駅構内に貼られた一枚のポスター。
その前に佇む女は。
当時まだお世辞にも売れているとは言い難かった彬と、既に多くの人間の視線を独り占めにし、トップモデルの名を恣にしていた華蓮との恋愛関係は、むしろ華蓮の方が積極的に彬に働きかけ、成り立っていたものだった。
葵も何度か華蓮と会ったことがある。彼女から受けた好印象は、最初に向けられた敵愾心や売れっ子であること故の多少の驕慢を差し引いてもまだお釣りが来た。華蓮にはその名の通り華があった。彼女がそこに存在するだけで、周囲の雰囲気が違うのである。
しかし、今葵が駅で見かけた華蓮には、そんな様子は微塵もなかった。
「あの……華蓮、さん?」
おそるおそる声を掛けると、静寂の女はゆっくりと葵の方を振り返った。
「あら、葵ちゃんじゃない。久しぶりね」
華蓮がその前に立っていたのは彬が被写体となり泰基が撮影したあの宣伝ポスターだった。華蓮の白い指が、つつ、と彬の顔の輪郭をなぞる。
「知ってるわよね……あたし振られちゃった」
華蓮は泣いてはいなかった。しかし、その顔に葵はむしろより深い嘆きを見た。望めばいい男などいくらでも集められるであろう彼女は、本当に彬のことを愛していたのだ。
「彬から、他に好きな人が出来たから別れたい、って言われたときは正直凄いショックだったわ」
華蓮はホーム座席で買った缶コーヒーのプルタブを開け、葵に手渡した。
「あ、有り難うございます」
「プライドが傷ついた部分も、正直なところあったのよ。『あたしよりいい女がいるの?』って感じで。流石に嫌な女だって思われたくないから彬には言わなかったけど。ねぇ、葵ちゃんは彬の新しい彼女、見た?」
「はい」
応えながら葵は自分が菜那緒と親しくなったことを何とは無しに後ろめたく感じた。
「確かに、あの子ダントツに綺麗だった。あれでどこかの事務所とかに入ってないのが不思議なくらいよ。一目であたし、負けを認めちゃったわ」
「そんな」
確かにそうかもしれない。だが、本来華蓮と菜那緒とでは纏う空気が根本的に違う。それは例えば真夏の開放的な紺碧の海と月下の神秘的で静謐な湖の違いであり、華蓮が簡単に敗北を甘受する必要など無いのである。
ただ、菜那緒にはある種病的な「何か」があることを葵は無意識に感じていた。漠然とした感触なので上手く意識に上がってこず、もやもやとした気分が晴れない。彬にはそれが解るのだろうか。
しかし、次の一瞬華蓮は厳しい顔つきになり、暗い声で呟いた。
「……でも、あんな子といたら彬不幸になる」
「華蓮さん?」
「ああ、あたしが葵ちゃんに言ったらアンフェアになるわね。今のは忘れて」
その時、ホームに電車が入場した。
祐人の自宅のインターホンが鳴らされた。事務的な機械音のはずなのに、何処か甘さのある音。
「はぁ〜いっ、どちらさまですか☆」
『俺だ、祐人』
声の主は彬だった。祐人がドアを開ける前に、彼は勝手に中に上がり込んだ。葵にも許されていない、彬のみの特権である。
「一体どうしちゃったんだい?電話もなしにうちに来るなんてさ∞ま、とにかくっ、適当なとこに座って◆なんか飲む?」
「別に、いらない」
それでも祐人が缶ビールを二本持って彬の向かいに座ると、彬は祐人の前にくしゃくしゃに握りつぶされたチラシを出した。
「――お前、このビデオ、知ってるか?」
チラシを取り上げ、彬の指すタイトルを読むと、祐人は暫く無言でこの幼なじみを見つめた。
「あぁ、五、六年前ぐらいから流通してるやつ♪」
祐人はわざと彬の懸念と少し離れたところにあることを言った。多分、彬も口では言いたくないのだろう。
「彬が買ったのがバレちゃったら、ちょっと大変だもんね☆仕方ない、僕が代わりにやったげよう」
ああ、余計なの買わなきゃいけないのつらいな▽、などとぼやきながら祐人は電話のボタンをプッシュしだした。
だが、そんなふざけた口調とは裏腹に、祐人の指は彬の握りしめた拳に劣らず、震えているのだった。
華蓮と遭遇したことで、葵の心は揺れている。
『……でも、あんな子といたら彬不幸になる』
