市川の歯科技工士にここだけの言いたいこと
(第10話)
    「歯科技工士の生き残りとの関わり、身分、資格制度」          

  第5話〜〜8話まで、歯科医療、補綴技工の先祖であった入れ歯師、その生活環境、
 エピソードの一端についてお話しました。
 第10話 もう1度、難しい問題ですが、30年後まで歯科技工士が生き残っておりたい
 と想う気持ち、その1人でありたい気持ちで見てください。
 第11話からは、また、魚つりと歯科技工士の生き様に戻ります。

  数百年の長期間続いた医業としての入れ歯師、これらに関係する職業の生き様に
 大きな転換期の訪れとなった時代です。この時代から何かが学び取れるという思い
 です。現代の歯科、歯科技工の改革の時代に置き換え、生き残りに関わる問題とし
 て何を考えるかにあります。

  まず、1500年代において日本の入れ歯〔補綴〕技術は、世界の義歯技術と比較して
 300年程進歩した考え方であったようです。まず、吸着理論、咬合学、咬合面彫刻も
 理にかなったものであったと学術、歴史的な調査で確認されているのです。

  ところが、1639年日本は鎖国時代に入ったことで大きく遅れた医療技術となってしま
 ったようです。1854年、日米、日英。日露和親条約が成立。1858年に日米通称条約
 により海外の医療、学門、新しい医療器材の輸入、到来となったのです。さらに、
 明治維新の文明開化により医療学、歯科医学、歯科補綴技術、歯科器材が世界中
 から取り入れられるようになったのです。

  良かったのか、悪かったのか、鎖国の時代を含めて数百年もの長期にわたって続いた
 入れ歯師、医療人として認められていた職業が改革という形の中で終わりを告げようと
 した時期なのです。医療制度の改革、医師開業試験制度、身分、資格制度への
 改革期であったのです。

  今日、歯科医療の改革とは少しニアンスが異なりますが、歯科医療の改革が始まって
 いる実際(患者の主訴、満足度、歯を削らない治療、予防歯科、歯の健康、再生歯科
 医療)との関わりからの歯科技工業は何を改革できるかにあるように思うのです。

  @ 現状に起きている過剰歯科技工士、乱立ラボ、低技工料金問題と新設ラボ開設者
    との整合性

  A ラボ開設者の開設更新試験、免許更新試験

  
  B 補綴治療から歯の健康を守る時代、歯を切削しての印象物は減少する。

  この種の問題と入れ歯師の医師開業試験、マイスターのラボ開業資格制度とをリンク
 させて問題点を整理する必要があります。

  ・ マイスターの開業資格制度問題は日技会報に投稿してありますので参照して下さい。

  こうした情報は全国の仲間にも知らせてはどうかとのメールを受けました。
 そこで、ホームページでの報告資料を要約したものを日本歯技会報に投稿しました。
 その1部分です。

  「投稿」

  歯科医療の改革の訪れ、歯科技工業の生き残りに何を考えるか。

 ・ 明治維新の医師開業試験制度と入れ歯師の自然淘汰を学ぶ。

 
 ・ ドイツ、マイスターのラボ開業資格制度を学ぶ。    歯科学修士 歯科技工士

     岡山大学大学院 口腔病理病態分野研究生 市川和男

  はじめに

  歯科技工業の生き残りを真剣に考えねば成らない時代に入ったように思います。まず、
 歯科医療の流れに順じた教育を考えることでしょう。近年の歯科医療は患者の主訴、
 満足度、信頼関係が最も重要とされています。  

  特に、歯牙を削らない治療、歯を抜かない治療、予防歯科、患者満足度〔歯の健康〕、
 再生歯科医療の治療方法が叫ばれています。歯科大学教育のカリキラムにおいても、
 エナメル質の硬さの秘密、歯の細胞分子、再生治療、歯の痛みを科学するといった
 項目により、患者の歯牙、健康を守る教育方法が組み込まれていることです。

  また、21世紀歯科医療シミュレーションマップ「2001」では中林宣男,猪越重久先生に
 よる文献報告はインパクトの強いものがありました。“時代は変わった”歯を削る必要
 があるか、削らなくて治療できるか。これからの歯科医に判断が求められています。
 そういう教育システムになる日を夢見ています。さらに、大学は不必要に削ることを
 教えているわけではないと語っておられます。〔原文のまま〕

