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novel


30.「がんばれ!」  1
(GetBackers=蛮×銀次)



空が青い。
そして、高い――。

秋の空がこんな風に、抜けるように青く高く見えると知ったのは、たぶん銀次と出会ってからだろう。
それまでは、空など見上げることもなかった気がする。
まぁ、見上げたとしても。
せいぜい天気を気にするぐらいのもので。
天を仰いで、"あぁ、秋の空になってきやがったなぁ"などと、そんな風に悠長に季節を感じる余裕も無ければ、そんな感慨すらまったく湧くことのない、血生臭い生活だった。
食って、殴って、ただどうにか今日も生き延びていく。
そのためには、どうでもいいことだった、そんな事は。


歩道に乗り上げた駐車中のスバルに凭れ、煙草をふかしながら、蛮が眩しげにサングラスの奥の紫紺を細める。
紫煙が、真っ青な空を舞い上がっていく。
それを目で追い、蛮はフー…ッと肩で大きく息をついた。

(まぁ、冬の間の塒をどうするかぐれぇは、秋の終わりに多少は考えたがな。…いや、それだけは今も変わらねぇか。つーか、ある意味もっと切実ともいえるな。銀次のヤロー、体温高ぇくせに寒がりだしよ。…しゃあねえ。とりあえず、この仕事の報酬が入ったらコートの一枚でも買ってやるか)

考えて、ふと気づき、思わず苦笑を漏らす。

…やれやれ。
傍らにいねぇ時まで、何を我ながら"銀次、銀次"とまぁ…。
あのバカの事ばっか考えてんだかよ。



塀の向こうからは、にぎやかな歓声と賑々しい音楽。
ぁあ、なるほど。そういやシーズンだわな、と蛮が心中で納得する。
どうやら歩道に沿って立つ塀は小学校のものらしく、中では運動会が行われているらしい。

塀の向こうは、自分とは無関係の世界だ。まったく無縁の。
僅か8歳で一人になった自分にとって、子供心にさえ、それがひどく滑稽なものに思えたのを覚えている。

走ってそれで一等になったからって、どうなんだ。
いくらか賞金でも賭けられてるんならまだしも、ただ走るだけに何でそんなに大騒ぎ出来るんだか。
大人も子供も。
バカじゃねえのか。アホらしい。
そう思い、でかい弁当の包みを抱えた楽しそうな親子を睨み付け、見上げた空は―。
忌々しいくらいに澄み切って青かった。


つまり、拗ねてたわけだ。ガキの俺は。
そこまで、気になるってあたり。
充分、やっかんでるってワケじゃねえかよ。なぁ?


自身に問う。
両親の間で両方の手を親に繋がれ、その間でぶらーんと足を上げて引き上げられている同じ歳くらいの子供に、理由のない殺意すら覚えたのは、まだどこかでそれを望んでいる自分がいたせいかもしれない。
そして、そんな自分を極端に嫌悪し、さらに肉親に対する嫌悪や憎悪を膨らませた。

見かけはともかく、精神的にはすっかり大人びているつもりでいたが、今にして思えば、実際は見た目も中身もどうしようもなく子供だったのだろう。まだあの頃の自分は。




「…にしても。遅ぇな。銀次のバカは。どこほっつき歩いてんだ?」

まあ。けど、いい。
あのバカがこの事を知ったら、"ええッ、運動会! 俺、ホンモノ見たことないんだ! ねえ蛮ちゃん。ちょっとだけ覗いてみようよー"とかなんとか。絶対言い出しやがるにちがいない。
居なくて、幸いか?

想像して、蛮が我知らずと笑みを浮かべる。



それにしてもその"バカ"は、いったいどこまで行ったのやら。
メシを買いに出たっきり、かれこれ一時間ほど経ってやがる。
まったく。
知らない土地に来ると、野郎の方向音痴はますます顕著だ。
自分が迷ってる事にも気づかず、どうせ"わー、いい天気ー"とか言いつつ、空ばっか見上げて歩いてやがるんだろう。

しゃあねえなと一つ溜息をつき、そろそろ迷子の捜索に出るかとばかりに、吸い殻を開いたスバルの窓から車内の灰皿へと揉み消し放り込む。

そして、運転席に滑り込むと、ドアを閉じようとしたところで、蛮がふいに動きを止めた。
シャツの裾が、何かに引っかかったような気がしたのだ。
「あ?」
なんだとばかりに振り向いてみれば、それは引っかかったのではなく、実は引っ張られていたのだが。小さな手に。


