私釈三国志 74 孫軍始動
F「2回ほど素振りして手応えを測っていたけど、そろそろ本性出してもいいだろうか」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「いいか悪いかと聞かれたら答えはひとつだ。悪いに決まってるだろ」
F「う〜……。定期的に三国志分を補充しないと、三国志しくなってしまうのに〜……」
A「だから、どんな状態なんだ、それは!?」
Y「いっそならせてみるのも面白いかもしれんが」
A「手のつけようがない状況になったらどうするンだよ? 夜通し娘ちゃんを膝の上に乗せて三国志演義を暗証していたら、どっちをどうすればいいのか想像もつかんぞ」
Y「まとめて雪山に埋めるのが筋だと思うが」
F「はいはい、仲良く……」
2人『だから、原因お前だって!』
F「それはともかく、私釈始めよう。前に日テレで『ニッポン人が好きな偉人ベスト100』という番組があった。日テレのサイトでは、まだ第5回の投票をやってるみたいだが」
A「三国志関係あるのか?」
F「過去4回で、エントリーされた三国志関連人物は4人だけだ。……まぁ、三国志関係以外でエントリーされた中国人は5人だけで、しかも、三国志関連のひとりは卑弥呼だから、全体通じて8人しか中国人いなかったンだが」
A「人選があからさまに偏ってるな」
Y「何年か前にデアゴスティーニの『週刊100人』について『最初にエントリーされる中国人は孔明だ』と予言してしっかり当てたお前にしてみれば、順当なラインじゃないのか?」
F「日本人の孔明好きを鑑みれば、誰にでも判ると思うが。ともあれ、上述『ニッポン人が好きな偉人ベスト100』の第3回の天才編で、なぜか孔明が4位につけていた。しかも、寸劇つきで孔明について騙っていたンだが、お前らちゃんと三国志知ってるのかって台詞があったンだよ」
A「その心は?」
F「孫権が、大きな負け戦はしなかったと発言してたンだ」
2人『……?』
F「……あー、判った。列挙する」
呉(孫権軍)の主な戦役
時期不明 小沛の戦い(主将:孫権、敵将:陳登) 曹操の援軍が来ると聞き撤退しようとして、陳登の追撃によって被害を出す。
203年 第一次江夏攻略(主将:孫権、敵将:黄祖) 兵を多数討たれ、淩操をも失う。
208年春 第二次江夏攻略(主将:周瑜、敵将:黄祖) 黄祖を討った。
208年11月 第一次合肥侵攻(主将:孫権、敵将:劉馥) 劉馥を攻めきれず撤退。
208年11月 赤壁の戦い(主将:周瑜、敵将:曹操) ただし、劉備との共同軍で、主力は劉備軍。
208年12月 荊州南郡争奪戦(主将:周瑜、敵将:曹仁) 曹仁から南郡を奪取。
209年 この頃、曹操・夏侯淵らの侵攻を受ける。詳細不明。
212〜3年 第一次濡須口の戦い(主将:孫権、敵将:曹操) 西の陣地を破られ、公孫陽が捕虜となる。孫権から和睦を申し出て停戦。
214年 曹操の侵攻を受ける。魏書に曰く「功績ナシ」、途上で荀攸が死去している。
215年 第二次合肥侵攻(主将:孫権、敵将:張遼) 孫権の人生に残る大敗。これ以降、呉では「遼来来」と聞くと泣く子も黙る。
215年 荊南争奪戦(主将:魯粛、敵将:関羽) 呂蒙の活躍で荊南を奪取。
217年 第二次濡須口の戦い(主将:孫権、敵将:曹操) 曹操自らに攻撃され撤退(夏侯惇伝では216年のこと)。
219年 第三次合肥侵攻(主将:孫権、敵将:温恢) 温恢曰く「心配することじゃない」。各地の守備を抜けなかった模様。
A「……あれ?」
F「まとめれば判るだろう。孫権は、出れば負けるンだ。その代わり、配下の武将を出すとだいたい上手くいく」
Y「劉備の戦下手は有名だが、孫権もまるでダメな奴だったのか?」
F「比べるのも酷な話だが、父や兄、義兄(周瑜)に大きく見劣りしてるよなぁ」
A「しかも、曹操との直接対決に関しても、孫権から和睦を申し出たってことは、事実上の負け戦で……」
F「この辺の戦闘については、荊南争奪戦以外は演義でもしっかり書いてあるンだから、知らないってことはないはずなんだけど、どうして『孫権は出ると負け君主』という認識が一般にはないのだらう」
