第2章−サイレント黄金時代(6−2)

武者修行の夢のあと
〜早川雪洲補遺〜



早川雪洲
(「聖林の王早川雪洲」より)
 


 今年2004年の第76回アカデミー賞において、助演男優賞に「ラスト・サムライ」(2003年米)の渡辺謙(1959〜)が、外国語映画賞に山田洋次(1931〜)監督の「たそがれ清兵衛」(2002年松竹)がノミネートされたことはまだ記憶に新しいところである。共に惜しくも受賞は逃したが、現在のハリウッドが日本に対し高い関心を寄せているという事がこれによって明らかになったと言える。とりわけ、渡辺謙はその坊主頭での演技により、アメリカではユル・ブリンナー(1915〜1985)の再来とまで言われ、早くも「バットマン」に悪役での出演が決定したとか
(*1)。彼が果たして今後国際的なスターとなるかどうかはわからないが、彼の偉業によって日本が誇る国際スターの先駆者・早川雪洲(1886〜1973)もまた、にわかに脚光を浴びてきた。僕は以前日本人の肖像」で早川雪洲についていろいろと書いたことがあったが、これを機にもう少し彼について調べてみることにした。

*1 「バットマン・ビギンズ」(2005年米)で渡辺は悪役ラーズ・アル・グルを演じた。
 



「ラスト・サムライ」(2003年)
オスカーノミネートの渡辺謙
 


 2004年2月のある日。僕は千葉県の千倉に降り立った。千倉は房総半島のほぼ南端に位置している。東京からは内房線の特急で約2時間。かろうじて都心への通勤圏内であるとは言え、なかなか行くのも大変なところである。その日、僕は大学時代のサークルの合宿で千倉から5駅ほど東京寄りの岩井に来ていた。岩井から千倉は各駅停車で30分ばかり。せっかくの機会を利用して足を伸ばすことにした。千倉こそは、早川雪洲がこの世に生を受けた地なのである。
 雪洲が生まれたのは千葉県安房郡七浦村。現在では千倉町に合併されてはいるが、厳密には千倉駅からさらに海岸沿いに南に6キロほど行ったところである。本来ならばそこまで行くべきなのだろう。だが、残念ながら交通の便がない。タクシーで行ったとしたら恐ろしく値段がかかってしまうに違いなく、また行った所で碑などが立っているわけでもな さそうなので、現地に行くことは結局断念してしまった。今日、鉄道の駅があるぐらいだから、千倉は19世紀末から大きな街であったに違いない。若き日の雪洲も、何度となくこの地に来たことであろうと考えて、千倉駅周辺をぶらぶらと散歩してみることにした。



JR千倉駅

 


 千倉町役場、町立図書館などを横目で眺めつつ、海岸まで出てみた。雪洲がアメリカへ行く契機となったのは、千倉沖でアメリカの汽船が座礁したことであったが、その場所もここからそう遠くないのだろう。2月の肌寒い気候では、海水浴客はもちろん、海岸には誰もいない。若き日の雪洲の面影を頭の中に浮かべながら、しばらくぼんやりと海を眺めていた。白く霞む太平洋の向こうには、もちろん見えるべくもないが、アメリカ大陸があるはずである。
 おりしも小降りの雨が降ってきた。僕は、足早に海岸を後にした。

 



千倉の海岸より太平洋を望む

 


