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小児科医師中原利郎先生の過労死認定を支援する会

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故人のこと:中原利郎先生の軌跡
  ■ 略歴

昭和30323日生

昭和563月千葉大学医学部卒業,同年6月に小児科医に

昭和567のり子と結婚

昭和57 4 月国保旭中央病院(千葉県)に勤務

昭和62 4 月から立正佼成会附属佼成病院小児科に勤務

平成11816日佼成病院の屋上から投身自殺。享年44歳。
遺書「少子化と経営効率のはざまで」(←リンク)がのこされた。
 
■ 自殺に至る経緯

1 故中原は,知人からも「聖人君子だ」と言われるほど,礼儀正しく真面目である一方,時に冗談を言ったり,サッカーを趣味とする明るい人物で,患者からの信頼が厚い小児科医だった。

2 佼成病院小児科では,平成84月から,小児科単科で24時間365日の当直勤務を開始することとなり,6人の常勤小児科医でこれを担当していた。

40歳を越えた故中原にとって,月45回の当直を行うことは肉体的精神的に大きな負担となり,疲労が慢性的に蓄積されていった。

3 さらに平成10年4月ころから,佼成病院では経営改善への取り組みが本格的に行われて,経費削減が意識されるようになっていたところ,平成111月から3月末にかけて,小児科部長を含め3名の小児科医が辞めることになったにもかかわらず,小児科医は同年5月に1名補充されたのみであった。

そのため,平成113月以降は大変な激務となり,故中原は,同年3月には8回,同年4月には6回(一般の小児科医平均の約17倍)の当直を受け持たざるを得なかった。当直の日は,通常勤務から連続して24時間以上勤務することになる場合がほとんどで,そのまま翌日の通常勤務まで担当して32時間以上の連続勤務となる場合も多かった。しかも,3月は,小児科の総患者数が前年の1735人に比して2324人に膨れ上がるなど患者数が多かったため,通常勤務も忙しかった。

4 さらに,平成11年2月から,退職した小児科部長の後任として中原氏が部長代行を勤めることとなり,小児科の責任者として、売り上げ向上・経費削減の圧力を意識するようになった。

5 この時期に量的・質的に過酷な仕事が継続したことによって,故中原は、遅くとも平成114月には睡眠薬なしでは眠れない状態になり,「このままでは自分は病院に殺される」「俺は命を削りながら当直しているんだ」と家族に何度も訴えるようになった。大好きであったサッカーに対する関心も失い,8月にはストレスにより血圧が上昇し,倒れるなどした。8月には1週間ほどの夏期休暇を取ったが,翌日から平常勤務が開始する時であった平成11816日午前6時40分ころ,佼成病院の屋上から飛び降りて自殺した。

その際,故中原が佼成病院内の自らの執務机上に置いた遺書とも言うべきものが,「少子化と経営効率のはざまで」という書面であった。同書には,小児科医不足と現在の小児科医に対する過重な負担が綿々とつづられている。そして,「この閉塞感の中で私には医師という職業を続けていく気力も体力もありません」という言葉で結ばれている。

6 このように故中原の死は、小児科医としての質的・量的に過重な業務により、疲労困憊し精神病(鬱病)を発症させた結果によるものである。
 ■ 写真アルバムのページへ 遺族の協力を得て中原医師の人柄がしのばれる写真を掲載しました。
 
「支援の会」の会報も御参照ください会報のページへ
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