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私釈三国志 128 武侯陣没

F「さて、孔明が……
A「いい加減にしなさい! タイトルがタイトルだからっていきなりはっちゃけない!」
Y「今回の講釈する前に、割と重要な話をしたいンだが、いいか」
A「孔明より重要な話が三国志にありますか!」
Y「台詞そのものはあながち否定はしないが……このところ魏がないがしろにされてるのは何でだ?」
F「第四次北伐終戦から第五次北伐までに、魏で何かイベントがあったか?」
Y「……いや、すぐには思いつかんな」
F「強いて挙げるなら曹植の死(232年)と鮮卑の兵乱(233年)くらいだが、大規模に取り上げるのはもうやっているンだ。魏では取り上げるべきネタがなかったので、しばらくほったらかしになっている状態」
Y「むぅ……このタイミングで異民族についてまた講釈されるのも、残り回数的にまずいか」
F「魏についてのフォローもいずれはまとめる。今は、孔明を殺すことに専念しませんとねっ!」
Y「その表現ならば俺も協力は惜しまんな!」
A「この野郎」
F「さて。さすがに4年少しで5度の戦役と一度の侵攻があると、蜀の国内にも厭戦ムードが漂ったようで、第四次北伐終戦の231年から3年間、孔明はなりを潜めている」
A「その間に軍備・訓練を整えていたンだったね」
F「作物を植えずに耕作地の地力を回復させる、休耕田みたいなものだな。毎年戦争していれば、当然国力は衰退していく。そこで、3年の休息期間をもって軍事力育成に充てた。ただし……というのを2回前に見ている」
A「期間からして1年以内に決着をつけるハラだった、と」
F「軍の食糧確保という観点から考えるなら、このとき孔明が行ったことには筋が通っている。まず、農耕をもって食糧を生産する。次に、輸送用の木牛流馬を開発……正確には、木牛と流馬はそれぞれ別モノで、第四次北伐で用いられたのは木牛の方。流馬については第五次に『はじめて流馬で輸送した』とある」
Y「…………………………」
A「…………………………」
F「ちっ……慣れた連中だ。ちくま学芸文庫版正史ではカットされた流馬製造工程の原文まで用意したのを察していやがった」
A「判らいでか!」
F「まぁいい。で、軽視されがちなンだが、益州から漢中に食糧を運ぶのも、実はひと苦労だったりする。秦嶺山脈をこえるのも手間だが、成都−漢中間のルートにも険阻で有名な剣閣などの難所が多く、実は、これをして李厳が輸送できなかった実利的な理由に挙げるひともいる」
Y「純粋な輸送失敗かよ」
A「でも、劉備の漢中攻略戦では、孔明はきちんと食糧を手配したンだろ?」
F「お前、孔明と李厳の政治手腕を比べるのか?」
A「……ちょっとまずいか」
F「かなりだ。ともかく、苦労して集めた食糧は斜谷口……かつて第一次北伐で趙雲が別動隊として動いた、長安への道のひとつ・斜谷道の入り口に、食糧庫を建築して集積された」
Y「そこから攻めると喧伝しているようなモンだな」
F「そゆこと。かくて234年、蜀軍は斜谷道を北上し、秦嶺山脈の北嶺・五丈原へはほどなく到着している」
A「魏の動きは?」
F「孔明出陣との報に、迎撃に出た仲達はそのコースに着目している。蜀軍が渭水(川)を東に向かい、秦嶺北嶺から長安に向かえば、魏軍にとっては厄介なことになるが、西へ向かい五丈原に出るなら何の心配もない、と豪語」
A「長安が手薄になってたの?」
F「地勢の問題だ。武功(地名)から東の広大な関中平野で10万と自称する軍勢(蜀の人口からして、実数は多くても5万)に暴れられたら、迎撃するのもひと苦労だろう。五丈原に出るなら持久戦を用いてくるだろうから、どうせまた食糧が尽きて引き揚げるさ、と楽観視できるンだ」
A「……楽観しすぎという気もしなくもない」
F「また、従軍した武将たちは『渭水の北岸に陣取って蜀軍を迎撃しよう』という策を献じている。蜀軍は出てきたら向かってくるだろうから、その際に渡河の手間をかけさせ、そこを狙って攻撃しようというプランだね」
A「川は半ば渡らせてから叩く、だっけ」
F「地形を利用した戦法の基本だが、仲達はそれを蹴っている。渭水の南岸に食糧庫があるンだから、それを守らなければ蜀軍に奪われてしまうではないか、と。云っていることは仲達のが正論になるが、何でこのとき、百戦錬磨の智将・郭淮を含む諸将がそれに気づかなかったンだろう」