心に打ち込まれた楔のような華蓮の言葉。そして、まるでそれを裏付けるかのように憔悴してゆく彬。だが、葵にはどうしても菜那緒が人を陥れる悪魔のような少女とは思えないのだった。
葵はこの日、文化祭の出店の準備が一段落すると、クラスメイト達に先にいとまを告げて学校を出た。こんな時にもやっかいな宿題があるので、彬の携帯に電話を入れようとしたのだが、確か菜那緒の授業が終わったら逢う約束をした、という話を思い出して止めた。今回は兄を頼りに出来ない。祐人にもかけてみたが、話し中らしくこちらも駄目だった。
(仕方ない、明日誰かに写させてもらおうっと)
そう腹を決めてしまうと、急に寄り道がしたくなった。久しぶりにCDでも探そう、と葵は行きつけの大手レコード店に向かった。
新譜のコーナーで、バンド系のアルバムをとっかえひっかえ手に取っていると、ふと試聴コーナーにいる女子高生の後ろ姿に見覚えがある。
「菜那緒?」
肩を叩くと、女子高生はぴくっと肩を震わせた。驚いて振り返ったその美貌の顔は確かに菜那緒だ。
「何、葵だったのね?驚いたわ」
「驚いた、って……昨日メールで兄貴と逢うって言ってたじゃん!?」
「ああ、それね、やめたの」
あまりにさらりと言われてしまったので、葵は二の句を付けることが出来なかった。
「ちょっと、今日はそんな気分ではなくなってしまったから」
「そ、それでいいの?」
葵に言えたのは、やっとそれだけである。
「嫌だよあたし、次に兄貴の部屋に行ったとき、二人の修羅場を見るのは」
「大丈夫、彬とはちゃんと約束しているから」
そう言うと菜那緒は時計を見、もう帰らなければならないから、と言い、レコード店を出ていった。
「さようなら。また、携帯かメールでね」
「うん、じゃぁね……」
菜那緒の背中を見送りながら、葵は呟いた。
「『……でも、あんな子といたら彬不幸になる』」
(それって、菜那緒が見かけによらず以外と我が儘ってことなのかな。まぁ、兄貴が後で何も言わないなら、あたしがどうこう言うことじゃないんだけどさ)
自分だって散々祐人を振り回してるんだから、と葵はさっきまで菜那緒の使っていたヘッドホンを耳に当てた。
「――これは」
「ああ……」
祐人は渇いたのどがかさかさと音を立てるのではないかと感じた。己の意志の存在をきちんと掴んでおかないと、すぐに引きずり込まれてしまいそうだ。隣の彬を盗み見ると、時の止まったかのように表情が凍り付いていた。
「祐人」
「何?」
「俺に何が出来る?」
それから二人は互いに何も話さなかった。正確に言うと、話すことが怖かった。それが重く、辛かった。
「祐人、俺、帰る」
「ああ……」
祐人は引き留めなかった。そして、このことは、もう二度と二人の間で話されることはないだろう。
葵が祐人の部屋に遊びに来た時、インターホンを押しても何の反応も無かった。なのにノブを回してみると、鍵が閉まっている形跡がない。
「祐人、いる?」
彼の靴は玄関に在った。それを見て、葵は躊躇わずに中に入っていく。
照明の一切は落とされていた。リビングに入った葵がまず見たものは、テーブルに無造作に置かれたアルコール類の瓶と、ソファーに沈み込んだ祐人の姿であった。
「ゆっ、祐人?一体どうしちゃったの!?」
葵は慌てて祐人の身体を揺すった。
「……あれ、葵ちゃんっ、来てたー?」
「何のんきな事言ってるの?この惨憺たる状況、説明してよ!」
彼女は、こんな「ボロボロ」な状態の祐人を初めて見る。最近彼の様子がおかしかったのもあり、問いつめずにはいられなかった。
「僕は結局、何も出来ない――やっぱ、ちょっと無理だったかな☆」
ぽつりと、祐人が呟いた。そしてそのまま、葵に背を向けてソファーの背もたれに顔を埋めた。
「祐人!」
このままにさせておくものか、とばかりに葵は祐人の服を掴んで引っ張った。
「別に、何でもないって〆心配しなくていいよー、葵ちゃんはー♯」
祐人はうるさそうに葵の手を振り払った。その動作に、葵の心の何処かが遂に崩れた。
「――何で、何でいつも祐人はそうなの!?どうして、あたしには何も言ってくれないの?」
この異様な雰囲気が、葵をどうかしてしまったのか、彼女は泣き出してしまった。