「あのねえ。おじちゃん」
「…あぁ!?」


にっこりと微笑む小さな男の子に、蛮が不機嫌さを露に、眉間に皺を寄せ青スジをたてる。
「あのね、教えてほしいの。ボク、あこちゃんのミルク買いに行」
「あぁ!? 誰がおっさんだと!?」
「んん?」
蛮の剣幕に、まだ5,6歳の男の子がきょとんと丸い瞳で蛮を見上げた。
「テメエ、このガキ! まだ19歳の若々しいこのおにーさまを掴まえて、どこがおっさんだと!? あぁ!?」
それでも特に脅えたりする様子もなく、ちょっと首を捻って考えると、男の子はもう一度蛮を見て言った。
「うーん。じゃあ、"おにいちゃん"でいいんだけど。あのね、ボク。ミルク買いに行くんだけど、ろーちょんどこか知らない?」
「…は?」
「だから、ろーちょん」
「…物怖じしねぇガキだな」
「ものお? じゃなくて、ろーちょん。知らない? ねえ」
大きな瞳でしげしげと見つめられ、蛮が今度は眉間に皺を寄せたまま首を捻る。
「あー。知らないんだったら、いいや」
それを"俺が知るかよ"という意味にでも捉えたらしく、男の子がふうと落胆の溜息をつくと、あっさりと踵を返す。
「あ! おい、ちょっと待てガキ!」
咄嗟に、それを細い腕を取って呼び止めて、蛮は即座に後悔した。
呼び止めてはみたものの、自分には別に親切にしてやる義理もない。こんな見知らぬガキなど。
それに大体こういうお子様は、普段ならゲットバッカーズのお子さま担当である銀次が相手をするところなのだ。
まぁ、今現在迷子中なのだから、致し方ないが。

「んん?」
まぁ呼び止めちまった限りは仕方ねえと、蛮が諦めたように男の子に尋ねる。
「それってよ。もしかして、コンビニの名前か?」
「そーだよ、"ろーちょん"。あ、知ってる? 青い看板の」
「あぁ。もっとも俺が知ってるのは、それとは微妙に違う名前だけどな?」
「ふぅん?」
「まぁ、いい。さっき通ってきた道で見かけたぜ。教えてほしいか?」
「うん!! ありがと、おじ… お兄ちゃん!」
「おーし。えーっとだ。まず、この道を向こう側に渡っだろ?」
「うん」
「んで、左に…。左はどっちか。わかっか?」
「お箸持つ方!」
「そりゃ右だろうが!」
「ボク、こっちの手でお箸もつよ?」
「…サウスポーかよ。紛らわしい…。ま、箸ぐれぇドッチでも自由に持ちゃいいが。とにかくだ。左にまっすぐ行って、その交差点とこの信号で右に曲がって、後はとにかく真っ直ぐ歩け。そしたら、ガソリンスタンドの隣に青色の看板が見えるからよ。わかっか?」
「うん!!」
「へぇ、わかったのか。偉いじゃねえか」
「ここ渡って、左にまっすぐ行って、信号を右に曲がって、ガソリンスタンドが見えてくるまで、まっすぐまっすぐ、だね!」
「おうよ! よく覚えたな」
「えっへん!」

確か一時間前にも同じ説明をウチのバカにしたら、"蛮ちゃーん、左に曲がって右に曲がってから、えーと、どうだっけ?"とか聞き返してやがったな…と内心思う。
なるほど、あのバカの脳ミソは、幼稚園児のこのガキより貧素なのか。
どうりで、何回道教えても、迷子になりやがるハズだ。
妙なところで納得して、蛮が心中で深々と溜息をつく。

「んじゃ、ありがとう! おじちゃん!」

「おう…って! おじちゃんじゃねえ!! お兄さまだっつーんだ、このクソガキ!!」

がなる蛮に"ばいばーい"と笑顔で手を振り、ばたばたと走っていく小さな背中に、蛮がまったくよーとブツブツとごちる。
まあ、いいけどよと呟いて、運転席のドアを閉め、それでもふと気になって今の子どもが走り去っていった方向を見た。
あれだけ自分で確認出来てんだから、まぁ間違えるハズはねえかと軽い気持ちで振り返った蛮は、だが――。
一瞬で固まった。だらだらと額から冷や汗が落ちる。


うわあ、あのガキ!
いくら向かい渡れっつったからって、こんな横断歩道もねぇとこで!!
つか、右も左も見てねえじゃねえか!!
テメエ! 幼稚園で"右見て左見て、もっかい右見ろ"って習わなかったのかよ!
最近は、んなこと教えねえってのか!?
ああ、渡るなら、とっとと渡りきっちまえ! 道の真ん中で止まるな!!
ちょ、ちょっと待て!
今、 左折してきたあの大型トラック、どう見てもガキに気づいてねえ!
ぁあ、ったく畜生!!


