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2004 6月 1日
 株式会社 ファンデファンインク
代表取締役 成瀬真夫

  1951 歳   愛知県名古屋市生まれ
1969  18  愛知県立千種高校卒業
 1973  22 慶應義塾大学商学部卒業
   22 米国NJ州A.E.PRICE社(商社研修)
1975  24 名古屋市アパレル業 (株)二葉 
1984  33 輸入商社DYNAX創業 
1996  45 大正海上損保研修生 
1997  46 (株)大昌建設名古屋出張所長 
 2003  52 (株)fan de fan,inc.創業 
 2005  54  愛知万博ドイツ館1F店長
 2007  56 名古屋市(株)河田商店GM 
 2013  62 現在 


お時間のある時 お読みください

終わりにあたって



丸扇陶器 内田扇一

戦前祖父 加藤扇一(のち内田と改名)は家業の料理旅館
鳥銀のあとをきらって名古屋で商社マンの修行後
瀬戸でノベリティ(人形)をつくります
丸扇陶器といいました


MARUSENの旗はなびく

丸扇陶器の野球部MARUSENのひとこま ほかに剣道部もあったそうです
愛知県瀬戸市にも戦前 こんな優れた経営者がいたことを誇りに思います

陶磁器の製造は分業です 半製品 製品を運ぶ若衆が40人から50人いたそうです 運搬は大八車でした

 


右端 内田翁 その左の少女は私の母淑子 昭和元年生まれです 昭和十年前後の写真です
その左に玲子 扇一の左下 万里子 その左 淳子 



スキーのひとこま 昭和十年前後です 右より母淑子 祖父扇一 おじ勝也 他界しています 小さい女の子は玲子
戦後 まもなく 扇一は他界します 


名古屋港 大博覧会 キューピー人形などの展示があります



当時の瀬戸 名士達 丸扇 マルリ 池田マルヨ 



日曜公休論

当時瀬戸三羽からすと呼ばれ成功した後、
瀬戸の近代化のため役所、事業所を精力的に回り、
週に一日は社員工員を休ませるよう説きました
戦後いくたりの方々から家族はお褒めの言葉を頂戴します
日曜公休論と呼び自社では野球部、剣道部などもつくり盛んに実践します
社名のファンデファンは扇一のファンという意味で付けられました

現在スエーデンの磁器商の手にある内田銘のある磁器 
赤字から何かのお祝いで内輪に焼かれ
海外のお客さんにも贈られたのでしょうか 戦前の事です



800年まえ鎌倉時代(中国南宋期)のことです


瀬戸川の住人


当家は瀬戸二番戸だそうです 瀬戸に住んだ二番目の住人ということです
当時瀬戸川をはさんだ傾斜地にさしかけを作り、住んでいたそうです
これは40年近い前 瀬戸の公共記念館の館長から伺いました 扇一を良く知る方でした
現在 建物は瀬戸蔵に建て代わりました


僧 道元と共に

 私ども瀬戸加藤家の祖はときの幕府よりの特命をさずかり1223年 
僧道元と共に宋に行きます
 特命とはもちろん宋の進んだ窯業技術を学ぶことでした
具体的には窯業の各地をスパイして回る悲惨な生活が長くつづきます
日本に戻ると土探しで全国をまわりやっとこの瀬戸の地で窯をつくります
瀬戸では陶器を作り、やがて瀬戸物は陶器の代名詞になります


400年まえ江戸時代

磁器が有田で焼かれ人気となり、瀬戸が一時さびれます 瀬戸離れといいます
今度は尾張藩の特命をうけます
またもや一族の者が女房 子供を残しスパイとして有田に行きます
3年近い歳月、有田の窯元で働き認められその窯の娘の婿になり子ももうけます
磁器を覚えるのに土、ユウ、窯の知識のあったものでこれだけかかります


悲しい話

やがて瀬戸に帰ったあと 戻ってこない彼を追って九州から奥さんと子供が瀬戸にきます
瀬戸に家族が居た事ですべてを悟った奥さんと娘は家にも帰れず入水自殺します
ちいさなお堂が昔の実家 丸扇陶器(戦前)の坂の上に残ります 工芸館の道路脇です
彼が作った磁器の小さなワンは瀬戸の資料館にいまでもあります
染付けはとても繊細で息を呑むものがあります

