『葵あおいちゃーん、これ、お誕生日プレゼントだよ〜☆』
　蛍光に照らされ揺らめく水草の間に、ピンクの古い水中花がひっそりと人工の花弁を広げている。
　葵は、わざと薄暗くした部屋の中でじっと水槽を眺めていた。
「祐人ゆうじんの、馬鹿野郎」
　彼女の手には、二枚の券が握られている。それは兄の親友で、幼なじみでもある水尾みずのお祐人が前から好きだと言っていた画家の展示会の招待券だった。友人に頼んでせっかく譲って貰ったと言うのに、祐人は葵の学校のない日には全て仕事が入っているのだと断ってきた。
　怪しい内容の仕事とは言え、社会人である祐人の都合と言うものは葵にだって解っている。それでも、券を貰ったときの自分を思い出すと、悔し涙に似たものがこみ上げてきた。
　水中花の上をメタリックな輝きのカーディナル・テトラの群が、直線的な動きで往復してゆく。

「ねぇねぇ、このモデルって葵のお兄さんでしょ？いいなぁ、こーんな格好いい人が兄なんて」
「……別に、あんな兄貴羨ましがるようなもんじゃ無いって」
「またぁ、そんなこと言ってさぁ」
　そう言うクラスメイトの手には、一冊のファッション雑誌。開かれたページは夏服の特集で、一ページ全てを使った青年の写真が人の目を引く。
　織田おだ葵の兄、彬あきらはモデルをしている。少し前までは売れなかったのに、最近は急激に人気が出てきている。
「なんかこう、同じポーズでも他のモデルに比べて色気があるのよね。クールな視線も堪らない、って感じ。ねね、葵、サイン貰ってきてよ」
「めんどくさい。兄貴、今一人暮らしなんだよぅ」
「そんなこと言わないでさー、ほら、二ヶ月ぐらい前に美術館の入場券あげたじゃない」
「……そんな昔のこと、忘れた」
　言いながら葵は自分の胸に刺さった棘を意識せずにはいられなかった。
（祐人、今でも兄貴のとこに遊びに行ったりしてんのかな）
　彼女は言い訳がましく自分の手帳を見た。そして、あ、この日は暇だな、と呟く。
「まっ、近いうちに兄貴のとこに寄ってみるよ」

『ねぇ、兄貴、また英語で解んないとこ出てきたから、明日そっち行っていい？』
《……あ、明日か？》
『何、撮影あんの？』
《いや、別にそう言う訳じゃ無いんだが――ああ、良いが、ただし夕方からだ》
『サンキュ、じゃ、明日ね』
　翌日の土曜日、葵は兄の住むアパートを訪れた。彬は成績優秀者とはとても言い難かったが、どういう訳か英文法だけは人並み以上に出来た。それで、葵は宿題を見て貰うという口実で友人との約束を形だけでも果たそうとしたのである。
　しかし、幾度インターホンを鳴らしても主の応答はなかった。
「兄貴、いないの？」
　彬の部屋の合い鍵を葵は持っている。彼女は、それで部屋の中に入った。

　彬の部屋は男の一人暮らしにしては片づいている。それは親友の祐人も同じで、かえって今では葵の方が二人にくどくど言われるぐらいだ。
（やっぱり、早すぎたかな）
　窓の外を見ると、まだ日は高いが既に明るさに翳りが見え始めている。
――彬と葵の兄妹が祐人と初めて出逢ったのも、そんな昼下がりだった。
『君たちー、新しく引っ越してきた人？』
『そうだけど……』
『おにいちゃん、誰？』
『僕、水尾祐人って言うんだ。君たちは？』
『俺は織田彬。こっちは妹の葵だ』
『んじゃ、彬君の方は明日から一緒の小学校だねー。よろしくー』
　それはごく当たり前の出逢いで、彬と祐人はその日から『友達』として毎日のように互いの家を行ったり来たりしていた。まだ幼稚園児だった葵も二人の後をついて廻った。そして、十数年という歳月のうちに、彼女はごく当たり前のように祐人を好きになった――。
　ガチャリ、とドアノブの廻る音が突然して、葵は反射的に玄関を振り返った。
「あっ、兄貴……――！？」
「葵っ！……しまった、お前のことすっかり忘れていた」
　彬の後ろには、葵と同じぐらいの年頃の少女が立っていた。

