派手な外見のショッピングモールは、それだけで既に周囲と世界を異にしていて。
 葵は、今まで菜那緒に話してきた事が、遠い夢の出来事であるかのような錯覚を、感じた。
「わぁ、何かお洒落な感じー」
「葵、何処から廻る?」
「あたしはバッグ見たいんだけど、菜那緒は欲しいのあるの?」
「特に目的は決めていないわ。だから、葵の買い物に付き合うかたちで、欲しいものがあったらで良いの」
 菜那緒がそう言って主導権を譲ってくれたため、葵は手近な店から順に飛び込んで、良さそうなバッグを捜すことに決めた。
 スタイリッシュにディスプレイされた商品を眺めたり、ちょっと気になったものを手に取って見たりするのは楽しかった。そんな作業に取りかかってしまうと更に、電車でした会話が葵の意識から遠ざかっていく。
 菜那緒も気まぐれに洋服の掛かったハンガーを身体に当ててみたりしている。天性の美質故か、どんな服も菜那緒には似合うのだが、モノトーン系のもの方がより綺麗に見えるな、と葵は思う。そして、それは彬にも言える事だった。黒の服を着た二人が並んで立ったら、絵になるに違いない。それも極上の。
「……なんか今、菜那緒が凄く羨ましくなっちゃったなぁ」
「どうして?」
「だって、菜那緒と兄貴は恋人同士で、愛し合ってるんだもん」
 だが、菜那緒が見せた反応は葵には意外すぎるものであった。
 彼女は困ったように小首をかしげ、それから思い切り首を横に振ったのだ。
「全然違うわ、少なくとも、私にとっては」
「ええっーー!?ちょ、ちょっと待ってよ、じゃあ菜那緒は……」
「私の方こそ、葵が羨ましいわ。だって、私には葵の気持ちが解らないから」
「え」
 菜那緒の瞳は真剣そのものだった。もう菜那緒の言葉には驚かないだろうと思っていた葵だったが、混乱はむしろ級数的に跳ね上がっていくようだ。
 しかし。まるで助け船のように、葵の思考を遮ってくる呼び声が。
「あーっ、葵ちゃんー!」
「空知!空知もここに来てたんだ?」
 そこに並んでいたのは、互いに殆ど同じ顔と言っても良いような三人組であった。どちらかというと無性別なスタイルの空知とは好対照の、ふわりとしたファッションの太い三つ編みの子は、彼女の双子の妹の海砂だろう。そして二人より一歩後ろに遠慮がちに立っているのは、空知よりやや表情の甘い、色素がやや薄くて大人しそうな少年だった。間違いなく彼が梧姉妹の従兄弟だろう。思った以上にか弱そうで、むしろ従姉妹の空知の方が少年っぽくて格好良い気がする。
「海砂に拝み倒されて、ここに来るのに付き合わされたんだよ、あたしら。な、陸朗?」
「ひどぉい、空知ちゃん!」
「うん……」
 姉の言葉を避難している海砂の隣で、思った通り、陸朗はうつむきがちに、頼りなさげな高音の声で言った。
「え、桂君――?」
「菜那緒、知ってるの!?」
「く、くく黒羽さんっ!!」
 陸朗が顔を上げて葵の隣の人物を認識した途端、彼の声が上擦って反転した。
「知っているも何も、彼、クラスメイトなの」
「へぇ……世の中って狭いんだねぇ」
「じゃあ、改めて紹介するよ。こっちが妹の海砂で、こいつが従兄弟の桂陸朗。三人とも別の高校なんだよ。海砂、陸朗、これがあたしのクラスメイトの織田葵」
「初めましてぇ♪」
「は、はじめまして……」
「はじめまして。ええと、桂君は知っていたみたいだけど、この子は黒羽菜那緒。兄貴の彼女」
 葵が「兄貴の彼女」という言葉を口にしたとき、陸朗の表情が少し硬くなったのを、彼女は見逃さなかった。
「初めまして、ええと、何て呼べば良いのかしら?」
「名前の方で良いよ、双子だし。あ、あたしらも名前で呼んでいいかな?」
「ええ、解ったわ。よろしく、空知さん、海砂さん」
「よろしく――で、菜那緒ちゃん達は何買いに来たの?」
「私は特に目的は無いけれど、葵はバッグを捜しているんですって」
「えー、それじゃあ、わたし達とぉ、一緒にお買い物しませんかぁ?」
「どうする?葵」
「あたしは菜那緒さえ良ければ全然オッケーだよ」
「じゃあ、決まりね」
 こうして、葵は空知達と一緒にショッピングモールを見て廻る事になった。

