第2章−サイレント黄金時代(3)

アメリカの恋人たち
〜メアリー・ピックフォードとリリアン・ギッシュ〜




リリアン・ギッシュ
 


 人は誰でもそれぞれに初恋の思い出があるだろう。それはクラスメイトであったり、学校の先生であったり…。実際のところどこまでを初恋にするのか、その定義はかなり難しいのではあるが。突き詰めていくと、男なら誰でも母親にたどりついてしまうのではないか(ただし女が父親になるとは限らないが)。その一方で、スクリーンやブラウン管の向こうの人にほのかな憧れを持つ、そんな経験も誰にでもあると思う。
 
 僕の場合…、そうあれは中学1年生の頃だったろうか。何気なく深夜にテレビで観た映画「恋にくちづけ」(1984年仏)。すぐさま主演のソフィー・マルソー(1966〜)の虜になった。本当はいろいろとソフィーについて書きたいところだが、彼女に関しては機会を改めてじっくり語りたいと思う。ところで、19世紀末に初めて映画を観た人たちもきっと今の僕らと同じような経験をしたに違いない。今回は映画創成期の女優について見ていきたい。
 


 映画が誕生したばかりの頃は、映画のクレジットやポスターにスタッフやキャストの名前が書かれないのが普通であった。当時の観客は今のようにスターや監督で映画を観るのではなく、「バイオグラフ」や「エッサネイ」と言った映画会社の名前で観に行っていたのである。同じ会社の映画を観に行けば、同じ俳優が出てくることが多い。次第に観客にとって顔なじみの俳優が出てくる。やがて贔屓の俳優が出現してくるのも当然であった。これがスターの誕生である。もっとも、当時の観客がお気に入りの俳優の名前を知る手立てはほとんどなかった訳であるから、彼らは例えば「バイオグラフ・ガール」などといったように呼ばれていた。日本でなら「松竹娘」とか「東宝娘」と言った感じだろうか。そういえば少し前には「角川三人娘
(*1)」というのがいたっけ。

*1 原田知世、薬師丸ひろ子、渡辺典子の3人



最初の映画スター
フローレンス・ローレンス
 

 
 1910年、アメリカのIMP社は当時最も人気のあった「バイオグラフ・ガール」のフローレンス・ローレンス(1886〜1938)を引き抜いたが、彼女の名前を売り出すために一つの計略を考え出した。IMPは新聞に、「セントルイスでフローレンス・ローレンスが自動車事故で死亡した」との嘘の記事を掲載させる。そうして世間の注目を集めておいてから改めて、「我々は嘘を暴いた」という広告を掲載し、競争相手のバイオグラフがでたらめを書きたてたかのように思わせ、彼女は死んでいないことを発表した。そしてセントルイスにフローレンスが姿を見せると、多くのファンが詰めかけたのであった。こうして最初の映画スターが誕生したと言われている。
 このフローレンス・ローレンス、日本ではほとんど知られていないのだが、それはおそらく彼女の主演作の大半が日本には輸入されなかったからなのだろう。僕はビデオや特集上映で彼女の作品のいくつかを実際に観ることができた。それらはいずれもグリフィスの初期の作品であったが、そこでフローレンスはヒロインを演じている。凛とした顔立ちをした彼女であるが、「野蛮人インゴマル」(1908年米)では父親の身代わりとなって野蛮人に人質となる娘を熱演している。こうした強気なヒロインは彼女に良く似合っているように思える。かと思えば、メロドラマ「時は流れて」(1908年米)では、行方不明の恋人を何年も待ち続ける純情可憐な役柄を演じ、「ビスケット騒動」(1909年米)ではコメディにも挑戦するなど、しっかりとした演技力の女優であったようだ。
 