　我が兄ながら相当の美形だ、と葵は彬の容姿を評価している。昔から友達に羨ましがられたり、ラブレターを渡してくれと言われたことは何度もあった。最近では、彬は同じ事務所の人気モデル・カレンこと赤井あかい華蓮と付き合っているはずだ。まだ売れる前の彬を誘ったのは華蓮の方からだったと記憶している。
　だが、今日彬が連れてきた少女は明らかに華蓮ではないし、葵にはまるきり見覚えがなかった。
「この人……誰？」
　葵の声は頓狂に裏返っていた。誤解を招く元だと知ってはいるのだが、どうしても少女の顔をまじまじと見つめずにはいられない。
　事実、彼女は正に美少女と形容されるに相応しかった。いや、そんな単純な言葉で表せはしない。最近の美白ブームに一生懸命な女達が溜息をつくであろう、おろしたての石鹸のように滑らかで白い肌と、肩のあたりまで伸びた文字通り絹糸のような黒髪。そしてわずかに水をたたえて深い輝きを放つ神秘的な瞳の美しさに目を見張る。とにかく、テレビでも雑誌でも葵はこんな綺麗な娘を見たことがない。
「あ、あのな菜那緒ななお、こいつは俺の妹で、葵って言うんだ」
　当然ながら彬は葵以上に慌てていて、真実をむしろ疑わしく喋った。葵が初めて華蓮に逢ったときも、これほどではなかったと思う。
　だが、菜那緒と呼ばれた少女は眉一つ動かすことなく、むしろ華のような微笑みを浮かべながら葵に軽く頭を下げた。
「初めまして、葵さん。黒羽くろは菜那緒と言います」

「おい、葵、今度は何処を教えて欲しいんだ？」
「あーあ、兄貴、やっぱりあたしって邪魔ぁ？そーだよね、彼女が来てるんだもんねぇ。妹の勉強に付き合わされて時間が減るの嫌でしょ？だったらさぁ、今日は解説いいから兄貴が宿題やって。そっちのが絶対早いから。あとこっちは、友達から頼まれたサイン」
「〜〜〜〜〜〜っ！！」
　葵は彬を丸め込むと、改めて菜那緒と向き合った。
「ねぇ、黒羽さん、今何年生？」
「高一です」
「じゃあ、あたしと同じじゃん！あンの馬鹿兄貴、遂に頭おかしくなってきた？」
　後ろで彬が英和辞書を引きながら「うるさい！」と叫ぶ。菜那緒は顔を伏せ、息を殺して笑った。
「葵さんって、容赦ないのね」
「あ、あたしのことは葵でいいよ」
「なら、私も菜那緒って呼んで」
　葵は菜那緒に対し今までの彬の恋人のうちで最も親しみを覚えている。同年代なのも大きいが、何よりも彼女の気を引いたのは、菜那緒が初めて葵を見たとき少しの敵愾心もなかったことだ。例えば華蓮の視線は針のように鋭くて、嫉妬の鉄条網が切られるまで葵は緊張を解くことが出来なかった。他の女達の反応もそれとあまり変化がなかった。
　葵はそれに嫌悪を覚えるが、女の性として仕方がないことだと思っている。もし祐人に恋人が出来たら（そう言うことは今まで無かった）自分も華蓮と同じ視線で相手を見るだろうと確信できた。

