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私釈三国志 127 東方奮起

F「というわけで、前回の続きですー」
A「130回近く続けてるシリーズもんだろ」
F「まぁな。いちおう、120回で回数を切った張昭については触れられたので、それはそれでいいとしよう。ともあれ、孫権は張昭・顧雍らの諫めを聞かずに、使者に財宝と九錫、兵一万をつけて遼東へと出発させた」
A「何でそこまでしたのかな?」
F「呉の船団には、使者だけでなく商人も乗っていたようでな。呉書にはないが、公孫淵が云うには『呉の使者は交易品を持ってきて、馬を買いたいと望んでいた』『馬と交易品を出したら、商人が五・六百人降りてきた』とある」
A「ずいぶんな人数だな、オイ」
F「次の一件でだが、陸遜は『遼東の民衆と馬に執心して呉をないがしろにされるのは過ちです』(←コレ)といさめている。さらに、235年のことになるが、魏から馬と真珠・翡翠・玳瑁を交換したいと申し出があったら喜んで受けている。この辺の事情から察するに、馬を手に入れたかったンだろう」
A「それに向かってなぜとは聞けんな。呉には、騎馬の産地がなかったからか」
F「そゆこと。合肥新城で満寵に負けたのも233年だけど、これは遼東に兵を送ったあとだから、その前から騎兵隊を編成したいと思っていたンだろう」
A「でも、石亭で曹休を破ったときに、馬もある程度は得ていたンじゃない?」
F「石亭の戦いでは一万からの捕虜と大量の軍需物資を得たとはあるが、騎兵・歩兵あわせて10万なら、騎兵は多くても1万に満たん。長江沿いに騎兵隊を動員しても使えないことは、曹丕自ら呉に侵攻した時に確認している」
A「となると、一万の捕虜でも騎兵は1割くらい?」
F「徒歩より馬に乗って逃げる方が早いンだから、捕虜になる比率だとさらに少ないはずだ。王淩(并州出身)も騎兵の扱いに長けているはずだし、歩兵でも先を競って馬に乗り、逃げようとするのは想像に難くない」
A「むぅ……」
F「加えて、有益な兵器は敵に渡さないよう、撤退する場合には廃棄する。たとえば、戦場で戦車を乗り捨てる場合は、せめて機関部を破壊し自走できないようにするのが軍隊での常識だ」
Y「自爆戦法はそうやって生まれたワケだな」
A「……大量の軍需物資でも、馬は多くて数百だね」
F「孫権本人が騎馬に長けていたとはいえ、いくら馬を集めてもそれを使える人材がいなければ話にならない。いつか触れたが、騎兵の運用は天才的な武将にしかできない……と司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』で述べている」
A「29回だね」
F「だったか。公孫淵の使者は呉で孫権に謁見した折、公孫淵の息子や家族について聞かれているが、これを注目すべきかもしれない。公孫淵の息子・親族を呉に招いて、騎将として使う意思があったのではないか。兵一万を出したのは、その代替として進呈するハラではなかったのか」
Y「あるいは遼東を攻略して、馬と民衆と手頃な武将を徴収してくるつもりだったか、だな」
F「使者が武将としては聞かない……というか、孫布みたいに、該当するイベントでしか出てこないから、そこまで考えるのは勇み足にも思える。とにかく、孫権は馬ほしさに、使者に財宝と九錫を持たせ、1万の兵と商人たちを引き連れさせて遼東へ送った」
Y「そして、完全に裏切られた」
F「使者は斬られ財宝は巻き上げられ、兵士たちも燕の捕虜となった。呉主伝に『(公孫淵は)兵士と食糧を奪い取った』とあるから、そのまま燕軍に編成されたらしい。九錫は『阿呆がこんなモン送ってきましたぜ、へっへっへ……』と魏の宮廷に送りつけられ、喜んだ曹叡は公孫淵を大司馬に任じている」
Y「張昭の予想した通りになったな」
F「孫権は当然だが怒り狂った。まぁ、孫権じゃなくても怒るだろう。自ら兵を率い遼東に攻め入ると息巻いた」

 ――オレは年も六十。世の中の酸いも甘いもこなしてきたが、今になってドブネズミにたぶらかされ、怒りをこらえることができん。この手でネズミの首をはね海にブチ込まねば、天下に顔向けができんわ! 死んだってかまうものか!

