7.罪
「……やっぱり、彬がいい」
私は急に昼間の事を思い出して、呟いた。
「どうしたんだ、急に」
「別に。カラダの話よ」
「……」
「私って、世間の基準から考えたらひどい女でしょうね、きっと」
それは寝物語、と言うにはあまりにも今更すぎて。
世の中にはびこる、「道徳」。必ず持ち出される「愛」というコトバ。それらは私の耳には虚ろなものとしてしか響かない。
なのに、どうしてだろう。肉体の内側がうめいている。虚脱感の、暴走。
――キモチガワルイ。
私は、とっくにそれを飼い慣らしていたはずなのに。
「最近おかしいぞ、お前」
彬が、私の頬を両手で挟んだ。不思議と胸が詰まる。
でも、私にとって彬は昼の男と同等。そして、所詮あの時の奴らと同じ……。
さっきからつまらないことばかり感じ、考えてしまう。私は話題を変えることにした。
「ねぇ、私の誕生日、十二月八日が何の日か知ってる?」
「いや、別に。何もない日だろう、日本では」
「『無原罪の御宿りの日』。聖母マリアが身ごもったとされている日よ」
「原罪って確か、それってアダムとイブが禁断の木の実を食べた、ってやつじゃなかったか」
「そのはずなんだけれど、この場合はどう考えても違うのよね」
キリストは、神の子。
マリアは、処女のまま妊娠した。
そしてそれが何を意味するのか、彬にも解ったらしい。
「つまり、さっきまで僕達がしていたこと、と言うわけか」
「そう。なら、私なんか死んだら地獄の底まで堕ちていける」
「僕も一緒だ――お前が地獄に行くなら、何処にだってついていく」
真摯だけれど悲壮な彬の瞳から逃れるため、私は彼に背を向け、眠りに落ちるために瞼を閉じる。
『でも、君はそれで、良いの?』
ある日、自宅に帰ってきた陸朗は、玄関のドアの隙間になにやら紙片が挟まっているのに気がついた。ドアを開けるとたたきに落ちた、それを拾って見てみると、内容は裏ビデオの宣伝だった。
「う〜ん」
陸朗とて一応健全な少年であるのだから、全く興味がないわけではない。が、こうして手に取っていると言うことすら異様に気恥ずかしい。桂家は母子家庭なので、今はまだ母親は会社で仕事をしているはずなのは、少しだけ救いだった。
内容が内容だけに、チラシを地面に放り出しておくわけにはいかない。仕方なく、陸朗は家にそれを持って入った。靴を脱ぎながら、何となくタイトルを流し読みしていくうち、ロリータの項で偶然発見した、ひどく気になるビデオ。
(……『赤いスカート ななお・十歳』?)
「どうしてこんな時に、こういうの見つけちゃうかなぁ、僕……」
と自分を嘆きながらも、思わず説明に目が行ってしまう。どうやら、裏ビデオとしてはかなり息の長い作品らしい。
「『五年以上前の作品ながら、今でも名作と評価高し。モデルの女の子のかわいさ&エッチ度◎』……」
しかも、年齢まで近い。ただの偶然と片付けたくても、胸が騒いだ。
大抵のロリータものの例に漏れず、説明には写真が無い。たった数行の文章だけで妙な憶測をたてるのは良くないとは思っても、どうしても心の隅にひっかっかったものが取れない。まさか陸朗がビデオを買うわけにもいかないだろう。万が一それが発覚したとき、どう言い訳して良いのか皆目見当がつかない。さりとて動機を正直に語ったところで、その方が更に問題になるだろう。
とにかく、陸朗はチラシをゴミ箱に捨てることにした。もうこれ以上、妙な悩みを抱えたくない。意を決してゴミを丸めようとした時、玄関のチャイムが鳴った。反射的に陸朗はさっき閉めたばかりのドアを開ける。
「はい――」
「やあ☆陸朗君♪」
「……」
そしてそのままドアを閉める、陸朗。
「わわわわっ!そんな殺生なっ!」
「だって!!祐人さん、どーしてあなたがウチに来てるんですかっ!!!!!」
祐人に自宅の住所は教えていない。彼がここに来るはずがない……のだったが。
「この祐人君の情報網をナメちゃ駄目だよっ%で、たまたま近くに来たから寄ってみたんだ@」
「――すっさまじく不自然なんですけど、それ」
しかも、祐人の格好は長髪オールバックにサングラス、といかにも怪しい姿であるため、不気味なことひとしおである。
「まっ$細かいことは気にしないっ+僕、陸朗君のことお気に入りだし*」
「気にしますよ、普通」
はぁぁぁぁぁぁぁ、と、陸朗は長い長い溜息を吐いた。上半身からすっかり力が抜けてしまったため、手に持ったままだったあのチラシが、あろう事か祐人の足下に落ちてしまった。
