私釈三国志 126 張昭諌止
A「諌止……? 諌死じゃなくて?」
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F「死んじゃいないからな。張昭がお亡くなるのは236年だ」
A「……ホントに長生きだな、あの爺さん」
F「相方(張紘)より20年以上生きたンだモンなぁ。ともあれ、第四次北伐での撤退から第五次北伐まで、蜀は軍事活動を控えている」
Y「蓄えが底をついたか」
F「実はその通り。軍事活動というのは基本的に消費活動だ。戦争で直接生産されるのは死者と遺族だけで、一時的な戦利品や長期的な領土ではすぐに儲けを出せるというモンではない」
A「表現の過激さはともかく、経済活動にはならないのは事実だねェ」
F「というわけで、231年から234年まで、孔明は兵士を休息させつつ農耕をおこない、米を運んでは食糧庫を整備し、一方で教練・演習を重ねている。孔明が理想とした政治家の管仲は『三年少しで一年分の(兵が養える)備蓄を得られる』と書いているので、孔明が3年待ったということは、次の北伐では1年以内にある程度の結果を出すハラだった、というのが逆算できる」
Y「性懲りもない奴」
A「性懲り、云うな!」
F「かくて、孔明が五度めの……そして、人生最後の北伐への準備を整えている間、呉で動きがあった」
A「孫権か」
F「というか、蜀を除いたところで動きがあった、というべきかもしれない。曹休の死後、魏の揚州方面軍を率いることになったのが満寵だけど、230年に孫権自らの侵攻を退けている」
A「文官じゃなかったか?」
F「どちらかと云えば智将だ。この間本人から聞いたときは本気で震えあがったが、陶双央のモデル」
Y「ぶっ!?」
A「逃げて! 孫権逃げて! にーげーてー!」
F「いや、1700年以上前だから。孫権が合肥に侵攻すると喧伝したのを聞いて、満寵は北方の州からも兵を集めた。ところが、孫権が兵を退いたとの報が入り、集めた兵を解散させるように命令が下ったのね」
A「戦わずに退いた……ワケではなさそうだな」
F「もちろん違う。退却して見せ魏軍が兵を戻したところに攻め入ろうという策だったンだけど、満寵はそんな策には乗らず、ことが落ちつくまで兵は返せないと曹叡に奏上している。十日あまりして実際に孫権が兵を出したものの、そんな防御態勢があっては合肥を抜けるはずもなかった。撤退している」
A「即位後の初陣は負け戦か」
F「その翌年、孫布という呉将が魏に使者を送って降伏を申し出てきた。道が遠いので迎えに来てください、と云われた揚州刺史王淩は、受け入れる気マンマンだったンだけど……お前らは記憶力あるね?」
Y「そりゃな」
A「どうして、同じ策略が通用すると思うのかね……」
F「話を聞いた満寵は『慎重に動くのがいいぞ』と忠告する一方で、部下には『王淩が迎えに行くといっても兵は貸すな』と命じている。実は、満寵は王淩と仲が悪かったモンだから、王淩はすねて『アイツは俺に嫌がらせをしてやがる……』と、自分の部下に700の兵をつけて孫布のところに行かせた。で、その半数以上を失う被害を出している」
Y「通用したのがむしろ間抜けだな」
A「どこのアホだよ、王淩って?」
F「石亭で包囲された曹休軍中にあって、呉軍の囲みを破って退路を確保するのに奮戦した武将だ。何で現場でだまされた奴が、もう一度同じ策でだまされたのか、まるで判らん」
A「うーん……」
F「そのまた翌年。今度は、ついに陸遜が動いたのと報が入る。幕僚はただちに兵を出すべきと主張したものの、満寵は『奴らはわざと隙を見せて、我らを誘いだそうとしている。今は動かしておけばいい』と、大軍を整えて攻撃準備をしてみせた。これじゃダメだと思ったようで、呉軍はとっとと退散している」