A「……どこまでお怒りですか、この皇帝サマは」
F「実際には51のはずなんだが、やはりこれも群臣の諫めにあっている。制止されても使者を出した前科からして、ホントにやりかねないと思ったようでな」
A「いや、遼東までは攻めこめんだろう!?」
F「アキラ、ボケたことは云わない。ついさっき、1万の兵を遼東まで送ったのは確認しただろうが。……到着した頃には七千から八千になっていたらしいが」
Y「過酷な航海だったようだな」
F「長江から東シナ海に出て遼東まで北上するのに、その中途はすべて魏の領土だからねェ。途中で入港できないのは航海として難しいだろう。その割には、送り込んだ船団は一隻くらいしか失われずに遼東までついたようだが」
A「いや、計算が合わないから」
F「そうでもないぞ。太平御覧によれば、呉には兵員三千を積載できる巨大戦艦"大舡"があったから」
A「……そんなモンを用意していやがりましたか」
F「コレを筆頭に、呉には何度となく、船を外洋に出している実績がある。120回で見たように呉の人口は魏のおおむね半分だが、面積としては匹敵しているので、人口があれば国力はついてくると孫権は考えていた」
Y「蜀と違って伸び代があるワケか」
A「やかましいわ!」
F「前々から呉軍が、北荊州・北揚州の魏領に侵攻しては住民を呉に連行するというのをしでかしていたのは覚えているな? 海の向こうから人狩りしてくる計画さえ実行しているンだ。夷州・亶州に兵一万を率いる武将を差し向け、住民を呉に移住させようとした」
Y「呉の"天下"を外に広げようと、曹操や孔明と同じ考えで動いた、というところかね」
A「それはいいんだけど、えーっと……?」
F「夷州は『臨海東南にありおおよそ二千里、山がちな地形だった(太平御覧)』とあり、台湾でほぼ間違いないとされている。一方の亶州は『大海の中にあり、かつて徐福が渡った島。ときどき会稽まで商売に来る』と呉主伝にあるので、どうやら琉球諸島か日本列島のようでな」
A「……待て。呉は日本と交流があったのか?」
F「民間レベルではあった、というところだな。また、呉は海外貿易もしていて、現在のカンボジア・ヴェトナムからインド、遠くイランとまで交易していたらしい。巨大戦艦"大舡"やその辺の事情から、孫権が遼東まで行きつくことはできたはずだ」
A「でも、遼東行きだけで2割以上の兵を失っているンだろ?」
F「その通り。夷州・亶州侵略にしても、気候の悪化から数千の兵を失い、それを補えない人数だけを夷州から連れ帰ったのみだった。亶州には行きつくこともできなかった指揮官(2名)は、帰国後に処刑されている。実際に出兵していたら、孫権が生きて帰った可能性は無に等しい」
A「……この負け君主は」
F「遼東に使者を出す前には止めた形跡がない連中も、今度はしっかり制止している。薛綜が代表として挙げられているが、陸遜も今度はきっちりと、さっき見た台詞や『兵なら今の軍勢で充分、生産は農業を持ってすれば足ります』と主張する書簡を送っている」
Y「最初にしっかり制止するべきだっただろうに」
F「違いない。ともかく、天下のもの笑いになることにしたようで、孫権はその制止を受け入れて、遼東への出兵を諦めた。で、前回見た合肥新城へ兵を差し向け、自ら出陣している。ストレス発散の矛先をずらしたようだが、やはり負けたのも前回見た通り」
A「孫権の勝ち戦ってないモンか?」
F「難しいところだ。さらにさらに翌年には10万と号する兵を自ら率いて、またしても合肥新城に向かっている。対する魏軍では、当時対呉前線にいた田豫の『敵は我らの大軍をおびき出して叩こうとしているのであって、城を攻めたいのではありません。勝手に攻めさせても新城は落ちませんよ』との発言を容れ、満寵は数十人の義勇兵を動員した」
A「……ケタふたつくらい違わない?」
F「満寵伝に書いてあるのはその数字。他にもいたとは考えていいけど、新城はしっかり守られていたモンだから抜けず、数十人からの義勇兵を率いる満寵には火を放たれ、乱戦の中で孫泰(匡の子)が射殺されている。血筋で云うと曹叡のはとこに当たるから、実はちょっと疑わしいンだが」
A「曹操の弟の娘の産んだこども、か……」
F「結局、その曹叡の出した魏の援軍到着前に、呉軍は撤退」
Y「何してるンだかね、このボケ皇帝は」
F「呉主伝にはないものの、そんでもって翌年のこと。数千家を江北に出して農業させていたところ、収穫の時期には駐屯していた兵まで刈り入れに加わった。それを見た満寵は兵を出して、宿営地を攻略し収穫を焼き払う」
A「油断というのもバカバカしい油断だな、オイ」
F「頭に来て反撃するものの、やってきた田豫に防がれ、すぐに撤退。ところが夜、まだいた田豫の軍中で『敵襲ですー!』と声が上がった。田豫は慌てず、というか寝台から起き上がりもしないで『騒ぐ奴ァ斬る』と命令。たぶん、そいつが呉の間諜だったンだろう。混乱は起こらず、襲撃もなかった」
A「……ホントに、孫権が勝った戦闘ってないのか? 何とか探さんと呉のファンににらまれるぞ」
F「そうは云われてもなぁ」

