンプに限らず、協力隊員が帰った後、技術がそこで途絶えてしまっては意味が無い。それこそトンネルの途中まで掘っだけということになってしまう。だからこそ、協力隊員は現地人の自助努力の方法を作り上げる必要性があり、そのためにジュマのような現地人カウンターパートを育てることが大切になる。「アサンテ・サーナ」では、ジュマは出世への道を捨てて、ウジャマアマ村に残る道を選ぶ。だが、現実には、協力隊員の後継者になるよりも、より良い職に就こうとする人が多い 。
 

 
 

 
◆協力隊活動の意味
 

 協力隊員は全員何らかの技能を持っている。選考試験も決して簡単ではない。職種の技術試験に加え、語学(英語)と健康診断、そして2次試験の面接…。僕が受験した平成17 (2005)年秋の日本語教師の場合を例に取ると、56人の要請に対し232人が受験している。最終的に採用されたのは40人だから、倍率は約6倍ということになる。 なるほど確かに狭き門である。しかしながら、こうして集まった各隊員の技能レベルは、実際のところ相当ばらつきがある。実務経験豊かな隊員がいる一方で、大学を卒業したばかりで経験に乏しい隊員もいる。隊員の年齢は20歳から39歳までだが、職種によってはこの年齢の経験では箸にも棒にもかからないといったこともある。僕の場合も、以前は高校の国語教師で、日本語教師の経験はまったく無かった。
 JOCVの事業は「開発途上地域の住民を対象として当該開発途上地域の経済及び社会の発展又は復興に協力することを目的とするものを促進及び助成するため」(独立行政法人国際協力機構法第13条第1項第3号)のものと位置づけられている。果たして僕の技能水準で、どこまでそれができるのだろうか。「アサンテ・サーナ」の坂田の場合は成功に終わっているが、実際には失敗した例も多いはずである。


 協力隊の目的の一つには「日本青年の育成」があった。これはつまり、協力隊員が任地から持ち帰った知識や経験を何らかの形で日本社会に還元することが期待されているということである。ということは、極端な話、何もしないで帰ってきても、何らかの意味があるということである。
 「アサンテ・サーナ」には実際の協力隊員も出演しているそうだが、そのうちの一人は駒ヶ根訓練所の前所長とのことである。また、訓練所スタッフもほとんどが、協力隊OBであった。このように後進の育成に携わるということは、まさしく目に見える形での還元だといえる。映画では坂田の帰国後はまったく触れられていないが、どのような仕事に就こうとも、彼のタンザニアでの経験は必ずや活かされるに違いない。また僕には、ヒッチハイクで拾われて以来、坂田の傍にいたヒッピー青年・梶のその後が興味深い。身近で坂田の姿を見たことは、彼の人生に多くの影響を与えたと信じている。


 「アサンテ・サーナ」上映会
には2日間で30名以上の隊員が参加してくれた。終了後に書いてもらったアンケートも概ね好評であった。任国での活動に期待と不安が入り混じったこの時期にこの映画を観たことで、僕自身も多くのことを考えさせられた。
 かつては「アサンテ・サーナ」鑑賞は、訓練の際の正規のカリキュラムであったそうだ。なぜ今、正規のカリキュラムでないのかはわからないが、「アサンテ・サーナ」はこれから協力隊員になる人、協力隊員をめざす人にぜひとも観て欲しい映画だと自信を持って言える。


 なお、協力隊が製作に関わった作品としては歌手の小泉今日子(1966〜)が協力隊員の看護婦を演じたテレビドラマ「ヒマラヤの赤い自転車」(1992年TBS/ニューウェーヴ)があるが、ネパールが舞台となっているので、次項で紹介することにしたい。
   

 

 

駒ヶ根訓練所講堂にある「若い力の歌」の歌詞板
 


◆「若い力の歌」


 この項の題名は「若い力の歌」とした。これは青年海外協力隊の隊歌の題名である。「若い力」とは青年海外協力隊の機関紙の名前だが、「アサンテ・サーナ」の中にも一瞬だけ登場する。1978(昭和53 〉年に「クロスロード」と改題され、現在でも毎月発行されている。
 隊歌「若い力の歌」は1968(昭和43)年3月に最初の青年海外協力隊隊員の帰国報告会に合わせて発表された。公募による山田哲(やまだ・あきら)の詞に、藤田まさと (1908〜82)が補作詞、古関裕而(1909〜89)が作曲して、藤山一郎(1911〜93)が歌っている。最初聞いたとき阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」に似ていると思ったが、なるほど同じ作曲者だったわけだ。派遣前訓練の修了式では、協力隊員全員でこの歌を合唱する。訓練期間中は、朝のジョギングが日課だが、雨が降って走れない時などに、体育館でこの歌を練習した。ちなみに僕は歌の歌唱指導係を務めたていた。ただ単に、この歌をとあるホームページ(参照)で聞いて知っていたというだけで 、別に音楽の素養があるとかいうわけではないのだが…。朝の練習の際には、みんなの前に立って、マイクで模範歌唱をした。そのおかげかどうか、修了式の頃にはみんなちゃんと歌えるようになっていた。


 これからの2年間の隊員としての活動の間に、この歌を思い出すこともあるだろう。励まされることもひょっとしたらあるかもしれない。そこで、最後にこの歌を紹介して終わりとしたい。修了式で歌ったのは2番までだが、実際には4番まで歌詞がある。
 
 
若い力の歌

 
やまだ・あきら作詞 藤田まさと補作詞 古関裕而作曲
 
一、若い力がここにある 未来の扉開くもの
   日本の明日を築くもの 誇りを胸にいざ行かん
   若い若い力に栄えあれ われら海外協力隊

二、若い命がここにある 赤道直下新天地
   耕す道は遠くとも 見よわが技をわが意気を
   若い若い命に栄えあれ われら海外協力隊

三、若い理想がここにある 今こそ望む新使命
   我らが流す汗と血は 世界を結ぶ虹の橋
   若い若い理想に栄えあれ われら海外協力隊

四、若い使命がここにある 明るく清くたくましく
   友邦ともにたずさえて いざうち立てん新時代
   若い若い使命に栄えあれ われら海外協力隊
 
 

(2007年2月10日)

 


(参考資料)
伴正一「ボランティア・スピリット」1978年3月 講談社
中根千枝「日本人の可能性と限界」1978年3月 講談社

鳥羽欽一「発展途上国と日本人」1978年3月 講談社
青木公「OBはつらいよ/協力隊卒業生は、いま」1998年10月 国際協力出版会

青年海外協力隊事務局「青年海外協力隊誕生から成熟へ」2004年9月 協力隊を育てる会


ブログ「たこのあゆみ」(
http://st-octopus.at.webry.info/
 

 


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