当山縁起  清正公母堂
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当山縁起
 
 
            
          清正公母堂廟所              本堂
古い写真


当山は1600年に逝去された加藤清正公の御母堂、聖林院殿天
室日光大尊尼の菩提を弔う為、1602年(慶長7年)の三回忌に加
藤清正公が建立。開山は、本妙寺と同じ発星院日真上人です。

         宗   旨
           名称  日蓮宗 
  宗祖  日蓮大聖人
  開宗  建長5年4月28日(1253年)
  本尊  久遠の本師釈迦牟尼佛
  題目  南無妙法蓮華経
  教義  日蓮宗は、お釈迦様の説かれた最高の教えであ
る法華経をよりどころとする宗団です。この法華経を身をもって読
まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。本宗
の教義は、法華経の魂をお題目にこめらた宗祖の教えに導かれ
て私たちが信行に励みこの教えを弘める事によってやがて世界
の平和と人類の幸福ひいては個人の幸せにつ ながる事を確信
できる教えであります。
  経典  妙法蓮華経(法華経)


 発星院日真上人  
 天正13年清正公が大阪に本妙寺を創建、その開山に招請され  る。文禄・慶長の役には、清正公に従い渡海して戦勝祈祷や外交 の衝に当たる。慶長5年熊本築城に際し、大阪の本妙寺を城内に 移す。その後、大村本経寺・熊本妙永寺・本覚寺・法宣寺を開く。
 肥後における最初の日蓮宗弘通者。
 伊都という女性
清正公母堂一代
記絵巻
 
 加藤清正という戦国時代の名将をみるとき、母親伊
都の存在を忘 れることは出来ません。伊都は、尾張
の国の鍛冶屋清兵衛の娘で 才女で美しく、法華経の
信仰者で、優しい心の持ち主であった。清 正の父清
忠は、斉藤道三の重臣だったが、道三の嫡子治部大
輔 義竜の反逆で隣国の尾張の国に逃げ出す。清忠
は母・曽根を背  負って脱出する時、足の裏をケガ
し、破傷風にかかった。足が不  自由になった清忠
は、武士の身分を捨て、清兵衛に弟子入りして 刀鍛
冶となる。ここで伊都と出会う。夫婦となって7年目、清
正が生 まれる。その翌々年、清忠は病死する。清正
は、この伊都という優 れた資質を持った母親によっ
て、加藤家再興の「宝」として大切に 育てられる。清
正5歳の時、移り住んだ津島には、伊都の義妹が い
て、同居する。近くの妙延寺の住職に頼んで、清正に
経書や書 道を習わせる。清正9歳の時、秀吉母子に
会い、長年の秀吉との 主従関係の発端となる。
 智雄院日収上人  
 日収上人は、尾張の妙勝寺の住職であったが、林大
学頭の推薦 により藩主細川忠利の儒学の指南とし
て肥後に来る。妙永寺の第 3世の住職となり、書画
をよくし、肥後の朱子学の祖と仰がれた人 です。
        
           庭                     清正公母堂廟所
            

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