  歯科技工業にとって歯科治療の変革期と見るべきか、時代は変わりつつあると見る
 のが正しいかは解りませんが、改革は目に見える形、情報として伝わっては来ない
 ことが多いといえます。目に見えるとしたら補綴物が減少してから見えてくるのかも
 知れません。     

  仮に、2001年に中林、猪越先生の情報をしっかりと受け取っていたとしても、業界の
 中に補綴物の減少時代がこようなど予想する人は少なかったでしょう。

  また、近年における再生歯科医療による治療方法がテレビ放映、文献報告など情報
 伝達されるようになっても、何が、どのように技工業に関わってくるかを具体的に表明
 する事項がないように思います。

  例えば、歯を削らない治療と言えば象牙質再生療法により虫歯を治癒させる。充填物
 は院内術式で終了となるシステムとなることです。歯科技工学としては象牙質再生に
 使用する充填物材質の選択、咬合衝撃に対する学問、知識が必要となりましょう。

  つまり、歯科大学でのカリキラム内容に順ずる教育が必要になってきます。「チーム
 医療人、歯科医療従事者」としての必要能力となってきます。

  では、過去における歯科医療の変革期にはどのような対応がされたかを振り返って
 見ましょう。

  入れ歯師から医術開業試験制度への改革時代から学ぶ

  明治12年布達医師試験規則で口中科に代わって歯科、さらに、明治16年、医師開業
 試験規則で歯科試験が定められ、歯科医師が独立したのです。

  それまでは、朝廷、幕府、各藩に仕えた口中医(口科医)・目、耳、口歯を併せて専門
 とする一科とする中に、一般庶民には入れ歯師が医業として認められていました。
 地域によっては入れ歯師、歯抜き屋という名称による鑑札が交付されていたのです。
 (明治19年滋賀県令・入れ歯・歯抜き許す)また、徒弟制度における口中療術卒業の
 修行証書の発行もされていました。

  また、当時、海外からは多くの歯科医療学、補綴技術、機材の輸入が行なわれたと
 記録されています。

  入れ歯師業において歯科免許を取得できなかった者が補綴分野として、独自の
 徒弟制度によって院内技工、業務が始まった時期となりましょう。改革が進む時期
 には資格制度、規則の変更が行なわれて来たことは現代にも通じることであり、
 参考にしたいものです。

(第9話)
    「生き残りとの関わり、身分制度」          

  歯科医療、補綴技工の先祖であった入れ歯師、その生活環境、エピソードの
 一端についてお話しました。

  ここまでの報告は、数百年の長期間続いた入れ歯師、歯科医療業、その関係者
 の職業、生き様に大きな転換期の訪れとなった時代から、何を学ぶかです。現代
 の歯科、歯科技工の改革の時代に置き換え、生き残りに関わる問題として何を
 考えるかです。

  まず、日本の入れ歯技術は1500年代においては世界の義歯技術より300年程、
 先に吸着理論、咬合論が先行していたことが学術、歴史的調査で確認されてい
 るのです。

  ところが、1639年日本は鎖国時代に入ったことで大きく遅れた医療技術となって
 しまったようです。1854年、日米、日英。日露和親条約が成立。1858年に
 日米通称条約により海外の医療、学門、医療器材の輸入、新しい時代の到来
 となったのです。さらに、明治維新の文明開化により医療学、歯科医学、
 歯科補綴技術、新歯科器材が世界中から取り入れられるようになったのです。

  入れ歯師時代が良かったのか、悪かったのか詳細は知る由も無いですが、
 鎖国の時代を含めて数百年もの長期にわたって続いた入れ歯師、歯科医療人
 として生き延びていた職業の終末期の訪れです。

  現代の歯科、歯科技工の見直し、改革、生き残りが大きく叫ばれる時期にあります。
 入れ歯師の職業が数百年の年月を維持できていた医療業の終末、転換期の
 訪れをどの角度から見るかです。

  この時期、国の規則により医療開業資格、歯科医師認定資格が実施される
 時代に入ったこと。この、歯科医療の転換期に入れ歯師たちの生き残りに、
 転職は、どう切り抜けたのだろうか、少し歴史を紐解き現代の歯科、歯科技工
 に当てはめ知恵を出すのも必要のように思います。