「ほらよ、葵、宿題の答え――どうせお前、お袋にここに泊まってくるって言ってきたんだろ？」
「そうだけど、なぁに、菜那緒泊めるつもりだったの？このスケベジジイ」
「そっ、それは……」
「私は、葵ともっと遊びたいけど」
「菜那緒もそう言ってる事だし、じゃ、遠慮なくっ！」
　葵と菜那緒はベッドから本来の持ち主を追い出して、二人で並んで潜り込んだ。彬は観念したのか腹を立てたのか、毛布一枚を被って床に転がり、二人に背を向けてそのまま寝てしまった。
　二人はしばらく他愛のないお喋りに興じた。そうしてみると、葵にとって菜那緒は予想以上に気の合う人間だと言うことが解って、葵は彬の女性関係について初めて誉めてやりたい気分になった。
　菜那緒が着ているのは、彬から葵が無理矢理借りさせたパジャマだ。布地が余って、襟元から見える胸元が、女の葵にも酷く官能的に見える。改めて見ると、洗顔後でも彼女の唇は濡れた薄桃色だった。
「ねぇ、彼氏の部屋で彼のパジャマ着てるだなんてさ、ドキドキもんだね？」
　葵は、からかうような口調で菜那緒に言った。何しろ自分の兄のことだ。彼ら二人には長続きして欲しいと思っていた。
　だが、頬を染めてくってかかると思いきや、菜那緒は小首を傾げ、不思議そうな表情で、言った。
「――恋人同士って、そういうものなの？」

　翌朝、誰よりも早く起きた葵は手早く荷物をまとめると、テーブルの上の目立つところにメモを置いて彬の部屋から立ち去った。少なくとも菜那緒が起きるまで待っていても良かったのだが、昨夜は「おあずけ」を喰らい、さぞ残念な思いをしたであろう彬に後は任せてやろう。
　しかし、葵は真っ直ぐ自宅に帰るつもりはなかった。彼女はその足で祐人の住むマンションに向かった。
　祐人は一般的に真っ当とは言えない仕事をしていて、「休日出勤」も当たり前なのだが、働く時間帯は主に昼から夜にかけてであり、逆に言うと午前中は自宅にいる確率が高いのだ。
　案の定、インターホンを押すと祐人は寝乱れたワイシャツ姿で現れた。
「おやぁ？ひっさしぶりー、葵ちゃんっ☆」
「おはよ、祐人」
　とりあえず上がんなよ、と祐人は葵を招き入れた。もしかして朝帰り？と訊く祐人の、男のものにしては惜しい長い艶のある髪を少し恨めしい視線で追いながら、葵は靴を脱いだ。
「これから朝帰りするのは別の人」
「へぇ？あっ、ほらほら、葵ちゃん見て。これ新しく買ったんだっ☆」
　祐人は棚から丸いレンズのサングラスを取り上げてかけた。
「何、それ仕事にしてく気？黒いスーツにサングラスなんて悪人じゃなきゃ変人にしか見えないって」
「ひどいなぁ、葵ちゃんってばっ♯」
　葵に舌を出され、祐人はめそめそと泣くジェスチャーを取る。彼の個性は彬とはかなり異なっていて、よくも十年以上親友でいられたものだ、と、そして、祐人を好きになった自分の事も、葵は不思議に思うのである。

