8.七月の晴れた空の下で

 私の両親は、端から見て必要以上に親密な夫婦だったらしい。子供の頃の私の目にもそれは明らかで、父親が家にいるときは、いつも母親と馴れ合っていた。二人が夜毎何をしているのかはっきりとは知らなかったけれど、それが何か特別なことである、ということは薄々感じていた。
 私は、父親によくこんな質問をした。
『何でお父さんとお母さんは、いつもべたべたしてるの?』
『それは、お父さんとお母さんは愛し合っているからさ』
『ふぅん』
『でも、お父さんはお母さんを愛してるけど、菜那緒のことも愛してるよ』
 彼はそう言ったあと、私の頭を撫でる。私は世間並みに父親のことが好きだったから、嫌じゃなかった。だから何度でも、同じことを尋ねた。
 それが習慣になるにつれ、撫でられる時間が長くなり、やがて抱きしめられながらされるようになる。手も首筋よりずっと下まで動くようになって。
 けれど、私は「その時」まで、本当に疑うことをしなかったのだ。
  何度も何度も、愛してると繰り返された。絶え間ない激痛と嘔吐感を越えて、今なお残っているただ一つの言葉。
 私は、自分が遭ったことを最初掴みきれなかった。破られたスカートとブラウスの替わりに黒を基調ベースにしたワンピースを着せられて、朝と同じように父親に手を引かれて家に帰った。動物園は楽しかったかと訊く母親に、私は頷いた。何となく、そうしなければならないような気がしたからだ。ワンピースは帰りに寄ったデパートで買ったのだ、と父親は説明していた。
 あのスカートとブラウス、色が子供っぽいとクラスの男子にからかわれていても、お気に入りだった。自分の部屋に戻って、それらをベッドの上に広げてみた。布が人間の手で裂くことが出来るなんて知らなかった。もう二度と着れないのだ、と私は痛感した。
 突然、背後でいらだたしい叫び声がして、振り向くとそこに母親がいた。スカートを見、私の肩を激しく揺すって説明を求めた。私はスカートのことが残念だったから、その日の出来事を全部正直に話した。それを裂いた父親をきつく叱ってくれると思って。
 その時の母親の双眸を、私は決して忘れることが出来ない。
――彼女の眼差しを支配していたのは、娘の受けた暴行に対する嘆きと憤懣ではなく、男を寝取った女に対する激しい怒りだったのだ。
 それ以後、両親は同じ寝室で寝なくなった。間もなく彼らが離婚したのは、至極当然の成り行きだった。母親は父親が私を引き取ることに断固反対したばかりか、自分がそうすることも完全に拒絶した。私は、母親の従姉夫婦の籍に入ることになった。
 裁判所を別々に去っていく両親を冷めた目で眺めながら、思った。
 「愛」なんて単語は所詮、カラダを求めるための方便にすぎないんだ、と。

 学校で、陸朗はまだ菜那緒を目で追っていた。今は授業中なのだが、黒板の内容から意識がたびたび離れてしまう。抱え込んでしまった秘密の重さを感じることに、どうしても慣れない。
 最近、彬と自分の心がくっついてしまったのではないか、と陸朗はよく錯覚する。
 彬もあのビデオを観て、菜那緒の背負った大きな闇の正体を知った。が、既に手遅れだったのだ。彼は菜那緒の父親と同じラインの上に立ってしまった。もはや彼女は彬の声に耳を貸さないだろう。もし菜那緒が知らなかった時のことを考えると、ビデオを理由にも出来ない。そもそも彼女は今までその事件のことを口にしなかったのだ。
 しかしもっと悲惨なのは、菜那緒と彬の関係が肉体的な面においてのみ成り立っているということだった。ラインを外れるために彬が菜那緒を抱くのをやめてしまえば、恐らく彼女は彼から離れる。彬にとって、それは最も怖れている事態に違いあるまい。拷問に等しい矛盾、過酷な無限ループ。
 彬の葛藤を理解すると言うことは、即ち陸朗自身も同質の苦しみを抱えてしまったということだった。菜那緒と陸朗の距離は、彼女と彬のそれよりもずっと離れているだろう。陸朗は「他人」として菜那緒に干渉できるかもしれない。しかし、やはり彼も菜那緒に完全に拒絶されるのが嫌なのだ――彼女のことが好きだから。
 なら、陸朗と同様「他人」である祐人はどうか?確かに彼は菜那緒に心を奪われていない。だが、恐らく彼は菜那緒と対決してしまったなら、彬を苦しめる彼女を徹底的に傷つけずにはいられないだろう。だから、祐人は今まで「影」に徹してきたのだ。
(結局、僕は黒羽さんのために出来ることを見つけられないんだ……)
 四限目の授業が終わる合図のチャイムが鳴った。皆、昼食を思い思いの場所で食べるために移動しはじめる。菜那緒も、いつも通り席を立った。そこから廊下への進路沿いに、陸朗の席がある。彼女が近づいてきたとき、陸朗はいつも通り慌てて顔を伏せた。
 だが今は、菜那緒から視線を逸らすとき、悪戯を見つかるような恐怖より、泣きたいほどの罪の意識を感じる。大動脈を締め付けられるような、苦痛。
「――朗、陸朗」
「あ、保」
 保は自分の弁当を持って、さも当然の如く陸朗の隣の席を拝借した。
「今日、円城さんは?」
「麻衣香、体調崩して今日は休みだって。勉強、無理しすぎなんだよ。って、陸朗、お前もなんか凄ぇ憔悴しきってるじゃん」
「……自分こそ、目の下に隈ができてる」
 はぁ、と二人は揃って肩を落とした。実は、期末テストがすぐ側まで忍び寄って、いや大股で近づいてきていたりする。これだけは真面目に学校に通っている限り、どんな状況下に置かれていても避けられないのが、悲しい。
「まぁ、俺達の知能アタマの程度はたかが知れてるからな」
 ところで、と保は陸朗の耳元に囁いた。
「黒羽は多分今回も十位以内だろうな」
「ばっ……!」
「顔、赤いぜ」
「お、お前には関係ないだろ!?」
 こんな時に、と陸朗は思ったが、保は何も知らないのだ。そんな非難がましい考えが浮かんできたが、彼は慌ててそれを打ち消した。陸朗自身、己に知る資格があったのかを未だ図りかねているからだ。
「その様子じゃ、まだ告白もしてないようだな――って、してたんならもっとひどいか」
「おいっ」
「いい加減、ここでチャレンジしてみろよ。お前ぐらいだぞ、黒羽とまともに喋れる奴は」
 確かに学校では、他の連中よりずっと菜那緒と親しいように見えるかもしれない。しかし、それはやはりクラスメイト同士の付き合いの延長線上のことでしかあり得ない。彼女が陸朗と話すのはただの気まぐれなのだ。
「ずーっと黙ったままで、何の行動も起こさないんじゃ、結果は同じでも後悔するぞ」
「保……」
 保の目を見て、彼が親友を慰め、励まそうとしているのだと言うことが唐突に解った。保の言うとおりだった、どんなに自分が無力でも、何か些細なことでも実行すれば、流れが変わるのかも知れない。
「ありがとう」
「お、いきなり改まっちまって。早速実行する気か?」
「うん。だから保、今日の昼飯は一人で食べなよ!」
 陸朗は、机の上のノートや筆箱をそのままに、駆けるように教室から出ていった。