(あー……今日は結局、もう菜那緒と二人きりにはならないだろーな)
 前でわいわいと話しながら歩いている、梧姉妹と菜那緒の背中を見ながら、葵はそんなことをぼんやり考えたりしていた。菜那緒がとんでもないことを口にしたときに丁度空知達が来たので、結局それはうやむやのままになってしまっていた。
 三人はなにやら気になる店を見つけると、先に店内に入っていく。自然に、葵と陸朗がペアの形で置いていかれた。
「……あんなに楽しそうな黒羽さんって、初めて見たかもしれない」
 まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、陸朗がぽつりと呟いた。
「え?」
「あ、あ、き、聞かれちゃいましたっ!?」
「うーん……結構大きめの声だったと思うんだけど」
「そそ、そうですよねっ、やだなぁ、僕ったら――あは、あはははは」
 どうやら陸朗は、気弱そうなのに加えてかなり(精神的に)慌て者らしい。本の些細なことでこんなに取り乱すのでは、きっと苦労性なことだろう。
 葵は、三人に続いて店内に入ろうとした陸朗の袖を強引に引っ張って、ショウウィンドウの前に立たせた。
「で、今の、ホントなの?あたしが知ってる菜那緒って、いつもこんな感じだけど」
「学校では、全然違いますよ。教室にいるときは、殆ど誰とも口をきかずに物静かに座ってますし、よく一人で何処かへ行ってしまうし……」
「そうなの!?」
 確かにそれは、葵の知っている菜那緒では無い。陸朗の驚きももっともなものだった。しかし、菜那緒の容姿では、それでも目立たないと言うことは無いだろう。葵はそこのところを陸朗に尋ねてみた。
「あ、はい、あの通り凄い美人だから、影でいっぱい告白されてる、って友達が言ってました。でも、全部断られる――って、当たり前ですよね、あんな美形の彼氏がいるんだから」
「あれ、桂君知ってるの?」
「はい。織田さんのお兄さんって、モデルの織田彬でしょう?実際に見たこともあるんですけど、本当に格好良くって――」
「そんな大したもんじゃ無いよ、うちの馬鹿兄貴は……見栄えは確かに良いかも知れないけど」
(ううっ、こんな話してたら、余計にさっきのことが気になるよぉ)
 その時、物色を終えた空知達が店から出てきた。海砂が手に新しい紙袋を持っていると言うことは、何か購入したようだ。
「葵ちゃん、陸朗、何で店に入ってこなかったの?」
「そ、その……」
「別に、物を見るのにちょっと疲れたから、立ち話してただけだよ。あ、そだそだ、別のところでバッグ見よ?」

 結局、この日は新しいバッグを買ったものの、あまりうきうきした気分にはなれない。菜那緒に話の続きを問いただすことは出来なかったし、陸朗から学校での菜那緒の話をもっと聞くこともできなかった。菜那緒に電話しようかとも思ったが、葵が知りたいことを菜那緒の口から聞くのが何だか無性に怖くて、どうしてもボタンを押すことが出来なかったのだ。陸朗の話をもう少し詳しく聞ければ何となく想像が付いたかも、と思ったりしたのだが、陸朗とは次に会う機会があるかどうかも判らないし、わざわざ空知に陸朗の所在などを訊いて誤解されるのも嫌だった。
(あとは兄貴、か……)
 しかし、いきなり彬に「菜那緒って兄貴のこと嫌いなの?」と尋ねでもしたら、彼は気を悪くするに決まっている。彬の方は菜那緒を愛している事だけは、確証が持てた。不満で腐った心を抱えたまま、葵はベッドの上をごろごろと転がる。
 そう言えば、以前気になる言葉を聞いたはずだ。
『……でも、あんな子といたら彬不幸になる』
 今のは、誰が言った言葉だった?
(そう言えば、あの時華蓮さんが――!)
 華蓮。菜那緒の前の彬の彼女。あの時もとても気になったけれど、単に菜那緒の少しの我が儘を言っているのかと思ったが、本当は、今日の菜那緒の言葉を暗示していたのだとしたら。
『彬不幸になる』
(最近の兄貴が変だったのは、実はその事で、悩んでた?)
 そして彬が悩みを第一に相談する相手と言えば。
「祐人……」

 結局、葵は何も出来ないまま、またいたずらに時間だけが過ぎていった。
 何故ならそれについて何か行動を起こそうとすると、思考が最終的に祐人に行き着いてしまった今、そちらの方が気になって、不安定な気持ちになってしまうのだ。
 「あの時」から、葵は一度もまともに祐人と顔を合わせていない。彬ともそうだし、彼も敢えて口出しをしない。よくよく考えると、彼女は初恋を捨てるための最初の段階さえ踏んでいないのだった。
(祐人に会ったらどうしよう……まず、何て言おう……)
 それこそが正に進行中の恋の悩みであることに、葵はまだ、気付かない。

 都内のとある大型書店。陸朗はよくここを利用する。この日、園芸部員であるところの彼は、その所属に相応しい園芸雑誌を買いに来ていた。
 雑誌をレジまで持っていき、代金を払う。そして薄っぺらな紙袋に入れられた雑誌を受け取り、自動ドアまで歩いていこうとしたとき――背後からいきなり両肩を掴まれた。
「わあっ!?」
「やぁ☆陸朗君っ♪」
「ゆゆゆ祐人さん!驚かさないでくださいよっ!!」
「いやあっ%君は驚いたときの反応が面白いからっ*つい構いたくなるんだよねぇっ@」
「それで、この前はいきなり僕の家に来たんですよね……」
 陸朗は非難がましい視線を祐人に向けた。あの時は、本気で心臓が止まるかと思うほど驚いたのだ。一体祐人はどうやって陸朗の自宅の住所など調べ上げたのだろう。今でも謎である。
「あ#まだ根に持ってたりするっ?」
「いえ、結果的にはプラスというかマイナスというか――気持ちは複雑ですけど、得たものは重すぎるぐらい大きいですから……」
「ところでっ¥『その事』について何か進展あったかいっ?」
「いいえ、全然ですよ。だって、本当のことを知ったからって、僕から彼女に何を言えるんですか?彬さんだって出来なかったのに」
 陸朗は祐人から視線を逸らし、自嘲的な口調で呟いた――彬と祐人以外で、同じ闇の中に介入することを許されたただ一人の人間として。彼の煩悶は彬と同じだった。ただ一つ、彼が菜那緒の彼氏ではないという事を除いては。
「ごめんごめんっ▽僕が悪かったよっ■ところで、君はこれから時間あるっ?」
「え?は、はい、ありますけど」
「じゃあっα僕がおごるからっ$オニーサンとお茶しないっ?」
「――何だかナンパしているみたいな口調ですね?」
「そうだよっ♭さっきも言ったろっ+陸朗君は可愛いからからかい甲斐があるんだっ◎」