「あたし、祐人が好きなんだよ、多分気づいてたでしょ?あたしだって、いつも妹扱いでかわいがられるんじゃなくて、少しは祐人の役に立ちたい――」
突然すがりついてきた葵の背に、祐人の腕が回された。最初は何の力も込められていなかったが、やがて葵が顔を上げると、先ほどまでとは全く違う祐人の双眸に自分の姿が映っているのが見えた。それはやはりいつもの彼の目ではなく、やや凶暴な光を宿していた。
そして――
覚めやらぬ眠気が視界にもやをかけたらしく、周囲がよく見えない。だが、他の感覚によって、その人が多分安らかに眠っているのは解った。
それはとても久しぶりだと彼は思った。良かった、もう、何もかもがうまくおさまったのだ。ここしばらく、そのことばかり考えてきた彼は、しみ通るような幸福と安堵感を覚えた。
そして、それを確かめるかのように、ゆっくりと問いかける。
「――彬?」
その声を、葵は確かに自分の耳で聞いた。祐人は、確かに彼女を見て、兄の名前を呼んだのだ。
次の一瞬で、祐人は葵に思い切り突き飛ばされた。酩酊感の残る身体はバランスを取ることが出来ず、彼はそのまま床に飛び出し、ガラステーブルに頭をしたたかにぶつけた。
「――じゃない」
言いかけて、また、葵の眼からはらはらと涙がこぼれ落ちる。それは夜のとは違う心から生み出されていた。もっとどうしようもない、絶望に近い悲嘆。
「あたしは兄貴の身代わりじゃない!!」
鈍い痛みが祐人の正気を取り戻させたのは、既に葵が飛び出していった後で、その時になって漸く彼は自分がいかに取り返しの付かない過ちを犯したかに気づいたのだった。
葵の様子がおかしい、とちょうど仕事の無かった彬が母親から電話があったのは、その日の昼頃であった。葵は、彬の部屋に行く、と言って自宅を出たらしい。彬は妹が訪れた事実は無いのを知っていたし、本当の行き先の見当も付いていたが、敢えて何も言わなかった。理由は単純明快、言うと葵は怒るからである。
「葵?」
葵の部屋のドアをノックしても返事がない。仕方ないので無断でそうっとドアを開けると、彼女はちょうど彬のいる方に背を向ける格好でうずくまっていた。目の前には、彼女の好きな、熱帯魚の水槽。青々としたアクアプランツの間に、古ぼけた水中花が混ざっている。妹の視線は、熱帯魚の群をすり抜け、それのみに注がれていた。彬は、それが葵が初めて祐人に貰った物だと言うことを知っている。最初は祐人の家の金魚鉢にあったのだ。
「お前、祐人と喧嘩でもしたのか?」
葵から何の返事もないので、彬は中に踏み込んだ。やはり女子高生の部屋なので、少しは抵抗がある。
「……祐人のこと、言わないで」
妹の口から出たのは、彬にとって全く予想外の台詞であった。いつもの葵なら、祐人ってば酷いんだよねぇ聞いて、と、殆ど彼女の我が儘としか思えない言い分をもの凄い剣幕でまくし立てるのだ。
「おい、いくら喧嘩したからって、お袋に何も言わずに朝帰りして部屋に閉じこもるなんて尋常じゃないぞ」
彬は祐人を絶対的に信用しているので、そんなことを笑いながら言った。この時点でまだ、彬は葵が深刻な状況にいることを理解していなかったのだ。
突然、殆ど無口だった葵が腹の辺りを押さえてうめいた。心理的な面で助長された、本当は幸せだったかもしれない鈍痛が、彼女を襲ったのだ。
「いたい……」
「葵、葵?」
苦痛に耐えかねた葵はそのままカーペットの上を転がった。仰向けになった彼女の両目は、赤い。そのただならぬ表情に彬は何かを悟ったらしかった。
「お前、まさか――」
「兄貴になんか、絶対わかんないよ……」
消え入るような声を彬が聞いていたかどうか解らない。彼は、全て言い終わらないうちに、血相を変えて出ていってしまったからだ。
天井を見つめながら葵は、本当は随分昔から自分は気づいていたのだ、と思った。もう十年近くも幼なじみをやってきたのだから。しかし、知っていてなお、認めるのを拒否してきた。
葵は、彬には敵わない。
彬は今度はインターホンを押さずに、即座にドアノブに手をかけた。それが回るのを確かめると彬は激しく扉を開け、中に入った。彼が手を放すと、けたたましい音を立ててドアが閉まる。
