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9.The mechanism of jealousy and love
唐突に押し寄せてくる不安。誰かが、耳元で囁いている。
『君はそれで、良いの？』
『でも、君はそれで、良いの？』
それは、いつから始まったのだろう。私はそれを掴みかねていた――屋上で指輪を見ていた、あの日まで。
『――黒羽さん、でも、君はそれで、良いの？』
桂君の独白を聴いたとき、つかみどころのないものが形を取り始めたのが、判った。
幻の声が、現実の言葉と一致したから。
今までの「声」は、私自身が創り上げた「桂陸朗」の囁きだったのだ。
「何で、桂君なのかしら？」
「桂？」
「気にしないで、こっちのことだから」
そんなこと出来るか、と、彬は口を曲げた。理屈から言えば、多分その通りなのだろう。私は彼に説明しようと思った。そしてそれも、私自身とても意外な感情の動きだった。
「私のクラスメイト。前、少しだけ会ったでしょう？」
「ああ、俺の載ってた雑誌を持ってた奴か」
彬の表情は更に複雑になった。彼が何を考えているのか、容易に想像はつく。
「別に、特別な感情を持っている、とか、そういうことじゃないわよ」
――ほら、彬の肩から力が抜けた。変な言い方だけれど、微笑ましいほど解りやすくて。
けれど、何故桂君なのか。どうして彼には色々なことを話してしまうのか。何時間も何日も考え抜いて、未だ答えが出てこない。
声がし始めたのは、いつからだった？
期末テスト、最終日。
夏休み前最大の試練が終了し、生徒達は皆口々に休み中のことについて話し合っている。
「陸朗、もう帰るか？」
「いや、昼飯は学校で食べるよ」
「じゃあ、俺や麻衣香と学食行くか？」
「うん」
陸朗は保について麻衣香を迎えに行き、それから学食に向かった。試験期間中なので人は殆どいない。が、激しい料理争奪競争も無いので、彼らは専らこの時期だけ学食を利用していた。
陸朗がラーメンを買ってくると、一足先にスパゲッティを運んできた麻衣香がいつものようにファッション雑誌を読んでいる。
「おい、こんなところで雑誌読むなよな」
最後に戻ってきたのは、A定食を頼んだ保だった。
「だぁって、ただ待ってても暇なんだもーん」
そう言いながら、麻衣香はまだページをめくる手を休めようとはしない。どうやら、食事しながらでも続きを見るつもりらしい。
「円城さん、いくら何でもそれはまずいんじゃないでしょーか……」
「全くだ。陸朗の言うとおりだぜ」
「えー。折角今月は彬のグラビア多いのにぃ」
「『えー』じゃねぇよ――」
麻衣香のせいかどうかは不明だが、保は割り箸を二つに割るのに失敗してしまった。彼女の雑誌（と言うよりも、それに載る織田彬というモデル）への熱中ぶりは、彼にとって相当に頭の痛い問題らしい。だが、麻衣香は流石に我を通すのを諦めたのか、一度盛大に頬を膨らませたあと、雑誌を広げたままテーブルの上に置いて、大人しくスパゲッティを食べはじめた。
ラーメンをすすりながら、陸朗の視線はどうしてもその雑誌に向いてしまう。麻衣香が言ったとおり、この号にも彬の写真が掲載されていた。
彼の表情は、正にプロのそれで。私生活を微塵も感じさせない仮面だ、と陸朗は思った。
「ほんとに、織田さんってプライベートの時と仕事の時って全然違うよなぁ……」
たった一度遭ったきりだが、それでも自分が彼の名を呼んだときの照れ笑いを、陸朗は鮮明に思い出すことが出来る。
「ちょっとぉ！桂君、今何て言ったのぉ！？」
「お前、織田彬見たことあるのか？」
「え？ え？ 僕、今何か言った？」
「確かに言った！かなり仲がよさそうって感じの口調だったわよ。ねーねー、何でアタシに言ってくれなかったの？」
