思うこと 第286話 2010年4月6日 記
挑戦し続け、ついに夢を実現した若者
その若者の名は林 恒存(つねあり)君。
この写真は昨年、2009年2月7日、ハワイ大学で研鑽中の同君に再会した時、ハワイ大学医学部キャンパス入り口で撮ったもの。
かって、この私のホームページの『思うこと 第52話: 挑戦し続ける若者の姿に感動して』で挑戦の途中経過は紹介したが、ついに、その夢を、最高の形で実現し、同君からのその喜びのメールがこのほどハワイから届いたのでまずそのメールを紹介し、引き続き、同君の挑戦の足跡をふりかえりたい。
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納先生
ご無沙汰しております。ハワイに留学中の林です。 実は今朝方、米国のマッチングの発表があったのですが、今回、ピッツバーグ大学医学部
Shadyside Hospital の Family Medicine residency にマッチしました。
このプログラムは、久松先生が Internal Medicine で研修されていた同じ病院です。今回僕は、家庭医学でのプログラムでの研修を希望していたため、全米の20以上の
Family Medicine プログラムに応募していました。 しかし、今回も非常に状況は厳しく、唯一このピッツバーグのプログラムだけから面接に招待されたのですが、ここも7人のポジションにおよそ1000人の応募があり、100人が面接に呼ばれたと聞いていて、これは今回も相当厳しいなと覚悟していましたが、運良くその1つのポジションをいただくことができました。
米国への挑戦を考え始めてから約10年近くになり、相当時間はかかりましたが、あきらめずに粘ってようやく自分の長年の夢の入り口に立てました。
−中略−
Family Practiceでは、成人のみならず、新生児、小児、妊婦、産婦人科、予防医学、救急、内科、外科系も全てカバーする、プライマリケアのスペシャリストを養成するカリキュラムです。これまでの内科、救急の経験に加えて、それ以外の能力を身につけて臨床能力にさらに磨きをかけて、数年後に必ず慈愛会に戻ってきて、慈愛会での良質な医療提供、鹿児島の医療発展のために少しでも貢献したいと決意を新たにしています。
3月末に数日鹿児島に戻る予定ですので、帰郷の際はご挨拶にお伺いします。
林 恒存
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林君は、 尊敬する先輩で、今も同君の心の師である久松君が米国研修したまさにその同じピッツバーグのプログラムにマッチングを果たすという最高の形で夢を実現したわけで、このことをまず、久松君の墓前に報告したいと、鹿児島に一時帰国し、
西垂水君に伴われて、3月25日、久松君のお墓参りをした。この写真はその時私が撮ったものである。
久松君が最高に喜んでくれたであろうと、感極まる思いであった。
ここで、同君のここまでの挑戦の足跡をもう一度振り返りながら、一緒に喜びを噛みしめたいと思う。
林 恒存君は、1997年に鹿児島大学医学部を卒業し、鹿児島大学第三内科に入局してきた若者である。 一年間鹿児島大学医学部附属病院で研修医としてトレーニングを受けた後、私が追い求めてきた研修体制の中の『臨床真っ黒こげコース』を選択してくれ、1998年から2年間福岡県麻生飯塚病院の研修医として2ヶ年間国内留学した。ここでの評価も高く、途中米国ジョージタウン大学医学部での1ヶ月間のエクスターンの経験も積んでいる。 2000年の4月に大学の第三内科の病棟に帰ってきた時、驚くほど臨床の力をつけているのに感心したのであった。 その後1ヶ年間国立指宿病院神経内科で橋口部長のもとで臨床神経内科の特訓を受けた後、2001年6月から西垂水君が中心となって立ち上げた慈愛会今村病院分院救急・総合内科に他の第三内科の青年医師達とともに集結し、ここの中心的担い手として発展に寄与したのであった。 同君は、西垂水君と久松君という2人の卓越した先輩に深く私淑していたのであったが、久松君の悲報に打ちのめされながらも、その悲しみの中から、久松君の遺志を継ぐべく、米国での厳しい研修へのいばらの道に挑戦するというそれまでの決意をさらに強くいだいたのであった。 今村分院救急・総合内科での忙しい仕事をこなすかたわら、同君は2003年3月には米国臨床研修資格試験の第一の関門であるUSMLE
STEP2 に合格、さらに同年6月にはUSMLE STEP1に 合格し、2005年6月にはUSMLE
STEP2CS の難関をみごとに突破して、USMLEのCertificateをついに取得したのであった。 これで、米国の研修病院で研修するためのすべての資格を得たので、同君は次の難関の『米国のいい研修病院から選ばれる(マッチングする)』というテーマに挑戦したのであった。 その後、林君は、『思うこと 第52話: 挑戦し続ける若者の姿に感動して』の追記で紹介したように、2005年10月、野口医学研究所の奨学生として選抜され、ハワイ大学 Kuakini