 ・ 明治12年布達医師試験規則で口中科に代わって歯科となる。

 ・ 明治16年医術開業試験規則で歯科試験規則、歯科試験が定められ    
   歯科医師の独立認可となる。

 ・ 明治19年滋賀県令〔入れ歯、抜歯許す〕鑑札。(鑑札、徒弟制度の最終時期。


 ・ 明治28年、歯科器材のあゆみ「瑞穗屋商店」広告封書

  歯の写真館、山田平太先生の文献写真から興味深い写真を見ることが出来ます。
 明治3年〔1870〕5月31日、外人居留地で発刊された「THE FAR EAST」という新聞
 に載った「TAE DENTIST」このスタイル
 は医療、医師の感じにはとうてい受け取れない姿です。また、生活環境もとても
 裕福とは思えない格好です。

  テンビン棒で屋台を背負う夜なきソバ屋のスタイルと同じ姿といえます。
 家の軒先に近所のおかみさんたちが集まり、洗濯する者、談笑する者
 などがタムロしているところに入れ歯師が物売りの口上に、おかみさんたち
 が耳を傾けるといった姿に見えます。

  明治19年滋賀県令で交付された「入れ歯、抜歯許す」の鑑札があります。
 この入れ歯師になるためには徒弟として主人につかえ、その技術が向上して
 一人前と認められた時、入れ歯師として独立できた。入れ歯師としての
 徒弟制度の終末段階と思われる時期でしょう。

  今日の歯科医療業界へ常に投げ掛けられている歯科、歯科技工士の
 生き残りについて問題提起が多くあります。つまり、現在の歯科医療人
 としての資格認定制度のあり方について、入れ歯師の身分制度(資格身分、
 業務資格制度、)の流れを知る必要があったわけです。

  明治維新の文明開化によって歯科医療、補綴部門に大きな変革がきました。
 木床義歯〜西洋義歯(ゴム床義歯)のあった技術的転換がおきました。
 また、徒弟制度から身分制度の確立が起きました。この制度の確立から
 何を学ぶかにあります。歯科医療の改革、発展の流れから200年前の
 入れ歯師たちの転換、転職時を振り返り、参考となる点を見つけようと
 思うのです。

  1954年歯科技工士法の制定「歯科技工士の資格認定」から半世紀た
 ちました。筆者は歯科技工士になってよかったと思っています。

  歯科医師とのコミニケーションが良好に維持できたことです。また、指示、
 指導という言葉を技工という形にする方法を心得ていたことです。また、
 患者に喜ばれる補綴物を提供が出来る技術、患者の願望、希望の
 言葉を形に出来る技工が発揮できたことです。

  歯科の専門誌に2005年、日本の歯科、歯科技工は世界から遅れている
 という問題が提起される。歯科技工士の先輩として、何が不足しているか、
 本当に世界から歯科、歯科技工は遅れているのか答えを出さねばならな
 いと思うのです。

 [2006、2月・歯科学修士 市川和男資料]

(第8話)         
    「隠密、人相学と入れ歯」

 第5〜6話の入れ歯師についての逸話を放談するための資料探しをする中で、駿府の
入れ歯師、浮田幸吉(備考斎)、岡山の飛行機幸吉、磐田の鳥人幸吉、入れ歯師幸吉
としての生涯を詳しく知ることとなりました。浜松の凧祭り、人相、変装、隠密と
いった市川流の解釈だけでは済ませれない実際を、岡山、津山藩城末裔、子孫にあた
る友人から話を受けることも出来ました。また、磐田市見付け大見寺の墓の資料は1
0年以上前に、静技磐田支部、藤田鎮雄氏より頂戴したことがあるのを思い出したのです。

 (城下町おかやま・昭和49年刊「岡山市」表具師幸吉・伊東忠志、郷土史家より)
 (静歯技96新春号市川和男報告、入れ歯師幸吉についてより)

 駿府の入れ歯師、備考斎として5代目まで名声を残した。特に、2代目備考斎は名医
として名を残したと記録されています。初代幸吉は、岡山では奇行により追放、駿府
では隠密などの疑いがかけられ所払いされた。見付けの地で再び入れ歯師で名声を
得、享年91歳にて没したと記録されています。静岡の福泉寺の入れ歯師幸吉は68
歳、2代目幸吉であったようです。磐田の大見寺に在るお墓の側面に初代浮田幸吉・
弘化4年8月21日、演誉清岳信士「過去帳」と照合。お墓の表面、釈諦玄居士・寛
永4年亥・浮田幸吉が刻んであった。これは静岡、福泉寺にある幸吉の戒名,死亡年
月日が同じある。