中国から命がけで持ち帰った陶器
有田から命であがなわれ持ち帰った磁器は
 悲しい伝承と共に瀬戸に残ります



こころ残り



南宋 優れた貫入青磁です


南宋以来800年
この瀬戸の町で窯を築き30代余り


瀬戸川のみずがクリーム色になり空が煙でいつも黒かったのは私が小学生あたりまで
戦前戦後の遊郭の建ち並ぶ瀬戸川のにぎわいは開封の夢 清明上河の世界です


瀬戸の衰えゆく中で、南宋高宗のねがいのように
私どもには一つ残された思いがありました 


北宋五名窯

徽宗 官窯 土付きは 唐代の模倣
 V型すりあげと知れる

それは北宋名窯をまじかに見ることにほかなりませんでした 定  官  きんの名窯です
当然のことながら柴窯か窯金糸鉄線 など伝説の世界と思っておりました

このホームページをご覧になる前の皆様と同じです 
結果としては、ご紹介の如く五代 から北宋南宋 までささやかな収蔵も叶いました





唐代 磁器誕生との出会い

子を亡くした皇帝の思いが良く込められている
貫入 あずきユウが開発された


その収蔵途中、磁器の誕生に巡り会えた事は今から思えば偶然でしかありません

中国歴代皇帝により1300年間 代々守られてきた宝のような磁器は
80年間ほど中国の一握りのコレクターにより秘蔵されてきました
日中戦争 内乱 文革焚書 天安門 そして経済開放 動乱以外言葉を知りません
柴も金糸鉄線も唐のきんも動乱の中 皆命がけで守られてきたと思います


漢に花咲く副葬品
 ガラスと磁器



漢代 クリックしてください

3000度をたやすく越す窯の技術と鋳型の技術 
むかし錬金術はすべての鉱物を溶かし金属を取り出しやがて青銅器をつくります
武器、貨幣、王の日常器となりやがて王の副葬品 又 明器 となります
漢代から冶金の技術は皇帝により誰も勝手にできない専制になります
中央集権の時代です

冶金(軍事)の平和利用(副産物)がガラスです
 なにより平和なイメージが漢代皇帝に愛されます
さまざまな色と自由な形 冷たく澄んだガラスは飾り物として多くの宮廷子女に愛されます


漢 ネックレス
漢代に大型のガラス製 模倣玉器を副葬品にみます
金で飾られましたが取れて玉の雰囲気がわかります


一度 日本のヤフーオークションにも出されました
おきずきでしたか


唐 近代磁器の誕生



法から流罪の官僚と読める
武則天の時代です

それから400年後の唐代

人類の歴史上、また美術史上画期的なものがつくられます
青銅器とガラスは土に出会います 近代磁器の誕生です

青銅器から脱皮した形の磁器が生まれます
王朝の磁器さまざまな祈り 喜び 苦しみは詩のように法で現されます 
祈り感情を色形にします 玄紋一つにも詩が読み込まれています

陶家誕生

 画家が画を描き 詩家が高度な韻を踏み詩を読んだように 書家が文字に感情をあらわすように
陶工は王の気持ちを磁器に読み込み形に表しました

ろくろが使えず4ミリの法の真ん中を射抜き 5ミリの寸白法の枠を出ればどんな名品であろうと割られます
かてて加えて唐代 きん柚は10に一つ完品が出来ません(宋 現在データより)
 金糸鉄線は100に一つも無理でしょう


磁器プロファイリング技術

南宋皇帝高宗が兄欽宗のために焼いた34花弁の副葬品(34年後病死)


伝世品 出墓 出土品などすでにマーケットに出た磁器は
中国開放政策のもと現在猛烈な勢いで世界に四散をはじめました

工人、陶家が寝食を忘れ当代随一を誇った名品

疑わしきは拒まず、まず受け入れ、みずから検証する
不確実、誤謬は自由な推論が主目的ですから(ここがポイント)
浅学はあえて好都合、当方の利と心得、今日に至りました)
学際の世界では決してありません

成型、焼成の技術的解釈はあまりにも現在不透明です
また法則による推定はいまだ確立されておりません
そして史実はこれら磁器からも多く追認され得ます

人類の宝を受け継ぐこと
それも重い課題となりました


おはなしが長くなりました コーヒーが冷めました
レンジであたためている間に終わりましょう




めぐるめぐるよ糸車 因果はめぐる果てもなし


去年2004年4月 お話は私の父方
尾張足助成瀬一族に関するニュースが報道されました
愛知県犬山にある、唯一の個人所有のお城が遂に時の政府(犬山市)の手に渡りました
年1000万の赤字からです 無念ですが時代の流れです
 城より商業ビルを相続したいものです
ご本家は大変です

足助成瀬家は元末期1315年、日本の鎌倉の終り後醍胡天皇の時代に生まれた藤原良基を祖とします
二条良基参照
明の洪武帝、日本の南北朝動乱の後亀山天皇の御世69歳で京で亡くなります
京から落ち延びた良基は愛知県足助の豪主成瀬一族に助けられの娘のあいだに子ができます
三河武士 成瀬隼人正(はやとのしょう)の誕生です
 
時代の表舞台に出たのは家康の関が原の合戦になります
このとき家康に扮し先駆けし、皆敵は矢を射掛けます 影武者です
この話は母から聞きました 父が昔母にだけ自慢したのでしょう 武勲をあげます

家康さんの臆病はつとに有名です お坊ちゃんですから

あの命知らずの若者はだれじゃん?(家康は静岡弁?)