「カレンとの噂について聞いてたりしないかっ？」
「うっ……」
迂闊だった。どうやら、彬に対する共感が、陸朗と彼が事実を越えて「親しい」という印象を、二人に与えてしまったらしい。しかし、ことの次第を白状するためには、どうしても菜那緒抜きには語れない。どう考えても、彬と菜那緒の関係はトップシークレット扱いだ。そして、とっさに嘘を吐くには陸朗はあまりにも不器用すぎた。
（あああああああああどうしようどうしよう何て言ったら良いんだ？）
哀れに混乱している陸朗に追い打ちをかけるかのように、運悪く菜那緒が三人の側を通りがかってしまった。どうやら、彼女もここで食事をしていたらしい。鞄を持っているのを見ると、今から帰るところのようだ。
「桂君、どうしたの？何だか凄い顔してるわよ」
「あれ、黒羽！あのな、こいつが今売れてるモデルと面識あるらしいんだよ」
保は陸朗の首に片方の腕をかけると、隣にいる麻衣香に耳打ちした。
「珍しいな、あの黒羽が自主的に人に声かけるだなんて」
「ほぉんと、そうねー。保の言うとおり、桂君望みあるかもね」
首を絞めかけられ、混乱と息苦しさで目の回りそうな陸朗は、そんな風に言われているなどつゆ知らず、顔中を真っ赤にして手足をばたつかせている。
「ややややややめろ保！苦しいってば！」
「失礼するわね」
菜那緒は、ことの次第を知るためだろうか、テーブルの上の雑誌を手に取り、開かれた箇所の写真を確認した。そして、さも合点がいった、と言う風に軽く頷く。心なしか楽しそうな、仕草だった。
「そう言えば、そうだったわね。あの書店の三階で」
そうして、彼女は麻衣香に雑誌を返した。
「え？」
保の腕が、緩んだ。やっと陸朗は彼から解放される。しかしそれを喜ぶ余裕など、無かった。
「黒羽さんっ！？」
「あら」
菜那緒も自分の発言の重要性に気付き、思わず手で口を押さえた。
「もしかして黒羽さんもその場にいたの？えー、それってどういうことよぅ！」
「いっ、行こうっ！！」
どうしようもなく目立つのは覚悟の上で、陸朗は物凄い勢いで鞄と菜那緒の腕を掴み、一目散に食堂から逃亡した。
後に残されたのは、呆然としている保と麻衣香。
「何だよ、陸朗の奴、あれから事後報告が無いから心配してたけど、結局黒羽をモノにしてたのかよ」
「答案返却日には、彬のことも含めて問いつめてやろーね、保君」
保はどうせならと陸朗の残したラーメンを食べはじめ、麻衣香は印刷された彬を見て溜め息を吐いた。
学校の敷地から出た二人は互いに言葉もなく、しばらく駅に向かって進んでいた。
「あの、桂君……」
「あっ、あっ、て、手だね、ごめん、掴んだままだった」
やっと自分のしていることを認識した陸朗は、慌てて菜那緒の腕を放した。今更ながらとてつもなく恥ずかしくなって、顔を伏せる。そんな彼の仕草が可笑しいらしく、菜那緒は笑った。
「良いわよ。私も、『知られたくない』のは確かだったから。ところで、桂君って食事の最中じゃ無かったの？」
「あーーーっ！そうだ、まだ殆ど食べてなかったんだ、ラーメン……」
思い出してしまうと、急速に腹が減ってくる。だが、今更ラーメンを食べに学校に戻るわけにはいかないだろう。陸朗は少し悲しくなった。
（何処かに寄って、何か食べないとなぁ）
これで一人だけなら、その辺のコンビニでおにぎりを買って駅のホームで食べるのだが、菜那緒がいる以上、何となくそれは出来ない。定期範囲内の何処かで途中下車し、食べるしかないだろう。
ただ、問題が一つだけ残っていた。陸朗は、菜那緒が何処に住んでいて、どういったルートで通学しているのか、全然知らないのだ。しかし、今更そんなことを尋ねても、不審がられるだけだろう。
駅まで来ると、菜那緒は陸朗が向かうホームまでついていき、あまつさえ彼と同じ電車に乗ってきた。
