10.快楽けらく

 華蓮さんは膨れあがったギャラリーに気付いてこの場を足早に去った。残ったのは私と、そして、桂君だ。
 彼が、私を見ていた。
 華蓮さんは、私を憎んでいる。その感情自体は、私にも理解できる。私の行動は、彼女から見れば充分避難されるべきものだろう。
 けれど、彼女の憎しみには「愛」と言う裏付けがあって、それ抜きには成立し得ない。
 気安く言葉に出来る愛なんて、ただの方便、言い訳なのに、どうして人は愛を理由に行動するのだろう。そのために他者を踏みにじり、殺すことさえも出来るのだろうか。
『彼を返して。彬を弄んでるだけなら、彼を返してよ!!』
 華蓮さんが叫んだとき、私はよほどそうしてやろうと思った。彬と付き合っていたのはただの気まぐれ、また新しいゲームの相手を捜せばいいだけ。昔からそうしてきたはずだ。
……なのに、
 なのに、私は頷けなかった。

 華蓮がいなくなり、ギャラリーも興味を失って散った後も、陸朗と菜那緒はその場を動けずにいた。
「あ、あの……」
「桂君以外のうちの学校の人が、誰もいなくて良かったわ」
 そう言い放つ、菜那緒。別に何事もなかったかのように。
「どうしたの?顔色が悪くなってるわ」
「だって、そ、その、さっきカレンが凄いこと言ってたから」
「う、うん、先生とかに知られたら大変だもんね」
「でも、驚かないのね」
 彼女は、陸朗の方を振り向いた。
 そして婉然と、笑む。
『恋人じゃないわ、私はあの人の、愛人』
 あの時と同じ、諦めの強い微笑で。そして投げやりな次の言葉を紡ぐ。まるで彼女自身を攻撃しているかのように。
「華蓮さんの言ったことは全部本当なのに」
 陸朗の背筋を、大きな鼓動の衝撃が走る。
――そこに、赤いスカートの少女が立っていた。
 無視するにはあまりにも官能的な、白い肌から発散される甘い空気、気怠げな視線。
 突然、菜那緒が陸朗の腕を抱きしめた。柔らかな膨らみの感触に、包まれる。
(真実ナンテ、何処ニ?)
「でも、僕は信じてるから……」
 喘ぐような陸朗の声は空気に溶けて、消えた。
(信ジテルッテ、何ヲ?)
 冷たい微風のような囁きが頬に触れる。
 赤いスカートが陸朗の脳裏でひらひらと舞った。気鬱の液体が足にまとわりついて、重くなる。彼は腕をふりほどこうと思ったが、金縛りにあったかのように、動くことが出来ない。
「だったら、これから証明してあげましょうか?」