A「はっはっは。兄よ、それは至って単純な理由だ。誰も孫権に興味がないからさ」
F「非道ェこと云うンじゃありません」
Y「……というか、俺が云っていいコトじゃないが、魯粛が関羽と直接戦って勝ったみたいな書き方はやめろ」
F「あぁ、泰永は知らんのか。実は、演義に興味深い台詞があるンだ。45回だが」
――私が聞くところに江南では『魯粛は陸戦、周瑜は船戦』と云われているとか。確かにあなたは陸の戦では強いでしょうが、提督は船戦しかできませんからねぇ。
「吾聞江南小兒謠言云 伏路把關饒子敬 臨江水戰有周カ 公等於陸地但能伏路把關 周公瑾但堪水戰 不能陸戰耳」
Y「……えーっと、つまり、アレか。もし"陸戦"と"船戦"という能力値があって、周瑜の"船戦"が100なら、魯粛の"陸戦"も100でなきゃならんと、そういうコトか?」
F「恐ろしい話だよなぁ」
A「身の毛もよだつよ! だから、魯粛がそこまで強いとか考えてるのはお前くらいだ、世界中探しても!」
F「いや、僕じゃなくて孔明の台詞で……正確には羅貫中なんだけど」
Y「だから演義はダメなんだ」
A「……否定したくない」
F「だんだん判ってきたな、アキラも。さて、その荊南争奪戦について、ちょっと再確認しておく。劉備と孫権の間に入った亀裂の原因が荊州の領有権で、それを埋めようと必死だったのが魯粛、深くしようと尽力していたのが周瑜と呂蒙だ。……ただし、この戦闘に関しては、完全に孫権の側に非があった」
A「その心は?」
F「そもそも赤壁の戦闘からして、劉備は孫権の協力こそ受けたものの、劉備軍が主力となって曹操軍を撃退した。それなら孫権に主君ヅラされる謂われはないのに、孫権は、あたかも劉備が自分の家臣であると思い込んで、荊州を貸しただの返せだのと云い募ったわけだから。劉備が直接荊州に乗り込んだのも無理はないぞ」
A「いや、でも……赤壁で劉備が主力になった、ってのもお前と正史しか認めてないだろ?」
F「ナニがどう不満なんだ? それの」
A「いや、劉備びいきなアキラとしては、反論するところは何もありませんがね? はて……?」
F「さらに云おう。そもそも南荊州の四郡は、正史では劉備の威光に降伏し、演義では劉備軍の侵攻を受けて、ある者は降り、ある者は戦って死んでいる。無論、劉備の側にも(多くはないだろうが)被害は出ているはずだ。劉備が将兵の命を賭けて奪取した南荊州に関しては、孫権が領有権を主張できる謂われはどこにもない」
Y「確かに……。孫権が荊州全ての領有権を主張するなら、皇族の劉備が『漢の領土は全てオレのモンだ!』と主張して、揚州の割譲を迫っても通ることになるか」
A「むちゃくちゃだぁ……」
F「その無茶をやったのが孫権だ。荊州――というか劉備に関しては、魯粛が役に立たないと見るや、対西強硬派の呂蒙に兵を与えて南荊州に攻め込ませたンだから。劉備が自ら出張った気持ちと理屈が、僕でも判るぞ」
Y「あの時劉備が自分で出たのは、実は大きなイベントだったのか?」
F「そゆこと。僕が劉備の立場にあったなら、そこで和睦はしなかったぞ。法正に一軍をつけて漢中に送り、張魯の援護をさせて曹操との戦闘を長引かせ、その間に揚州まで攻略した」
Y「孫権との戦闘はともかく、漢中に誰を送る? その時点ではまだ、益州の武将は心酔してないだろ?」
F「馬超」
A「追い返されるよ! 人選としてはこれ以上はないくらい適役だけど!」
Y「……どっちなんだよ」
F「ともあれ、孫権は荊南を武力制圧……ぶっちゃけ侵略し、これを支配下に置いた。その後、魯粛が死んで、孫権は荊州への欲望を強めることになる」
A「……そう聞くと、どうにも魯粛が惜しく聞こえるンだよなぁ」
F「孫権がそんな真似をしていたモンだから、劉備も孫権を警戒して、荊州にある程度の防衛線を構築していた。事実上の大将軍たる関羽を配して、孫権(と、曹操)への守りに当てていたンだけど、さすがに呂布亡き後の三国世界最強の武神が相手では、孫権でもうかつに手を出せない」
Y「ある種の膠着状態だな」
F「だが、その均衡は破られる。ついに孫権の魔の手が、荊州、そして関羽へと伸びてきた。果たして荊州の命運は」
A「毎度のお時間なわけか」
F「続きは次回の講釈で」
Y「……調子が出てきたのがむしろ怖い」