A「ヌケてるな、魏軍」
F「仲達はさらに、郭淮に兵を与えて、長安から隴右へ向かう街道を西進させた。また隴右が蜀に寝返ってはたまったモンではない、と考えたンだろう。西域の住民や異民族への配慮だが、同時に、蜀軍が魏の本陣へ攻撃をしかけたらその横腹に攻撃する役目も負っていたとみていい」
A「渭水の南岸に陣取ったから、仲達は五丈原の東側、郭淮が渭水を挟んで北にいる……か」
F「対する蜀軍は、五丈原に布陣すると堅固な防御態勢を敷いた。その上で屯田を行い、自給自足体制を確立しようとしている。やや西にずれているが、ここも関中平野と呼べば呼べる。農耕ができない土地ではなかったらしい」
A「"原"と呼ばれていても、草原じゃなかったンだよね」
F「やや小高い台地だな。ただ、いつぞや触れた諸葛菜ことハナダイコンは、作物の実りが少ない土地でも生えるから重宝されたものだ。それを考えると、やはり関中平野でも東と西(の果て)では、土地の肥沃さが違うンだろう。その意味では、非常時に備えて魏が食糧庫を作っていたのもうなずける」
Y「何で郭淮たちが忘れていたのかは、ますます判らなくなったがな」
F「ただし、孔明はそんな状況であっても、兵士たちには現地住民への略奪・暴行を禁止し、それを徹底していた。ために、民衆も安心した……と正史にある」
A「とーぜん♪」
Y「……ふん」
F「孔明が長期戦覚悟で来たのはともかく、迎える魏軍もすでに5度め。蜀軍の欠点も判っていた。曹叡は仲達に『ひたすら砦をかためて防御に徹し、食糧が尽きて蜀軍が退却するのを待つように』と命じている。屯田していたとはいえ最初から戦いに来たわけだから、ある程度の小競り合いもあったはずだ。が、仲達は陣をかためて動かなかった」
A「野郎の得意技が出たぜ……」
F「長安に向かうには、何としても仲達の堅陣を突破する必要がある。ために、孔明は挑発を繰り返して、何とか魏軍を陣からおびき出そうとするンだけど、これが一向に結果を出せない。ついに、仲達のところに女ものの衣装と髪飾りを『出てくる度胸がないなら受け取ってくださいね♪』という手紙とともに送りつけた」
A「『夢想』の呉ルートで、周瑜にやったアレだな。逆効果だったけど」
F「いちおう正史にも見られるエピソードなんだけど、演義だと効果があるとは思えないンだよなぁ。仲達、前に『孔明が来なかったら女装します!』と自分から云ったンだから」
Y「……云われてみればあったな、そんな変態エピソード」
F「というわけで、コレももちろん効果はない。さすがにマジで着込むことはしなかったと思いたいけど、使者には『ありがたく頂戴するとお伝えください』くらいのことは云ったかもしれないな」
A「どこまで穴熊決め込むつもりなのかね、コイツは……」
F「演義ではさらに巧妙な細工が施されている。出陣したはいいが例によって孔明の罠に敗れた仲達は、大慌てで夜道を逃げる。が、分かれ道で冠を捨ててもう一方の道を逃げたところ、追っかけていた"当先鋒"廖化はあっさりだまされ、冠のある道を行ってしまい取り逃がした」
A「孔明さんが『関羽が生きていればなぁ……』と述懐したアレか」
F「張飛はともかく趙雲の名を挙げなかったのはどうなんだろう。ともあれ、廖化が拾ってきた冠を魏陣の前までブラ下げて挑発するンだけど、やはり一向に出てこない……という演出がなされている」
Y「そんなモン出されても、出るに出られんだろうさ」
F「ところが、仲達はともかく、配下の武将たちはそーも心安らかではいられない。いくら皇帝から『守りをかためて撤退を待て』と云われているとはいえ、これでは臆病にもほどがある! と仲達を突き上げた」
A「何回か前に見た光景だな」
F「さすがにそのときの記憶があるのか、仲達は『よし、諸君らがそこまで云うなら、ワシも男だ。出陣しよう。ただ、御意に背くことになるのだから、いちど陛下に許可をとらせてくれ』と、曹叡に攻撃を許可するよう上奏する」
A「……あるのか?」
F「あるンだろう。やはり曹叡は、軍事的には非凡だった。攻撃は仲達の真意ではないと見抜き、90回ぶりの登場だけど相変わらずIEでは字の出ない辛毗(シンピ)にマサカリ持たせて送りつけ『ぜぇ〜ったいに出陣しちゃダメです!』と云わせている。攻める意思はあるけど陛下の御意では仕方ないなぁ……というパフォーマンスだな」