74回の続き
219年 荊州攻略戦(主将:呂蒙、敵将:関羽) 呂蒙・陸遜らの働きで関羽を討ち、荊州を攻略。
221〜222年 夷陵の戦い(主将:陸遜、敵将:劉備) 数ヶ月に渡る対陣の末、火攻めで大勝。
223年 江陵の戦い(主将:朱然、敵将:夏侯尚) 朱然の防御を抜けず魏軍撤退。その名は魏にまで知れ渡った。
223年 第三次濡須口の戦い(主将:朱桓、敵将:曹仁) 朱桓の攻撃を支えきれず魏軍撤退。王双を捕虜とする。
223年 第一次洞口の戦い(主将:呂範、敵将:曹休) 陸戦で呂範が負けたが、水戦になったら呉軍が持ち直した。
224年 第二次洞口の戦い(主将:徐盛、敵将:曹丕) 徐盛の一夜城にだまされ、魏軍撤退。
225年 第三次洞口の戦い(主将:孫権、敵将:曹丕) 水路が凍結して船が動かず、戦闘前に魏軍撤退。
226年 第三次江夏攻略(主将:孫権、敵将:文聘) 20日を超える防御戦の末撤退。追撃を受けた。
228年 石亭の戦い(主将:陸遜、敵将:曹休) 魏軍に大きな被害を与え撤退に追い込む。
(229年 孫権、皇帝に即位)
230年 第四次合肥侵攻(主将:孫権、敵将:満寵) 撤退と見せて油断を誘うも満寵は引っかからず、呉軍撤退。
231年 阜陵の戦い(主将:孫権、敵将:王淩) 魏書「700の兵の半ばを失う」呉書「逃げられた」
232年 廬江の戦い(主将:陸遜、敵将:満寵) 陸遜を動かすも満寵は背後を襲うそぶりを見せ、退却。
(233年 公孫淵にだまされ兵一万と財宝を奪われる)
233年 第一次合肥新城攻略(主将:孫権、敵将:満寵) 上陸したところを伏兵に襲われ、大きな被害を出す。
234年 第二次合肥新城攻略(主将:孫権、敵将:満寵) 満寵の小勢に焼かれ、本隊が来る前に撤退。孫泰戦死。
235年 江北の戦い(主将:孫権、敵将:田豫) 農民の仇討ちに出陣するも防がれ、夜襲も失敗して撤退。
(236年 張昭死去)