 アカデミー賞の演技部門に日本人俳優がノミネートされたのは、1958年が最初のことである。「戦場にかける橋」(1957年英/米)の早川雪洲が助演男優賞に、「サヨナラ」(1957年米)のミヨシ梅木(ナンシー梅木/1929〜2007)が助演女優賞にノミネートされた。雪洲は惜しくも賞を逃したが、梅木はみごとに受賞。その後、1967年には「砲艦サンパブロ」(1966年米)のマコ(岩松信/1933〜2006)も助演男優賞にノミネートされている。渡辺謙のノミネートは、日本人としては実に37年ぶりである。本来ならば、渡辺は当然「マコ以来のノミネート」として騒がれるべきなのだが、どちらかと言えば「日本を中心に活動する俳優としては早川雪洲以来のノミネート」というような報道がなされていた。中には明らかに勘違いして「早川雪洲以来のノミネート」と書いたものまで見受けられた。渡辺は海外でこそ無名であるかもしれないが、日本では大河ドラマの主役をも演じる大スターである。それに引き換え、マコは「パール・ハーバー」(2001年米)等で現在でも活躍してはいるものの、しょせんはバイプレーヤーにすぎない。日本人の感情としては、どうしても渡辺とマコを一緒にするのはためらわれる。やはり大スターであった雪洲と並べることこそふさわしい。
 だからと言って、雪洲を「日本を中心に活動する俳優」と見なすのも少々不思議な気がしてならない。確かに、雪洲は日本でも映画に出演しているのだが、そもそもはハリウッドの大スターであったのだ。雪洲が出演した日本映画が17本であるのに対し、アメリカ映画は69本もある。また、12本のフランス映画、2本のイギリス映画、1本のドイツ映画(日本と合作)にも出演しており、まさしく国際的なスターであった。

 

 雪洲が初めて日本映画に出演したのは1932年の「太陽は東より」(松竹)で、雪洲自身が監督している。その後、ビクトル・ユーゴー(1802〜85)の原作の舞台を日本におきかえた「レ・ミゼラブル」(1949年東横映画)でジャン・バルジャンを演じたり(役名は岩松)しているのだが、残念ながらこれらの作品のほとんどを僕は観ていない。

 雪洲は、日本とドイツの合作である「新しき土」(1937年日独)にも出演しているが、これは雪洲が唯一出演したドイツ映画ということになる。アメリカ生活の長かった雪洲は、親米の立場で、日米開戦にも反対していた。この後間もなく、第二次大戦がはじまることを考えると、彼が出演していることは極めて貴重だと言える。実は「日本人の肖像」を書いていた頃、僕はDVDプレイヤーを持っていなかった。「新しき土」は以前からDVD化されていたのだが、観る手段がなかったのである。その後DVDプレイヤーを購入したことで、僕にとって幻の作品であった「新しき土」をようやく観ることができたので、ここで書き加えておくことにする。
 「新しき土」の主人公・輝雄役は小杉勇(1904〜1989)。その婚約者光子を当時16歳だった原節子(1920〜2015)が演じ、清純な美しさを見せている。雪洲は光子の厳格な父親役である。ドイツ側の監督は、地質学者でもあり、山岳映画で鳴らしたアーノルド・ファンク(1889〜1974)。そして、日本側監督が伊丹万作(1900〜46)。ただし、伊丹はファンクと対立して早くに降板してしまった。いわゆる国策映画として日独両国の威信をかけて製作されているが、そこまで優れた作品であったとは言い難い。全体的には冗長でまどろっこしい印象を受ける。当時この映画を観たナチスの宣伝相ゲッベルス(1897〜1945)でさえも「映画は映像的にすばらしく、日本の生活や考え方について良い印象を与え、筋書きも妥当である。しかし、やりきれぬほどに長い。ハサミがあれば大幅にカットしてやりたいと感じた。
(*2)」と批判している。
 ファンクは「死の銀嶺」(1929年独)や「モンブランの嵐」(1930年独)などで、美しい自然を堂々と描き上げた作家であるが、「新しき土」でもそうした絶景を見せることを優先させた。その結果、地理的にみて辻褄のあわないちぐはぐな作品となってしまっている。光子の家は京都にあることになっているのだが、彼女の家の裏庭はなぜか広島の厳島神社である。また、ドイツから横浜に入港する船からは松島が見える。ドイツの観客ならばまったく疑問を差し挟むことはないのだろうが、我々日本人にしてみると思い切り違和感がある。伊丹が早々とこの映画の製作から降りてしまった原因はこのような理由からであった。後に伊丹は新たに撮り直した場面を加え、もう一つの「新しき土」を完成させたそうだが、僕はそっちのほうは観ていない。だが、どうやらそれもさほど優れた作品ではなかったようである。

