第2章−サイレント黄金時代(7) |
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栄光なき天才たち |
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2004年からお札のデザインが変わるということである。1000円札が夏目漱石(1867〜1916)から野口英世(1876〜1928)に、5000円札が新渡戸稲造(1862〜1933)から樋口一葉(1872〜96)に変更される。それにしても生前貧しくてお金に不自由していた野口英世と樋口一葉がよりにもよってお札になるとは、さぞかし当人たちもあの世で苦笑していることであろう。 中でも24歳の若さで肺結核によって亡くなった樋口一葉の場合は、とりわけ悲惨な生涯であった。彼女のペンネーム「一葉」とは葦の葉っぱのことで、その由来には色々な説があるが、「おあしがない」というのがもっともらしく聞こえる。彼女に比べれば52歳まで生き永らえた野口英世はまだ幸せであったか…。一葉の書いた「たけくらべ」や「にごりえ」(共に1895年)などの小説は今日まで広く読み継がれ、その名は今では不滅となっている。実際、彼女も晩年には作品が評価され始め、暮し向きもよくなってきたということであったが、その頃にはもう遅く、すでに彼女の身体は病魔に蝕まれていた。今日の名声を考えると、それは遅すぎたきらいがある。彼女こそは栄光なき天才であったのだ。 文学の世界に限らず、芸術の世界では、生前よりもむしろ死後になってから高く評価された人は多い。「雨ニモマケズ」が死後のメモから発見された宮沢賢治(1896〜1933)。生前絵を一枚も売れなかったヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜90)。映画「モンパルナスの灯」(1958年仏)のモデルとなった画家アメデオ・モディリアーニ(1884〜1920)。etc。映画界もまたそういった名前に事欠かない。 |
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晩年はモンパルナス駅の売り子をしていたジョルジュ・メリエス(第1章(2)参照)。撮影所の事務員として終わったエドウィン・S・ポーター(第1章(4)参照)。晩年は酒びたりで孤独だったD・W・グリフィス(第2章(2)参照)など、映画界のパイオニアたちには不遇な晩年を送った人たちが多い。彼らの場合、確かに当初は時代を先取りしていたのだが、その後も自分のスタイルをかたくなに貫き通した結果、時代に取り残されることとなってしまったのである。 一方、時代を先取りしすぎていたがために当時は評価されず、むしろ今日になってからより高い名声を得るようになった映画作家も多い。オーソン・ウェルス(1915〜85)はまさしくそういった一人であろう。「市民ケーン」(1941年米)によって華々しくデビューを飾ったものの、興行的には失敗。2作目の「偉大なるアンバーソン家の人々」(1942年米)は、会社によってズタズタに切り裂かれてしまう。その後も思うように映画を撮ることができず、世界各地を点々として映画を撮影せざるを得なかった。彼の場合はその完全主義と斬新な演出とがハリウッドに受け入れられなかった結果であった。 |
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そのウェルスと同様に、度が過ぎるほどの完全主義と浪費癖によって思うように作品の撮れなかったサイレント期のハリウッドの巨匠がいる。それが、エリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885〜1957)である。 シュトロハイムは「愚なる妻」(1922年米)や「グリード」(1924年米)といった映画史上重要な作品を手がけた巨匠である。監督だけではなく、脚本を書き、美術を担当し、時には自ら主役も務める。まさしくワンマン作家。その点でもウェルスと共通している。彼は妥協を許さないまでの完全主義者で、映画会社や共演者たちと衝突しまくった。 サイレントにも関わらず、俳優たちにはきちんと台詞を読ませ、何度も何度もリハーサルを繰り返す。例えエキストラの下着であろうとも当時の物を使い、本物のキャビアやシャンペン(当時は禁酒法時代である)を小道具として並べる。当然、撮影日数も予算も途方も無く膨れ上がるが、彼はまったくそれらを意に介さない。「愚なる妻」は完成までに13ヶ月を要し、製作費も110万ドルに達した。そのため世間からは「“$”troheim」などと称され、MGM製作部長のアーヴィング・サルバーグ(1899〜1936)には「君は金フェチだろう」と言われたという。 それだけ個性が強ければ他のスタッフと衝突するのも当たり前である。「メリー・ゴー・ラウンド」(1922年米)では撮影所長と衝突し監督を途中降板。「クイーン・ケリー」(1928年米)でも主演のグロリア・スワンソン(1899〜1983)と衝突し、作品そのものが未完成に終わってしまう。