A「……いっそ清々しいまでの負け人生ですね」
Y「結局、"出ると負け皇帝"の不様さだけが明らかになったか」
F「ほとんど毎年のように戦闘は起こっているンだが、同じ場所での戦闘が重なっているのが目立つ。つまり、攻められれば守れるが、攻めても攻略できない。熱意が結果に結びつかなかったのが孫権の悲しいところでな。国内の叛乱・山越討伐にはある程度の結果を出せている(一覧では割愛)が、どうしても出ると負ける」
A「やっぱり、陸遜頼みの戦績なのかな……」
F「それもおおむね事実なんだが、それよりも注目すべきは、繰り返すが、呉が連年兵を挙げていることでな」
Y「三国の一隅たる自覚ができたのか?」
F「正直、判断しかねる。満寵伝にははっきり『当時孫権は、毎年魏へ侵攻する計画を抱いていた』とあるが、呉主伝には書いていない戦闘も目立つンだ。呉書では230年に『合肥新城ができた』とはあるが攻めたとはない」
Y「そもそも年次がずれてるしな」
F「阜陵・第一・第二新城戦はあるが、江北の敗戦はない。陸遜伝にも232年のことは書いていない。即位以降の一連の戦闘が、呉――孫権の"天下"――にとってどんな位置づけなのか、今ひとつ評価が難しいンだ」
Y「単純に、負けたおよび結果を出せなかった戦闘は呉の側の記録に残っておらず、ために、陳寿の記述も魏書と呉書とで違いが出た、というところじゃないかな」
F「やっぱりそーなるかなぁ。歴史家は史書にそーいう真似をしないと思いたいのが本音なんだけど……。ともかく孫権は、呉書を見るなら消極的に、魏書で云うなら積極的に、魏への侵攻を謀っていた」
Y「121回であーいうことを云っていたのは、孫権の側の意見を尊重してのことか」
F「本音としては、さっきも云ったがよく判らんのでな。……それはさておいて、張昭についてだが」
A「また何かやったの? あのおじいちゃん」
F「前回見たように、公孫淵に使者を出すのを制止している。ただし、張昭伝では公孫淵を、233年にようやく燕王に任じることになったような記述をされているけど、呉主伝では232年に爵位を与えたとある」
A「記述が混乱してるんだね」
F「どちらにせよ、制止を受け入れられなかった張昭は、病と称して自宅に引きこもった。――ここに、陳寿が悪ふざけで収録したとしか思えない、絶妙などつき漫才が開始される」
A「……笑えるの?」
F「僕は笑った。張昭が引きこもったのに腹を立てた孫権は、『お前なんかもう出てくるな!』とばかりに張昭宅の門に、外側から土を盛ってしまう。対して張昭は『こっちから願い下げじゃ!』とばかりに門の内側に土を盛って、中からも開けられなくしてしまった」
A「ガキのケンカか?」
F「それにしてはやりすぎだろうな」
Y「上級生の後頭部つかんで窓ガラスにブチ込み下に引いた奴の台詞じゃないな」
F「鼻づまりの心配がなくなっただろうが」
Y「なくなったのは心配じゃなくて鼻そのものなんだが」
A「そこから先のオハナシやめてください……」
F「いやいや、ここからが面白いンだ。結局だまされた孫権は、何度も詫びの使者を出すンだけど、張昭は頑として出てこない。たまりかねたようで、宮廷から外出したある日、ついに張昭宅の門前まで行って謝るのに、それでも張昭は引きこもったままだった」
A「意地になってますね……両方」
F「キレた(ていうか、キレていた)孫権は『出てこなければ門に火を放つぞ!』と脅かすのに、張昭は張昭で意固地になり、改めて門をふさぐ。マジで火が放たれ、それが消えても張昭が出てこないモンだから、諦めたのか孫権はその場に突っ立って立ち去ろうとしない」
Y「完全に、子供のケンカになったな」
F「まさか皇帝サマにそんな真似をさせておけんので、張昭の息子ども(今まで何をしていたのかは不明)は、渋るオヤジを抱えて連れ出してきた。孫権はおじいちゃんを回収すると自分の車に乗せて宮廷に持ち帰り、深く深く謝罪したという。かくて(というか、ようやっと)張昭は宮廷に参内するようになった」
A「この主従、何なんだ!?」
F「正史の注に記載されている、この一件に関するコメントを書き下して引用する」

