元少年A「絶歌」出版について

 1997年神戸で起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者少年Aが事件に至る経緯と社会復帰を綴った手記「絶歌」が太田出版から出版され、議論を呼んでいる。事件の遺族が出版の中止と本の回収を求めたのに対して、出版元である太田出版は「社会的意義があった」として増刷を決めた。本を販売する書店でも、通常通り販売するところ、店頭には置かず、注文販売のみのところ、販売を自粛するところなど対応は分かれている。また、作者に、この場合は少年Aであるが、支払われる印税の使い道も不透明であり、そもそも、すでに成人している少年Aが、元少年Aという筆名での出版についても、疑問の声がある。

 まずは遺族の感情に逆らって手記を出版するのは、どうなのかという問題である。事前に家族の同意をとらずに手記を出版した太田出版は、「ご遺族の気持ちを乱す可能性を意識した」が、最終的には「出版は出版するものが自らの責任において判断するものであり、それを自らの判断以外に委ねることは、出版者としての責任の回避・転嫁につながる」としている。また、本の内容は、「加害者本人が自らの内面をえぐり出し、自分の言葉で書いたものであり、今までそのようなことはなく、加害者の考えをさらけ出すことは、社会的意味のあること」としている。

 僕は、「絶歌」を買ってまで読みたいとは思わないが、出版することについては、いいと思っている。遺族の気持ちを思えば、複雑ではあるが、表現の自由は守られなくてはならない。この本が太田出版のいうように社会的意味があるのかどうかはわからないが、例え社会的意味があまりないとしても、それはまた別の問題で、社会的意味がないから、出版する必要はないということにはならない。当然、遺族に限らず、この本の出版に嫌悪感を覚える人もいるだろうが、買わないということで対抗するしかないと思う。

 次に少年Aに入る印税の問題である。アメリカ、ニューヨーク州ではサムの息子法という法律が1977年に制定された。この法律は、犯罪加害者が自らの犯罪をネタに利益を得ることを防止している。これに倣い、アメリカでは多くの州が、同様の法律を制定している。しかし、このような法律は日本にはまだない。多額の印税が少年Aに入ることに対して、多くの人たちは憤慨し、サムの息子法の制定などという話も出てくるかもしれないが、このサムの息子法にも、問題がある。憲法の表現の自由や財産権の侵害に抵触するからだ。

 少年Aが多額の印税を得ることに対しての批判について、大田出版は「(少年Aは)経済的に遺族に償う責任を感じているので、本人が考えると思います」と回答している。被害者の賠償に充てるべきだという声もあり、確かにそうなのだが、それは本人が考えることであり、第三者が決めることではない。

 僕は、少年Aが印税をどう使っても構わないと思っている。彼にも人権があり、過去に重大な犯罪を犯したからといって、それを無視していいということにはならない。加害者の人権ばかり守られ、被害者の人権はどうなるのだという声もあるが、どちらの人権も尊重されなくてはならない。「こうするべきだ」「ああするべきだ」という論調ばかりが、飛び交うのは逆に怖く感じる。日本は法治国家であり、私刑国家ではない。

 また、著者名が元少年Aになっていることに対しても、これは、全く本人の自由であり、本名を使いたくなければ、使わなくてもかまわないと僕は思う。感情に流され、その人の権利を無視して、叩きたい者を徹底的に叩くという風潮は世の中を息苦しいものにしてしまう。(2015.6.22)


皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。joshua@xvb.biglobe.ne.jp

TOP INDEX BACK NEXT