「英語の宿題手伝ってもらおうと思って、兄貴のアパート行ったんだけど、兄貴新しい彼女連れて来てさ」
　葵は、祐人宅のリビングのソファーの一つに腰を下ろした。そこはいつからか自然に彼女の指定席となっている。
「その彼女ってさっ、もしかして菜那緒ちゃんのこと？」
「あれ、裕人知ってたのっ？」
「もう付き合い初めてから二ヶ月ぐらいになるよっ▽何だ、彬ってば、華蓮ちゃんから菜那緒ちゃんに乗り換えたこと、葵ちゃんに言ってなかったんだ☆」
　駄目なお兄ちゃんだなぁ☆、と裕人は笑ったが、葵は面白くなかった。彬は妹にだけ何も言わなかったのだ――いや、それより、彬の報告を葵に言わなかった祐人が恨めしい。
「ずるい、裕人ばっか。昔からそうだよね、何でも二人だけで話まとめちゃうの」
「そんな事無いよっ♭僕ら、ちゃぁあんと葵ちゃんのこと尊重してるし、大事に思ってるんだからねっ♪」
　結局、祐人に笑いかけられると葵は何も言えなくなる。「大事に思う」のフレーズが一刻も早く意味を変えることを願わずにはいられないのだ。
　裕人は、お茶出すから待っててね、とダイニングに入り、緑茶の茶葉を出した。織田兄妹は外見の華やかさにそぐわぬ妙に渋い嗜好があり、ことに葵は飲み物と言えばとにかく緑茶、なのだった。
「ねぇ、兄貴と菜那緒が知り合ったきっかけって知ってる？」
「確か、どっかのデパートで出逢って、彬がたまたまチケット持ってた、そこでやってた展覧会に行って、それで仲良くなったらしいんだよね」
「ちょっと待ってよ、それって！」
　葵の声が裏返った。それは多分、少しだけ苦い思いに裏打ちされた記憶――祐人と一緒に行きたかった展覧会のことだ。あの後、葵は不要になったチケットを彬に押しつけた。
凄い偶然だよねぇ、と言いながら祐人がお茶を運んできた。
「ほら、『田間や』の羊羹。好きでしょ？」
「……ありがと」
　葵の言葉には多分に釈然としない響きがあった。簡単に言うのなら、面白くない。彬の現在の幸せに自分の不幸が下敷きにされているのだから、ちょっとそう感じるのも許されていいだろう。
　彼女はお茶をすすりながら上目遣いで祐人を見た。今日これから先自分がどうしたいのか全く考えないで祐人の部屋に遊びに来てしまったのである。祐人の仕事は不定期で正確な時間帯も決まっていない。もしかしたら葵は迷惑をかけているのかも知れない。
「葵ちゃん、これからどっか行く？」
「え？」
「今日は僕も暇だから、二ヶ月前の罪滅ぼしに遊びに連れてったげるよっ☆」

　遊園地なんかに行くのも良いかな、と葵は思ったが荷物があるので、結局二人が行ったのは彬と菜那緒が出逢ったデパートのある繁華街だった。
「もう、別の展覧会やっちゃってるよね」
　葵は少し残念そうに呟いた。彼女は特に芸術が好きというわけでは無いのだが。
「僕は別に構わないさっ☆またそのうち何処かの美術館でやるよ」
　葵の趣味を熟知している祐人は、彼女の手を引いてデパートの中に入った。それが葵をどれだけ歓喜させるかを知らず、ただ彬と同じように――兄が妹にするように――しているのだろう。
　小さい頃から両親に連れられてやって来たこのデパートが葵は好きだった。昔は一階の化粧品やアクセサリー等は縁遠いものだったが、今ではウィンドウショッピングの時必ず目が行ってしまう。
　「若い男女二人連れだと、店員さん達の視線が痛いねー。葵ちゃんの誕生日が近かったら、ご期待に添えるよう振る舞って見せるけどさっ§」
　確かまだかなり先だったよね、と祐人はサングラスを指で押し上げた。サングラスは予想以上に彼に似合っていて、最初は馬鹿にしていた葵も認めざるを得ない。
「あたし達、カップルに見えるんだ？」
　内心を隠しきれず、葵の声がはしゃいだ。
「それは光栄だねっ、葵ちゃん可愛いからっ◎でも彬に怒られそうだなぁ、『うちの大切な妹に手出ししたらただじゃおかないからな』ってね」
　しかし祐人は葵の声色の意味に気づかないようで、葵は面白くない。
「兄貴なんてどうでも良いよ、自分だってあたしと同い年の女の子とつきあってんだから」
「そういえばそうだったっ＄」
「ね、二階に行こう、あたし新しい夏物の服買うから。後で当然、お昼ご飯おごってくれるよね？」