 わが国の木床義歯(1600年代)存在は西欧に比べて少なくとも300年以上技術的に進
んでいたことが記録されています。歯は灰白色の蝋石、歯床はツゲ製である。このツ
ゲの床に蝋石の歯を細い三味線の糸を通して竹針で止めてあった。形といい精功さと
いい現今の入れ歯と異ならないと記録されています。

 こうした木床義歯の存在は、昭和2年、柳生飛騨守宗冬使用の上下総義歯の発見「木
床義歯・日本歯科医専、大場淳一教授の調査」は当時、大きな話題となったことが記
録されています。また、昭和31年、五味康祐の柳生武芸帳「くノ一の術・女人への変
装術・忍者・隠密」として医療界への紹介は強烈に興味をそそるテーマであったと記
憶しています。  昭和31年は歯科技工士が公の中に資格認定として認められた年で
もあるのです。後年、筆者自身は「人相学・変装術・表情筋・喜怒哀楽と入れ歯」演
題、講演資料つくりに大いに参考となったものです。

 五味康祐の武芸帳、柳生又十郎の「女装術」くノ一女変装術の一節を紹介しておきます。

 柳生家の長男重兵衛は日本一の剣客者であり、隠密として諸国を歩いたと小説の中で
読んでいます。また、又十郎は小柄の体系、小太刀の名手であり、門弟も敵うものは
いなかったと小説で読んだことがあります。この、又十郎は忍者として女装(公家)な
どに変装するために歯牙を抜き去り蝋石で入れ歯を造り、装着していたことが記録さ
れています。つまり、義歯の排列によっては人相学と表情筋を大きく変える事ができ
る、言い換えれば、人相を変えることが可能といえます。又十郎の女装をヒントに高
齢者の患者に若返るための義歯排列のポイントを演題で話したことになるのです。一
般の方々への入れ歯講演は人相学、変装術の言葉は理解されることが多かったように
思います。

図1 

 一般の方々に入れ歯を理解しやすくするために筆者自身が木床義歯を手造りの工程


図2 

 貝殻を人工歯として加工したもの。市川資料より

(第7話)    
   「木床義歯、入れ歯師〔表具師〕幸吉は今日の歯科に何を投げかけたか」

  第6話に引き継いで木床義歯、入れ歯師の生き様と今日の歯科医療に何を投げかけて
 いるかについて照会します。

  訂正「正・磐田市見付け、「正」―日照山、大見寺・駿河は駿府が正しい」

  ここでは「歯の歴史館」著者山田平太先生の文献を引用しながら放談します。

  寛政元年、備前岡山の表具師、幸吉が自製の飛行機で空を飛んだこと。フランスのモ
 ンゴルフイエ兄弟が熱気球による飛行に成功してから6年後のことを報告していま
 す。幸吉は藩より追放され、駿府(静岡市)に移動、現在の江川町に住み浮田姓,備考
 斎を名乗り、入れ歯師として開業したとされている。このほか、時計修理をやり、晩
 年は雑貨商も営んでいたといいます。静岡では備考斎の名は歯科医の代名詞となり、
 歯の治療に行くことを備考斎に行くといっていたそうです。歯科医の代名詞とまで言
 われ、人気があった備考斎も晩年は種々の商売にて生計を成していたことが想像され
 ます。

  一方の、磐田市見付け幸吉、岡山、玉野市の幸吉は世界で始めて空を飛ぶ表具師「鳥
 人幸吉」として同一人物とされています。ドイツのリリアンタールのグライダーよ
 り、100年早く1785年に翼をつけ飛行に成功したが幕府から奇行として岡山、
 玉野市を追い出されて駿府に流れて来たと伝えられる。(入れ歯師)

  駿府の浮田幸吉「静岡市福泉寺のお墓」にも逸話が伝えのこされています。浮田幸吉
 は入れ歯師として、また、備幸斎として、むし歯治療の上手な歯科医の名で親しまれ
 て地域に根を下ろした人物とされていた。技術面における器用さか、業務拡大か、時
 計修理、雑貨商も営むと記録されています。業務拡大のための商売と理解すべきか疑
 問は解けないままです。駿府を後にして磐田市への移動はいろんなことが想定されま
 す。一つに、入れ歯師浮田幸吉(備考斎)は駿府に弟子、門弟を残し、表具師鳥人幸
 吉として磐田地域へと移動したものと考えられる。

  つまり、表具師幸吉は空を飛びたいという夢、それを実現したいという研究者本能の
 夢は、浜松地域に伝わる大凧、凧揚げ合戦を伝え聞き、さらに研究を重ねて人を乗せ
 たいという夢へとエスカレートして飛行物体への夢をつないでいたのではないかと思
 うのです。