『葵、すまないが、暇なら雑誌買ってきてくれないか?』
 父親にそう言われ、葵は一人街に出た。暇な休日、こんな風に過ごすのだって悪くない。勿論、用事を済ませてすぐに帰るというつもりなんて、さらさら無い。帰りは人混みの中で思う存分遊んでくるつもりだ。
 そうするためには、何はともあれ雑誌を先に買わねばなるまい。葵は真っ先に本屋を目指した。
 しかし。彼女はその店に到着した途端、自分の判断を後悔した。
 ああ、だってそこに、祐人がいる。
 そこがたとえどんな場所だろうが、彼が居さえすれば自分は一瞬で発見できるのだ。
 祐人は誰かと話をしているようだった。が、葵はすぐに視線を離したので、相手が男であるらしいという以外は判らなかった。そして、彼らを避けるように、頼まれた雑誌のあるコーナーへと向かった。そして平積みにされている雑誌を一冊乱暴に取り上げると、奥の方のレジに向かう。彼女が店員に雑誌を渡したときには。祐人達は何処かへ行ったようだ。レジで会計を済ませながら、葵はほっとしたような、だがとても寂しい気持ちになった。
(やっぱ、今日はもう家に帰ろうっと)
 もはや彼女は遊び回る気にはとてもなれなかった。すぐに帰宅し、そしてビデオゲームでもやろう、と決めると、少し心が軽くなった。
「――あ!やっぱり織田さん?」
 ビクン。
 横合いから突然声をかけられて、葵は思い切りすくみ上がった。この、高校生にしては高すぎる声の主は――
「か、桂君!?」

 そこにいたのは陸朗だった。もう会うことは無いだろうと思っていた空知の従兄弟――いや、菜那緒のクラスメイト。
「ちょっとあそこから顔が見えたんで、もしかしたらと思ったんですけど。凄い偶然ですね」
 陸朗が指したのは、レジとその後ろの登りエスカレータの向こうの通路だった。そしてその更に奥には喫茶店がある。こちらへの視界が良いとは言えないあの廊下からちらっと見ただけで葵を判別したのだから、彼は内気で目立たないように見えて実はただ者ではないようだ。
「桂君も本買いに来たの?」
「え、ええ、まぁ――」
 陸朗は急に困惑の色を浮かべた目線をきょろきょろと動かした。彼特有の、何処かおかしみを誘う表情である。
 それをこっそり笑おうと思った葵は、だが、最も怖れていたものが目の前に飛び込んできて、時が急速に凍り付いた。
「りっくろーくーん☆いきなり走って行っちゃうからっ、ほんとどーしたのかと思った……よ……」
 祐人の側でも、まさかそこに葵がいるとは思わなかったらしい、陸朗に飛びつこうとした両腕が中途半端に浮いている。
 視線が合った。あの夜のことが、そして悲しかった朝の一言が、握りつぶされた葵の心臓から激しく音を立てて流れていく。
 陸朗がすぐ側で見ているのも忘れ、二人はしばし無言で、視線を顔の幅半分ほどずらして見つめ合った。
(だ、駄目だ駄目だ、ここは平常心!普通に話しかけないと先に進めない)
 にこにこと明るく。今まで彼に向けてきたのと同じ笑顔で。
「久しぶり、祐人。最近全然見なかったけど、元気してた?」
「あ、う、うん◎葵ちゃんこそっ、彬の家にも行ってないんだって?」
「兄貴の奴、相変わらず祐人に余計なこと吹き込んでるんだ。もうちょっと、黙る、って事をしないかな、兄貴も」
 相変わらずの憎まれ口を叩いたが、葵の口からは大きく息が吐き出され、肩が持ち上がってすとんと落ちた。
「あたし他に用があるから、もう帰る。じゃあね、桂君、祐人」
 何もかも断ち切ろうとするかのように、軽くひるがえる葵の髪。
 気のせいだろうか。背を向ける直前に、祐人の手がこちらに伸びたような気がした。