*2 NHK“ドキュメント昭和”取材班「ドキュメント昭和4/トーキーは世界をめざす」 138ページ
 



「新しき土」(1937年日/独)
左よりルート・エヴェラー、早川雪洲、原節子
(「ドキュメント昭和4/トーキーは世界をめざす」より)

 


 「戦場にかける橋」でのオスカー候補は、早川雪洲のキャリアにとって決して頂点などではない。彼の栄光のほんの一部分にしかすぎない。第1回アカデミー賞の授賞式があったのは1928年で、その頃にはすでに雪洲は自らのプロダクションを解散し、ハリウッドを去っていた。もし10年早くアカデミー賞が設立されていたら、彼の実績からいって数度受賞の機会があったに違いない。1958年のオスカー候補も、そんな彼に対しての功労賞的な意味合いがあったと言える。結果的にみて、俳優早川雪洲の栄光にとっての総決算というべきものとなった。1950年代末から1960年代にかけての雪洲の出演作を眺めてみると、ベテラン俳優の余裕とも思えるような映画出演が目立つ。
 70歳の雪洲が上半身裸でインディオの酋長を演じた「緑の館」(1959年米)もそうであったが、国籍不明の海賊の親玉クアラを演じたディズニー映画「スイスファミリー・ロビンソン(南海漂流)」(1960年米)もそんな作品の一つ。この「スイスファミリー・ロビンソン」を僕はアメリカ のシアトルに住んでいた5、6歳の頃に劇場で観ている。もちろん、僕が生まれる前に製作された映画なのだが、当時住んでいた町にはディズニー映画を専門に上映する映画館があり、僕は母親に連れられてよくそこに行った。ディズニーランドにはロビンソン一家の住んでいた木の家(ツリー・ハウス)が再現されており、それは東京ディズニーランドにもあるのだが、日本ではこの映画の人気はどうもそう高くはないような気がする。最近、DVDで約20年ぶりに観直したのだが、割と細部まで覚えていた事に我ながら驚かされた。子供時代の記憶力とは何とも不思議なものである。
 海賊が出てきたということも、もちろん覚えていたが、当時の僕はそれが著名な日本人俳優であるなんてことは、当然知るよしもなかった。僕はこの映画を母と、アメリカ人の友人と一緒に観に行ったらしい。その友人が雪洲を観て、「あれは日本人だ」と言っていたことを僕の母親が覚えていた。母親は「そんなことはない」と答えたそうだが、演じているのが雪洲ということを知らなかったらしい。
 ここでの雪洲は、謎の言語をしゃべり、英語は片言でほんの2、3言だけ。「緑の館」の時と同様、彼の英語を聞くことはできない。
 



「火の海」(1914年)
早川雪洲(中央)と青木鶴子(左)
 


