茶道久田流について
久田家は清和源氏の流れを汲む武士の家柄で、近世の祖実房は、六孫王経基三男武蔵守満季八世高屋次郎実遠孫御園四郎範広十一世です。
実房、久田刑部少輔は、佐々木義実の親族で、近江国蒲生郡久田村に住し、後京都に移りました。本姓は岸下ですが、京都に移ってより本間氏または雛屋称し、また久田と改めました。
実房は田中了専の女宗円、すなわち千利休の妹を娶り、後来久田家が茶家となる深い因縁をここに結びました。
しかし久田家と千家との関係はもっと古いものですらしい。宗円が久田家へ輿入するに当たり、利休は自ら茶杓を削って是に<大振袖>と名づけ、妹に与えたという面白い言い伝えもあります。
実房の子に秀房(久田将監、房政)がありました。房政は茶道を千宗易にうけ、豊臣秀吉の命によって茶道を以て職務と為し京都両替町に邸地を賜りました。
そして代々同所に住むこととなりましたので、久田流茶道においては、房政を以てその初代とする。房政、俗名は新八といい剃髪して宗栄と号した。天正15年の北野の大茶会に参加したと伝えられています。
二代常房、俗名は新兵衛といい、宗利または受得斉と号した。千宗旦の女暮子を娶り、二男二女を挙げました。
長男は三代徳誉宗全であり次男は表千家の江岑宗左の後を継いだ随流斉宗左です。
また、弟の清兵衛当直は世に藤村庸軒として知られています。
以上は久田流発祥寄り三代宗全に至るでの概観であって、これだけでも久田家は表千家と密接な関係にあることがわかるが、宗全の代になって、再びその長子原叟宗左が随流斉の嗣となっています。
これが表千家で重きをなしている覚々斉です。次いで、如心斉を経てそっ啄斉に至りました時、三度び久田家より入ってこれを嗣いでいる。これが六代宗渓の長子宗左すなわち了々斉です。
なお、久田家十一代無尽は田代家より入って宗員のあとを嗣いでいるが、これが玄々斉の甥に当たる関係から久田家はこの時より裏千家とも姻戚の間柄となりました。
久田流の点前は、三代宗全がその基礎を作り、四代宗也がこれを大成したものです。
宗全は正保年家光の治世に生まれ、宝永四年61歳で没した。5月6日はその命日で、久田流では宗全忌としていまもこれを重んじています。
宗全は宗旦門ですが前述のように自らは宗旦の外孫にあたり、伯父に江岑宗左、藤村庸軒を持っているのみならず、弟宗左(随流斉)は江岑の後を嗣ぎ、その又跡を長子原叟宗左が嗣ぐなど、当時の茶道界に重きを為す人物で、表千家のために尽くしたこと、久田流茶道の基礎を築いたことの外、彼の自造になる宗全籠の名によって一般に親しまれています。
その他、自造の茶碗、炭斗等は何れも今尚茶道界の至宝であり、その好みはいわゆる久田好みとして一貫して今日まで流れています。
久田流の点前の特徴としては、たとえば勝手の順逆を問わないことなどがあるが、特に婦人点前と称し、婦人のための独特の点前のあることは特筆すべきことであろう。これは利休が妹宗円に<婦人シツケ点前一巻>授けたのに始まるもので、今に濃やかな流風を伝えています。