 とりあえず、予定通り喫茶店に入った祐人と陸朗だが、二人の口数は信じられないほど少なかった。状況描写に更なる正確を求めるなら、テーブルに肘をついてあらぬ方向を見ている祐人を、背中を丸め肩を縮こめた陸朗が上目遣いでじっと見ている。
 ウェイターがエスプレッソをテーブルに置こうとして、遠慮がちに話しかけて初めて、祐人は自分が今何処にいるのか気付いたようだ。
「祐人さん、その、葵さんと何かあったんです、ね?」
 陸朗の言葉は二箇所で声が小さくなった。一つは葵の名前のところ、もう一つは語尾。祐人の前で、彼は通常彬のことを「織田さん」と呼ぶので、便宜上区別を付けなければならなかったのだが、陸朗が従姉妹達以外の異性を名前で呼ぶことは滅多にない。言葉の最後を躊躇ったのは、当然のことだった。
「やっぱ陸朗君には敵わないな……▼」
 祐人とて、先程は平生を装うために最大限の注意を払ったのだ。しかしこの葵と同じ年齢としの少年には、それら全てを見抜かれてしまう。
 たとえば華蓮や菜那緒は「女」としての鋭い直感を持っていて、同じ匂いを嗅ぎ分けるのは非常に巧い。祐人自身も様々な経験から、ある種の人間観察――菜那緒達と殆ど同じ領域に属するかも知れない――を得意としていた。
 しかし陸朗はそれらを越え、全ての違和感を五感と同じように感じ取ってしまう。どんなに上手な嘘も彼の心眼にはほころびとして映る。感じたことが具体的にどうとは表しきれないことが多いらしいが、鍛えられたものではないそれはもはや天賦の才とも言えた。
 陸朗の前で葵と話したのは間違いだったと祐人は思う。しかし陸朗は言葉を繋げる代わりに紅茶を一口飲んだ。
「なにも、訊かないんだね@」
「ちょっと言い方が悪いかもしれませんが、僕は織田さんと黒羽さんとのことに関わる許可は貰ったかもしれませんけど、あなたと葵さんとのことに首を突っ込む権利は無いですから。だから深い事情は尋ねません」
 そこでいったん言葉を切り、「まぁ、でもこれだけは言っても良いですよね」と前置きする。
「きっと葵さんは祐人さんにとって大事な人なんでしょうね?」
「それが、僕にもよく判らないんだよ、ちっとも判らないんだ――」
 陸朗が再びカップに口を付けたのは、祐人の言葉が嘘ではないからかもしれなかった。

 気付いたら祐人は陸朗に色々なことを話していた。織田兄妹と初めて遇った日のこと、子供の時の母親の職業に対するコンプレックスと、それを氷解させた彬の一言。それ以後の、崇拝にも似た彬への思い。それは祐人の十数年間そのものと言えたかも知れない。
 陸朗は先を促すでなく、ただ静かに祐人の瞳を見ている。だから、祐人は独り言のように言葉を紡いでいられた。か細いながらも、彼にしては珍しい落ち着き払った声で。
 最後になって漸く、葵のことがでてきた。
「葵ちゃんは、昔からいつも僕らにくっついて来て、それが当然のように思ってた。あの子は見たとおり明るくて裏表が無いし、彬とは別の意味で側にいて楽だったのは、確かだよ」
 屈折しきった自分自身とは正反対の、光のような心。だから祐人が葵を可愛がり、大事にしていたのは事実だった。彼に実際に妹がいたとして、果たして同じように接しただろうか。それは永遠の謎だ。
 しかし祐人は葵が自分に向ける明るさが当たり前だと思いこんでいたために、それが恋ゆえだったのだと気付けなかった。あの夜、酩酊した聴覚神経に叩きつけられた彼女の激情に、驚愕し、そしてその後、何故自分があのような行動に出たのかは思い出せない。結果的に祐人が葵を傷つけたことに代わりはないのだが。
「葵ちゃんは『あたしは兄貴の身代わりじゃない』って言ったんだ。そう言われたときは――確かに葵ちゃんには、彬にはしてやらないことも幾らでも出来る。もし、自分が今まで思っていたのとは違う、葵ちゃんが言ったような理由があの子に構っていた本当の理由だったら、って思ったら、僕も凄くショックだった」
 葵が祐人の一言を忘れることが出来なかったように、彼もまた、部屋を飛び出す直前の葵の顔が脳裏から離れない。
 そしてその時、自分は二度と葵の笑顔を見れないのだと痛感したのだ。
 祐人はそこで、またテーブルに肘をつく。陸朗は本日三杯目の紅茶をオーダーした。こういう店の茶菓のたぐいは高く付くが、陸朗は何も飲食しない状態で、店員の目を気にしながら長いこと店内にいるのに耐えられないのだろう。
「ここまでで、何か質問はある?」
 おどけた調子で言う、祐人。しかしサングラス越しの瞳は決して笑んではいない。
「じゃあ、あの、一つだけ。彬さんは葵さんが祐人さんのことを好きだったって知っていたんですか?」
「彬も知らない。彬は、ああ見えて相当、鈍感なんだ。きっとその事で僕より驚いたのは、あいつだよ。それで思いっきり、殴られた――」
 喧嘩したことなら何度もある。だが、これで絶交かも知れない、と祐人がそれほど怖れたのは初めてのことだった。そしてそうはならなかったときの安堵感。それは葵の涙を見たときよりも強烈な感情の動きで、やはり自分は彬無しではいられないのだと思う。
 だから、迷うのだ、葵がいない喪失感に。
 一番大切なものは何なのか解っていたはずなのに。