「メリー・ウィドー」(1925年米)でも主演のメエ・マレー(1889〜1965)としょっちゅう衝突していたという。 挙句の果てに完成した作品はいずれも5時間を越える長尺映画。あまりの長さに作品は会社によってズタズタに切り刻まれた。「愚かなる妻」は5時間を3時間半(現存版はもっと短く1時間半)に、「グリード」は9時間半を2時間に縮められてしまう。その他の作品もほとんどは満足な形で残っていない。6時間の「結婚行進曲」(1928年米)は第1部のみで第2部は未公開に終わり、「メリー・ウィドー」もシュトロハイムの意図とは異なるハッピーなエンディングがつけられてしまったという。 ともかく、シュトロハイムがいかに才能のある人であろうと、ここまで好き勝手にやられたのでは映画会社にしてみればまったく、たまったものではない。結局、ハリウッドで干されてしまったのもある意味当然だろう。 だが、そのような困難にもかかわらず、シュトロハイムの残した作品の多くが今日では映画史上に残る傑作として評価されているのは面白いことである。シュトロハイムの異才ぶりがわかる。 |
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さて、シュトロハイム作品の特色はというと、徹底したリアリズムにある。「愚なる妻」では撮影所にモンテ=カルロを本物そっくりに再現しているが、そういった外見的なことばかりではない。彼は、放蕩と頽廃、人間の暗部とそこから生まれる悲劇とを常にテーマとして取り上げている。ハッピー・エンドが常であった当時のハリウッド映画の中では極めて異例であった。 デビュー作「アルプス颪」(1919年米)や「愚なる妻」(1922年)はいずれも人妻にシュトロハイム演じる青年貴族が近寄り、彼女を誘惑しようとする。不倫という主題から始まって、そこから人間の欲望を掘り下げていく…(1920年の「悪魔の合鍵」も同一主題で、3部作を成しているそうだが、僕は見ていない)。「グリード」(1924年)は、「強欲」という題名の通り、思いがけず当てた宝くじによって人生を狂わしていく人たちの悲劇を描く。 これら「アルプス颪」「愚なる妻」「グリード」の3作はいずれも主人公の死でもって終わる。シュトロハイム演じる青年将校と純情無垢な娘との悲恋を描いた「結婚行進曲」(1928年)は、決して悲劇的な物語ではないが、「ウェディング・マーチ」を弾くピアニストの手が骸骨に変わるというエンディングがなにやら不吉なものを暗示させる。僕が見たシュトロハイム作品ではオペレッタの映画化である「メリー・ウィドー」(1925年)のみがハッピーなエンディングであった。だが、これだっておとぎ話的な題材の中に、不気味な現実感を介在させた作品である。エルンスト・ルビッチ(1892〜1947)が再映画化した「メリー・ウィドー」(1934年米)の持つめっぽう明るい雰囲気と比べれば一目瞭然と言えよう。 |
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シュトロハイムは多くの作品で自ら主役をも演じているが、彼はそもそも俳優としてデビューしている。1914年にグリフィスの下で映画界入り。すぐに助監督としても作品に関わるようになる。「国民の創生」(1915年米)では助監督の他、エキストラとしても出演している。資料によれば彼の役名は「屋根から落ちる男」とあるので、第1部で南部の町を襲撃した黒人部隊に屋根の上から応戦して撃ち落とされるのが彼なのであろう。なお、「イントレランス」(1916年米)には「ユダヤ篇」にパリサイ人の役で出演している。 リリアン・ギッシュ(第2章(3)参照)はシュトロハイムの第一印象についてこう述べている。 |
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「イントレランス」の撮影のあいだに、聖書篇でパリサイ人を演ずる男の人に目が留まった。背が低く、石のように無表情で片眼鏡をかけたその男の人はつるつるの禿頭で外観がとても変わっていたので女の子はとても恐がり、彼が衣装係の女性と結婚していることを知っていても通りで擦れ違うのを避けて反対側の通りへわざわざ渡ったりしていた(*1)。 |
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*1 リリアン・ギッシュ、アン・ピンチョット/鈴木圭介訳「リリアン・ギッシュ自伝」 202ページ
リリアンも述べているように、確かにシュトロハイムの容貌はかなり独特で、なんかこう近寄り難い雰囲気を持っている。だから、グリフィスの「世界の心」(1918年)における残忍なドイツ人将校などは、彼にはうってつけの役であった。後年も、その容貌を活かして性格俳優としての存在感をいかんなく発揮する。 |