「――黒羽さんっちって、こっちの方角だったんだ？」
「そうよ」
「今日はこのまま、まっすぐ帰るの？」
訊いてしまってから、陸朗は困り切った表情になった。自分から嵌る穴を広げている気がする。しかも、彼の問に菜那緒は首を振った。
「いいえ。例のところで、本を買うの。感想文の課題図書」
「それって現国の？」
「そう。家にも図書館にも無かったから」
「だったら、僕も買わなきゃ駄目かなぁ……」
結局、陸朗は昼食を棒に振ることになって、二人は途中下車し、そのまま並んで本屋に向かった。その間の話題は、専ら夏休みの宿題についてだった。頭も良い菜那緒は、既にその殆どを解いてしまっているらしく、保曰く「たかが知れている」学力レベルの陸朗はひたすら感心するばかりだった。
「僕は多分、八月終わりまでかかるだろうなぁ――でも、良いよね、宿題早く終われば、休みが楽しめるし。去年は保と海とかに行ったけど、今年は無理だろうな」
「楽しそうね、凄く」
「そりゃそうだよ、夏休みだから」
そう言って、陸朗はまた、閃くように気付く。
（黒羽さんと『普通の話』をしてる……？）
内容こそ勉強と堅いものだが、二人がしている会話は、何の謎かけも違和感も無くて。今、陸朗と菜那緒は「ただの高校生」以外の何者でもなかった。
それが無性に嬉しくて、つい頬を緩めてしまった、その時だった。
「あなたは――！！」
突然立ちふさがった、綺麗な女性のシルエット。押さえ気味のパンツスーツに広いレンズのサングラス、といういでたちからでも、その人物がただ者ではないことが判る。緊張でひき結ばれたベージュのルージュの口紅が、無言で主張していた。
そして、彼女は明らかに菜那緒を見ていた。サングラスを外すと、そこに現れたのは、カメラマンに要求された表情が最も似合う、顔だった――彬のように。
（も、もモデルのカレンっ！？）
服装から、恐らく「お忍び」でこの街に来ているのだろう。それ以上の想像は陸朗には不可能だったが、やはり売れっ子と呼ばれる存在には、間近で見るとその称号に相応しいだけの華やかさがあった。だが、何万人の男達の視線を惹き付けてきた写真のそれと明らかに異なる、華蓮の鬼気迫る形相に、陸朗は呑まれ声も出ない。
「こんにちは、華蓮さん」
しかし、菜那緒は相手の視線を感じているのにそうではないふりをしているのだろうか、まるでしばらく会わなかった先輩相手にするように、挨拶をした。
次の瞬間、菜那緒の頬が高く乾いた音を立てて、鳴る。
直後の華蓮の右手の位置は、何が起きたのかを如実に表していた。
「黒羽さんっ！？」
「――そいつが今日のあなたの『お相手』ってわけ？」
低い温度で燃え立つ瞳が、陸朗の方をちら、と見る。
菜那緒は打たれた頬を押さえもせず、姿勢を崩しもしていない。
「また、彬の知らないところで別の男を誘ってたのね」
透明な稲妻が空間に亀裂を作ったような、錯覚。
「彼は高校のクラスメイトです。華蓮さんが思っているような、疚しいことなんて何も無いわ」
「でも！」
既に、この騒ぎに周囲の通行人が注目し始めている。だが二人の間、いや華蓮の感情領域に入り込める者は、誰もいなかった。陸朗の身体も動くことを拒否している。
「あたし見たのよ、あなたが彬以外の男に誘われてついて行くところ。その方角には、ブティックホテルしか無かった。彬があたしと別れるとき、言葉は少なかったけどあなたに対して凄く真剣だった。なのに、なのに……」
嗚咽、震える唇、涙で融けて流れてしまった美貌。それは怒りと言うより、むしろ激情。
「彼を返して。彬を弄んでるだけなら、彼を返してよ！！」
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