 陸朗は結局、あれから終始無言で祐人の話を聞いていた。そして、それが終わっても、彼は感想の一言ももらさなかった。彼は今日呑んだ紅茶代を払おうと財布に手を伸ばしたが、流石に気が咎めた祐人はそれを押しとどめた。最初から、自分が彼のぶんまで支払うつもりだったのだから。
「そんな、二千円以上もおごってもらうだなんて、悪いですよ」
「いいんだ☆こんなに長いこと付き合わせちゃったし$」
「そ、そうですか?なら、僕はもう家に帰りますけど」
 陸朗なら預言者のように啓示を与えてくれると、心の何処かで思っていたのだろうか。砂を噛みしめたような、味気ない寂しさ。だがそれは祐人の過大な期待に過ぎない。
 だが、陸朗は本当に本当の別れ際、今一度祐人を振り返った。
「勝手なこと言ってるかもしれないですけど、僕、祐人さんはもう知ってるんだと思いますよ!」

 ちゃんと頼まれた物を買ってきた葵に父親は文句を付ける必要も無かったし、母親は最近電話のない彬のことを心配していて、彼らは遅くまで帰ってこなかった葵の様子に別段注意を払っていなかった。
 だが、ものの数分の再会ですっかり疲弊しきった葵は、すぐに自分のベッドにダイブした。彼女を照らすのは熱帯魚の水槽のネオンだけ。
 葵は祐人と別れてから、家に帰ることさえ嫌になって、何をするでも無く陽が落ちるまでひたすら繁華街をさまよっていた。「祐人と普通に会話した」という自分の行動の成果に対する寂しい満足感だけが、彼女の四肢を辛うじて動かしていた。
 しかし、今はもう重力から解放された魚の気分で、マットの海に身を沈める。古びて千切れた水中花の花弁のように、意識はひらひらと水底へと堕ちていく。
 しかし、そんな夢想は長くは続かなかった。
 鞄の奥から幽かに聞こえる、携帯の着信音。葵は慌てて飛び起きて、それを乱暴に取り出した。ボタンを押すのを躊躇わないよう、親指で力強くボタンを押して。
「もしもしっ!?」
『あ、あの、もしもし……織田葵さんでいらっしゃいますか?』
 震える、音階の高い少年の声と一緒に、葵の緊張感がはじけた炭酸のように抜けていく。
「かつらくん――」
『すすすすすすいませんっ!いきなり葵さんに電話したりし――ああっ、僕、まだご本人の了承取っていないのに馴れ馴れしく名前で呼んだりして!すいません、すいませんっ!!』
「別にいいよ、あたしの知り合いはみんな名前で呼ぶし、さっきはちょっと気が抜けた、って言うのかな、桂君を嫌がったわけじゃないし。あ、その前に、何で桂君があたしの電話番号知ってるの?」
『前、祐人さんの家でこっそり電話帳調べたんです』
 実は以前にあったことへの仕返しでして、と、まだ裏返った陸朗の声はしかし、笑っていた。何の「仕返し」か葵には皆目見当が付かなかったが、追求はしなかった。
「あたしももう一度桂君と話したかったんだぁ。訊きたいことがすっごくいっぱいあって。でも、今日でまたその項目増えちゃったなぁ」
『僕が祐人さんと知り合いだったってことですか?』
「うん」
『僕が黒羽さんと同じクラスなのは知ってますよね?それで、以前今日と同じ本屋で織田さんと一緒にいる黒羽さんを見かけて、気になって二人の様子を見ていたら、突然後ろから肩を掴まれて――』
 なるほど、いかにも祐人らしい登場の仕方だ。陸朗のように繊細な神経の持ち主には、さぞかしショックが大きかっただろう。
『それから、あの人とは結構会う機会があって』
「ねぇ、それって、もしかして菜那緒と何か関係があるの?」
 受話器から漏れる音が、一瞬だが大気中のノイズだけになる。葵にはそれだけで充分だった。
 やがて、遂に意を決したらしい陸朗が後を続け始めた。
『祐人さんはあの二人のことをとても気にしているんです。僕は偶然、それについて知ってしまって、だから時々祐人さんと話をしたりするんです。でも、所詮僕は無力だから、黒羽さんが学校でどうだった、ぐらいしか言えないんですけど』
 あなたも気付いたんですね、と陸朗は行った。今度は葵が沈黙で返す番だった。
『僕は黒羽さんから、祐人さんは織田さんから断片的な事を聞いているけれど、僕から葵さんに言っていいかどうか、ちょっと判断つけられなくて……』
「ん、いいよ、無理に話さなくても」
 本当はそれが一番知りたいことだったし、残念な気がしなかったと言えば嘘になる。だが、このいかにも善良そうな少年を困らせるのは、たとえ相手の顔を見ていなくても、気が引けた。ただ、陸朗が菜那緒から直接事情の一部を語られた、というのは貴重な情報であった。
 陸朗の方は、何とか話の軌道を戻そうとしているようだ。
『でも祐人さんって、他人と言うか織田さんの気持ちとかは凄く理解しているのに、あの人自身のことには凄く不器用みたいに見えて』
「不器用……?」
 前半が気にならないでも無かったが、今の陸朗の後半の台詞に葵は驚いた。彼女が知っている祐人は、たとえ何を考えているかがよく判らなくても、いつでもうまく立ち回れる「年上の人物」だった。
『差し出がましいことを聞いていいですか?』
「え、何」
『葵さんって祐人さんのこと好きでしょう?』
「う……」
 そんなに自分の想いは見え見えだったのか、と、葵の気分は少し暗くなる。ただでさえ祐人の名前が出てきたときから落ち着きを喪っていたというのに。
「でも、あたしどうしても勝てない相手がいるし、もう諦めようと思ってんだ――」
『そんな無理する必要は無いですよ。葵さんはプラトニックラブの意味を知ってますか?』