(どうして、僕はこんなところにいるんだろう)
 互いに下校中で所持金が少ないためだろうか、連れてこられたのは、ホテルではなく菜那緒の自宅だった。一人暮らしというのは本当らしく、ワンルームのアパートである。
『今の保護者が、私が高校に入って急に海外転勤になったから』
 と、電車の中で菜那緒から訊いた。陸朗は、移動中ずっと声を出すことが出来なかった。
 彼女の部屋は、女子高生の部屋とは思えないほどシンプルだった。陸朗の従姉妹達の部屋だったなら、キャラクターグッズが机に置かれていたり、アイドルのポスターが壁に貼ってあったりするのだが、目立つのはただ本棚ぐらいだ。つまり、有り体に言うと余計な物が何も無かった。照明までも少なくて、陸朗は足の裏に地面を感じることが出来ない。
「く、黒羽さん、本当に良いの?」
「ここまで来ておいて、女にもう一度それを言わせる気?」
 能面のような表情の菜那緒は彼の躊躇をいとも簡単に退け、おもむろに制服のボタンに手をかけた。
 ブラウスの襟がめくれ上がって、裏が見える。均整の取れた喉元、細い鎖骨が露わになった。
 一枚、また一枚と床に落とされていく布地の衣擦れの音以外、何も聞こえなくて。
 やがて現れたのは、白く、柔らかな稜線。夢のような裸体。
 地上にいるのが信じられないほど、綺麗だ。
「――桂君、どうしたの?」
 クリスタルのような瞳が影で彩られ、霞がかった光が陸朗を見た。
 陸朗はその場に立ちつくしたままで、制服のボタンは一つとして外されてはいない。
 菜那緒が足音もたてず、歩み寄る。指が彼の服にかかった。その動きが、スローモーションのように陸朗の網膜に焼き付けられていく。
 男だから、一度ならず夢見た一糸まとわぬ少女の姿がそこにある。このまま彼が望みさえすれば、手にはいるのだ。
 だが、違う。
 何かが違う。
 陸朗は、まだ彼女を信じている。何故なら陸朗の心は、肉体の衝動とは裏腹に、とても冷静だから。
 菜那緒の本心は、こんなところになんか、無い。
「黒羽さん、どうしてこんなことするの?」
 菜那緒によってワイシャツの全てのボタンが外されたとき、陸朗は呟いた。
「……別に、つまらない理由なんて無いわ」
 菜那緒の動きも、一瞬だけ止まる。陸朗の顔を見ない。代わりに、自らベッドに仰向けに身を投げた。スプリングの軋む音が響く。
「私は、とっくに原罪を破っているのよ。神様や救いや愛なんて何とも思わない。刹那的な今だけ、信じられるから。これはただの娯楽に過ぎないの」
 菜那緒の淡々とした口調が、やや、棘を含みはじめた。苛立っている。
「だから、僕を誘った?」
 陸朗は、乱雑に落ちたままの彼女のスカートを拾い上げ、そしてポケットをさぐった。目的の物を見つけ、取り出す。そして、彼も同じベッドに腰を下ろした。
「これ――織田さんからの、指輪」
「……もう、そんな話、やめましょう?」
 菜那緒はそう言うと、腕で弾みをつけて上半身を起こす。
 刹那。
「――!」
 陸朗は、腕に精一杯の力を込めて菜那緒を抱きしめた。互いの息が詰まりそうになる。
「桂君、何を」
「黒羽さんは、僕に八つ当たりしてるだけだよ、本当はこんなこと、ちっともしたくないんだ」
「違う」
「だって僕には全部判るんだから。カレンに遭ってから、ずっと黒羽さん、自暴自棄って感じだった!」
 そして今、陸朗の頭の中で、全てのピースが繋がった。
「いつもいつも、君はそうやって自分を傷つけてたんじゃないの?赤が嫌いなのは、自分が嫌いだからだろ?」
 相手に何も要求しないのは、菜那緒が自身を認められないから。
 愛が解らないのは、自分の価値を信じていないから。
「それが何故か僕は知ってる。でも、それじゃ悲しすぎるよ……」
 けれど。
 陸朗が信じたのは、屋上でグリム童話を読んでいた菜那緒。あの時、彼女の肩は助けを求めて泣いていた。
 そして今、少女の身体は小刻みに震えている。いましめから抜け出そうと、もがく。
 陸朗は菜那緒の首筋に顔を埋め、腕に込めた力を更に強めた。
「愛は黒羽さんが考えてるほど簡単なものなんかじゃないよ。愛は、カラダなんかで壊れないし、それだけで造れない」
「でもっ……!」
「本当は、愛を信じたいんだろ――織田さんと」
「違う、違うっ!彬は特別なんかじゃない!」
 菜那緒の声が激しく、涙で歪んでいく。
「違わない!だったら、何で織田さんから貰った指輪を学校にまで持ち歩いてるんだよ!!」
「――っ」
 そこで、陸朗は菜那緒を解放した。乱れた黒髪の間から見えた顔には、揺れる瞳の光。それは彼女が初めて見せた、本物の涙。
「織田さんにとって、黒羽さんは価値のないモノなんかじゃないんだ。君はもう、無意識では気付いてるんだろ?」
 指輪を彬から受け取った、その瞬間からきっと、菜那緒はいずれ変化する運命を手に入れた。ただ、そのきっかけを自分でつかめなかっただけ。
「そう思ってる人なんて、きっと殆どいない。なのに、君自身が自分を嫌いだなんて、絶対おかしいよ。だから、好きでもないおとこなんかとセックスしないでよ」
 赤い少女が、くすくすと笑いながら彼方へと去っていく。
「僕は、黒羽さんが好きだよ、初めて逢った始業式の朝から、ずっと。いつも重いものを抱えているような君のことを、どうしても知りたくて仕方がなかった」
 だから、陸朗が菜那緒のために言える言葉は、たった一つ。
「僕は、君を愛してる、これから先もずっと。だから今は、君を抱かない」