“アメリカの恋人”
メアリー・ピックフォード
 


 フローレンス・ローレンスは最初グリフィスの下で活躍したスターであったが、彼女に次いでスター女優となったメアリー・ピックフォード(1893〜1979)もまた、グリフィスの門下生であった。彼女は1909年、15歳の時にグリフィスのもとを訪ね、映画界に入る。彼女のデビュー作は先にあげたフローレンス主演の「ビスケット騒動」であった。僕は残念なことにメアリーが出ていることを知らずにこの映画を観たので、彼女がどこに出ていたのか全然気がつかなかった。次いで同年の「クレモナのバイオリン作り」で初主演。ここでのメアリーの役柄は、2人の若いバイオリン職人の間で揺れ動く可憐な少女であった。金髪の綺麗な巻き毛を持つ彼女は、身長152センチと小柄で、大人になってからも同様に可憐な少女ばかりを演じ続けてきた。彼女はその人気ぶりから「アメリカの恋人」とまで称されたが、どうやらアメリカというのはロリコンであったようだ。
 メアリーは33歳の時に「雀」(1926年米)に主演しているが、そこでも演じた役は12歳の少女。いくらメアリーが若々しいからといって、さすがに21もの年齢差には無理がありまくりであった。やんちゃな身振りで少女になりきっているのがかえって不気味ですらある。観客の求める少女像と、メアリー本人の年齢のギャップにおそらく彼女自身苦しんでいたのであろうか。1933年、40歳の時に引退した。
 メアリーは、1920年にアクション・スターのダグラス・フェアバンクス(1883〜1939)と結婚したが、ハリウッド最初の大物カップルとして、二人併せて“ピックフェア”と称された。二人の唯一の競演作に「じゃじゃ馬馴らし」(1929年米)があるが、シェークスピア喜劇の主演は彼らには荷が重すぎたのか、大げさな演技ばかりが目立つチグハグな作品となっており、明らかな失敗作であった。二人はそれから6年後の1935年に離婚。「じゃじゃ馬馴らし」でのさや当てぶりは二人の仲の終焉を思い起こさせるようでなかなか興味深い。夫フェアバンクスについては次項で取り上げる。
 



メアリー・ピックフォード
 


 1912年、メアリーの旅回り劇団時代の友人が、彼女を映画の中に発見し、彼女を訪ねてニューヨークへやって来た。その友人の名はリリアン・ギッシュ(1896〜1993)であった。彼女は2歳年下の妹ドロシー(1898〜1968)を連れていた。二人はすぐさまグリフィスに紹介され、映画界に入る。おしとやかなリリアンと、快活なドロシー。最初グリフィスは二人の区別がつかず、リリアンに青の、ドロシーに赤のリボンを着けさせたという
(*2)

 姉リリアンは「国民の創世」(1915年米)でヒロインを演じ、続く「イントレランス」(1916年米)では揺りかごを揺らす女という、各エピソードをつなぐ重要な役柄を演じている。その後も「散り行く花」(1919年米)、「東への道」(1920年米)、「嵐の孤児」(1921年米)などでヒロインを演じ、グリフィスの全盛期を支えた。これらの作品で彼女が演じたのはいずれも運命に翻弄される薄幸の娘。中でも父親に虐待しされ、無理に笑顔を作って死んでゆく12歳の孤独の少女を演じた「散り行く花」や、男に騙され未婚の母となり、吹雪の中をさまよう娘を演じた「東への道」などがとりわけ印象的である。

*2 リリアン・ギッシュ、アン・ピンチョット/鈴木圭介訳「リリアン・ギッシュ自伝」 52ページ
 



「散り行く花」(1919年)
左はリチャード・バーセルメス
 


 グリフィスと別れてからも、彼女は同じような役柄を演じることが多かった。「真紅の文字」(1926年米)では、不義の子を産んだために迫害を受けながらも、相手の男のためにそれを隠し通す針子を、「ラ・ボエーム」(1926年米)では芸術家と恋に落ちるが彼の成功のために病気を押して身を隠す娘を演じている。ここまで不幸な姿を見せつけられると、何だか彼女自身が不幸な星の下に生まれてきたかのような錯覚を起こしてしまう。



「風」(1928年)
 