 この日は撮影が思った以上に長引いて、彬がスタジオを出た時には周囲はすっかり暗くなっていた。今日は確かな約束も何も無くて、彼は足早に自宅に向かおうとしていた――が。
「彬☆」
「祐人、お前またこんなところで何をしているんだ?」
「見ての通りっ、君を待ってたんだよ%」
 いつかと同じように、彼は彬が出てくるのを表で待ち伏せしていたらしい。デジャ・ヴから泰基まで出てくるのではないか、と彬は構えたが、幸いにも(?)今回は祐人一人だけらしい。
「――彬、この後何か予定あるっ?」
「非常に残念だが、何もない」
「じゃあ僕に付き合ってよっ♪」
「別に、構わないが……」
 祐人が何をしようとしているのか図れない彬は困惑の表情を浮かべたが、取り敢えず承諾した。互いに何処の店に行きたいという希望もなかったので、二人は彬の自宅に行くことになった。
 その道程、祐人がかつて無いほど無口なのが彬の気にかかった。自然と、自分の口も重くなってくる。こうして二人で黙ったまま歩くのは、中学生の時、体育大会のリレーで彬がゴール直前で転倒して優勝を逃した、あの時以来かもしれない。
 けれど今は語りたがらないのは祐人の方で。彬はそんな親友の肩を横目で見ることしか出来なくて。
 無論、妹との事で生じた、祐人に対するある種のこだわりが彬から完全に消え去った訳では無い。しかし、葵に懇願された事を差し引いたとしても、やはり祐人はかけがえのない親友に違いなかった――いつも心配されているが、彬とて祐人の心配をしないわけでは、無いのだ。
 彬の部屋に至るまでの時間は曖昧で、とても長い間のような気がしたが、もしかしたらそれは刹那の一瞬の出来事だったのかもしれない。
「ほら、祐人、あがっていけよ」
「それじゃっ$遠慮なくっ@」
 殆ど何も入っていない冷蔵庫から彬は缶ビールを出してくる。そんなこともあろうかと用意してきた、と祐人はその合間にさきイカの袋を置いた。さきイカは彬の好物の一つである。ちなみに祐人は、サラミの方が好きだ。
「――さぁ、お前が何のつもりか、話せ」
 彬は腰を落ち着けるとようやく心の平安を取り戻したらしく、面と向かって祐人の双眸を睨んだ。
「わざわざ待っていたんだ、言いたいことでもあるんだろう」
「彬は、菜那緒ちゃんが大事かい?」
 はぁ?と彬の声が裏返った。何を今更、と言わんばかりの顔である。事実、その一瞬後、彬は予想通りの台詞を口にした。
「そんな事を言うためにずっと外に突っ立っていたのか?」
「いや、本題はここから★もちろん、彬にとって菜那緒ちゃんが『一番大事な人』だよね?」
「当たり前だ」
「じゃあ、それはどれぐらい?葵ちゃんや僕らは彼女に比べて取るに足らないぐらいかい?」
「……?」
「だとしたら、彬は僕が今言った、菜那緒ちゃん以外の人がいなくなったとしても、『一番大事な人』さえいれば別に悲しくも何ともないっ?」
「おい、ちょっと待て」
 一気にまくし立てる祐人を彬は押しとどめようとする。心情が行動に表れてしまい、思わず祐人の顎を思い切り押してしまった。
「うぐ……#」
「あ、済まない……」
 体勢を元に戻してから、彬はゴホッ、と咳払いをする。
「祐人、お前、菜那緒とお前達を無理に同一線上に置いてものを言っていないか?」
「え?」
「……あのな、確かに俺が今まで付き合ったことのある女同士を比べたら、誰を一番好きになったかははっきり断言できる。だがな」
 お前や葵と比較してどうする、と彬は言った。
「そもそも感情のタイプが全然違うだろう?お前、やっぱり今日は何処かおかしいぞ」
 真剣に心配はしなくて良い事態らしい、と判断した彬はすっかり呆れているようだ。が、祐人は更にほうけた表情で、先程彬に掌を当てられた顎を撫でさすっていた。
 そして突然彼の胸ポケットから、単音の着信メロディが――

 窓から見える景色は静寂を感じさせるほど穏やかなのに、休日、その路線はアミューズメントパークに向かう親子連れやカップルで朝から混み合っている。
 着いたらまずはジェットコースターに乗りたい、着ぐるみを見つけたら一緒に写真を撮りたいね、などと言う会話が四方で飛び交っている中、葵は独りつり革に掴まって、煙のような雲が薄く伸ばされた空を見ていた。背の高いビルのない景色は、ただそこに在るだけで眩しかった。
 葵が目指しているのは、無邪気な子供達の目的地とは異なる場所で。多分、彼らより気疲れすることは、まず無いだろう。
 ただ、彼女とて当初は不安が全く無い訳ではなかった。葵は、自分が何故そこに行かなければならないのかと言う、明確な説明をされていない。家を出る直前まで、行くのを取りやめようかとも思ったが、久しぶりの晴天を仰いだ時、彼女の心は決まったのだ。

