大阪城

小学生ネタで、
「大坂城造ったのは?」
豊臣秀吉?」
「ちゃうわーい、大工さんじゃーい」
というのがありますが、では大坂城を落としたのは誰でしょう。もちろん1614年〜1615年の大坂冬・夏の陣における徳川家康(将軍は秀忠)です。

 この大坂の陣の流れはだいたい次のようになっています。
 まず、ことの発端は、法広寺鐘銘事件です。法広寺に納める鐘の銘に「国康、臣豊楽 」とあったのを、家康の名を2つに裂く呪詛の言葉で豊臣家の繁栄を願うものであると寝言のような因縁をつけたのです。

 豊臣家にそんな意志は毛頭なかったので片桐且元を使者に弁解しようとしますが、家康としてははじめから喧嘩売るために挑発してるだけなわけですから、話がこじれてついに開戦(冬の陣)になります。

 しかし、大坂城は城攻めの天才である秀吉がその知略とあふれる財力、そして年月を駆使して築いた日本史上最強の堅城、籠城されれば例え天下人家康といえどそう簡単に落ちるものではありません。

 そこで家康は、大坂城落しをせず、もっぱら心理作戦を展開します。例えば場内に通じるトンネルを掘らせたり、夜昼問わぬ攻撃を仕掛けたり、さらには曲廊めがけて新兵器の大筒をぶちかますといったことをしました。
 そうやって大坂城方の気力を削いだ上でとどめに寛大な和議条件を携えた和議の使者を出します。和議の条件は外堀を埋めること。大筒に震え上がった淀君はこれに飛びついてしまいます。

 ところが和議が成立すると徳川方は、外堀だけでなく、堀という堀はすべて埋めてしまい、土塁や櫓といったものも破壊してしまいました。さらに二の丸・三の丸はおろか、城壁まで取り壊してしまい、ついに日本史上最強の堅城は、更地に本丸のみという情けない姿になってしまったのです。
 約定違反に豊臣方は腹を立て、再び開戦(夏の陣)となりますが、裸城となった大坂城は、奮戦するもさくっと落ちてしまい、豊臣家は滅亡します。

 この一連の陰険な作戦を立てたのは謀略家本多正信といわれていますが、1700年頃に成立した武野燭談の第1話には次のような記述があります。

 秀吉公大坂の城を築かせ給ひて後、甚だ自慢にて、此城縦令日本国の人数を以て寄せたりとも、摂津一国の士を以て盾籠らば、攻落し得じ。と、ありし時、東照宮、さこそ候はん。なれどももし殿下の智勇を以て攻め給はば、如何候はん。と宣ふ。秀吉公は飽く迄も物毎に慢じ給ふ気性なれば弥々心慢じ給ひ、我に此城を攻めさせなば、安々と攻抜くべし。と宣ふ時、夫れは如何なる御軍法にや。と尋ねさせ給ふ。秀吉公仰せに、さればよ。日本国の人数を従ふ程の勢ならば、一旦これを烈しく攻めて後、和睦を以て総掘を埋めさせ、其後大軍を以てこれを攻めなば落城疑なし。と宣ふ。是れ未然に凶を示し給ふにや。

「武野燭談」巻之一 太閤大坂城自慢の事


 壮麗な大坂城を築いた秀吉公は、それが自慢でたまらず、「この城は日本国中すべての兵が攻め寄せても摂津(現在の大阪)一国の兵だけで籠城すれば落とすことはできない」、と傍らの家康(東照宮)に語った。「えぇ、まったくそのとおりでございます」あいづちをうち、家康はさらに付け加えた。「でももし天才でいらっしゃる殿下が攻め手でしたらどうしますか?」秀吉公はよいしょされると止まらないたちでいらっしゃるので、ますます調子こいてしまい、ついうっかり「わしだったらこんな城簡単に落としてみせるわ」と言ってしまった。そこで家康が「ほうほう、この堅城を落とす神の戦略とはいったいどんなものですか」と聞いたので、秀吉公、「ふむ」と言ってから「日本中の兵を従えるほどの力があるのなら、まずは力尽くでがんがん攻めるのだ。そして和睦を結んで堀を全部埋めてしまう。それからもう一度大軍で攻めれば大坂城如き簡単に落ちるわ。どうだ参ったか」と、おっしゃった。まったく秀吉公も余計なことを言ったもんだ。

訳 メトセラ
 

実際そのように落としたわけで、後世の創作っぽいのですが、家康は 、秀吉公は私の戦略の師匠である、と語っていたとされていますし、「武功雑記」にも同様の話が見えるので、事実無根とも思えない節があります。そうなると、大坂城を落としたのは秀吉か?