  岡山―駿府―磐田へと移り住み、隣接する浜松の凧揚げ合戦にあやかった研究となれ
 ば、奇行、隠密などと誤解されずに飛行物体の研究が行なえたと解釈すべきでしょ
 う。業務拡大的な考えではないようですね。

  磐田市見付け、大見寺の鳥人幸吉の人物像は、大凧,鳥形態の凧に人をくくりつけた
 形というか、

  図2に示す、奇妙なグライダー型の物体が大見寺本堂に飾られています。また、「岡
 山県玉野市」においての空を飛ぶ鳥人幸吉としての歴史上の人物となっていることで
 す。ここでは、入れ歯師幸吉ではなく、世界初、鳥人幸吉が空を飛ぶという歴史上の
 人物となっていることです。

  何故、駿府―磐田の幸吉が同一人物となっていたかを想定してみたところ、木床義歯
 の材料、水窪のツゲの自生地から浜松の凧上げ合戦場への道筋「信州―甲州街道―
 「秋葉山街道、森」―相良港―駿府」が人の行き交う交通ルート、塩の道筋となって
 いることが解ります。現在の静岡県御前崎、相良の港から甲州―信州ルート・塩の商
 圏となっていたことから水窪、秋葉山―〔浜松、磐田〕掛川、相良―「駿河」駿府の
 入れ歯師の交通ルート、流れのようなものがみえます。(筆者の先祖は塩田業を商と
 した三河湾人(愛知)(三州―鳳来寺山―遠州、秋葉山−飯田―信州)への塩の道だっ
 たと伝えられています)

  人が集まる宿場、人、物、金が豊富、活発に行交う場所、交通ルートの拠点となる宿
 場は大きな町として栄え,山海の売買市場が成り立つたと伝えききます。交通の発
 達、塩の道筋が必要なくなれば宿場も寂れ、昔、そこに繁栄した宿場、町があったな
 ど跡形も残していない所もあるといえます。

  表具師幸吉からは夢、創意、工夫といったものが多く伝わってきます。

  500年以上の歴史を保ってきた入れ歯師たちには材料の開発、輸入(鎖国)材料が無
 いなかで、木床義歯の吸着理論,人工歯のはめ込み原理は世界的論法として評価され
 ていると言えましょう。明治になってのゴム床吸着理論に匹敵するものがあったので
 はと感じられます。多くの意味で、現代に何を伝えたかったかを見出さねばなりません。

  図1 数百万年前の化石で有名「鳳来寺付近」の「ツゲの自生地」−飯田、信州への
 案内図「

  図3 世界最古の木床義歯(仏姫の木床義歯)石川達也先生



  次回は、入れ歯師の時代、その歯科医療、流れの中から何を見出すかについて報告し
 ます。

  ・隠密=木床義歯、その製作資料、人相学と入れ歯・審美と口臭、不適合クラウンと
  口臭につながり。

(第6話)
    「木床義歯とツゲの木群生地、と水窪川鮎の里」

  一般社会の中に歯科医療界を勇気付ける情報が多くあることを話しました。

  また、水窪川の鮎解禁に出かけました。鮎つり?、何で木床義歯に関わってくるのだ
 と問われるでしょう。木床義歯といえば、入れ歯師幸吉の名前が浮かんできますね。
 木床義歯の材料となるツゲの木が群生する水窪の山野。全国の入れ歯師がツゲの木を
 求めて集まってきたことになります。

  入れ歯師の全身は500〜600年ほど前の時代に佛
 師、煙草入れの根付け師、表具師としての職業が変身して入れ歯師の職業が誕生した
 ものと考えられる。寺、神社にある佛像の彫刻品、その口元の歯牙彫刻から見て義歯
 の製作は可能であったと予測できる。

  佛師の彫刻、表具師などでは目が出なかった、
 あるいは需要と供給のアンバランス、自然淘汰、リストラと考えるか、現代に置き換
 えれば、生き残りとしてパイの拡大と解釈するのが妥当かもしれないですね。こうし
 た佛師「彫刻師」の盛期の中に生き残ってゆくためのパイの拡大を考え、そこに医療
 技術の開発につながり、医療への道筋を考えた彫刻師がいたことになりましょう。

  水窪川の鮎解禁は大きな楽しみがあります。解禁前日はオトリ屋に釣れそうな場所情
 報を求めて多くの徹夜組が集結、川際には夜中まで営業してくれる居酒屋での集結に
 なるのです。