祐人は寝室の壁にもたれ引きずり落ちた格好で座り込んでいた。首はうなだれ、束ねられていない髪が表情を隠しているが、恐らくサングラス越しでない視線は床を泳いでいるだろう。彬は祐人の前にかがみ込むと力の加減を全くせずに両肩を掴んだ。
「祐人、祐人!」
乱暴に揺すったため、祐人の首がガクガクと動く。祐人の双眸が彬を捕らえたが、彼は無言だった。夜の窓ガラスのように映った瞳の虚像に、熱い感情が急速にふくれあがった。
「お前、昨日葵に何かしたのか!?」
だが、祐人は何も答えない。彬は何度も質問を繰り返した。
「葵は昨日ここに来たんだろう?あいつの様子がおかしいんだ。なぁ、祐人、正直に言え!」
葵ちゃん?と祐人が呟いた。のろのろと視線がベッドに動く。誘導されるように彬は振り向き、語られなかった言葉の続きを察知した。
次の瞬間、鈍い音がした。
彬は祐人を思いきり殴った。
「――お前、自分が何をしたか解ってるのか!?葵は、一生傷ついて生きていかなければならないんだぞ!!」
あいつのことが大事じゃなかったのか、と叫んだ彬は、それでもまだ反応のない祐人の身体を壁に叩きつけた。
「……そりゃあ大事だよ、葵ちゃんのことは――でも、彬より上にはどうしても思えないんだ」
祐人が漸く重い口を開いたのは、彬が出て行ってから随分時間が経過した後であった。
彬は帰ってくるなりまた葵の部屋に入り、悲劇に遭遇した(と彼は思っている)妹を抱きしめた。流石に、母親には何も言っていない。その必要があるなら葵自身が言っていただろう。
「葵、何も言わなくて良い、辛かったら、兄貴の俺を頼って良いから、な?」
久しぶりに抱きしめられる兄の胸は堅かった。昨夜のことを思い出して、また心が痛みを訴えた。
「有り難う、兄貴」
また涙ぐんだ声で、葵は言った。彬がさっきまで何をしてきたのかは察していた。一種の自虐的行為なのかも知れないが、兄と祐人が自分のせいで仲違いするのは嫌な気がした。
「兄貴、祐人のとこに行ったの?」
「ああ、お前の代わりに殴っておいた」
「駄目だよ兄貴、祐人と喧嘩しちゃ」
「何でだ?あいつはお前に――」
「違うの!」
葵は首を振って彬の言わんとすることを否定した。顔が良いくせに自分からはなかなか色恋沙汰に首を突っ込まない彬の事、妹の気持ちに気づいていないのではとは思っていた。「でもまさかそんな事」と思っていたのだが、どうやら本当に知らないらしい。昔からこれだけは言いたくなかったのだが、仕方なく葵は告白した。
「あたし、ずっと昔から祐人のこと好きだったから、それは後悔してないよ」
「葵――?」
案の定、彬は信じられない、という表情になった。
「あたしが辛いのは他のことなんだ。それはまだ言えないけど……だから祐人と絶交しないでよ。そしたら、あたし凄く嫌だから」
ああこれから自分たちはどうなってしまうんだろう、と、葵は自分が引き起こしたも同然な急展開に、まるで人ごとのような思いをはせた。
「――って葵が言ったからお前と和解するんだ」
「そう」
自分の声が乾いているのが祐人には良く解った。
そして彬の方でも、かなり困惑していた。無理もないだろう、妹が目の前の男に惚れているのだ。それも自分はずっと気づいていなかった。だが皮肉なことに、この非常事態のお陰で、彬は一瞬でも菜那緒とのことを忘れ元の彼に戻っていられるのだった。彬が葵のことで葛藤している間は大丈夫だろう。しかし彬が祐人を赦す――いや、恐らくそれは無理だろうが、祐人が葵にしたことに対して鈍感になったとき、再び彼の苦悩が頭をもたげるであろう。
祐人は別に彬を愛しているわけじゃない、男が好きなわけでもない。しかし祐人にとって誰かと恋愛なんかすることよりも彬の力になることが重要だったのだ。
なぜなら、彬がいなければ今の自分になれなかったから。
彬の一言が昔、祐人を救ったから。
水尾家はいわゆる母子家庭だった。祐人の母はホステスで、毎晩のように派手な化粧をして出かけていった。時々家に男を連れ込んでくることもある。未婚で生んだ息子を可愛がっていたのがせめてもの救いだったが、当然近所の評判は相当に悪かった。