「何やってんだ、このバカ!」
「え…?」


キイィィイ――ッ!


気がついた時には既に蛮は、子供を庇って道路に飛び出し、小さな身体を抱えて猛スピードでトラックの前を駆け抜けていた。
歩道に居る蛮らを見、運転手がほっとしたように窓から怒鳴る。


「気ぃつけろ、このバカ! 死にてえのか!」
「テメエこそ! どこに目つけて運転してやがんだゴラァ!!」


それでも一応は、男の子に怪我のない事を確認してから走り去るトラックを蛮が見送り、脱力したように一息つく。
それから、何が起こったかまったく理解していないような男の子の頭上から、雷を落とすように思いきり怒鳴りつけた。
「危ねえだろうが、このアホガキ!」
「あ、さっきのおじちゃん」
「お兄ちゃんだっての!! つーか、テメエ、なんで横断歩道渡らねぇんだよ! そこにあんだろが!」
「だってボク、急いでるんだもん! しょーがないでしょっ」
「はぁ!? 何逆ギレしてんだ、テメエ!」
「だって、あこ泣いてるんだもんっ」
「ぁあ、もう! そうかよ、わかった! わかったから、とっととついてきやがれ!」
「へ?」
「何、すっとぼけてやがる、さっさとしろ!」
「うん…? あれ、おじ…お兄ちゃん、もしかして付いてきたいの?」
「つい…! あ〜〜のなぁ!」
「んん?」
「俺様の目の前で、車に轢かれられちゃ後味悪ぃからな! 一緒に行ってやるっつってんだよ!」
「ふうん?」
「ったく! おら、来い。俺様もどっちみち、ウチの迷子捜しに行かねぇとなんねえ……って、コラァ! 何、勝手に手繋いでんだ、あぁ?!」
「だって信号わたる時は、ちゃんとお手々繋ごうねって、おかーさんいつも言うもん」
「だからってなぁ…!」

思わず振り払おうとして、行き交う人たちの視線に気づく。
しかも見上げてくる大きな瞳は、まったく振り払われるなんて夢にも思っていない、というそんな顔だ。

…ああ、もう!
畜生、だいたい銀次のヤローがいねぇから、俺様がこんな目に合うんじゃねえかよ!

心の中で精一杯毒づきながら、それでも、ぎゅっと握りしめてくる小さな手に、どうしてだかふいに切ない思いが湧く。
何かを思い出しかけて、蛮はそれを無理矢理心の奥にしまい込んだ。
その正体を突き止めることも出来ず。

「にしてもよ、テメエ。なんで、一人で牛乳なんか買いに来てんだ?」

手を繋ぎ、ゆらゆら揺らしながら、なぜか嬉しげな男の子に、蛮が顰めっ面をしつつ尋ねる。
それにしても。他人から見れば、自分たちはいったいどう見えるのだろう。
年の離れた兄弟か、はたまた若い父親を息子とか?


チ! 冗談じゃねえ!
それに、どうせ。
コイツの母親は、このガキの兄弟の運動会をビデオに収めんのにでも、忙しくしてやがんだろう。
それでこんな小さなガキに、下のガキの牛乳買いに行かせて。



まったく。
だから嫌いだ。
運動会とやらも。



――そういう。……母親も。



「だって、大変なんだもん」
「あ? 何が」
「だーから、あこがおなかすいて泣くし、おにーちゃんがもうすぐだからって、おばーちゃん困って、走るの見るから、じゃあ、ボク、行けるからって!」
「はあ?」
「うーんとね、うーんと。だーからー」
話を纏めようと頭を抱える男の子を、蛮が呆れたように眉を下げて見下ろすと、どんどん混乱していきそうな思考を制するように割り込んで言った。
「あぁ、もういいって! わあった。何となくわかったからよ」
「うん?」
これだけでわかるのもどうかと思うが。と蛮が低く笑いを漏らす。

日頃、主語と述語だけで文章組立てやがるヤツと一緒にいるせいで、アヤシイ日本語もかなり理解できるようになった気がする。
いや、アイツの場合は、主語が多すぎて、下手すりゃもっとワカリづれえ。
まだこの程度なら、マシのような気がするぜ。
つーか、それにしても、実年齢19歳のヤロウの言語力が、見事に幼稚園児以下とはどういうこった。