A「さすがに引き際は見事だね」
F「さらにまた翌年。満寵は曹叡に『今の合肥城は長江には近く寿春には遠いので、迎撃を考えるにはいささか不便です。少し内陸に、新たに城を建築したいと思います』と上奏。それを聞いた蒋済は『そんなことをしたら天下と孫権にナメられますよ!』と抗弁している」
A「呉への防衛ラインを水辺から内陸に下げるのは悪くないと思うンだけどなぁ」
F「聞かれる前に応えるなら、蒋済というのは『蒼天航路』で温恢とともに、合肥太守・劉馥の遺徳を偲んでいた文官だ」
A「……なるほど、そんな奴なら合肥城を移転するのには反対するわな」
Y「資料としての正しさより、納得しやすさを優先した説明だな」
F「正史でも曹操から『揚州の温恢は軍事に通じる』『揚州の重大さは朝廷とも比べられん。温恢・蒋済でなくては』と評された切れ者だが、このときは感情論で発言したのかもしれん。しかし、満寵が重ねて上奏したモンだから、最終的に曹叡は移転を許可している」
Y「軍事的にはそれが妥当だからな」
F「そんなこんなで新たに築かれた合肥新城に、孫権自ら率いる軍勢が攻め入った。……のだが、新城は水路から遠かったモンだから、呉軍は船から降りようとしない。このまま退くとの見方もあったが、満寵は『出てきたからには兵威を示そうと、必ず上陸してくるはず』と、こっそり六千からの兵を伏せた」
Y「で、実際に孫権は船を降りて新城に向かった」
F「襲いかかった伏兵は当たるを幸いに斬り散らし、数百の首級を挙げ、川へと追い落した。やはりというか当然というか"出ると負け君主"改め"出ると負け皇帝"の敗戦記録は更新された次第だ」
A「ダメじゃん」
Y「王淩戦はどうなんだ? アレは珍しく勝っただろう」
F「うーん。満寵伝では被害が出た旨書かれているけど、呉主伝では『感づいた王淩は攻撃される前に逃げた』とあり、王淩伝に至っては記述がない。孫布はこの一件にしか出てこないし伝もないから、何者か判らんし」
A「王淩と仲が悪いなら、満寵が『アイツはこんなヘマをしましたぜ』と多めの被害を報告することは予想できるね」
F「まぁ、孫権が直接勝ったわけではない、としておこう」
Y「悪意はあるのは明らかだが、異論は難しいところだな」
F「ありがとう。さて、孫権に野心があったのを否定する者はいないと思う。呉をまっとうしようという大望は誰より強い。そんな孫権の(数多い)失策の中でも最悪のものが、燕との交流だった。加来氏曰く"四国志"の一翼を担う公孫淵が、呉の藩国になりたいと使者をよこしてきたのを信じたのね」
A「淵?」
F「えーっと、徐栄の推挙で遼東に割拠した、公孫度が死んだのは204年。息子の公孫康が後を継いだ。コイツが袁尚らを斬って袁家を滅ぼし、曹操に通じたのは207年。いつ死んだのか正確な年次は記述されていないが、公孫康の子が幼かったので弟の公孫恭が後を継いでいる。その座を魏(曹丕)が承認したのは221年のことなので、東夷伝に建安年間(〜220年)は康が生きていたような記述があるのは、意外と正しいのかもしれない」
Y「コーエーものだと210年くらいに死んでるンだがな」
A「いち時期年表が混乱してたのはヤスが原因ですか」
F「ところが、その公孫恭がまずかった。政治的に無能なくせに欲ボケていて、袁尚らを殺すよう進言したのもこいつだったとの説がある。兄の子たちが幼いのをいいことに遼東の太守に収まったが、チ×ポの病気でイ×ポになって、結局成長した公孫淵(康二男)に太守の座を奪い返されている。228年のことだったが、曹叡にも地位を認められ、中国東北部に祖父からの地盤を確たるものとした」
A「けっこう激動だったンだね」