 2005年1月、国立近代美術館フィルムセンター(NFC)では「アメリカ無声映画傑作選」という特集上映があり、雪洲の主演作も何本か上映された。僕も彼の最初期の作品である「火の海(神々の怒り)」(1914年米)と「颱風(タイフーン)」(1914年米)の2作品を観ることができた。
 「火の海」は1914年1月12日の桜島噴火に着想を得て製作された作品で、雪洲のデビュー作。噴火から2週間の後に製作が開始されたという。舞台は古い因習にとらわれる九州の海村。孤独に暮らす父(早川雪洲)と娘(青木鶴子)が主人公である。親子は神を汚したために、預言者(トーマス栗原)によって呪われた血筋とされている。娘が結婚すると、神の怒りによって桜島が噴火するであろう…。だが、娘はやがて難破したアメリカ人船員(フランク・ボーゼージ)と恋に落ち、予言通りに桜島は噴火してしまう。雪洲は25歳ながら、老け役である。後に「第七天国」(1927年米)で第1回アカデミー監督賞を受賞する 名匠フランク・ボーゼージ(1893〜1962)や、日本に帰国後「アマチュア倶楽部」(1920年大活)などを監督するトーマス栗原(1885〜1926)が俳優として出演しているのも特色である。村の様子はあまりに前近代的であるし、仏教徒であるヒロインをキリスト教徒が解放するというのも、アメリカの優越感を示しているような印象を受けるが、聞いていたほど国辱的であるとは思えなかった。当時としては抜群の特殊効果を駆使したクライマックスの噴火シーンのスペクタクルも迫力がある。この映画に関して映画評論家の淀川長治(1909〜98)が雪洲から聞いた話として面白いエピソードを語っている。劇中で雪洲演じる父が、祀っていた仏像を打ち倒し、そこに十字架を立て、娘とアメリカ人船員との結婚の許しを請う場面。ここでの雪洲は迫真の演技を見せているのだが、「あれはなんという台詞だったのですか」と聞く淀川に、「ありゃ、きみ、撮影で同じことをあまりにも繰り返すので、シャクにさわり、大声でハラガヘッタゾ、イツ、メシヲクワスノカッ……これを三度言ってやったが、まわりはみんな日本語を知りゃせんよ、だからなにか名文句でもしゃべったと思ったらしい。ハッハッハ」
( *3)と答えたそうである。
 一方の「颱風」は雪洲によれば、彼が映画界に入るきっかけとなった舞台劇の映画化。雪洲が演じるのは、パリで諜報活動を行う日本人青年トコラモである。彼は恋人との別れ話のもつれから相手を殺してしまう。故郷日本のために、留学生ヒロナリ(ヘンリー小谷)は彼の身代わりとして断頭台の露と消える。だが、やがて真相が明らかとなり、すべては破滅へと向かっていく…。サスペンスタッチのストーリーで、とても面白い。中でも表情を抑えた雪洲の演技は印象に残る。僕としては彼の出世作となった「チート」(1915年米)よりもこっちを高く評価したいところである。雪洲のキスシーンも登場するが、ひょっとしたらハリウッド史上初の日本人のラブシーンではないだろうか? ただ、端午の節句だということで、洋服の上に浴衣を羽織り、屏風や提灯を飾って床に座ってお茶を飲むという、何とも不思議な場面が登場して苦笑させられる。和服に靴をはくという奇妙ないでたちがよく批判されるが、どうもこの場面のことを指しているに違いない。
 両作品とも冒頭は、日本語で「インス会社」とかかれたカーテンが開き、和服姿のキャストが登場しお辞儀をするという形で始まる。大プロデューサー、トーマス・H・インス(1882〜1924)は当時、日本人キャストを駆使し、日系人コミュニティを対象とした日本劇を数多く製作していたのである。早川雪洲も、そんな彼の下に集った日本人の一人であった。


*3 淀川長治「スタア黄金時代」108ページ
 



石垣島にて
「神々の深き欲望」出演中の雪洲
(「聖林の王早川雪洲」231ページ)

 

 
 さて、雪洲が最後に出演した映画は「純情二重奏」(1967年松竹)であった。倍賞千恵子(1941〜)と倍賞美津子(1946〜)が腹違いの姉妹を演じた作品で、78歳の雪洲は美津子の祖父に扮する。僕は観ていないのだが、「キネマ旬報」に載せられたストーリー
(*4)を見ると、雪洲の役はほとんどストーリーには絡まない、ほぼゲスト出演にも等しいものであったようだ。
 今村昌平(1926〜2006)が1968年に監督した「神々の深き欲望」(今村プロダクション)にも、当初雪洲は出演するはずであった。彼がオファーされたのは、娘を溺愛し子供を生ませてしまう老父・太山盛。79歳という高齢を押して石垣島への長期ロケへも参加した。だが、当時の雪洲は、もはや演技のできる状況にはなかったという。結局、途中で降板し、役は嵐寛寿郎(1903〜80)に引き継がれた。
 アラカンこと嵐はこの映画でブルーリボン助演男優賞を受賞している。もちろん素晴らしい出来栄えであったということは言うまでもない。だが、アラカンという人はどちらかというと「鞍馬天狗」シリーズで単純明快なヒーローを演じて定評のあった人 (「鞍馬天狗見参」参照)。こうした“汚れ役”とはどうも容易に結びつかない。一方の雪洲は若い頃には「チート」(1915年米)で悪の魅力を発揮している。
果たして彼が演じていたならば、どのようなものになっていたのか、興味は尽きない。
 そういえば雪洲はアラカンと一度だけ共演している。アラカンの「鞍馬天狗」シリーズにゲスト出演しているのだ。その作品は「鞍馬天狗と勝海舟」(1953年新東宝)で、雪洲は勝海舟を演じている。大仏次郎(1897〜1973)によって生み出された鞍馬天狗は、覆面姿の謎の勤皇派の志士。一方の勝海舟(1823〜99)は言うまでも無く幕臣である。二人の立場は敵対する関係にあるが、日本を戦火から守るため長州との和平に乗り出した勝を、天狗が助けるというのがそのストーリーである。荒唐無稽さが「鞍馬天狗」シリーズの面白さであるのだが、実在の人物をメインキャラクターに持ってきているせいか、この作品は少々地味な印象を受ける。雪洲は堂々とした演技を見せ、ラストでほんのちょっぴりだが剣戟も披露している。