 思った通り、菜那緒は屋上にいた。七月の晴天が、夏の空特有の底が濁ったような輝きを放っている。
 彼女は制服が汚れるのも厭わず、白く乾いた床に仰向けに寝そべっていた。黒髪が鮮やかに広がっている。ただ、右手だけが何かを捧げるかのように挙げられていた。
 床の硬質の石が忌まわしい部屋で光沢を放つ布に見えて、刹那、陸朗は躊躇する。だが、ここは六年以上前の映像の世界ではないのだ、と、思い直し彼は前へと踏み出した。陸朗がまずしなければならないのは、自分の中のこだわりを減らすことだ。
「――何をしてるの?」
 影が太陽を遮ったので、そこでようやく菜那緒は陸朗に気がついたようだった。
「桂君」
 菜那緒は何の動揺すらも見せずに、気怠げな動作で体を起こした。立ち上がる気は無いらしいので、陸朗は彼女に合わせるため、その場に座り込んだ。
 それを待ちかまえていたかのように、陸朗に白い手のひらが差し出される。そこに乗っていたのは、大振りのデザインの指輪だった。
「黒羽さん、アクセサリーは校則違反だよ」
 陸朗は何か的はずれで間抜けなことを言ってしまい、菜那緒にくすくすと笑われた。
「知っているわ。流石に制服姿の時は、付けないわよ」
「あの、見ていいかな?」
「どうぞ」
 菜那緒の手からそれをつまみ上げるとき、指先がわずかに彼女に触れ、どきどきする。
 指輪に嵌め込まれていたのは、半透明の白い石。ダイヤやその他の貴石のように輝いているわけでも無く、奇妙につるりとした光沢だけがある。だが、よく見るといくらか内部に色の変化が認められ、表面には幾つか疵が付いていた。
「これ、宝石?」
「ええ。これでも、ムーンストーン」
 菜那緒は陸朗から指輪を返して貰うと、それを右手の中指にはめた。そうして、その手を太陽にかざすようにした。
「生まれて初めて他人の男から――彬から貰ったの」
「初めて?」
「それまでは絶対に拒否していたの。自分を売っているような気がして嫌だったから」
 そう呟く菜那緒の表情は、自分に対して苦笑いを浮かべているようで。
「織田さんの前に付き合ってた人達から、何も貰わなかったの?」
「そんなの、いないわ。付き合う、ってことにしたのも彬が初めてよ。告白されたことなら確かに何度もあるけれど、好きだ、愛してる、って言われても、全然心が動かないから。他人を渇望するという激しい感情が、理解できないのよ――だから、私はいつも『あなたを愛さない』、って答えるの」
 彼女の口調はまるで他人事を語るように淡々としていて、それ故に疑いようの無さを感じさせた。
「黒羽さんにとって、男ってみんな、同じ?」
「ええ」
 かたくなな氷壁が、菜那緒を周囲から遮っているような、そんな厳しくて切ない幻視が、陸朗を沈黙させる。
「この石、蛍光灯の下で見た時は凄く綺麗なのよ、蒼や翠の部分が暗く透けた虹色に光って。でも、こんな風に強烈な太陽の光だと、輝きが無くなって本当に冴えない感じになるの。桂君が宝石かどうか疑ったぐらいに」
 確かに、中天から降り注ぐ日差しは眩しくて、熱い。
「何となく、私もきっとこの光で融けてしまえるんじゃないかと思って、それで寝そべってみたの。指輪と私がよく似ている、って言われたから」
 月の美しさが色褪せるように、夜が昼によってかき消えるように。
「黒羽さんって、もしかして自分が嫌い?」
 菜那緒が腕時計を確認するので、つられて陸朗も時間を見てみると、そろそろ五限目が始まりそうである。彼女は先に屋上から出ていこうとした。
「別に、私は自分がどうなろうと、そんなことに興味は無いし。だから、そうかもしれないわね」
 陸朗はまだその場から動けない。菜那緒は決して振り向かない。
 それでも、陸朗は呟かずにはいられなかった。
「――黒羽さん、でも、君はそれで、良いの?」

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