F「そんな公孫淵は、呉と誼を結ぼうと使者と贈り物をやり取りしていて、孫権も、帝位についた翌月には遼東に使者を出している。例の天下二分案で幽州が呉領になるのはこの辺りが影響したンだろうな」
A「それくらい、呉は北方を重視していたってことか」
F「232年の10月には、公孫淵に幽州都督・青州牧・燕王の地位を送っているくらいだ。ところが、公孫淵の側ではそれほど呉をあてにしていなかった。純粋な距離と、先に送っていた使者が呉の懐具合を確認し、儲けにならないと判断したようでな。叔父に似て欲深いところがあったようだ」
A「……何で孫権は警戒しなかったのかな?」
F「公孫淵が魏に送った、呉との関係を釈明する書状を信じるなら、孫権は公孫康の時代に使者を送ったことがあるンだが、この使者が斬られている。その後も孫権は何度か使者を出していたのに返事を出していなかった。ところが、公孫淵の代では方針変更があって、返事をするようになっている」
Y「父や叔父とは違います、アナタと仲良くやっていきたい……と申し出た、というところか」
A「下手に出られて調子に乗ったのかな」
F「乗りも乗ったらしい。使者に財宝・珍品どころか九錫まで持たせ、1万の兵までつけて燕に送ると云いだしている」
A「気前がいいと云えば云えるけど、コレはさすがにやりすぎじゃないかな」
F「劉邦は韓信に『北国全てくれてやる』と云っているぞ」
A「性格的な共通項は求めなくていいから……」
F「もちろん、これには群臣こぞって反対している。丞相の顧雍らは『公孫淵が信用できるかまだ判らないのに目をかけられすぎです』『役人と少人数の兵を派遣するだけで充分ではありませんか』と主張。ただし、陸遜・瑾兄ちゃんなど外部に出ている重臣には、この時点で反対した形跡がない」
Y「というか、個別の伝ではっきり反対した記述があるのは張昭だけだ。顧雍伝にさえないぞ」
A「さすがにあのおじいちゃんは反対したンだ?」
F「うむ。宮中に乗り込んで『公孫淵は魏の討伐を恐れているだけで、本心から我が呉に仕えるつもりはありませんぞ! 連中が魏に帰順したら天下のもの笑いです!』といさめている。しばらく口論していた孫権はついにキレて剣を抜き『ひと前で俺をやりこめるその態度が、いつか呉を割るのではないかと心配だ!』と怒鳴りつけた」
A「……態度を改めないとブっ殺すって云ってるね」
F「呉の人臣は宮廷では孫権に拝するのに、宮廷を出れば張昭を拝する……とも孫権は云っている。孫権が張昭に最大級の礼儀を払っていたせいでそんなことになったのに、張昭の態度がストリップで軍中視察させられた頃から何も変わっちゃいないモンだから、たまりにたまっていたものがブチ切れたンだろう」
Y「だから、服は着せろよ……」
F「それは僕じゃなくて張昭か陳寿に云うべきだ。この老臣が孫権の粛清リストのトップに挙がっていながら手を下されなかったのには、第一に本人が有能であったこと、第二に張昭が進んで孫権に仕えたことで、孫策の後継者と認められたこと。ただし、そんな功労者なら他にもいるが、第零に共犯者の疑いがあるということも重ねておく」
Y「いや、だから、孫権の粛清癖はさておいてくれ。反論する気はないが考慮する気はもっとない」
F「孫策は臨終の席で、張昭に『孫権に呉を治める才がなかったら、あなたが政権を執ってくれ』と云っている。2年後に母親も死んでいるが、やはり張昭に後事を託している。怒れる皇帝から剣を向けられた張昭は、涙ながらに応えた」
――老臣が、陛下がお聞きくださらないことを承知で常々意見いたしますのは、亡き孫策様や太后様がご逝去に臨んで老臣を呼ばれ、陛下を頼むと仰せられたお言葉があればこそでございますぞ!