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そういえば、荒木飛呂彦(1960〜)の長編漫画「ジョジョの奇妙な冒険」(1987年1月〜2003年4月 集英社)の第2部にはナチス・ドイツの将校としてシュトロハイム少佐なる人物が登場する(*2)。このシュトロハイム少佐が、エリッヒ・フォン・シュトロハイムをヒントにしているかどうかは僕は知らないのだが、作者の荒木が相当の映画好きであることを考えると、その可能性は否定しきれない。しかし、実際のシュトロハイムは反ナチスの立場であり、オーストリアのドイツ併合を嫌ってアメリカに渡ったというから、このキャラクターの名前は皮肉でしかない。 *2 「ジョジョの奇妙な冒険 12巻」(1989年10月)によればシュトロハイム少佐のフルネームはルドル・フォン・シュトロハイムというそうだ。 |
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さて、シュトロハイムは1885年9月22日にオーストリアのウィーンで生まれている。士官学校を卒業し、その経歴は後にグリフィス作品で軍事監修を担当するのに役立ったという。渡米したのは1909年だそうだが、この辺りの事情はよくわからない。後に彼が俳優として出演する「大いなる幻影」(1937年仏)の監督、ジャン・ルノワール(1894〜1979)によれば、「面白いことにシュトロハイムはドイツ語がほとんど喋れるか喋れないぐらいだった。だから学校に行っている生徒が外国語のテキストを暗記するように、科白を勉強しなければならなかった。」(*3)と言うことだから、彼の経歴には相当疑問符がつく。 *3 ジャン・ルノワール/西本晃二訳「ジャン・ルノワール自伝」 205ページ |
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それはそうと、シュトロハイムは自分自身の名前に“Von”という貴族の称号をつけているが、実際には貴族の生まれなどではなく、商人の息子であったらしい。「大いなる幻影」の中で彼の演じる元貴族のラウフェンシュタイン大尉は、消えゆく貴族階級に思いを馳せる。実のところ、そうした貴族階級への憧憬を持っていたのはシュトロハイム自身であったのだろう。それだからか、彼は自作では貴族の役を好んで演じている。「アルプス颪」と「結婚行進曲」ではオーストリア貴族。「愚なる妻」ではいんちきロシア貴族に扮する。「メリー・ウィドー」はヨーロッパの架空の国の皇族が主人公で、シュトロハイムの好みそうな 役柄であるのだが、不思議なことに彼は出演していない。なんでも「愚なる妻」製作の際にあまりに製作費が膨れ上がったにも関わらず、主演を兼ねるシュトロハイムを降ろすわけにはいかなったMGM首脳部が、同じ過ちを繰り返さないために彼の出演を許さなかったからだという。彼自身は主役のダニロ皇子(実際に演じたのはジョン・ギルバート)を演じたがっていたそうだが、あるいはその従兄弟で片眼鏡をかけた皇太子ミルコを演じても似合っていたかもしれない。 |
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彼が演じてきてた役柄によって、我々はシュトロハイムを好色漢であると見なしてしまうが、どうやら彼は実際にそういったところがあったようである。自身も前衛映画作家であるケネス・アンガー(1927〜2023)がハリウッドのスキャンダルを集めたベストセラー「ハリウッド・バビロン」に興味深いエピソードが収録されている。 同書によると、「メリー・ウィドー」撮影中のシュトロハイムのセットには鍵がかけられ、撮影はえんえん20時間にも及ぶことがあった。エキゾチックな女性に貴族然とした男たちとエキストラは厳選され、撮影が終わると彼らは全員があたかもソドムの町を出てきたかのようにうつろな目をしていたと言う…。このシーンの撮影のために、シュトロハイムはプロのSM嬢をウィーンから呼び寄せたとか…。セットの中で何が繰り広げられていたのかは今となっては不明だが、少なくとも検閲に引っかかることは間違いなかったろう。当然会社側によってズタズタに切り裂かれ、公開されたフィルムにはそうしたシーンは微塵も残ってはいない。 |
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「ハリウッド・バビロン」を読むと、ハリウッドというところは魑魅魍魎が百鬼夜行するような、そんなとんでもない場所のように思えてくる。しかしながら、そうした中でもシュトロハイムの異常さは際立っていたようである。結局シュトロハイムは1932年に「Walking Down Broadway」を監督するが、未公開に終わる。これが監督としての最後の仕事となった。 監督として干されてしまったシュトロハイムは、その後は性格俳優として様々な作品に出演している。その強烈な存在感は鮮烈な印象を残す。第一次世界大戦下のドイツを舞台に、フランス人捕虜たちの脱出を描いたジャン・ルノワール監督の「大いなる幻影」(1937年仏)には、貴族出身のドイツ人将校ラウフェンシュタイン大尉の役で出演している。同じく貴族出身のフランス人将校ボワルディウ大尉(ピエール・フレネ)と友情を深め合うという役柄であった。 さらにビリー・ワイルダー(1906〜2002)監督の「サンセット大通り」(1950年米)ではグロリア・スワンソン演じる往年の大女優ノーマ・デズモンドの最初の夫で今は執事兼運転手となった老人を不気味に演じている。過去の栄光に生き続けようとするノーマの虚栄を支える元映画監督という、シュトロハイム自身を彷彿させる役柄であった。劇中で彼女が自家のスクリーンに上映する作品がシュトロハイム監督、スワンソン主演の「クイーン・ケリー」の一部分だというのもどこか現実感を醸し出している。この演技でシュトロハイムはアカデミー助演男優賞にノミネートされた。 |