祐人の目の前でも、主婦達は平気で彼の母親に対する陰口をたたく。それは時にあからさまに祐人を指さしてのことだったりした。中には自分の子供に祐人と仲良くするなと言う親もいた。そして親の態度は子供にも伝染する。
祐人は努めて明るく振る舞っていたが、これらのことが小学生の少年に傷を作らぬはずがない。自分が母親の息子だという事実は一生消えない。母親と自分が死ぬほど嫌で堪らなかった。
そんなとき、織田家が同じ学区域に越してきた。夏休みの初め頃と言うこともあり、水尾家の「悪評」を知らない彬と葵とは、すぐに仲良くなれた。それだけでも多少の救いだった。
だが、祐人は自分の家に彬を上げることをしばらく躊躇った。昼間、家にいる母親を見られたくなかったのだ。そうしたら、彬も去ってしまうだろう、と。しかし絶交を盾にされ、遂に祐人は断腸の思いで彬を招いた。
祐人の母親は、息子が珍しく友達を連れてきたので喜んだようだった。それが祐人には後ろめたかったのだが、勿論彬に言えることではない。その日何をして遊んだのかは殆ど憶えていないが、かなり長い時間彬は水尾家にいた。そろそろ母親の出勤時間が来ると思うと、祐人は胸が潰れる思いだった。
そして彼が最も恐れていたことに、彬の帰る時間と母親の出かける時間が重なってしまったのだ。
ああもう駄目だ、と祐人は思わず彬に背を向けた。もう彬とはおしまいだ、ホステスの子だって馬鹿にされるんだ――。
だが彬の口から出た言葉は、祐人が想像だにしないものだった。
『お前のお母さんって凄い美人だな。羨ましいな』
『え?』
祐人は自分の耳を疑った。
『俺んちの母親なんて凄く太ってるからさぁ、授業参観の日はいつも友達から馬鹿にされて。祐人なんか逆だろ?」
何の先入観も持たない彬の言葉に、祐人は心が明るくなるのを覚えた。
彬にとっては何気ない一言だったかも知れない。他人はこの話を聞いて何だたったそれだけのことで、と笑うかもしれない。だが祐人にとってそれは正に救いだったのだ。以来、祐人にとって彬はただの親友の枠を越え、殆ど信仰の対象のようなものになっているのだった。
祐人が以後は何を持ってしても彬の力になろうと思うようになったのはそんなことがあってからなのだが、彬の方では勿論自分が祐人に何を言ったのか憶えていないだろうし、葵に至っては言うに及ばずである。彬が現れ、中学に上がってから他の子供達とも遊べるようになった祐人がそれ以前のことを語ることは無かった。そして、こうなってしまった今でも、葵に自分の気持ちの説明など出来るのか、いや出来るはずはない。
再び一人になってしまった部屋の中で、喉に何かが引っかかったような重苦しい気持ちに祐人は悩まされている。最後の見た葵が言ったとおり、彼女と彬を比べてどちらが大事だと問われたら、彼は彬と言うだろう――しかし、ならばこのむなしさ、喪失感は何だろう。この気持ちを引きずったまま、それでも彼は日常に戻らねばならない。
「葵、最近元気ないね」
「んー、そう?」
友達に言われて葵は曖昧な返事を返したが、やっぱり見て解るのか、気持ちから離れた冷静な自分が苦笑する。
本当は登校するのもおっくうなまでに心も体も疲れているのだ。だが、すぐには無理でもいつか忘れるために、消せない疵痕の残った彼女の身体は動いている。
「由梨、あたしね、失恋しちゃったんだ」
「ええーっ!?だ、誰に?ってゆーか葵って好きな人いたの?」
「内緒。ちょっと、今話す気にはなんないなぁ」
「そ、そうだよね。ごめん」
由梨はそれで諦めたように見えたが、
(嘘。ほんとはすっごく知りたい、って顔に出てる)
でも言ってやらないもんね、と心の中で舌を出す。
「それよりも今は、英語のレポートだよー」
そのレポートとは、四限目に出された宿題だ。期限は一週間。
「何で、尾島の奴ってば、ああしょっちゅうレポートだすのかね?」
「ほんとほんと、今回マジやばいよ、あたし」
「えー、今回はお兄様に手伝って貰えないの?」
由梨は、葵が毎回彬に英語を手伝って貰っているのを知っている。ちなみに彬のファンでもあるので、思わず「お兄様」という言葉が出てきてしまう。