『葵さんはプラトニックラブの意味を知ってますか?』
 突然、何の脈絡も無さそうな話題をふられ、葵は少し戸惑った。
「精神的恋愛、って言うか、清く正しい恋愛って言うか……とにかくそんな感じでしょ?」
『ええ、まぁ。一般的にはそうですよね』
「『一般的には』って、どういう事?」
『プラトンが生きていた時代には、そういう理想論は男同士の友情には当てはまるけど、女性ははなから対象外だったらしい、という話を、何かの本で読んだことがあったんです』
「へぇ」
 あまり読書などしない葵には、文字通り初耳の話だった。陸朗は、よくそんな小難しい本を読んでいるのだろうか。
『多分、古い時代はどの地域でもだいたい女性蔑視みたいな思想が一度は蔓延していますから、そういうのもかなり関係しているんでしょうけど。それに、「男の友情は女のそれとは違って長期市場だ」なんて事も時々聞きますけど。それって本当なんでしょうか?僕は男だから、ちょっと女の人の友情がどうかだなんて解らないんですけど』
 既に葵にとっては、陸朗の意図するところの見当が皆目付かないため、頭からクエスチョンマークが生えかかっている心理状況である。あと少しで飛び出してきて、周囲をぱたぱたと飛び回りそうだ。
「う、うーん、あたしに言われてもさぁ、あたしだって桂君と同じだけしか生きてないし、確かめようが無いよ」
『そうですよね。でも男の場合、たとえ一方的な状態でも、あり得るのは納得できますよね?』
「あ、そっか……!」
 相当回りくどい話のもって行き方だったが、要するに陸朗は、祐人と彬の現状、いや少なくとも祐人の彬に対する感情の事を言いたかったのだ。
 確かに、的を射た表現かもしれない。だから、彼女は兄に、嫉妬した。
『でも、だからって古代ギリシャに今の意味での恋愛が全く無かった、と言うのは嘘だって、僕は思ってますから』
 思いがけぬ陸朗の力強い声、核心に満ちた口調。だが、すぐに独り言のような調子トーンにまで落ちて。
『あの人って、何となく黒羽さんと似てるんですよね。上手く説明できないですけど』
「――ねぇ、今度はあたしが桂君に差し出がましいこと訊いて良い?」
『え?』
「桂君こそ、菜那緒のこと好きなんじゃない?」
『はい』
 陸朗は間髪を入れず、葵が今まで聴いた中で最も力を込めて、答えた。誰かを好きになった、そのことを後悔していないという強さが、電波の向こう側からも伺えた。
『最初から黒羽さんには彬さんがいることは知ってます。それでも、彼女を好きなこの気持ちは、僕の心の一番大切な部分ですから――』

 そこは、広い海浜公園。背後に見えるのは高架線ばかりで、近辺に人が住んでいるという色は薄かった。塩を含んだ向かい風は心なしか膚にべたりと張り付く感じで、葵は今夜念入りにシャンプーで髪を洗わなければ、と、いかにも年頃の少女の発想で思う。
(そう言えば、ちっちゃい頃に家族で来たこと、あったな)
 既に奥の方にちらと見える、透明なドームをエスカレータで下層したに降りると、水族館があって。
 鳥や獣より魚の方が大好きな葵は、母親の腕を両手で掴んで、早く行こうと催促したものだった。そんな彼女に両親は微笑ましい苦笑を浮かべ、兄は聞こえよがしの溜息で呆れるのだ。だがそんな彼らなどお構いなしに葵は魚達の名前を一つ一つ読み上げ、イルカショーが見たいからと家族を更にせかし、最後には熱帯魚をデフォルメ化した可愛らしいぬいぐるみと、そして大好きな幼馴染みへのお土産を買って貰うのだ。
 入園ゲートから少し離れた場所に建っているその建造物は、その時と少しも変わらない様子で佇みながら、葵が来るのを待っている。
 葵はゲートでチケットを切って貰うと、まっすぐその足下いりぐちを、目指した。

『えっと、そのことは置いておくことにして、葵さん、次の日曜日は予定ありますか?』
「な、何、いきなり」
 陸朗の話はまたも突拍子のない方向に逸れて、葵を驚かせた。
「一応、まだ友達と約束してるって訳じゃないし、テストは一昨日終わったばかりだし、暇なことは暇だけど……」
『そうですか、良かった!でしたら、●●水族園の熱帯魚の水槽の辺りに、十時半に来てください』
「へっ!?」
『いいですか、お願いしますよ、絶対ですよ!!』
「待って!一体何のつも――」
 しかし、無情にも通話はぷつりと閉ざされて、葵の言葉は彼女の携帯のアンテナに取り残されてしまった。陸朗はご丁寧にも、電話を非通知でかけてきていた。