  まず、話題は昨年度の鮎つり成果の自慢話、次に地元の物語です。水窪には静岡県と
 長野県の県境、その国取り合戦は全国的にも有名「綱引きによる国取り合戦」です
 ね。勝った方に負けた県側に何メーターずつかの県境、移動線が引かれる。何百年前
 からの風習があるとのこと。また、現在は静岡県が何年間も負け続けているとのこと
 です。

  私は、水窪は幾度か木床義歯の取材におとずれていることの話題を持ち出しました。
 彫刻師が全国からツゲの木を買出しに来ていたこと、その中に入れ歯師の存在を物語
 風に話をしたのです。

  駿河の入れ歯師浮田幸吉、磐田市見付、日照寺にお墓の在る浮田幸吉、
 岡山の空飛ぶ表具師鳥人幸吉「浮田幸吉」と同一人物であるとも伝えられています。
 駿河の入れ歯師浮田幸吉のお墓「静岡市福泉寺」「磐田市見付け日照寺」を取材して
 面白いエピソードを聞きだすことが出来ました。

  磐田市日照寺の取材日は鳥人幸吉没後150年祭が岡山、玉野市と合同記念祭が
 行なわれていました。世界で最初に空を飛んだ鳥人幸吉、岡山県玉野市においては
 航空記念日となっていました。岡山、玉野市の鳥人幸吉、駿河の入れ歯師幸吉の
 細かい逸話は次ぎの機会にお話します。つまり、200年以上の昔話、医療に関わる
 物語になります。

  全国各地、遠方より技術の修行、新しい技術習得への弟子入りと大変であったと推察
 できます。水窪山奥にツゲの木を資材「買い付け」とするのは彫刻師であり、入れ歯
 師であったことは間違いないのです。また、死亡年齢不具合、お墓、埋葬寺が二つ
 あった実際、師弟関係なども交錯して見えてきます。

  入れ歯師幸吉の職場、駿河、磐田との地域差、師弟関係など想像の域ではあるが
 200年前の医療、技術者の収支、生活環境を想定するのも参考になりますね。また、
 佛師、表具師から入れ歯師への転職には、何が想像できるかですね。駿河の浮田幸吉は
 入れ歯が上手、治療が上手と地域住民に絶大な人気があり、地元に根を下ろしたと
 記録されています。

  昔も今も、患者の求める歯科医療であることを、歯科医師、技工士は理解して始めて
 生き残って行けるのではないでしょうか。

(第5話)
    「歯科情報を時の流れ、希望の見える情報として受け取る」

  第4話では、審美技工の道筋について、専門誌、あるいは歯科新聞に1行にも満たな
 い、少数文章にも大きな収穫情報があることを、見落とさずに希望の見える情報につ
 ながることを話しました。

  つまり、日技のホームページの紹介にしても歯科医療(技工)界を一般の方々に知って
 もらいたい、そのためのPRとするとしたら、まず歯科技工って何か、興味をそそる
 キャッチフレーズがほしいですね。6月19日のNHK第二放送にて、歯科技工士も
 患者の喜びを直接に受け取れるコミニケーション、歯科医師とのコンビが紹介されて
 いた。歯科技工の出来不出来が患者さんの満足度につながることの紹介は意味深いも
 のがあったように思います。

  日技のホームページの中西茂昭先生の素晴らしい著書の紹介にしても「歯は心も体も
 元気にする」何処を、どのようにするからこそ心が元気になる。そのキャッチフレー
 ズを表面に出した紹介にしたらどうでしょうか。更新情報らしい画面情報をを工夫し
 ましょうよ。

  6月9日の静岡新聞、夕刊に引用しやすい文章があったので紹介します。

  「補綴歯科治療」正しいかみ合わせは高齢者の健康維持、かみ合わせがないと転倒し
 やすいという調査結果、かみ合わせを回復すると、転倒が減ったというデーターもある。

  とかく、文章を読むことが嫌いな人種でも、興味を引く問題、時代の流れを抜粋した
 文字は読む気になるものです。技工士にとって「技工士は生き残れる?」という文言
 を見ると、文章を追っかけて観たい感覚になります。このような単純なことが日技の
 ホームページに届くといいですがね。