「兄貴、最近忙しいんだもん」
それは本当でもあり嘘でもある。今、葵は彬にも会いたくない。多分続く沈黙に、二人とも耐えられなくなるだろう。
「英語……やだやだ、やだよーう!」
駄々をこねる葵の肩を、呆れた由梨がぽんぽんと叩く。そうして、葵も日常の中に戻っていく。
久しぶりに逢えた菜那緒の白い肩の輪郭が泣き出したいほどに綺麗で、思わず掴んだ肩の骨の堅さが指先から伝わってくる。
「珍しいのね」
菜那緒に声を掛けられ、彬ははっと我に返った。
「心ここにあらず、って感じよ」
「そう……か?やっぱり――」
いつもならば菜那緒に溺れるときは彼女のことだけ考えている。目の前の彼女が見えなくても、いつでも彼女の心を探している。自分を決して愛さないと言った、それでも失いたくない彼女の。
「何かあったの?」
「ああ、葵が――」
言いかけて彬はやめた。自分から菜那緒には言えない内容だ。そしてふと自分のしていることに気づく。
そう、自分は二人の関係を継続させるためにこんなことしか出来ないのだ。だがやめるのは怖い。でなければ菜那緒は彬を捨て、そして他の誰かのところに行くのだろう。
彬の思考は、再び同じところしか巡らない無限地獄へと戻っていく。
桜の花が散り始め、新年度が始まった。
短い春休みは、だが、葵の心を落ち着かせるには十分で、久しぶりに登校した彼女の一番の興味は新しいクラスに向いている。
「おはよ、由梨。久しぶりー」
「やったね、また私達同じクラスじゃん」
「うん、この一年間もヨロシク」
「ヨロシク――ついでに来年も同じだったら良いのにね」
「それはわかんないんじゃん?あたしと由梨が同じ授業選択すれば別だけど」
「そっかー、そうだよねー」
来年度の話をすれば鬼が笑う、と言った感のある二人の会話。それが一瞬途切れたとき、ショートカットの女生徒が二人に近づいてきた。
「やっ、由梨、葵ちゃん」
「空知」
梧空知は由梨と出身中学が同じで、部活も同じ演劇部に入っている親友同士だが、昨年度は残念ながらクラスが違っていた。今年は晴れてクラスメイトになれたので、由梨と空知にとっては非常に嬉しいことだろう。
「おはよう。空知は春休み、どうだった?」
「どうだった、って葵ちゃん、由梨と同じだよ。あたしらは新入生勧誘の舞台の練習だったんだってば」
「あ、そっか」
クラブ活動をやっている生徒達にとって最大のイベントの一つであると言える、新入生の勧誘。明日の放課後から、各クラブ間で熾烈な争いが繰り広げられるであろう事は想像に難くない。葵はフリーなのでその様子を傍観するだけだが、由梨と葵は既に劇の方の話に熱中しているようだ。殆ど、葵は置いてけぼりになっている。
「――で、陸朗の奴も暇だったから毎日台本読みを――」
「あれ?空知ってキョーダイは妹さんだけじゃなかったっけ?」
「駄目駄目、海砂はこーいう時役に立たないんだよ。だってあいつ、読めない漢字多いんだもん」
つっけんどんな空知の言いぐさに、思わず吹き出す葵。末っ子の葵には、そんな空知の愚痴さえ興味深かった。もしかしたら、いや絶対に彬も周囲に葵の悪口をしょっちゅう口にしているだろう(そう思うと腹が立つのだが)。
「で、陸朗ってのは、あたしの従兄弟なんだ。うちらと同い年」
空知の話に因れば、彼女の従兄弟・桂陸朗は、高校こそ違うが空知の家の近く、即ちこの市内に住んでいるらしい。空知姉妹と顔がそっくりで、今でも三つ子のきょうだいと間違えられるそうだ。葵は目の前の友人を男に置き換えてみた。自分の兄とは正反対の、「男にしては可愛らしい」タイプなのだろう、彼は。
この時は、もうその話題に触れられることは無かったし、よもや葵も陸朗という少年が自分と深く関わり合いを持つことになることを知ろうよしも無かった。
「なぁ、ゴールデンウィークだが」
彬は右の人差し指で菜那緒の髪をくるくると巻きながらぼそりと呟いた。
「仕事?」
返事をする菜那緒の視線は天井を突き抜けて、何もないところを見ている。
「ああ……撮影で海外……何だってこんな時期に、って思うが」
「ふぅん」