　既に自活の道を切り開いている彬や祐人がおごってくれると言うとき、葵は「妹」の特権としてあまり遠慮しない。この日も、葵は大好物の一つである串カツ屋（こんなところにも彼女の趣味の意外性が現れる）で少し高めのコースを注文した。どうも店の雰囲気とは合わない二人で、料理人がチラリとこちらを見た視線には好奇の色があった。
「そのうち、フグとかフランス料理のフルコースとかおごってくれって言われそうで怖いなぁ☆」
「大丈夫、彼女でもないのにそんなことは要求しないから」
　そう言った葵の言葉は自嘲的だ。彼女はいつも恐れている。祐人に恋人が出来た時は、もうこうして二人で出かけるなんて出来ない。彬の時でさえそうだった。もっとも、兄はモデルなので、彼がフリーの時でも、妹である自分ですら後ろめたさを感じる（近頃は修学旅行でもないのに保険証のコピーを持ち歩くほどだ。無論、二人の血縁関係を証明する為である）。これから菜那緒は大変な思いをするだろう。
「そう言えば、兄貴はデートの時とかどうしてるんだろう、やっぱり、おしゃれなレストランとかに彼女連れていくのかなぁ」
「う〜ん、いくら僕でもそんなことまで根ほり葉ほり聞かないからわかんないやっ☆でも、今度はきっともの凄く神経使ってるから、もしかしたらそうかもわかんないね」
「『今度は』って菜那緒とのこと？」
「そう。まだ二ヶ月だけど、あんなに恋愛に真剣になってるあいつは初めて見るねっ。でも、絶対に傷付かないわけないから、親友としては心配だなー」
　葵には祐人の言葉が良く判らなかった。彬の恋愛に個体差があるとは考えたことがなかったし、自分はまだ初恋が進行中なのだから。
　不意に、自分に向けられた祐人の視線の、サングラスで遮られたその先が判らなくなった。

――そんな事があった日から、時間は「矢のように」過ぎ去っていった。だが、十年以上も続いた今の葵と祐人の関係がそう簡単に変わるわけも無かった。
　変化が目に見えて明らかなのは、むしろ彬の方だった。仕事に恵まれたせいもあって今や押しも押されぬトップモデルの一人となった彬だが、葵に菜那緒を紹介して以来、日増しにその美貌に気怠い官能が増している。それを甘美な憂鬱、と表した記事を葵は読んだ気がする。

　彬はその日、新発売のＭＤウォークマン宣伝用の写真の撮影のために某スタジオに来ていた。
「やあ、彬君！」
「その声――泰基たいきか！？」
「そうさ。久しぶりだね？」
　突然現れて彬に声を掛けてきたカメラマンは、彼の専門学校時代の親友の緑川みどりかわ泰基だった。
「何だ、今日の撮影担当はお前だったのか。大抜擢だな」
「そうさ、ボクの才能を持ってすれば当然のことだがね。まぁ、もちろん色々と努力は怠らなかったけれども」
（相変わらずだな、こいつは……）
　彬は思わず苦笑した。泰基は昔から誰の目から見ても、良く言って個性的な、悪く言って、いや普通に言っても変な人物だった。今でも、何で自分が泰基と仲良くしているのか、良く判らない。だが、少なくとも悪人ではないし、意外と付き合いやすい人間なので、つきあいは続けている。
「けれども、また彬君を撮れる日がこんなに早く来るとは思っても見なかった。プロのカメラマン志望が被写体のプロになったというのはとんだお笑いぐさだがね」
　それを聞いた彬が怒ったような困ったような顔をした。
「それもこれもみんなお前の写真のせいだ」
　昔、ある写真コンクールに二人は作品を出品した事がある。泰基に対する数々の借りを返すために、彬は頼まれるままにモデルを勤めた。それは軽い気持ちだったのだが、結果は、彬の作品は選外、泰基の作品はグランプリに輝いてしまったのだ。おまけに、その泰基の写真がきっかけで、彬はいつの間にかにモデルへの道を歩んでいたのである。
「いや、真面目な話、彬君は絶好の被写体だよ。キミには、カメラ越しの色っぽい視線がよく似合う。選ばれた人間と言って良い。あの時のコンクールの写真は、今でもボクの最高傑作だ。ああ……」
「……」
　自己陶酔に入っている泰基から、彬は無言で目を離す。
　悔しいが、芸術的なセンスという点において、泰基は天才的だ。彬自身も、その写真に映っている一瞬の自分がまるで自分でないような錯覚を受けるほどよく撮れているのを認めざるを得なかった。
「じゃあ彬君、無駄話はこれぐらいにしてそろそろ撮影の準備に入ろう」