(第4話)     
    「相手を動かすアピール」

 「歯科技工業って?どんな仕事、それを表明には一般市民に解るような情報公開が必要」

  5月30日の日本歯科新聞にて医療こそ広報活動が必要「茅島秀夫先生」が素晴らし
 い表現を業界に投げかけて戴いたのを読まれた方も多いと思います。要約すると、医療
 機関は聖職というイメージがあり、広告にはそぐわず、薬事法の制限などもある。

  しかし、ネットの普及などで、医療の情報を患者が手に入れやすくなったからこそ、
 身近に正しい知識を医療側に伝えることが大切。よって、健康に対する意識が高まって
 いる中では、歯科医師会や学会が医療側の姿勢、メッセージを示していくことは義
 務と語っておられました。

  追伸・インターネットにて一般市民、患者さんに歯科技工士とは、どんな職業かを説明
 するとしたら、まず歯科医療の流れの中で紹介すべきでしょう。「5月16日付け
 日本歯科新聞」 

   かずきれいこ先生 審美は心満たす医療には、患者の要望を引き出すコーディネイター
 が必要だという。それには歯科衛生士ではなく歯科技工士が担うべきと提案する。 
 近年の審美歯科技工としての道筋が示されているように思います。また、技工士に
 希望の見える情報が必要ではないでしょうか。パイを広げる分野とも受け取れます。

 以上の放談をNO3の表現へ連携すると面白く、希望的分野につながりましょう。

(第3話)     
   「生き残りには情報公開・鮎解禁と情報確認。」

  1〜2話、歯科医師との談話、歯科医療の転換の始まりを技工士はどのように受け取
 るかについて、患者満足度と歯の健康、歯を削らない治療方法の訪れを予測する中に
 技工業界の生き様を併行しなければならないことを、お話しました。

  少し、難しい話からスタートしましたので、気楽になれる話にします。

  6月1日、1年間待ち望んだ鮎解禁です。出かけてきました。朝、暗い中、つり場所
 に立たずみ、竿を出すまでの時間の経過、期待と興奮を表現することは難しいことで
 すね。魚つりは本当に楽しいものです。仲間の、平野さん、平嶺さんは船つりを得意
 とされていますね。平嶺さんのお誘いで幾度かご一緒させて戴き、楽しい想いをしま
 した。

  5月20日は清水、興津川の鮎解禁日に前日よりに出かけました。真夜中に降りだし
 た雨、豪雨となりました。川原に駐車し、朝一番の竿だしを夢見て、夢うつつの車
 中、窓ごしにけたたましくドアを叩かれ眼を覚ましました。濁流が川原に流れ込んで
 きた旨を告げられ、ビックリ仰天、川底に沈めたオトリ冠、釣竿,イスなど取るもの
 も取らず、安全地域に非難しました。明け方には雨もやみましたが駐車してあった川
 原一面は濁流で覆われていました。危なかった、川原に残された人救出劇などの報道
 になるところでした。当然ですが、オトリ冠などすべて流されてしまいました。それ
 でも、周りにいた太公望、一人も帰る人がいない、4〜5時間後には鮎つりが出来る
 との情報に待つことにしました。結果は、0匹の成果でした。水が綺麗になる支流で
 は、釣ることが可能という情報を得ていながら移動しなかった、残念だった。18時
 間も待ち続けていた場所への拘り、情報確認の誤りがたたり鮎つり初日は散々の成果
 につながりました。つりは、場所の選択、情報確認、中止かの決断が勝負という言葉
 があります。

  いかなる商売にも似たような言葉がありますね。歯科技工業においても、新器材、新
 技術流行の兆しとの情報、その兆しを履き違えたまま飛びつくことは、危険信号も待
 ち受けているといえましょう。この、近年間は新しい歯科医療、新技術の発表が多く
 続きそうです。

  ただ、歯科技工業は、そんなに儲かる商売ではなく、一発千金のような職業でもあり
 ません。つまり、歯科医療の流れに逆らった生き方は出来ません。歯科医療界は患者
 向け情報としてテレビなどで一般公開「歯を削らなくてむし歯は治癒」されていま
 す。一般公開されている内容を要約して日技会報、日技ホームページといった場所に
 公開すべきでしょうね。本などを読むことが嫌われる時代です。ホームページも観た
 いという感覚の沸くキャッチフレーズが必要でしょう。内容をピックアップすれば観
 る機会が多いと思います。