彼女の返事は、別段興味が無さそうだった。それは彬も、予めちゃんと解っている。だが、それでも感情の機微を期待してしまう自分が悔しい。
「菜那緒は、連休何か予定あったか?」
「いいえ」
つまりは菜那緒はゴールデンウィーク中に旅行などには行かないと言うことで。また、「あの時」のように一人で街を彷徨うのだろうか。彬と同じように彼女に惹かれた他の男が菜那緒をさらっていく幻想に取り憑かれ、彬は思わず寝返りを打つ。
「葵は?葵は友達と旅行とかに行くの?」
「?いや――」
「なら、葵を誘って遊びに行こうかしら」
意外な菜那緒の言葉に彬は少し驚く。妹が妬ましくて、だが、それ以上に菜那緒を拘束するのが葵で良かったという想いの方が強かった。
「菜那緒」
「何?」
「葵の奴をよろしくな」
「どうしたの?最近、葵の話をすると、いつも様子が変よ、彬は」
「いや……」
「良いのよ、別に理由を知らなくても構わないし。でも、彬ってきっと、娘の彼氏が前に現れたら、嫌な顔をするタイプね」
そう言って、菜那緒が珍しく笑った。彬は彼女の言葉をシミュレートするかのように顔をしかめた。
菜那緒から一緒に遊びに行かないかという電話があったとき、葵は二つ返事で承諾した。由梨も空知も予め予定が入っていたし、彬も仕事――そして――いや、断る理由は何もない。
「うん、いいよ。で、何処に遊びに行く?」
『そうね……』
「遊園地――は女二人じゃ空しいか」
『そうかもしれないわね。何となく、カップルで行くか、それとも団体で行くかってイメージがあるものね』
「じゃあ、女同士で行く、ってイメージがあるのは?」
電話越しで菜那緒は少し考え込んだ後、ショッピング、と言った。どんなときでも少女は買い物が好きだ。可愛いもの、綺麗なものが好きなのか、それとも買うという行為そのものが好きなのか。それは本人達にも解らないかもしれない。
とにかく菜那緒の一言で、二人のデートの行き先は最近話題の、アミューズメント性の高いショッピングモールになった。
「楽しみだなぁ」
『それじゃあ、また当日にね』
「バイバイ」
電話を切ると葵はベッドの上に思い切り背中から倒れ込んだ。反動で両脚がふわっと上がり、ぽすっと掛け布団の上に落ちる。
彼女の視線は白い天井を透かした夜空を見ていた。そして、そこにいないはずの菜那緒の顔が鮮明に映った。当日がとても楽しみだった。
(そろそろあたらしーバッグ欲しかったんだよなぁ。貯金下ろそうかな?)
だって今まで彼女が愛用していたのは、昔祐人に無理矢理ねだったバッグだったから。
不意に、また涙が出そうになって、葵は慌てて体の向きを変えた。
「お待たせ、葵」
「菜那緒っ、久しぶりー!」
待ち合わせ時間ぴったりに現れた菜那緒が視界に入るなり、葵は彼女に思い切り飛びついた。恐らく彬が知れば、思い切り羨まれるだろう。彼と菜那緒との約束は、常に破られる不安と共にあるのだから。それは「男」にすべからく共通するのかもしれない。しかし、葵はそんな事など少しも知らない「女友達」だった。
「あーっ、やっぱり菜那緒ってばいつ見ても綺麗だなー、ほんとに、兄貴には勿体ないよ」
「そんな、葵ったら。さぁ、行きましょう?」
菜那緒は柔らかく葵の身体を押し返すと、先に券売機の方に向けて歩いていった。
彼女は葵の方を一度振り返ると、一瞬だけ怪訝そうな顔をした。その時は別に気にもとめなかった葵だが、流石に電車に乗ってからずっと同じ調子で見られると、流石に尋ねざるを得なくなる。
「ねぇ、菜那緒、さっきから一体どうしたの?」
「――葵、何だか変わったわ」
「え?そ、そう?」
正直、心臓が止まるかと思った。菜那緒の大きな瞳を見ると、ぎこちない表情をしている自分が映っている。鼓動を止められないまま葵は言った。
「凄いんだね、もしかして、菜那緒には何でもお見通しってやつ?」
「ううん、単なる直感みたいなものだけれど、前に会ったときと雰囲気が凄く違って見えたものだから」
「どんな風に?」
「……正直に言っても良いのかしら」
「全然平気だよ」
「そうね、簡単に言ってしまえば、少女では無くなった、って感じよ」
重ねて葵の背筋を襲う悪寒。菜那緒をごまかすことなど出来やしない。