A「割と優秀な君主サマで羨ましいことです……」
F「当時、その君主サマは合肥に向かっている真っ最中だった。前回見た『234年 第二次合肥新城攻略』への援軍としてなんだが、これに際して孫権は、孔明の出陣を見届けてから出陣している。10万と号する軍勢を率いて合肥新城へ自ら兵を進め、一方で陸遜は荊州に、張昭の息子らは徐州に、計三軍を出した」
A「? 呼応して、じゃないのか?」
F「どうも違うらしい。呉主伝によると、孫権は『孔明が兵を出しているなら、こちらは手薄になっているはず……』と火事場泥棒みたいな考えで兵を出したとある」
Y「いちおう朱然伝には『蜀と日にちを示しあわせた』とあるが、肝心の呉主伝がそうなっていては信用もできんか」
F「何しろ、実際に、孔明が動いていない間も何度も何度も兵を出し(て、失敗し)ているのは見てきた通りだ。今回に限って共同作戦を行ったとは到底思えん。だいたい、漢中の孔明と建業の孫権の間で、緻密な共同作戦の計画を練るなど、無理ではなくて、距離的に不可能だ」
A「緻密……でないのなら、できない?」
F「書いてある通り、使者をやり取りして攻撃の日付を確認するくらいはできるだろうけど、孫権の人格からして日付・謀議は無視し、蜀が攻め込んだことで魏の意識と軍備がそっちに向いてから動いた、というのがたぶん真相に近いだろう」
A「……そして、またしても失敗した」
F「孫権が老いぼれたのがいつ頃からなのか正史に記述は(もちろん)ないが、どーにもこの時期の孫権は精彩を欠いている。そんな考えで動くというのは、20年前に、曹操が漢中攻略のため援軍を送れない状態だったのに、張遼にコテンパンに叩きのめされたのを忘れていたとしか思えないンだから。アレ以後、呉では『遼来々』と聞くと泣く子も黙るとさえ云われた大敗を、だぞ」
A「シチュエーション、ほぼ一緒か」
F「というわけで、経過も結果もほぼ一緒になった。当初満寵は、呉帝孫権自ら率いる10万からの軍勢と聞いて合肥新城の放棄と寿春への撤退を曹叡に上奏している。張遼らでも10倍を数える呉軍の侵攻に交戦を躊躇ったのは、63回で見た通り」
Y「ところが、曹叡はそれを許さなかった」
F「防衛線を崩すことは許さん! と突っぱねる一方で、自分で兵を率いて救援するからそれまで持ちこたえろと通達したのね。呉の皇帝自ら出てきたなら、魏の皇帝が相手をするのも無理からぬオハナシだった。そうまで云われては、智将満寵が奮い立たないはずがない」
A「眠れる虎を起こすなよ……」
F「かくて呉軍は、満寵に焼かれて孫泰を失い、しかも前回とは違って曹叡率いる援軍まで急行してくる。それでいて曹叡は、仲達のところに『絶対に西も守り抜け!』と兵を増派しているくらいだ」
Y「軍事的には非凡だからな、曹叡は」
A「政戦両略において無能な君主を抱える蜀としては、羨ましい限りです……」
F「かくて7月、功ならずとも万骨は枯る。ついに孫権は陸遜らにも撤退を指示。呉軍による攻撃は全面撤退で幕を下ろし、東西からの攻撃は失敗に終わる。このとき燕が動いていれば魏もおおいに苦戦したはず……と加来氏は分析しているが、公孫淵は動かずじまいだった」
A「無理もないな」
F「そんな呉の敗報が届いたのだろう。対陣すること百日余りが過ぎた8月23日、孔明は息を引き取った」
A「こらー!」
F「孔明が五丈原で何をしようとしていたのかは、だいたい予想できる。魏軍が討って出たなら野戦で一気にこれを叩き潰し、長安へと攻め上る。討って出ないようなら挑発を繰り返して誘い出し、それでも出てこないなら五丈原に屯田施設を整え、来たるべき全面攻勢の際の拠点とする。長引いても一年あれば、五丈原に蜀軍の一大拠点を構築するのは難しくなかったはずだ」
Y「だが、長く持たなかったのは、孔明自身だった」
F「演義では……は次回見るが、正史の注には、このときの孔明に関して『孔明は食糧が尽きるわ戦況も行き詰まるわで、憂いと怒りにより血を吐いた。自ら陣を焼き払って遁走したが、斜谷道に入ったところで死んだ』ともある。まるでノイローゼになったとでも云わんばかりの記述なので、これはたぶん無視していい」
A「だったら出すな!」
F「しかし、晋書宣帝紀(仲達伝)に曰く」