 一方、妹ドロシーはと言うと、明るくコミカルなキャラクターでコメディ映画で才能を発揮したとのことであるが、残念なことに僕はそれらの作品を観ていない。実を言うと、ドロシーが単独で出演した映画は晩年にトム・トライオン(1926〜1991)演じる司祭の母親役を演じた「枢機卿」(1962年米)しか観ていない。だから、彼女のことはもっぱら姉リリアンと共演したグリフィス映画でしか知らない。姉妹の競演作としてはまず、オムニバス映画「ホーム・スイート・ホーム」(1913年米)の第1話がある。ドロシーが姉、リリアンが妹を演じている。とは言うものの、この映画でのヒロインはリリアンのほうで、ドロシーはあまり印象に残らない。一方、最も著名な共演作は「嵐の孤児」(1921年米)であろうか。ここではドロシーが盲目の娘を、リリアンが彼女を支える姉を演じている。彼女らの演じた役はどちらも薄幸の娘。どちらも姉リリアンが演じるのがふさわしいような人物で、二人のキャラクターがダブってしまっている。そこで、僕は第一次世界大戦の参戦プロパガンダ映画「世界の心」(1918年米)を姉妹共演の代表作としてあげたい。リリアンはいつもの通りおしとやかで運命に翻弄される女性を演じ、ドロシーはその名もずばり「お転婆娘」を演じている。そうして二人は一人の男性をめぐって争うのであるが、二人のキャラクターの違い、とりわけドロシーの快活さが見事に発揮されていると言える。
 



姉妹競演の「嵐の孤児」(1921年)
左がドロシー、右がリリアン

 


 風と運命に翻弄される女を演じた「風」(1928年米/詳細は「モラルの幻想」参照)などを最後に、リリアンは1930年代にはもっぱら舞台に活躍の場を移す。「風と共に去りぬ」(1939年米)には娼婦ベル・ウォトリング役で出演のオファーをされたが、舞台を優先させたために残念ながら実現しなかった。この頃から映画では主に脇役に回っている。それも、ヒロインを陰で支えるような役柄が多い。「白昼の決闘」(1946年米)のジェニファー・ジョーンズ(1919〜2009)の養母(アカデミー助演女優賞候補)、「許されざる者」(1959年米)のオードリー・ヘップバーン(1929〜1993)の母親、「ジェニーの肖像」(1947年米)のジェニファー・ジョーンズの教師役がこの時期の代表作であろうか。サイレント時代の役柄のイメージがあるせいか、どうしても長い年月苦労を重ねてきた、そんな女性に見えてしまう。映画の中でのリリアンはついに浮かばれない人生なのであった。
 名優チャールズ・ロートン(1899〜1962)が唯一監督した映画「狩人の夜」(1955年米)は、リリアンが1919年に主演した「散り行く花」にインスパイアされた作品であるという。ここでリリアンが演じるのは、身寄りのない子供たちの面倒を見る老女。かつての自分のように父親に虐げられる幼い兄妹を助け見守る立場である。「女はみんな愚かだわ。みんな馬鹿よ。」と口癖のように語る姿は、かつての薄幸だった自分への自戒の念が込められているような、そんな印象さえ受けてしまう。

 



「白昼の決闘」(1946年)
右はライオネル・バリモア
 


 もしもリリアンが、このまま女優としてのキャリアを終えていたとすれば、結局彼女は過去の女優でしかなかっただろう。だが、彼女には女優人生の最後にまだまだ最高のキャリアが待っていた。1987年、91歳となったリリアンはイギリス映画「八月の鯨」に主演。彼女は12歳年下のベティ・デイビス(1908〜89)の妹役を演じている。気難しくわがままな姉を優しくいたわるリリアンは、まさにあの薄幸の少女の数十年後の姿を思わせた。老いながらも女性らしさを忘れないリリアンの姿を見ると、何て理想的な年齢の重ね方であろうかと思わされる。

 



「八月の鯨」(1987年)
左はベティ・デイビス
 


 1993年2月27日、リリアンは97歳で没す。彼女の人生はまさに映画史そのものをたどった人生であった。彼女には1969年に書かれた「リリアン・ギッシュ自伝」があるが、これは彼女個人のエピソードを極力控え、主にグリフィスとの思い出を中心につづったものであった。そこに描かれたグリフィスへの熱い思いを読んでいると、生涯独身を貫いたリリアンの本当の理由が何であったのか、解るような気がしてくる。
 

(2002年5月13日)


(参考資料)
リリアン・ギッシュ、アン・ピンチョット/鈴木圭介訳「リリアン・ギッシュ自伝/映画とグリフィスと私」1990年8月 筑摩書房

 

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