菜那緒には、葵の疵痕が見えているのだから。
(あたし――あの事菜那緒に話しても良いのかな?菜那緒は、祐人との事、解ってくれるかなぁ……)
菜那緒は、祐人が誰よりも大切に想っている彬の恋人で。そう思うと葵の胸が切なく痛んだ。
それは、気泡を受けてゆらゆらと揺れる人工の花から始まった想いだった。
芽生えた時期が尚早であったがために、葵の心により深く根付いてしまったのかも知れない。
「あのね、あたし失恋したんだ」
葵はまず、菜那緒の顔色をうかがうように、そう切り出した。
「ずーっとずーっと、好きだったんだけどね」
「それって、水尾さんの事?」
「うん――」
そこまで菜那緒には判っていたのか、と葵は思う。だが、既にさほどの驚きは感じなくなってしまっていた。
「……」
一方、菜那緒はまるで時が止まったかのような表情で、葵の次の言葉を待っている。
「あたし達が今の住所――って、あたしの家があるところね?に引っ越してきた時、あたしと兄貴は祐人と出逢ったの。兄貴達は同い年だったから、すぐに仲良くなった。あたしも最初は祐人のこと、そうだとしか考えてなかった」
何処にでもある、ごく普通の幼馴染みの構図。それが変化を遂げたのは、祐人が初めて金魚を飼った時だった。まだ小学校低学年の葵は、金魚そのものより、一緒に水槽に入っている水中花の方に目を奪われたのだ。
「あたし、祐人が凄く羨ましくて、『あたしもこのお花欲しいよぅ』って何度も駄々こねた。うちも昔から熱帯魚飼ってて、水槽あったからね」
その時には祐人に相手にされず、彬に叱られさえしたが、その事も忘れかけていた、葵の誕生日――。
「あたしのお誕生日会の時、祐人が来て、紙箱をあたしに渡したの。『葵ちゃーん、これ、お誕生日プレゼントだよ〜☆』って言ってね。箱はもうよれよれで、正直迷惑だと思ったんだ。でも、蓋を開けたら、そこにあの水中花が入っていたの。祐人、あたしのために自分ちの水中花、くれたんだ……」
何でもない事かもしれないけれど。
その時の感動は、きっと一生忘れない。
葵が祐人の事を好きになったのは、この時だったのだと彼女は信じている。恋のきっかけなんて、そんな些細なもので充分なのだ。
「それから、葵はずっと片思いしていたわけ?」
「うん――告白しようか、って思った時もあったけど、あたし達って殆ど兄妹みたいな関係がずっと続いていたし、絶対『女』として見られてない、って、その都度諦めた。きっと向こうも薄々気付いてるだろうけど、もし告白して振られちゃったらずっと辛い想いするだろうし、『妹』のままなら祐人はずっとあたしの事大事にしてくれる――って、結局勇気が無かっただけなんだけどね。でも、それとは別に、凄く気になっていたことがあったの」
それは祐人と彬――彼女の兄の間柄。年齢が同じの無二の親友同士の関係は、葵と祐人とのものより遙かに強固だった。恋をしてから、葵は無意識に兄に嫉妬するようになった。
何故なら、祐人が誰より彬のことを大切にしているのが判ってしまったから。
判っていても認めたくなかったから、全て胸の奥底に押し込んで。
「だからかなぁ、祐人と兄貴が同じ時期に悩んでいるのを見て、きっと二人はお互いに相談しあってて、でも、同じぐらい一緒にいたあたしには悩み事を話せないのかな、と思ったら、耐えられなくなっちゃって……それで、爆発したんだよね」
『あたし、祐人が好きなんだよ』
何年も、自ら封印していたその言葉。
それは自分の恋を告白すると同時に、自分が祐人にとって彬より大切な者になれるかという一つの賭けでもあった。
「結局、負けちゃった。身体まで張ったのに、祐人はその間、あたしの名前一回も呼んでくれなかった」
その代わりに祐人が呼んだのは。
『――彬?』
「あたしは所詮祐人にとって、兄貴の代用品でしかなかったみたい。今まであたしに優しくしてくれたのは、きっと、兄貴にそうしたかったからなんだ……」
葵がそう言い終わったとき、まるで図ったかのように電車は目的の駅に到着した。
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