 こんなことしでかした張昭は、もう臣下の道から完全に外れている。誤った道を遠くまで行かずに正道に復し、失敗がないように身を慎んで朝夕ひとの称賛を得ようと努力していた孫権は立派である。そんな孫権が、前非の数々を悔いて張昭を呼び戻そうとしたのに、自分の意見が容れられなかったからと恨みに思い、罪を主に着せて門を閉じ、焼き殺されるのを待つなど道義に反するではないか。

A「割と……というか、完全に孫権に友好的な台詞だな」
F「この主にしてこの家臣ありという事態の現れなんだが、234年の正月に"ひとの称賛を得ようと努力"する皇帝サマは『このところ軍事活動をつづけたせいで、民は兵役に苦しみ、田畑の実りも思わしくない。納税者への締めつけはゆるめ、取りたてもやんわりしよう』と仰せになられている」
A「……何が云いたい」
F「誰のせいで民が苦しんでるンだ、と張昭辺りがツッコまないのが不思議だなぁ」
A「どこまで孫権が嫌いなんだ、お前は!?」
F「嫌いなのは事実だが、実は嫌っているのは僕だけじゃない。公孫淵事件についての裴松之のコメントを、書き下して引用しよう」

 孫権は、人々の意見を聞かずに公孫淵を信じ、裏切られることを考えていなかった。九錫を送るのに兵一万を動員するなど、民への思いやりに欠けた暴虐の極みではないか。この一件は孫権が暗愚であったのみならず、実は無道の主であった証明である!

A「……ここまで云うかと思えるほどの非難ですね」
F「云われるだけのことをしでかしたンだから仕方ないだろう。裴松之が賈詡を嫌っているのは有名なオハナシだが、実は、孫権のことも嫌っていたようでな」
Y「割と感情論に走るから、どう思っているのかがはっきり文章に表れてるンだよな」
A「うーん……」
F「『私釈』では基本的に、孫権の悪事・失態・敗戦ばかりを見ているが、そうでないものももちろん、ある。その辺りのフォローは、いずれ改めてやることにしよう」
Y「あと3回なんだから、『私釈』ではやってる余裕はないだろうな」
A「思えば長々続いたねェ……」
F「――ところで」
A「今回、やけに引っ張るね!?」
F「233年に発生した、三国志史上最大のイベントがあるンだが、正直、今回やっていいものだろうかという気がしている。いちおう時系列なモンだから、今やらないと時期を逸するンだが」
A「三国志史上……最大のイベント?」
Y「……? なんかあったかな。目立ったイベントなんざ、この燕王騒動くらいだろうに」
F「何を抜けたことを云っている? コレがなかったら三国志はかたちを変えていたくらい、重要なイベントだぞ」
Y「拝聴しようか」
F「この年、陳寿が生まれた」
A「……なるほど、確かに重要ですね。正直どーでもいいけど」
Y「あぁ。コレがなかったら、三国志はいまのかたちでは残っていなかっただろうな。今やることじゃないが」
F「やるタイミングを完全に逸しているのは認めるが、触れないわけにはいかないからなぁ」
A「それでも、タイミングってあるだろうに……」
F「続きは次回の講釈で」

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