　撮影の最中、突然泰基は険しい表情になったかと思うとカメラから目を離した。
「彬君、どうしたんだ」
「別に、何でもない」
　だが、泰基は納得しなかった。突然の撮影中止に他のスタッフも慌てる。
「緑川さん、織田君は本当にいつも通りに見えますよ」
「いや、それはみんなの目が節穴だからでしょう？彬君、ボクの目を誤魔化そうったってそうはいかないよ。何か悩みでもあるのかい？」
「――お前や祐人には、全てお見通しなんだな」
「やっぱりそうなのだね！でも、彬君、キミはプロだ。プライベートの悩みは全部家に置いてきたまえ。仕事の後なら、幾らでもボクが愚痴を聞いてあげよう」
「プロ……」
　泰基の言葉を聞くと、彬の表情がスッと変わった。
「そう、そうだよ彬君、その表情だ」
（だが、そんなもの、肝心な人間に通じなかったら意味がない――）
　少し苦しそうな顔になったが、すぐに泰基が激賞する、そして大勢の人間を虜にして放さない、甘い氷のような視線がカメラを射た。

　泰基はスタジオを出ると、入り口の辺りで壁にもたれている一人の男を見つけた。
「おやぁ！奇遇だね、確かキミは祐人君」
「やっ、泰基☆もしかして、彬はとっくに帰っちゃったー？」
「いやぁ、彼、別の仕事入ってるからそっちに行ってしまったのだよ」
「あれー、僕、それは聞いていないなっ♪」
「急に入ったんではないかね？けれども、ボクは彬君と待ち合わせしているのだよ」
「ねっ、泰基、僕も一緒に付いていっていいかいっ？」
　祐人が頼むと、泰基は右手の人差し指を大仰な仕草で額に当てた。困った、と言いたいらしい。
「ううむ、今日は彬君の悩みを聞くことになっているのだよ。祐人君は彬君の幼なじみだが、こう言うことは本人に了解を取るべきだとは思わないかね？」
「――その内容は、僕にはだいたい想像付いてるんだけどねー※」
　一緒に行って、彬が嫌だって言えば帰るよ、と祐人は言った。

　彬は今、気が狂いそうな状態にいる。それは最初から解っていたことだった。その上で、自分から頭を下げて頼み込んだのだ。だが、人間の欲望は肥大する。それで満足できるはずなのに、彬の心は悲鳴を上げる。
（心が、心が欲しい――）
　オレノココロハ、トックニオマエノモノナノニ――。

「祐人、お前、何でいるんだ？」
案の定、祐人を見た彬は驚いたようだった。
「最近の彬は見るからにおかしいからねー、仕事先で叩かれてへこんでるんじゃないかって思ってさっ、慰めに行こうかと☆そしたら、偶然にもカメラマンは泰基じゃないっ＠もう決定的だって思ったよ」
「実際、ボクは彬君を叱ったがね。少なくともボクが撮影に携わるときだけはとにかく気合いを入れて貰わないと、このボクの作品が滅茶苦茶になってしまう」
「あ、やっぱり〜？」
「……お前らなぁ〜」
　妙なノリの、「何で俺の周りにはこんな奴らばっかり」という嘆息の元凶の二人組に、彬は頭を抱えた。
「彬、これから泰基とどっか行くんだろっ？」
「そうだが――」
「『泰基君のお悩み相談室』だって僕、聞いたよ。僕もカウンセラーになっていい？」
「――と言うわけだが、どうする、彬君？」
　多分、祐人はとっくに自分の悩みに気付いている、と彬は思った。祐人は自分よりよほど頭が良い。昔から、彬が何かにつまずきそうになると、必ず祐人が一番に彬を救おうとしてくれた。
「いい。祐人も来いよ」