 近くのアミューズメントパークの方が人気があるとは言え、こちらにもその存在に見合うだけの客が訪れているようで、そこそこ混雑していた。中には遠足で来ているらしい制服の一団もある。
 もう約束の時間まで余裕は無かったのだが、思わず葵は一つ一つの水槽に見入ってしまう。ブレーキという単語を知らない回遊魚たちが泳いでいる中に、清掃員とおぼしき潜水服の人物が一人混じっていて、中学生達の興味を引いていた。
「おい、あの人、マグロとぶつかったりしないかな」
「さぁ?もしそうだとしたら、マグロも人もどうなるんだろうねぇ」
 そんな彼らの会話の続きを訊かずに、やっと時計を見て時間のことを思い出した葵は先に進む。
(桂君、一体どういうつもりなんだろう)
 少し自惚れたものの見方で言うならば、彬がいると知ってもなお菜那緒を好きだと言った陸朗が、その舌も乾かぬうちに葵をこんな所に誘ってくるのは変だった。しかも、ご丁寧に入園券まで送りつけてきて。電話があった二日後に届いた封筒には、葵の住所氏名が一字一句丁寧な(男としては珍しいな、と葵が思ったほど)細い線で書かれていたが、裏面に記入されていたのは彼の氏名だけで、後は郵便番号すら無かった。これでは、要らないからと送り返すことも出来ない。それが、彼女が今朝まで出かけるのを迷った原因だった。とにかく彼の空知と殆ど変わらぬ顔を発見したら、挨拶より前に文句を言ってやらねば気が済まない。
 しかし。
 薄暗い館内の、青い水槽が発する光を受けて浮かび上がる背の高いシルエットは。
「え、な、何でそこにいるの!?」

 熱帯魚の水槽の前に立っていたのは明らかに陸朗ではなく、そして彼の方でも葵の登場は予期せぬものであったらしく、困ったように耳の辺りを掻いている。
「……やぁ☆」
「ゆーじん――」
「もしかしてっ&葵ちゃんも陸朗君に呼び出されたクチ?」
「うん、先週、祐人達と別れて家に帰ってから、電話があって」
 それを聞いた祐人は、思わず掌で顔を覆った。
「まさか陸朗君がそう言う手段に出るだなんてっ▽これっぽっちも想像しなかったよ▲」
「え――?じゃあ、やっぱり祐人も桂君にここに来いって言われたんだ?」
「うん◎」
 必要以上に深く頷く祐人を見て、視界がくらくらした。荒波の上を漂っているかのように。
「彼っ%『機会』をくれたんだなぁ*確かにそうでもしなきゃ葵ちゃんとはまだ話せなかった◇」
 祐人は、愛用のサングラスを外してそれを胸ポケットに入れた。
「葵ちゃん」
 そして葵を更に動揺させるかのように、祐人が真剣な声で彼女の名を呼ぶ。反応できずに葵が立ちつくしていると、まるで壊れ物を扱うような仕草で祐人の両手が彼女の肩に触れた。
「僕はまだ、葵ちゃんにしたこと謝ってなかった。あの時は、本当にごめん。アルコールが入っていたからって、そんなのは言い訳にならないよね?」
「う、ううん、あたしだって、いきなり押し掛けといて祐人に無茶苦茶な事言ってたし、その、あの」
 不意に胸からこみ上げてくるものに必死で耐えようとすると、逆に自分が何を言っているのかなかなか制御できなくて。今まで、祐人がこんな風に真摯に葵の双眸を見つめるなどということは無かった。
「でも、僕、やっと解ったよ」
「な、にが?」
他人ひとに散々偉そうなこと言ってたのにさ、僕自身の事は今まで棚に上げてたんだよ。陸朗君や彬に教えて貰うまで、自分の気持ちを無理矢理一つだって思いこんでた」
 情けない話だよね、と苦笑する祐人の表情はたちまちのうちに満ちた水の膜に遮られて、葵には良く解らなかった。
「確かに僕は彬のことが大事だけど、葵ちゃんは彬の代わりなんかじゃないんだ。葵ちゃんに対する僕の気持ちは、あいつに対するのとは全然違うんだ。葵ちゃんがいなくなったら、どうしようもなく悲しいぐらい――たとえ、もう許して貰えなくても、それだけは言いたかったんだ」
 遂に我慢できなくなった涙が、次から次へと葵の頬を転がり落ちる。
「ゆるすよ……ゆるしたげるよ、祐人……」
 だって、本当に初めてのことで、どうしようもなく嬉しいのだ。
 かつえたように望んだ祐人の心が、今、葵だけに向いているのだから。

 ようやく葵の涙が止まって、やがて二人は自然に水族館の展示の方に注意を向けた。改めて先程の熱帯魚の水槽を見ると、ツノダシやチョウチョウウオらが入り乱れて泳ぐさまは、水槽が広いだけあって、ペットショップで見るのよりもずっとずっと素敵だった。
「わぁ、綺麗……」
「そう言えば葵ちゃんって魚好きだったね♪」
「うん」
「昔っ+葵ちゃんに水中花をプレゼントしたことあったよねっ?」
「あれ、実は未だ持ってるんだ」
「そりゃあ光栄だねっΦ」
 ねえ葵ちゃん、と、祐人が少し甘えた声で葵の顔をのぞき込む。
「僕達っ@もうあの時の関係に戻れるよねっ?」
 だが葵は首を思い切り横に振った。
「ううん、戻れないよ、絶対」
「えψ」
 予想外の葵の言葉に、祐人の表情が少し引きつる。だが、葵はおかに上がったリトルマーメイドのような笑顔で、言った。
「だって、これから祐人にあたしのこと、絶対好きにさせて見せるんだから!」
 返事の代わりに返ってきたのは、目の前の水槽のグラミー達がするよりもずっとずっと長い、キスだった。

- Fin -

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