F「孫権は剣を投げ出すと階を降り、張昭と向かいあって泣いている」
A「……この主従、何なんだ?」
F「かなり仲は悪い。互いに性格を知り尽くしているせいで、どーしても相容れないものがあるンだが、互いの能力は誰よりも認めあっている。おおよそ孫権をいちばん高く評価していたのが張昭で、だからこそ諫言を繰り返していた」
A「第三、かな」
Y「その割には、丞相には任じなかったぞ」
F「それも『アイツは仕事が忙しいから』という無茶苦茶にもほどがある理由でな。張昭が赤壁戦に先立って降伏を勧めたことを、孫権は酒の席で笑って『あの時張昭に従っていたら、俺は物乞いになっていただろう』とからかっているように、孫権の側に張昭へ含むものがあったのは事実だ」
Y「悪意がありありと見えるからな」
F「だが泰永、あの時の張昭の意見を、お前ならどう思う」
Y「ん? 正論だったと思うぞ。あのとき孫権が降っていれば、曹操の手による天下統一が事実上なされていた。呉が勢力圏に加われば、残る馬超・劉璋・公孫康・士燮などものの数ではない」
A「劉備は!?」
F「アキラは黙っていなさい。天下一統という観点で見るなら、張昭の意見は正しかったというオハナシなんだから」
Y「……むぅ」
F「注目すべきは、張昭が(周瑜はともかく)魯粛を疎んじていた点だ。天下二分などという謀略で戦乱を長引かせようとしていたのだから、面白くないのは当然だろう。その意味では、演義での話になるが、孔明が乗り込んできた時真っ先に抗弁したのが張昭だったのも判る」
A「まぁ、張昭より早く発言するのは、孫権にもできなさそうだからねェ……」
F「58回で云ったことを繰り返すが、孫権が降っていれば、曹操は手厚く遇したはずだ。さっき泰永は無視したようだが、曹操に降った群雄に張魯がいる。彼は手厚く遇されたのみならず、娘が曹操の息子に嫁していて、この娘の産んだ子が魏の五代皇帝となる……というのは先のオハナシ。そして、曹操と孫権が姻族関係にあったり、直接孫権を宮廷で世話していたのはつい最近にも見たオハナシだな」
A「……降伏しても、孫権の地位は維持できたンじゃないか?」
F「だから、60回前からそう云ってるじゃないか」
Y「ふむう……」
F「どうしても天下がほしかった魯粛と、呉と孫権を守れればそれでよかった張昭との違いが、ここに現れるワケだ。だからこそ曹操は『曹公のために孫権に与うる書を作る』で『魯粛に乗せられて……』と云っている」
A「……張昭への悪意は、孫権の政戦両略における方向性と一致しなかったのが原因か」
F「加えて、孫策と孫権の違いが、張昭への態度の違いに行きつくと思う。つまり、外に走っていくタイプならこれほど頼れるお留守番はいないけど、中にこもるタイプだとどうしてもわずらわしく感じてしまうンだ」
Y「そこは反論するところじゃなさそうだ」
F「それでいて、蜀の使者が蜀の素晴らしさを呉の宮中で吹聴し、でも呉の臣下が誰も反駁できなかったときには『張昭がこの場にいれば、あんな奴にでかい顔をさせずに済んだのに……!』と嘆いている」
Y「いれば何とかなるのか?」
F「前に見ただろうが。でかい面した魏の使者に『呉の剣の切れ味を試してみるか?』と迫ったのは」
A「手元にいるとわずらわしいけど、いざというときいないと困る……みたいな?」
F「まかり間違って人手に渡ったら眼もあてられん。政治面での呂布だな。さらっとしか云ってなかったけど、陶謙さんは孫策を嫌っていた。コレは、かつて推挙しても拒まれ、牢獄にブチ込んででも仕官させようとして失敗した張昭を、孫策があっさり登用したのが原因の逆恨みじゃないかと、僕は考えている」
A「うわー……そんなところでもそんなイベントが」
F「かくて張昭が認めたのだから、孫権も相応の君主だったと考え……たい、ところなんだけどなぁ」
Y「何をしでかした」
F「233年2月、泣いておきながら使者(+財宝・九錫・兵一万)を遼東に出した。……えーっと、まずいな」
A「なに?」
F「えーっと……」(ちょいちょい、ちょい)
Y「エアそろばんはやめろ!」
F「耳元で叫ぶな! ……ところで、129回では土井晩翠についてホントにやっていいか?」
Y「アレと違ってこっちの声が届くのはいいが、何を云いだした?」
A「容量オーバーを起こしたと見える。星落ち何とかをやらないという選択肢が出てきたようじゃね」
F「やむを得んな。三曹をはじめとする当時の詩歌については触れないことにしよう。『土井晩翠』をカットし、128回までを一回ずつ繰り下げる。次回『私釈三国志』第127回……えーっと『東方奮起』。というわけで、123回ラストで云った本音は『5回以内』『6回先』に延長して読んでください」
Y「……おいアキラ、お前のせいで割と重要な回がカットされた気がするぞ」
A「無計画さと容量制限のせいじゃろ!?」
F「続きは次回の講釈で」