家康は側近に聞きます
元来目立ちたがりで向こう見ず 一族の為出世の為 ほんと命がけです 

さほどの手柄話を聴きませんが二条家のご落胤ということでしょうか尾張藩の殿様の教育係りになりました
先の江戸時代に隼人正は尾張藩筆頭家老となり、後々まで前田家と争います
当家もお陰さまでお出入りの商人として誠に良い時代を送らせて頂きました
 ちなみに桶やをしていたそうです (のち名古屋大空襲で家も蔵も焼け落ちます)

で、この時代に尾張藩の財政を揺るがす事態が起きます 瀬戸の陶器が売れなくなる

どえりゃあ、こったぜよー ど-しゃーす? なんとかせんキャー

(大変な事です いかがなされますか?なんとかせねばなりません)と藩の財政を
あづかる者が名古屋弁まるだしで言う

だれでもえーで、有田へやって、瀬戸でも同じモン、つくるしか、にゃあーぜーも (ないだろう)
これで話は決まりました

 決済したのは父方本家成瀬家 老中隼人正 
九州へ行かされたのは我が母方加藤家一族 窯元の次男坊
中村で百姓をしていたそうです 次男で跡がつげない
(中村は現在の名古屋市の西 秀吉がカーチャンと大根を作っていたところです)
どーだエモ 腹は決まったかエモ?

何せソニーの技術者がインテルに産業スパイにいくようなもの それ以上
見つかるとすぐ打ち首 家には女房もいる 子もいる(これは不確か、帰ってきた時にはいたそうです)
打ち首なら一時だが、スパイです 拷問が待ってます

そうまでしてなんで行ったのか?
 話はそれすぎますから止めます 暖めたコーヒーがまた冷めます 

行かざるを得なかった
1つ言える事は、もともと瀬戸加藤家は将軍の国策として窯業を研修(スパイ)した事
近くのさなげやま(猿投)で飛鳥奈良時代、ミカド(天皇)のやはり窯があった事
加藤自体、帰化人の名 およそ先代に朝鮮半島から渡ったと見てもいいでしょうか

つまりその家に生まれた宿命 そうなんでしょう
ちなみに瀬戸では徳川末期まで、住人は何百人も住んでいなかったそうです
なぜか? それこそスパイが困るからです

さて当家の話に戻り終わりましょう


首藤のえっつあん

父は母親から自害の作法を教えられたそうです。
足を紐できつく結わえ、正座し首の動脈を切りながら、前にかがみ、倒れる。これで乱れないそうです。

又、葬儀の仕方も習ったそうです。当時江戸末期、明治初期の話。
お殿様はお坊さんが来ますが、町人は家族で行う。
今はやりの家族葬の元型ですね。

経机(なくても良いのですが)に線香とご飯。それだけ。あと皆で読経。
父の母親は清洲の下級武士の娘でした。
美人でおしゃれで、戦前の松坂屋でモダーンな服を子に着せたという。

元来、お坊さんとはそういう家庭環境から、縁薄く、戒名は、私が書いています。
しかし仏様は好きで、恐らく日本人の中で上から100番目になる位の熱烈な仏教徒です。
ですから世俗仏教が嫌い。宗派なし。色即是空。要するに変わり者ということです。
ただし、お墓は京都のお東さんのロッカーにちゃんとあります。兄が面倒を見ています。


お話を戻しまして、父の生家は

 戦前、東区飯田町というところの油屋でした
白壁町にお住まいの大手銀行支店長の高級外車にガソリンをいれていたそう
戦後 名古屋空襲で飯田町の実家は蔵もろとも焼け落ち守山にありました借家に移ります
復員した父 成瀬悦三郎はやがて瀬戸の丸扇に3番番頭の職を得、母と結婚します
CA卒業後、長い兵役ののち首藤商会を4人で立ち上げる
首藤のえっつあんと呼ばれました

私の育ちました名古屋市守山区は小幡が有名ですが江戸時代ずっと将軍の御狩場でした
戦後の農地改革まで民百姓の上に悪く言うとあぐらをかき、年貢米を積む荷車が毎年列をなしたそうです
そのせいか、守山のもとお百姓 農地改革で現在億の不動産をもつ資産家さんには、私の代で更に億にちかいお金を払うことになりました

人生 あざなえる縄のごとし

因果応報 子に報い(むくい) その子の因果もまた報い

長時間のお付き合い有難うございました


足助成瀬神社にて  全国成瀬会 成瀬さんと家内



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