「つーまり。妹がミルク欲しいって泣いてっけど、兄ちゃんの出番が近ぇから、ばーちゃんが買いに行くわけにもいかなくて困ってたんだろ?」
「そう! だから、ボクが買ってきてあげるよって言ったの!」
「なるほどな。…あ。けどお前。母親はどうしたよ? 運動会、見に来てねえのか?」
「おかーさん? おかーさんなら、お仕事。かいしゃにお休みしたいってお願いしてみたけど、だめだったんだって」
「あぁ…。そっか。そういう事、か」
「うん。おかーさん、お仕事いっぱいしてるの。おとーさんの分もはたらかなくちゃなんないから」
「あ?」
「だから、あことボクとおにいちゃんは、おばーちゃんがごはんとかしてくれるの」
「"おとーさん"はどうしたよ?」
「いない。あこがもっと赤ちゃんの時、どっか行っちゃった」
「どっか、って」
「わかんないケド」
「…出て行った、って事か?」
躊躇いがちな蛮の言葉に、少々俯き加減になって男の子が返す。
「きっと、いいヒトができたんだろって、アパートのお隣のおじちゃんが言ってた」
「…え」
「でもねでもね! おかーさんのが、もっとずっといいひとなんだよ!…だから、おとーさん。出て行かなくてもいいのに」
懸命な大きな瞳が蛮を見上げて、訴えるように言う。
「…そっか」
「うん…っ!」
蛮でさえもが圧倒されるほどの瞳に、蛮が静かに瞠目し、それからゆっくりと瞳を細めると、小さな頭をそっとその手の中に包んで、いつも銀次にしてやるようにくしゃくしゃと撫でた。


「お前さ。親父のこと、恨んでねぇのか?」


静かな言葉に、ぱちっと一つ瞬きをして、男の子が不思議そうにする。
「おやじって、おとーさん? うらむってなに?」
思わず、返答に詰まる。

俺はいったい、こんなガキにどんな答えを求めてるんだ。

思いながらも止められず、胸の奥が青白い炎に灼かれるようにちりちりと傷んだ。
瞳の紫紺を深い色に潜めて、蛮が重く言う。


「――嫌いってことだよ」


その言葉に、大きな瞳が、また数度瞬く。
「ふうん。でも」
こくんと頷き、どうやら意味は解したようだった。だが。


「そんなことないよ、だいすき!」
「――!」


「お仕事ばっかで、怒ってばっかで、あんま遊んでもらったこととかないけど」
「…じゃあ、なんで"大好き"なんて…言えんだ?」
「わかんないけど! でも、おとーさんは、おとーさんだし! きらいになんて、なれるわけないもん!」


「だから、だいすき!」


蛮が大きく瞠目する。


この目。銀次に似ている。
裏切られても、捨てられても、信じることをやめない、あのひたむきな瞳に。


「そ…っか」
「うん!」


それにしても。
嫌いじゃなければ、"だいすき"まで一気に飛躍すんのかよ。
あのバカ、そっくりだ。
その中間とか、もっと複雑な感情とか。
好きと嫌いの間を揺れ動くとか。
憎んでいるのか、実際はその逆なのか。
自分でも、そのドッチに属する感情なのか、わからねぇとか。
そういう持て余すようなモンとかよ。
ねぇのか、テメエらは。そういうの。



「あ、ボク。おじちゃんもだいすきだよ!」
「…ぁあ!?」

急に考え込むように黙ってしまった蛮を見上げ、フォローのように唐突に告げると、男の子がにかっと笑う。
まさかこんなガキに気遣われたのか?と思うと、なんとも情けないが。
けれど。
この子供は、まだこんなに幼いうちから、そうやって周囲を気遣うことを、無意識に身体で覚えてしまっている。
たぶん、祖母や母や兄弟にさえ。
そして、それを、さして苦もなく自然にやってのけているのだ。
まるで、自分と出会う前の銀次のように。

「えへへっ」
「"えへへ"じゃねえ!」
「んっ?」
「あのなぁ、テメエ! 俺とテメエはついさっき、そこで会ったばっかじゃねえのかよ! 俺がどんな人間かも知らねぇで、そんな気安く信用してんじゃねえ! 人を見たらドロボーと思えっつってよ、お前、先生とかにだな…!」
「わかんないけど、でもボク、おじちゃん、だいすきなんだもん。いいじゃない」
「良いわけねぇだろが! お前なぁ、もし俺が誘拐犯とかだったりしたらどうすんだ…つーか! "おじちゃん"言うな―!!」



「……あれ?」



思い切り頭の上から怒鳴りつけたところで、ふいに前方から視線を感じ、蛮が男の子の頭をぐしゃぐしゃとしていた手を止める。
別に幼児虐待してるわけじゃないが。
何だ、文句でもあっか!とばかりに視線を男の子から外し、前方を睨み付ければ。
琥珀色のまんまるい両の瞳が、何ともきょとんとしたような不思議そうな顔で蛮を見ていた。








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