第1章−映画の誕生(4)
アメリカ人の郷愁
〜エドウィン・S・ポーター「大列車強盗」〜



最初の西部劇「大列車強盗」(1903年米)
 


 最も日本らしい映画は何か? そう聞かれたら僕は、「時代劇」と答える。なぜなら、時代劇こそは日本の伝統と文化に深く根ざしたものであり、例えば封建制度のあり方や、お歯黒、花魁(おいらん)などといった風俗を(現代日本人もそうだが)外国人が理解することは難しい。従って、外国人が時代劇を製作することなんてほとんど不可能ではないかと思う。もちろん、ひところアメリカでは「ニンジャ」映画が流行したし、西ドイツでは「ベルリン忠臣蔵」(1985年西独)なんて映画も製作されている。それらを製作した外国人スタッフはもちろん大まじめだったのだろうが、我々日本人には苦笑を買うもの以外の何者でもなかった。そこで本題に入ろう。最もアメリカらしい映画は何か? それは間違いなく「西部劇」ではないだろうか。

 移民の国アメリカは歴史らしい歴史を持たない。だから、たかだか200年かそこらの昔の出来事でも、アメリカにとっては立派な歴史となる。西部劇が描く世界はアメリカ人にとって懐かしいと感じる気持ち、いわゆる「郷愁」を表しているのではないだろうか。

 
 さて、一口に西部劇と言うが、それはどのようなものなのだろうか。“西部”劇というからにはアメリカの西部(厳密には南西部)が舞台になっていなくてはならないが、当然のことながら現代のロサンゼルスやサンフランシスコの都会を舞台にした映画を西部劇とは言わない。古い時代のアメリカが描かれていなくてはならないのだ。古い時代とは、すなわち西部開拓の時代である。西部開拓時代とは一般的には、開拓者たちがカリフォルニアとオレゴンに向かい始めた1825年に始まり、フロンティアの消滅した1890年代までをさしている。以上2点が、西部劇の基本定義ということになろうが…当然ながら例外は数多く存在する。アメリカ西部が舞台ということに限ると、メキシコが舞台の「ヴェラクルス」(1954年米)や「荒野の七人」(1960年米)、イタリアで製作されたマカロニ・ウェスタンなどは西部劇でないということになるし、時代で区切っても例外が出てきてしまう。そこで、“フロンティア・スピリット”を持った映画こそが西部劇であると言う、第三の定義が現れてくるが、ますますややこしくなってきてしまう。それについては別の機会に検討したいと思う。
 いずれにせよ1903年に製作されたアメリカ映画史上最初の重要な作品は、同時に最初の西部劇でもあったのである。

 アメリカの“映画の父”トマス・A・エジソン(1847〜1931)は、スクリーン投影式の映画の発明においてはフランスのリュミエール兄弟に遅れを取った。だが彼もすぐに同じような仕組みのヴァイタスコープを発明し、その後はリュミエール兄弟のシネマトグラフと覇権を競うようになる。リュミエールが結局のところ技術者にとどまり、すぐに映画製作から手を引いてしまったのとは対照的に、エジソンはその後も積極的に映画製作を行なっていく。
 エジソンが製作した映画の中にはメアリー・シェリー(1797〜1851)の小説「フランケンシュタイン」の最初の映画化作品(1910年米)といったものまである。「シネマ・クラシクス」(1987年米)というビデオに一部が収録されているので観ることが出来たが、原作やその後の映画化作品のように死体を蘇らせるのではなく、薬品から新たな生命体を生み出すと言う展開となっているそうだ。部分的に観た限りだが、かなりグロテスクな作品であったようだ。
 エジソンのもとで映画を製作していた一人がエドウィン・S・ポーター(1870〜1941)であった。ポーターは1900年エジソン社にカメラ技師として入社。次第に監督をも手がけるようになる。

 彼が製作した最初のストーリーらしいストーリーを持った映画というのは1903年の「あるアメリカ消防夫の生活」であった。これは、消防隊の出動、火事現場での救出を描いたドキュメンタリー・タッチの作品で、実際の消防隊の出動の記録映画に、ポーターが撮影したシーンを加えたものである。イギリス映画「火事だ!」(前項参照)を模倣したと言われているが、冒頭には家族のことに思いをはせる消防士の姿を描いていたり、火事の急を告げる警報機の大映しを挿入していたりと、はるかに映画的である。ところで、今日この映画を観ると、奇妙な感じを受ける。クライマックスの火事現場での救出の場面では最初カメラは建物の内側にあり、外から窓を破って入ってくる消防士が部屋の中の母親と子供を救出する。次いで、同じ救出が、建物の外のカメラから映し出されるのである。つまり、同じ動作が2度画面で繰り返されるのである。今日の映画であれば、時間軸に沿って、内側と外側の場面を交互に見せるように編集するのであろうが、この当時はそうした編集は行なわず、同一の場面の出来事はそのままつなげてしまうため、このような奇妙なことが起こってしまうのである。ただし後になってから、現在の映画のように時間軸に沿った編集をされた版も作られているので、気をつけなくてはいけない。草創期の映画を紹介したドキュメンタリー「シネマ・クラシクス」(1987年米)の中でも、「『カットバック』の手法の用いられた最初の映画」というように紹介されているが、これは明らかな間違いである。
 



