僕を救ってくれたもの

 「学校よりも、三分間のレコードから多くのことを学んだ」これは、ブルース・スプリングスティーンの言葉である。この言葉を読んだのは、いつだったか忘れてしまったが、当時はあまりに出来過ぎているように感じられ、それほど気に留めることはなかった。しかし、最近になって、この言葉の意味が、確かな実感を伴って感じられるようになったである。

 ここ数年、会社の中で、僕は悪い扱いを受けている。詳しくは、‘陽だまりの中で’に書いたが、作業場の環境が悪いため、改善を求めたところ、上司であるNさんと鋭く対立してしまい、それ以来、ことあるごとに圧力をかけられるようになった。その後、Nさんのセクハラ問題が起き、表面上は静かになったが、彼は彼の腰巾着であるOさんを使い、未だにいやがらせは陰湿な形で続いている。

 このような状態になれば、二十代の頃の僕だったら、恐らくすぐに会社を辞めていただろう。しかし、現在は、自分の年齢を思うと、そう簡単に会社を辞めるわけにもいかず、悩み苦しんで…ということになりそうだが、実はそれほど悩んでいない。いや、悩んでいないということはないが、深刻なレベルまでは達してはいない。これは、自分でも不思議だった。年を取り、人生経験を重ねたことで、図々しくなったのだろうかと思ったが、土曜日の午前中、お気に入りのCDを聴いていて、自分の耐えられている理由の一端のわかった気がした。

 確かに、年を取り、図々しくなったという一面はあると思う。しかし、それ以外に、僕が狭隘地に進まずにすんでいる理由がある。それは、音楽や本、そして旅などが、広い世界を僕に教えてくれたからだ。音楽を聴いたり、本を読んだり、また、旅に出たりすることによって、知らず、知らずのうちに、僕はより広い世界を感じていた。それにより、会社の中の出来事が、相対的に小さくなり、必然的に悩みもそれほど大きくならずに済んでいる。

 部屋の中に閉じ籠っていると、その中で一番大きいのは自分だから、自然と自分の抱えている苦痛や苦悩が大きくなってしまう。それを小さくするには、自分の存在を小さくしなくてはならない。自分の存在を小さくするには、世界を広げればいい。そうすれば、相対的に自分はちっぽけになり、自分の抱える悩みも小さくなる。

 以前、勤めていた会社で社員旅行にいったとき、所属していた部が違ったため、今まではあまり話したことのなかったかなり年上の人と話す機会があった。僕が、夏はよく北海道を旅行していることをいうと、彼は「北海道に行くと、人生観変るよね。大自然の中だと、自分の小ささがよくわかるよ」といった。そのときは、僕を含め、そこにいた数人は、ありきたりで陳腐に思えて、曖昧に笑うくらいの反応しかしなかった。

 僕には北海道に行って人生観の変った実感がなかった。しかし、最近になって、やはり人生観は変っていたのかもしれないと思うようになった。北海道を旅していると、自分の存在が、ちっぽけなものに感じられ、徐々に自我というものも小さくなる。旅を終えて、また、会社員の生活に戻ると、その感覚も消えてしまうのだが、完全に無くなるということはなく、心の何処かに残っていて、何かのはずみに、それがひょいと顔を出すのである。

 「大自然の中で過ごすと人生観が変わる」と話してくれた人は、それまで北海道に行ったことがなく、年を重ねてから行ったため、自分の内的な変化をすぐに実感されたのだろう。それに対して、僕は比較的若い頃から、毎年のように北海道に行っていたため、自分の内的変化に鈍感になっていたのかもしれない。久しぶりに会う人の変化には気づきやすいが、毎日会っている人の変化は気づかないのと同じ原理である。

 自分の世界を広げてくれるのは、旅行だけではない、音楽や本も、自分を遠くに連れ出し、新しい世界をみせてくれる。どうも日本人は(日本人だけではないかもしれないが)、ある一定の年齢を超えると、会社のことばかりになり、音楽を聴いたり、じっくりと本を読んだりという機会を持たなくなる人が多いようだ。また、旅にしたって、少ない時間で多くの観光地を巡るだけの旅とはいえない旅になったりする。そうなると、自分の世界は会社のことだけになり、その中で起きたことを全てと思うようになってしまう。世界は、もっと広いというのに…。

 音楽や本、または映画、そして旅行などは、娯楽ということもあると思うが、それだけではなく、僕たちにいろいろなことを教えてくれる。そして、人生を豊かにしてくれる。もし、僕が、音楽も聴かず、本もあまり読まず、旅にも行かず、会社への行き帰りだけという日常を送っていたら、果たして今回のような試練に耐え切れたか、どうかわからない。少なくても、もっと深刻に考え込んでいたような気はする。

 狭いところに落ち込まないためにも、意識的に音楽を聴いたり、本を読んだり、旅行に出たりした方がいい。そうしたことをしていると、すぐにはわからなくても、いつかそれらがあなたの救いになっていることに気づくと思う。(2015.9.11)


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