Medical Centerでの1ヶ月間の臨床研修を行い、さらに力をつけたのであった。 その後、満を持してマッチングにのぞんだが、マッチングの壁は厚く、2006年3月、2007年3月と2年連続マッチング出来ないという苦難に直面したのであった。 その時の心境、ならびにその後の心境の変化を同君は私に次のように語ってくれた。 すなわち、
『2年連続でマッチングの大きな壁に阻まれて、唯一の拠り所であった久松先生からのアドバイスも、もはや受けられなくなったところで絶望感にさいなまれ、私は大きく自信をなくして心も折れました。この頃は「わざわざ米国に行かなくても医者として日本で仕事はできるわけだし、国内でがんばれば臨床技術も磨ける」などと、夢を諦める口実を作り、2008年はマッチングに参加せずに今村病院分院での総合内科医、若手の指導医としての役割に全力を注いでいました。しかし、やはり夢を完全にあきらめられない自分がずっと心の中にいました。米国で臨床医として能力を磨きたいという目標は、卒後3年目の飯塚時代に短期研修ではじめて米国の臨床現場に触れて衝撃をうけた時からの、子供時代のような「純粋なあこがれ」でしたが、その当時の私にとっては見果てぬ夢でした。でも、久松先生との出会いを経て2001年頃に挑戦を決意し、苦しみながらもマッチング参加まで辿り着き、あと少し粘れば夢に手が届くこのチャンスをみすみす棒に振れば、自分は死ぬまで後悔する、と思ったのと、「臨床の達人を一生追い求める」ためには、やはりこのタイミングが鹿児島を飛び出して次の高みへ進む時だと悟り、ふたたび前に歩き出すことを決意しました。「あきらめれば夢実現の可能性はその時点でゼロになるけれども、自らがあきらめない限りは、たとえ可能性は低くてもゼロにはならない」と絶えず言い聞かせつつ、自己啓発本や留学を実現した先生方の体験記などを何度も読み返しながらモチベーションを維持しました。きっと日本の一流のプロ野球選手の多くがメジャーリーガーに憧れ、一生保証されている日本での地位を捨ててまでリスクを冒して米国を目指そうとする、それと少し似たような感覚かな、などと考えていました。 この段階で私は戦略を再度練り直しました。マッチするのに自分に足りなかったものを冷静に、客観的に分析し、それらを克服するための具体的なアクションをおこすことが必要と考えました。その結果、 1) 米国で臨床医として働くための英語力が不十分だった。 2) 自身の臨床能力を米国の臨床医に認めてもらっって推薦状をいただく必要があった。 3) マッチングに不可欠な情報収集と人的コネクションが不足していた、という3つに集約できると考え、これらの克服には、現地に乗りこんで準備するのがベストと結論づけました。』
と私に語ってくれたのであった。
この後、林君はこれを実現するための行動に移った。 その当時の今村病院分院総合内科の直属の上司であった加塩主任部長が、「獨協医科大学越谷病院の救急医療科からハワイ大学医学部のシミュレーションセンターに派遣する日本人医師の研究留学生を募集している」という情報をもってきてくれ、さらにそこの教授である池上先生を紹介してくれ、林君は一年間の国内留学と、それに引き続くハワイ大学研修に向けて旅立ったのであった。 6年間の今村病院分院での仕事にいったん別れを告げて、まず獨協の救命センターに旅立ったのが2007年の6月で、私が鹿児島大学を定年退職して財団法人慈愛会に奉職した2ヵ月後であった。林君はそれまでに、正しい心肺蘇生法の普及のためのBLS、ACLS、ICLSコースのインストラクターとして2000年以降,飯塚と鹿児島で教育活動に熱心に取り組んできていたため、獨協医科大学越谷病院でも、ハワイ大学医学部のシミュレーションセンターでも、同君がそれまでに蓄積した腕が重宝がられると同時に、さらにこの分野で大きく力をつけたのであった。 しかも、獨協の救命センターでの3次救急医療への従事は想像以上にエキサイティングで、あらゆる外傷治療、熱傷、重症感染症の初療、ICUでの管理などを通じて、非常に過酷な業務ではあったが、臨床医としての幅を広げながら楽しくすごすことができた、と同君は私に語ってくれた。 同君が獨協の救命センターで国内留学を開始した直後(2007年6月末)に、私は、池上教授が東京で主催された『日米シュミレーション医学教育シンポジューム』に参加し、林君と再会した(詳細は『思うこと 226話』参照)。
この下の写真はシンポのあとの懇親会で撮ったものであるが、
向かって左から、納、林恒存君、井上卓也君、Dr. David Yu、今村英仁理事長、山田浩二郎君
である。 Dr. David Yuはこの直後の7月2日には鹿児島に来てくれて、今村病院分院で災害医療のあり方の講演をしてくださった(『思うこと 229話』)のであるが、ハワイにおいても林君がハワイ大学で研修中になにかと力になってくれた先生でもある。
さて、林君は2008年9月からハワイ大学医学部SimTikiシミュレーションセンター(http://simtiki.simmedical.com/default.asp)のResearch scholarとして移り、現在に至っている。
林君は、ここでの歩みについて次のように私に報告してくれたので、同君の許可の下に、その概要を紹介する。
