暗い雲間に差し込む数条の光。
その有様の美しさ、それを焼き物で作って欲しい。(当社新解釈)




下記は引用です


web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi4.htm

研究論文

昭和55年  柏原高等学校の創立15周年を記念して第一号「研究紀要」が発刊
されました。編集委員の一人として、すでに研究を始めていた「古代国家の形成」
を掲載したことを第一歩として、紀要8号まで、歴史・文学・芸術の各分野において
稚拙ながら「論」を展開してきました。一般公開するには恥じ入る作品ばかりです
が、今回は、下記の四作品を掲載することにしました。   
   


中国陶磁の世界と東西交流4


6.五代・宋代の陶磁器

A.秘色青瓷と雨過天青青瓷

(抜粋です。 一部 補足してあります))

 おなじころ華北地方に五代十国の一つとして興り、河南省鄭州を中心に、後周朝
 を統一した顕徳帝〔世祖 954〜59〕は、早くも統一直後から宮廷用の御器を陶工たちに命じ焼造させ始めた。

顕徳帝は陶工たちに、 
『雨過ぎ 天青く 雲破るるところ 這般(しょはん 意味 このような)顔色(ありさま)を做(作り)、もち来たれ』
 と命令し、すなわち、雨が降った後の空の美しさ「雨過天青」を土の表面に映しとることを命じたという。

陶工たちは、懸命になって研究を重ね、とうとう雨過天青の陶磁技術に到達したのである。
かくして、 
『青きことは天のごとく、明らかなることは鏡のごとく、薄きことは紙のごとく、
   声は馨(石の楽器)のごとく、滋潤細媚にして細文あり。製精色絶にして往昔 の諸窯の冠なり』
 とよばれるまでの名器が誕生する有名な逸話が生まれることになる。

後世この「雨過 天青」の青瓷を柴窯器とよんでいる。「柴窯」は後周の世祖の本姓が〔柴栄〕であり、
 世祖自ら創建したところから、宋代に入りそう呼ばれるようになったとする説が一般
 的であるが、愛宕松男は「恐らく北方青瓷を代表して見事な成果を挙げた汝州窯で、
 還元焔の得やすいため北方窯に一般的な煤炭燃料を改め、柴薪燃料に変えて特異性を
 発揮したのを目して、特にこれを『柴窯』と称したのが訛伝された」ものと推定している。
  
「柴窯」が記録上に初めて登場するのは、元の洪武帝の時代に曹昭が著した
『格古要論』からであり、実物としては、明朝秘庫・清朝秘庫・デビット・ファンデ−ショ
 ンなどに保管されていることからも、その評価は後世長く支持されていた事は明らか
 である。しかし、近年「雨過天青」が柴窯器であることの信憑性が問題とされている。
 その理由として、伝世品が極めて少なく、窯跡も確定されず、その上宋代の文献にも
 表れてこない。したがって「雨過天青」の柴窯器は汝窯青瓷か均窯の月白青釉ではな
 いかという説に変化してきた。いずれにせよそれは、彼らが求めて止まない中国青瓷
 の遥かな目的であった。



雨過天晴 暗い雲間の破れる所 美しい光条が射す。
このありさまを、焼き物に作り、持って参れ。


新解釈 
従来の晴れ上がった空の青とは、違います。

雨が止み、そこかしこ、天を覆う暗い雲の切れ目から、光条が、美しく差し込み始める。
この雲間を破り射す、美しい光。こういう焼き物を作り、持って参れ。

しかし実際は、偶然出来た、ゆうの薄くなったところが、このように、オレンジ色になった模様。
雨過天晴のお話は、後付けというものでしょう。

いつのまにか、美しい空の色に変わる。これもおもしろい。
現物を見ないで、皆好き勝手に、想像した訳です。

ファンデファン注  薄きことは紙のごとく

唐玄宗期にも同様な記述が見られる
庶民の陶器から比べて旺の磁器 紙の如くと言われます

しかしそうした透けるような磁器が実際 世に出たのは清代からのようです
事実は軽いというより 逆に当時は重い磁器にこだわった というほうが正解のようです

理由の一つは重厚さ 唐の流れを引き継ぐ鈞窯だから
二つ目は重い鈞の柚を支える胎が必要
三つ目は貫入青磁などは柚掛けを繰り返す必要がもともとあるからとなります

清の磁器 まあ これも景徳鎮の土があってのこと
つまり 中原 鈞窯の赤い土では不可能な事ともなります
カオリン不足なのか胎は透けないのです

柚を透かして肌色の胎を見せました

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