  ここでの紹介を浜松だけでない方法を考えましょう。生き残って行くための情報とし
 て、日技のホームページなどにも公開、利用させてもらえると良いですね。

  参考  6月3日、友人よりメールが送られてきました。

  ご存じでしたでしょうか? 標題の改正が平成16年12月1日に発布されていたことを。

 これを受けて、17年3月に「設備構造基準と技工録」の医政局通知が出されたようです。

  こんな重要な「立ち入り検査権」が改正された事実を、その時点で会員に知らせてく
 れていたのでしょうか?。

 (記憶にないのは、小生だけなのでしょうか?。)

      第6章
     罰 則
     (第28条〜第33条)

 歯科技工士法改正(平成16年12.01 法150号)

  私は、勉強不足でした。

(第2話)     
    「患者の満足度について」

  患者の歯の健康=患者の願望が主体型=歯を削らない治療方法に補綴は?

  21世紀の歯科医療、その方向性は歯の健康を守るための治療方法であり、患者主体型
 となってきた昨今の歯科事情を歯科技工業は理解し、将来像を表明すべきでしょう。

  前回の、歯科医院後継者への回答。

  患者さんの満足度について、私が、お答えしたのは一言です。

  どのような新しい技術の説明より、患者さんの歯の健康を守るためにどのような治療
 を行なうかの説明が大切であることをお話しました。

  時代の流れは、患者自身の歯牙を削ることへの不安、健康な歯牙を何故切削するかと
 いったことの質問に答えられる医療知識が大切であること。

  患者にとって歯の健康とは何を意味しているか、また、臨床上において歯牙を切削す
 ることの必要性が生じる、その説明と理解を受け取った治療方針が大切だと進言をし
 ました。

  さらに、痛みを軽減するための治療方法には、時に、歯の一部を切削することがある
 という説明も必要です。歯牙を切削して審美的な補綴物とすることの説明は、患者と
 の信頼関係が成立した後に説明することであり、まずは、いかに、患者さんの歯の健
 康を守るための治療方法、その説明こそが患者に好かれる治療であり、時代の流れで
 あることを進言しました。

  ここで、歯科技工士も「歯を削らない虫歯治療(治癒)という表現」が一般社会に浸
 透しつつあることを申し上げておきます。近い時期、きっとこの表現、治療方法は歯
 科医療界の隅々にまで、浸透してくることでしょう。技工業は歯を削って印象模型と
 なることで職業として成り立つわけですから、ね。

  全国のトップレベルの方々(歯科医療関係者)とパイの拡大、自然淘汰が先かを論議
 している最中です。

  次の報告は、歯科技工士が生き残ってゆくには、「これだけは言わせて」を、
 具体的に羅列しながら、3-4回に分割して報告して見ます。

(第1話)   
  浜松支部の仲間の皆さん 

  70歳を迎えた市川和男です。

  学位は昨年取得しましたが、続いて大学院研究生として2年目に入りました。

  歯牙の再生「インプラント材に象牙質とセメント質などの歯周組織を3次元的
 な培養方式により「組織工学的に歯周組織」を形成する研究に取り組んだこと
 により、まだ、当分年間は研究室に留まらねば最終的研究成果はでそうにあ
 りません。
  歯科技工業のパイを広げるための学門として仲間の皆に報告できればと信じ
 てがんばっています。

  さて、

  今年から、浜松支部のホームページに「技工士人生、ここだけの話、50年間の
 歴史経験を得た技工士だからいえる、30年後に生き残るための技工士像、
 組織への辛口といった形式で、歯科技工業の流れを放談することとなりました。
 よろしくお願いします。

  そこで、まず、最初に話しておきたいのは、この7〜8年間に歯科医療が大き
 く転換してきた実際を申し上げて置くことが、ここだけの話をするのに、また、
 生き残ってゆくための知識として、皆なに解って貰えるかなと思うのですが、
 いかがでしょうか。

  まず、私が席を置く研究室にあった話、歯科医師が研究室を卒業し、老舗の
 医院へ4代目を継ぐため郷里への帰郷にあたって、

 ・ 大学の研究室の実績を臨床に生かすため
 ・ 老舗の医院に何をキャッチフレーズとした研究技術を持ち帰るのが一番臨床
   に役立つかを問われた。
 ・ また、一般歯科界に大きく浸透している「患者に満足度」とは。また、何が
   一番良い「満足度としての定義となる言葉」を教えて欲しい。
 ・ さらに、やっぱり、審美に関わる補綴物のことでしょうか。と問はれた。

  仲間の皆なら、なんと応えるだろうか

  市川は、どう応えたか想像してみて下さい。次回にメールで報告します。