「あるアメリカ消防夫の生活」(1903年米)
 


 この「あるアメリカ消防夫の生活」などの作品を修作として、1903年ポーターは最初のアメリカ映画の傑作と言うべき「大列車強盗」を作り上げた。この映画の題材となった列車強盗は、その後の西部劇が好んで取り上げたものである。「ワイルドバンチ」(1969年米)であるとか、同じ邦題の「大列車強盗」(1972年米)という作品も作られている。
 さて、1903年版「大列車強盗」のストーリーは次の通りである。4人組の強盗団が、駅の通信士をしばりあげ、停車中の列車に乗り込む。彼らは貨物室から現金を奪い、運転手を脅し列車を止め乗客からも貴重品を奪って、逃走。幼い娘によって助け出された通信士は、保安隊を呼びに行く。やがて強盗団に追いついた保安隊は銃撃戦の末に強盗団を全滅させる…。
 上映時間は10分に満たないが、ドラマティックな展開に、思わず引き込まれてしまう。ストーリーの面白さもさることながら、ラストにおいて本筋とはまったく関係ないショットを挿入している所に映画としての面白さがあると言えよう。すなわち、映画が終わった後、強盗団の首領が上半身アップで現れ、観客に向かって拳銃を撃ち込むのである。白煙の効果もあって、さぞかし当時の観客の度肝を抜いたことであろう。
 



「大列車強盗」ラストの大映し
 


 ポーターは、他にも数多くの傑作を生み出した。僕が観ることの出来た作品のいくつかをここで紹介してみたい。
 「鉄道のロマンス」(1902年米)。鉄道の駅で出会った男女が二人で旅に出る。彼らは列車の中で結婚式をあげる。
 「アンクル・トムズ・ケビン−奴隷としての日々−」(1903年米)は、ハリエット・ビーチャー・ストウ(ストウ夫人/1811〜96)の小説の映画化である。「大列車強盗」がロケーションの効果を活かした作品であったのに引き換え、これは全編セットによって撮影されており、極めて演劇的であると言える。蒸気船の炎上や、少女の昇天の場面には稚拙ながら特殊効果が用いられている。原作は長い小説であるだけに、映画のほうは幾つかの場面をピックアップして映像化している。そのため、原作を読んでいないとストーリーが殆ど理解できない。
 「あるレアビット狂の夢(チーズトースト狂の夢)」(1906年米)。新聞の漫画を映画化したもの。お酒を飲みすぎてすっかり酔っ払ってしまった紳士が見る幻覚を描く。街灯が振り子のように揺れ、ベッドに入っても家具が動き出す。ついにはベッドが窓から外へ飛び出してしまう…。ジョルジュ・メリエスばりのトリックが用いられている、愛すべき作品である。
 「鷲の巣より救われて」(1907年米)。母親が目を離した隙に鷲が赤ん坊を連れ去ってしまう。樵が崖をロープでくだり、鷲の巣から赤ん坊を救出する。主人公の樵を演じているのが後の大監督D・W・グリフィスであって、これが映画デビュー作である。そういう意味では貴重な作品といえるが、残念ながら画面が粗いためグリフィスの姿は良く分からない。

 



「鷲の巣より救われて」(1907年米)
 


 このようにポーターは、革新的な映画を次々と生み出したことで初期のアメリカ映画に一時代を築いていった。だが1910年頃になると、その手法は時代遅れと見なされ飽きられていく。だが、彼の駆使したクローズアップやカットバックといったテクニックは、後から出現したグリフィスに受け継がれて発展していくのである。
 

 先に西部開拓時代は1890年までであると述べた。ということは、映画が誕生した1890年代前後は、まさしくその西部開拓時代の末期に当たっている。「大列車強盗」の製作された1903年という年には、西部劇のヒーローであるロイ・ビーン(1825〜1903)やカラミティ・ジェーン(1848〜1903)が亡くなった年であり、ワイルドバンチが解散した年なのである。つまり、当初西部劇は現代劇として作られていたのである。
 西部劇は、古き良き時代の“開拓精神(フロンティア・スピリット)”を、現代に受け継ぐものとして、まさしくアメリカ人の郷愁と呼ぶべきものなのだ。
 

(2002年1月31日)


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