 ――長星、亮の塁に墜つ

F「仲達は、孔明の死を予見した……という記述だ。ために、晋代には『天威を畏れ、戦う前に倒れ死ぬ』という戯れ歌も流行った。そのためでもなかろうが、仲達は結局、蜀軍が撤退するまで手を出さなかったようでな」
Y「放っておいても死ぬンだから、と考えたワケだな」
A「そんな読みが当たるから嫌だね……」
F「演義では、先の女ものの衣装を持ってきた使者にだが、仲達は世間話をしている。その中で、孔明の様子を尋ねると、使者はこんな具合に応えた」

 丞相は公務多忙で、朝は早くから起床され、夜遅くまで政務を執られております。ムチ打ち二十以上の刑罰には御自身で立ち会われて執行されます。お食事ですか? そうですね、食べられても一日二合か三合でしょう。

F「むしろ自慢そうに使者が応えているのが記載されているが、これを聞いた仲達は(使者が帰ってから)『孔明は長いことはない、いつか倒れるぞ』と話している。改めて云うまでもないだろうが、孔明の死因は過労死だ」
A「……救われねェ」
F「かくて孔明は死んだ。234年8月23日のことだったという、享年54。この死によって蜀軍が迎えた悲劇は次回見るが、ところで……」
A「だからー!?」
F「129回で出す予定だったンだが、いまやろう。土井晩翠は、孔明の生涯を讃える長歌を詠んでいる」


 祁山悲秋の風更けて
 陣雲暗し五丈原
 零露の文繁くして
 草枯れ馬は肥ゆれども
 蜀軍の旗光無く
 鼓角の音も今しづか
 丞相 病篤かりき

 高き尊きたぐいなき
 「悲運」を君よ天に謝せ
 青史の照らし見るところ
 管仲楽毅たそや彼
 伊呂の伯仲眺むれば
 「萬古の霄の一羽毛」
 千仭翔る鳳の影
 草廬にありて龍と臥し
 四海に出でて龍と飛ぶ
 千載の末今も尚
 名はかんばしき 諸葛亮

(土井晩翠「星落秋風五丈原」より、第一節および最終節 なお、原文は旧字・旧かなづかいだが引用時に修正)


A「……惜しいひとを亡くしました」
F「続きは次回の講釈で」

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