 「愛してる」という言葉は、何て胸に切なく響くのだろう。
 まだ、涙が止まらない。止めることが出来ない。
 桂君が私を抱きしめる直前に見せた表情に、私は憶えがあった。
 あれは私が彼の目の前で手紙を破ったときの、顔。そう、あの日からだ、彼の「声」が聞こえ始めたのは。
 初めて出逢った、私の知らない私を理解してくれた人。
――桂君は私を咎めだてする視線で見た、初めての男だったのだ。

「織田さん、今度映画に出るんですか」
「うんっ☆僕としては鼻が高いんだけど×僕の勘じゃ、彬はこのまま芸能界の泥沼にのめり込み決定だねっ♪」
 陸朗はと祐人は、またもや例の書店一階の喫茶店で、何度目かのティータイムを過ごしていた。無論、祐人の全額出資である。
「菜那緒ちゃんはどうしてるっ?」
「二学期に入ってすぐ、僕の友達の彼女に強引に勧誘されて、部活に入りましたよ。『もう今更だけど、やってみるのも悪くないわね』って言ってました。家庭部か何かだったかな?」
「悪くない、か%彼女らしい言い方だね@」
 ガラス越しの喧噪は相変わらずで、刻まれた時を呑み込んで想いを過去に飛ばす。
 あの日からもう一ヶ月以上が経って、それぞれの生活に変化が訪れていた。彬や華蓮はそれぞれ仕事のうえで重大な転機を迎えているし、保は麻衣香の執拗な洗脳のお陰で、今や彬のファンになってしまったようだ。祐人は、今は彬の妹と付き合っている、らしい。
 そして、一番変わったのが菜那緒だった。部活に入ったのがきっかけで陸朗以外の生徒とも話すようになり、近寄りがたい雰囲気が消えて笑顔が多くなった。クラスの女子達の誹謗めいた視線も少なくなった。相変わらす、告白は全て断っているみたいだが。
「やっぱり陸朗君のおかげだね*僕が見込んだだけはあるっ+」
 祐人がオーバーリアクションで陸朗の肩を叩いたが、陸朗の表情は明るくはならなかった。
「やっぱりまだ吹っ切れてないっ?」
「はい、としか言えないや……」
 それは本気の恋だったから、胸が痛む。
「でも、僕はこれで良かったんだと思っていますから」
 陸朗は外の景色から、紅茶のカップの方に視線を戻す。
「本当は、『愛』って何なんでしょうね」
 ぽつり、と、陸朗は呟いた。
「人間だけにしか無いからね$そういう脳の構造上のバグみたいのはっ▼」
 これは菜那緒ちゃんの受け売りね、と祐人は付け加えた。
「ただ、これだけは最近思うんです。愛でうち勝てるものはあるんじゃないか、って」
 それは凄惨な過去であり、憎しみであり、原罪であるかもしれない。それらをあがなうための手段が人には残されている。
「たとえ他に好きな人が出来ても、結婚することがあったとしても、きっと僕は黒羽さんのことを想い続けます。多分、一生」
 それが、菜那緒に証すただ一つの手段だから――彼女が信じてきたのとは正反対の道を。たとえ自分が馬鹿だと他人に思われたとしても。
「それが僕の愛の形質かたち、ですから」

〜Fin.〜

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