　それから後、自宅に戻った祐人は、軽くアルコールでふらついた身体をソファに横たえ、先ほど彬からうけた相談を脳内で反芻した。
『やっぱり、仕事が上手くいってる男の悩みといえば、恋愛かい、彬君？』
『……』
『やはりそうか！最近の彬君に何とも言えぬ微妙な色気が出てきたのはそのせいだったのだね！』
『そういやさっ、菜那緒ちゃんと付き合うのに、なんか条件あったんだよねっ？』
『菜那緒ちゃんっていうのか、彬君の恋人は。彼女の移り気な心が彬君にメランコリィの栄養を与え、美しくも妖しい華を咲かせさているのか』
『泰基っ、ちょっと黙ってっ†』
『いいじゃないか、祐人君！悩みや苦しみを昇華し美として肉体に刻みつけることができるとは、彬君の類い希なる資質なのだよ？』
『はいはい、解った解った――条件の内容は、彬、教えてくれなかったっ☆』
『――愛さないって言ったんだ』
『えっ？』
『あのセリフは、今でも一字一句憶えてる。菜那緒は俺に、「悪くないわね、付き合ってみるのも――でも、忘れないで。きっと私はあなたを愛さない」って言ったんだ』
『！？』
『愛さないって、彬君、それ』
『何でかは俺も知らない。怖くて訊けないんだ。だが、それでも、あの時俺は菜那緒を喪いたくなかった』
　アルコールのせいもあるのだろうが、その時彬は十年近くぶりに他人の、祐人の目の前で泣いた。その姿が、祐人の胸をきつく締め上げる。
　親友のために何かしてやりたい、が、どうして良いか解らなかった。

「兄貴、どーしたの？何か顔色悪いよ？」
「いや、何でもない」
　いつものように英語の宿題を任せに葵は彬の部屋を訪れたが、兄の顔を見た瞬間、彼女の声は思わず裏返ってしまった。
甘い氷のような美貌は少しも衰えていないが、表情が信じられないほど暗い。一体、何があったのだろう。菜那緒と上手くいっていないのだろうか。
「ねぇ、兄貴、最近菜那緒とはどう？」
「どうって……別に良いだろう？喧嘩もないし、うまくやってる」
「ふぅん、なら良いんだけど」
「ほら、葵、辞書貸せ」
　それでその場は収まったが、葵は釈然としなかった。長年片思いを続けているせいか、同じ境遇の人間には妙に敏感なのである。彬はその容姿ためか、悪く言えば今まで女に不自由する事は無かった。その割には欲望がないと言うか、恋愛には淡白な方で、自分から女に言い寄るはおろか、恋のために眠れぬ夜を過ごすなどと言うことには無縁だった。
　その彬が、時折まるで恋煩いの時のような溜息をもらす。菜那緒という、信じられないほどの絶世の美少女の恋人がいるにも関わらず。
（これは、もしかしたら祐人に訊いた方が良いかな？）
　家族には言えなくても、親友になら言える悩みもある。今までに何度もそういうことはあった。織田兄妹と祐人の付き合いは長いので、そういうパターンも簡単に予測が付くのである。

　翌朝、またいつかのように葵は祐人のところを訪れていた。インターホンを押す指に躊躇いはない。そして、ドアを開ける祐人は、いつものように「あっ☆葵ちゃん、どーしたのっ？」と笑いながら彼女を出迎えるはずだった。
「あ〜、どうしたのっ、葵ちゃん＠」
　しかし、その日の祐人の表情にいつものような精気が感じられなかった。前日の彬と似て非なる状態ではあるが、祐人にも何か悩みがあるに違いなかった。
「やだ、祐人、どうしたの？」
「何、葵ちゃん％僕の顔に何か付いてたりする？」
「兄貴が何かおかしいから、祐人何か知ってるんじゃないかと思って訊きに来たんだけど、祐人も、何かあったの？」
「えー△そう見えるっ？別にそんな事ないよっ■」
　薄々予感していたが、やはりはぐらかされた。確かに、一見すると祐人の様子は通常と変わらない。だが、葵の眼だけは、違った何かを捉えていた。
「嘘、変だよ、祐人」
「違うってば☆ほら、中に入るんでしょ♪」
促されて、葵は釈然としない気持ちで中に入った。強引に話題を終わらされてしまった。
「ね、さっきの話だけど、祐人は兄貴から何か聞いてない？」
「んー、確かに変だけどっ☆」
　本当は既にその理由を知っているのに、祐人は葵にそれを言うつもりはない。彬から聞いて、葵と菜那緒は仲が良いのは知っている。彬と菜那緒の関係がこれから短期間でより良くなりさえすれば、葵が深く知る必要はないのだ。