妖魔界

18 大空への憧れ

「きゃああああー。…リトゥナ、有り難う。…あーもうっ。空を飛ぶのなんて、諦めたわっ。」

 百合恵は怒鳴った。また上手く飛べずに落ちてしまった。下から飛び上がるより、高い所から飛び降りるほうがいいと言われたので、そうしているのだが、落ちてしまうのだ。お城の一番高い所からで、人間なら即死だ。もっとも、リトゥナか夫が地面にぶつかる前に支えてくれるのだが。

 下できいきい言っている百合恵の所へトゥーリナが降りてきた。

「練習するたびに同じ事を言ってどうする。空が飛びたくて、鳥になったんじゃねえのか。」

「そうだけど…。ちっとも飛べないんだもの。」

 

 10年前。50歳の百合恵は病気で死にそうになっていた。妖魔界では治せない。しかし、彼女を人間界に連れていっても治せる病気でない事は分かっていた。

 取れる道は2つ。1つ、このまま静かに死を迎える。2つ、妖怪に転生する。

 ザンの城の医者にそう言われた百合恵が選んだのは、死、だった。心残りがないわけではなかったが、寿命なのなら仕方ないと思っていた。その考えを変えたのは、夫の一言だった。

「お前は子供を残したまま、さっさと死ぬのか。」

 リトゥナはまだ子供だった。幼すぎる我が子を残しては死ねない。百合恵は妖怪になると決めた。何の妖怪になるか聞かれ、幼い時に空を飛んでみたいと思ったことを思い出し、彼女は鳥になった。

 

「あの時の気持ちを忘れたのか。空を自由に飛びたいと思ったんじゃなかったのか。」

「そうだけど、こんなに難しいなんて思わなかったもの。10年も経ってるのに、少しも飛べるようにならないわ。」

 百合恵は顔をしかめる。疲れてきたし、もう空なんかどうでも良くなっていた。「もう、いいの。」

「俺が(ザンのせいで)仕事で忙しい合間を縫って教えてやっているのに、その態度はなんだ!…大体やる気がないじゃないか。落ちても誰かが支えてくれるって甘えてるだろ。本気で空を飛びたいと思っているようには見えない。」

「そんな事言ったって、羽を動かしてもちっとも浮かばないじゃない。」

「ただ動かしゃいいってもんじゃないって言ったろ。上手く風に乗るようにだな…。」

「もう、いいっ。どうせ、生まれ付き羽がある人とは違うってことでしょ。所詮、元人間じゃ無理なのよ。」

 百合恵は夫に背を向けた。空では、リトゥナやターランが楽しそうに飛んでいた。リトゥナはともかく、ターランはわざと見せつけているような気がした。ターランが馬鹿にした顔でこっちを見ているように見えた。百合恵は、空を飛べなかったのと、夫に怒られた腹いせに怒鳴っていた。

 「トゥーリナが自分のものにならないからって、馬鹿にされるのはもううんざり!こっちが大人しくしていれば、いい気になってリトゥナを苛め放題じゃない。大体あなた男でしょ。男のくせにいつまでも女々しいのよ。さっさと、別の男性なり、女性なりを見つけて出ていきなさいよ!」

 怒ったターランが下へ降りてくる前に、トゥーリナが百合恵の腕を掴んで、自分の方に引き寄せた。これから何が起こるか気付いて百合恵は青ざめた。『ここで?門番や、お手伝いさんだって見てるのに!』

 百合恵は抵抗したが、いつものように無駄だった。小脇に抱えられ、スカートと下着を下ろされて、剥き出しになったお尻をバシバシ打たれ始めた。

「上手くいかないからって、ターランに当たるな。みっともないぞ。」

「だって、本当の事なのよ。痛いっ。いつも、わたしを馬鹿にした目で見て…。痛い、やめて。」

 痛みと恥ずかしさで暴れる妻のお尻へ、トゥーリナは手を振り下ろしつづけた。

「痛い。お願いやめて…。…わたしが悪かったから…。ごめんなさい…。」

「本当に悪いと思っているのか?ターランにちゃんと謝るか?それと、練習を続けるって言えるか?言えるなら、許してやる。」

「言うから…。本当はあんなことは思ってないわ。かっとなっちゃっただけよ…。空だって、飛べるようになりたい…。お願いだから、もうぶたないで…。」

 トゥーリナは叩くのをやめ、妻を下ろした。ターランについての百合恵の意見は正しい。しかし、ターランがいなくては困るのも事実だ。『しかし、あいつなんで、ああなったんだろう…。』

 

 数日後。トゥーリナが仕事で忙しいので、百合恵は、息子と何故かついてきたターランと練習していた。

「僕、もう疲れちゃった。お母さん、もうやめようよ。」

 ターランは手伝ってくれないので、リトゥナは一人で、落ちていく母をつかまえていた。リトゥナに百合恵の体は重い。彼はもう疲れてきっていた。

「いいわ、今まで有り難うね。ゆっくり休んでるといいわ。お昼寝してもいいのよ?」

「そんなに赤ちゃんじゃないもん。」

 リトゥナの年齢についてこの頃やっと理解してきた百合恵。しかし、まだ完全に分かったとは言い難いようだ。

 今度ちゃんと飛べなかったら、まっさかさまに落ちていってしまう。妖怪だから死ぬ事はないが、きっと凄く痛いだろう。百合恵は下を覗き込みながら、青ざめていた。

「最初から誰も助けない方が、落ちたくないから頑張るのに。皆甘やかしちゃってさ。」

 ターランが急に後ろから声をかけてきて、百合恵は吃驚した。その弾みで彼女は落ちてしまう…!

 『死にたくないっ。』百合恵は死なないという事を忘れて、強くそう思った。

「羽を動かしてっ。早くしないと死ぬよっ。…最もその方が、僕はいくらでもトゥーと仲良く出来るからいいけどねーっ。そのまま落ちて死んじゃえばっ。」

 ターランの言葉に百合恵はかっとした。

 

「ほら〜。死ぬ気になれば出来ないことなんてないんだよねー。やっぱり、今まで甘えてたから出来なかったんじゃない。…本当は死なないのに凄い顔して焦ってさ、馬鹿だよね。」

 そう。百合恵は飛んでいた。体がどんどん高みへ登っていく。とても気持ちが良かった。空を飛んでいる。やっと。妖怪になってから10年。長かった…。ターランの嫌味も気にならない。

「おーい。どこまで飛んでいく気だよ!宇宙まで行ったら、いくら妖怪でも死ぬよー?」

「方向転換の仕方が分からないのぉーっ。どうやって戻るの?怖い!助けてぇー!!」

 ターランはため息をつくと、百合恵を追って飛び立った。

 

「これからは、向きの変え方も覚えなきゃね。でも、飛べるようになったのよねぇ。嬉しいわ。…ターランさんのお陰よ。有り難う。」

 百合恵はターランに抱き着いてキスをした。妖魔界に来てから、こんな事も出来るようになった。

「やめてくれよっ。僕は元でも人間なんか大嫌いなんだっ。放してくれーっ。」

 ターランは本気になって嫌がったが、感謝の気持ちで一杯の百合恵は抱きついて放さなかった。

「トゥー。笑っていないで何とかしてよっ。分かったから、放してー。」

 部屋に明るい笑い声が響いた。

 

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