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ハワイ留学中の私の役割として、
#米国で幅広く実践されているシミュレーション医学教育のノウハウをもっと日本へ普及させる。
#各種シミュレーションコースのインストラクターとしての経験を積む。
#日本人医療従事者対象のコース開催時のカリキュラム作成、通訳、インストラクター、および観光案内として勤める。
#オリジナルのシミュレーションコースを開発する。
#シミュレーション医学の教育効果に関するclinical researchを行う。
と自ら目標を設定して過ごしてきました。その努力が功を奏し、この2年近くの間にかなり多くの日本人がハワイにシミュレーション医学を体験、学びに来るようになりましたし、日本での普及も広まったように思います。また個人的にも、2010年1月にフェニックスであった、シミュレーション医学の国際学会(http://www.ssih.org/SSIH/SSIH/IMSH20101/IMSH2010/Default.aspx)で、自分の作成したオリジナルカリキュラムについて、ポスター発表もすることができました(下写真)。
この留学生としての仕事を進める一方で、先程の3つの課題克服のために精力的に動きました。具体的には、英会話力のレベルアップを目標として、ネイティブの同僚達と食事をしたり、飲みに行ったり、様々なアクティビティやパーティにも努めて参加し、日々のミーティングでも積極的に意見を述べるなどして、英語でコミュニケーションをとる機会を意識的に増やしました。また、ハワイ大学の留学生を対象とした夜間の英語クラスも週3回受講し、さらにハワイ大学の日本人レジデント対象の週1回の英会話レッスンへも特別に加えてもらい、英語による患者プレゼンテーションの特訓をうけました。そして2008年12月の1ヶ月間は、ハワイ大学家庭医療科の臨床教授でもあり、30年以上にわたりクリニックで診療に従事されているDr.Tokeshiのもとで、マンツーマンで家庭医としての修行(短期研修)をさせてもらいました。毎朝4時からのスタートで、休日なしの24時間オンコール体制で、医療知識技術の伝授からプロとしての心構えや態度まで徹底的に鍛え直してもらい、最終的に身に余るほどの素晴らしい推薦状を書いていただきました。情報収集については、ハワイ大学の家庭医療レジデントとして研修中の日本人の先生や、ピッツバーグの家庭医療科でレジデント終了後、ハワイ大学老年医学で専門研修中であった日本人の先生から、こまめに役立つ情報やアドバイスをいただけました。 以上が採用に至るまでの経緯です。上記の全てのプロセスが、今回のピッツバーグ大学へのマッチとして(http://shadyside.familymedicine.pitt.edu/default.asp)運良く実を結んだ、そう思っています。ハワイに移った直後は、耐え難い孤独感や先のみえないプレッシャーで大いに苦しみ、帰国したいと思った辛い時期もありましたが、目標実現のためにとにかくじっと我慢してなんとか乗り越えたことで、日本にいた頃よりもはるかに精神的にタフになりました。』
林君が語ってくれたように、先日会って、林君がさらに一回りも二回りも大きく成長ししていることに私は感銘を受けたのであった。
さらに同君は次のように語ってくれた。
『こうやって振り返ると、自分を律して決してあきらめなかったことも幸いしたとは思いますが、私の周りの数多くの人々のサポートがなければ、絶対に実現不可能でしたので、今後も周囲の方々への感謝の気持ちを忘れずに、数年後に米国での成果を持ち帰って、別の形で恩返しする義務があると考えています。
僕は、納先生の「臨床真っ黒こげコース」というキーワードに魅せられて第3内科に入局を決めたので、そのコースに沿って現在も歩み続けている、ただそれだけです。7月から始まる新たな挑戦の中で、新たにいくつもの困難が立ちはだかることは容易に推測できますが、せっかくいただいたチャンスですので、ピッツバーグの臨床現場でこれまでよりさらに真っ黒こげになるほど経験を積み、医師としての能力に磨きをかけて、近い将来、あらゆる患者さんの訴えに応えられる臨床医として、主に鹿児島での医療活動を通じて、日本の医療がさらに世界に誇れるものとなるよう微力ながら貢献したい。そしてできれば後進の若手医師や学生、あるいは他の多くの医療従事者にもいい影響を与えられる存在でいつづけたい、そう思っています。』
以上が林君が私に語ってくれた言葉の概要であるが、私は、同君の歩みを振り返りながら、涙が出るような感動を覚える。 林君はピッツバーグでも、困難を乗り越えて、さらにさらに力をつけて鹿児島に帰ってきて、同君がいみじくも述べてくれたように、後進の若手医師や学生、あるいは他の多くの医療従事者に莫大な影響を与えながら、日本の医療がさらに世界に誇れるものとなるような発信をし続けてくれることであろう。 くれぐれも健康に留意して、元気で帰って来てほしい。
心からのエールとともに。
納 光弘 2010年4月7日 後半部分を追記