*4 「キネマ旬報 451」1967年10月
 
 



雪洲終焉の地
杏雲堂病院
 


 さて、「神々の深き欲望」を降板し仕事をしなくなった雪洲は、急激に老け込んでしまったそうである。やがて、脳軟化症を宣告される。そして、1972年11月23日午前10:30。世界を股にかけた男早川雪洲はその87年の生涯を閉じた。当時の新聞は彼の死を写真入りの記事で報じているが、扱いはその活躍に比して決して大きいとは言えない。むしろ地味なものであった。主要新聞では毎日新聞が「遥かなり母の国」(1950年大映)で雪洲と共演した山田五十鈴(1917〜2012)による談話「演技者としてはジャン・ギャバンの味でしたね、渋くて、リアルで、すぐれた俳優だったと思います
(*5)というのを載せているのが目立つくらいである。
 雪洲生誕の地を訪ねたのだから、終焉の地も訪ねなければ片手落ちのような気がする。そこで、雪洲が最後の日々を送った東京神田駿河台の杏雲堂病院を訪ねてみた。御茶ノ水の駅から歩いて数分のところにその建物はあった。
 病院の向かいには明治大学のキャンパスがある。晩年の雪洲は娘ほどの年齢の女性と付き合い、永遠の45歳を自認していた
(*6)そうであるが、生命を終えゆく雪洲はどのような思いで若い生命を窓から眺めていたのであろうか。

*5 「毎日新聞」昭和48年11月25日
*6 
野上英之「聖林の王早川雪洲」 220ページ
 



早川家の墓
 


 雪洲の墓は東京世田谷区の松陰神社にある。そこへ行くには都内では珍しくなった路面電車に乗る。松陰神社は、その名の通り吉田松陰(1830〜1859)を 祀った神社で、境内には松陰の墓がある他、彼の私塾・松下村塾が再現されていたりと、なかなか面白い場所である。その墓所の一角に、雪洲は眠っている。
 松陰神社の墓地には着いたものの、雪洲の墓所の案内があるわけではなかった。かといって墓を一つ一つ探していくのも大変だな…と、思って何気なく入り口付近の墓石を眺めていたら、案外簡単に彼の墓所を見つけることができた。
 まだ比較的新しく、綺麗な墓石には、雪洲と彼の妻のツル(青木鶴子/1889〜1961)の名前が刻まれていた。雪洲の戒名は「顕優院釈雪舟大居士」であった。
 それにしても、この松陰神社を訪れる人のうちにどれだけの人が早川雪洲の名前を知っているのだろうかと考えると、どこか切なくなってくる。捧げる花も絶えた、往年の名優の霊にそっと手を合わせた。

     

(2004年8月3日)


(参考資料)
竹中労「日本映画縦断T/傾向映画の時代」1974年9月 白川書院
NHK“ドキュメント昭和”取材班「ドキュメント昭和4/トーキーは世界をめざす」1986年9月 角川書店
野上英之「聖林の王早川雪洲」1986年10月 社会思想社
垣井道弘「ハリウッドの日本人/『映画』に現れた日米文化摩擦」1992年2月 文藝春秋
淀川長治「スタア黄金時代」1993年6月 ホーム社
大場俊雄「早川雪洲―房州が生んだ国際俳優」2012年4月 ふるさと文庫

 

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