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以上見てきたように、監督としてのシュトロハイムはまったくもって不遇であった。だが、彼の今日の評価は、師匠のグリフィスらと共に「サイレントの三大巨匠」と評されていることからも揺るぎ無い。師匠のグリフィスは1921年の「嵐の孤児」を最後の輝きとしているから、活躍の時期はシュトロハイムとはちょうど入れ違いになる。そのシュトロハイムも結局10数年しか映画を撮ることはできなかった。 さて、三大巨匠の最後の一人はセシル・B・デミル(1881〜1959)である。彼はグリフィスやシュトロハイムとは異なり、サイレントがトーキーとなってからも大作を次々と生み出し、巨匠として揺ぎ無い地位を築いていった。つまり、この項の「栄光なき天才たち」にはふさわしくないのである。だが、せっかくの機会なので少し紹介したい。デミルと言えば「十戒」(1957年米)などのスペクタクル作品のイメージが強いが、サイレント時代はむしろ男女の性風俗を描いた作品で名前をあげている。前項で紹介した早川雪洲の出世作「チート」(1915年米)は、ファニー・ワードの白い肌に雪洲が焼きごてをあてるというショッキングなもの。また、ジプシーの踊り子によって身を崩していく若き連隊長の姿を描いた「カルメン」(1915年米)や、絶海の孤島に流れ着いた上流階級の男女の姿を描く「男性と女性」(1919年米)などの作品も手がけている。 デミルもやはり、シュトロハイムほどではないものの、リアリズムを重要視していた。「男性と女性」には古代バビロニアの王と愛妾とを描いた「古代篇」が挿入されているのだが、そこでは主演のグロリア・スワンソンはきらびやかな衣装と共に本物の宝石を着用している。この「古代篇」は後の彼の大作を彷彿させるのだが、実際はスワンソンを着飾らせ、その肢体を美しく見せるための口実であったような気さえする。 おりしも1920年代にはハリウッドでセックス・スキャンダルが続発しており、デミルの作品もまた不道徳を煽っていると槍玉にあげられた。そこで彼は1920年代になるとモーゼに率いられたユダヤ人のエジプト脱出を描いた「十誡」(1923年米)や、キリストの生涯を描いた「キング・オブ・キングス」(1927年米)などといった道徳的な作品を相次いで生み出し、その批判を交わしていったのである。前者は戦後にカラーで再映画化(「十戒」1958年)されているが、このサイレント版でも紅海が真っ二つに割れるシーンが見所となっている。こうした変わり身の早さというかしたたかさは、グリフィスやシュトロハイムが持ち合わせていなかったもので、デミルが永く生き述びる要因となった。デミルは戦後になっても大作を生み続け、「地上最大のショウ」(1952年米)では見事アカデミー作品賞を受賞した。デミルについてはいずれまた取り上げる機会もあるだろう。 |
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シュトロハイムとデミル、この二人の巨匠は「サンセット大通り」で共演を果たしている。二人の演じた役柄は、ものの見事に当時の二人の状況を反映していた。シュトロハイムが演じるのは元映画監督の執事。実際のシュトロハイムはそこまでは落ちぶれていなかったものの、監督としては干されて久しかった。一方の、デミルは巨匠セシル・B・デミルその人を演じている。「サムソンとデリラ」(1950年米)を撮影中のデミルを、シュトロハイムはノーマに従って訪ねるのである。二人の対面こそないが、シュトロハイムは一体どのような心境で、かつてのライバルを見つめていたのであろうか。 |
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(2002年10月5日) |
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(参考資料) ジャン・ルノワール/西本晃二訳「ジャン・ルノワール自伝」1977年7月 みすず書房 ケネス・アンガー/海野弘監修/明石三世訳「ハリウッド・バビロンT」1989年3月 リブロポート リリアン・ギッシュ、アン・ピンチョット/鈴木圭介訳「リリアン・ギッシュ自伝/映画とグリフィスと私」1990年8月 筑摩書房 グロリア・スワンソン/双葉十三郎監修/吉野美恵子訳「グロリア・スワンソン自伝」1994年10月 文芸春秋 |
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