「おや?これはこれは¥」
「わーーーーーーーっ!!」
「陸朗君もやっぱ男だったんだねぇ□」
陸朗は慌てて祐人からチラシを取り返そうとしたが、悲しいかな身長差はいかんともしがたい。祐人が腕を振り上げてしまえば、それでおしまいだった。
「恥ずかしがることは無いよ▲そう言う需要があって初めてこの業界は成り立ってるんだし▽それで陸朗君、君はどのビデオが欲しいのかな?」
「やめてくださいーっ!」
どうも、祐人の妙なテンポに陸朗は振り回され気味である。彼が、あのしなやかな豹を思わせる彬の幼なじみだとは、とても思えない。
「偶然とんでもないタイトルのビデオ見つけちゃって、それで少し気になってただけで、十八歳にもなってないのに裏ビデオなんて買いませんよ!」
「君ってかなり相当真面目なんだねσ」
今時珍しいな、と笑いながら、祐人はチラシの内容を見る。
「もしかして陸朗君、『赤いスカート ななお・十歳』に反応した?」
「な、なんですぐ判るんですか」
「男の勘★」
祐人はそんなことを言っているが、この場合、判らない方がおかしいだろう。
「だって、このタイトル、気になるじゃないですか」
遂に観念した陸朗は、まだかなり残っている羞恥を虚勢で覆い隠そうとしているのか、不機嫌そうな口調になった。
祐人はしばらく考え込んだかと思うと、突然ぽん、と手を打った。
「よし☆陸朗君、これからお兄さんと出かけよう!」
「は!?」
「家の戸締まりはしっかりしときなよ@最近は不審者が多いからねっΖ」
それは祐人自身のことではないか、と思いながらも、陸朗は結局引きずられるようにして自宅を後にすることになった。
何処に行くかもまだ判らないうちに電車に乗せられ、陸朗は居心地の悪さから絶えず周囲の様子をうかがっている。時間帯も関係しているのだろうか、この車両の乗客はかなり少なかった。
だが、祐人が陸朗を連れだしたのは、ただの冷やかしや嫌がらせからでは無いはずだ。そうだとしたら、祐人から感じる張りつめた空気のようなものは一体何なのだろう。
だから、余計に不安だ。
「君は菜那緒ちゃんをどう思う?」
また何の前触れもなしに、祐人はそんなことを訊いてきた。電車のドアのガラス越しに見る夕日が濡れた濃緋に輝いていて、彼の顔に暗い影を作っている。その表情は、見えない。
「黒羽さんは、不思議な人です。近寄りがたいぐらい綺麗で、時々女神や妖精ってこんな感じなのかな、と思うぐらい。けど、同時にそれと同じぐらい、怖いんです」
それは、菜那緒を見ている自分の中に生じる欲望で。待ちかまえている恍惚に自分の全てを投げ出してしまいたくて。
「自分が何を考えているのか判らなくなるほど、ぼうっとする時があって、それに流されてしまえば良いって何度も思いました。でも、僕には出来ません」
「何で?」
「彼女は不安定に見えるから。まるで全てを諦めきっているようだから。何処か大きく欠落したものがあるみたいだから」
陸朗の話を黙って聞いている、祐人のサングラスに反射する空は、既に紫がかっていた。
薄い闇は、初めて菜那緒に出逢った教室を陸朗に連想させた。
そうだ。今言ったことこそが、陸朗があの朝からずっと感じ続けてきたことだった。
「自分の中でも明確なかたちになっていないんで、上手く説明は出来ないですけど……だから僕は黒羽さんに惹かれたんです。欠けた部分があるのなら、完全に幸せじゃないと思う。だったら埋めてあげたい。黒羽さんの本当に幸せそうな笑顔が見てみたい。だから、それまで僕は彼女を傷つけちゃいけないんです――変な考えですか?」
「いや、合格」
「え?」
祐人の口調から、軽薄さが消えている。だが、彼は景色を見ているため、表情は伺えなかった。
「場合によっては引き返そうと思ったけど、このまま君を連れて行くことにするよ」
「そうだ、これから何処に行くか、まだ聞いてませんでした。それに、そこで何をするんですか?」
「僕の部屋☆オニイサンと良いことしよっΧ」
「はあっ!?」
また、何の脈絡も無くいつもの調子に戻られたので、陸朗は頓狂な声を出す。
「い、いきなり何言うんですかっ!」
「冗談冗談♪僕にはそんな趣味無いから安心してねっ%」
祐人はそう茶化したが、虫の治まらない陸朗は、思わず言ってしまった。
「でも、彬さんは別ですよね」
途端、祐人の表情が静止画になる。
「まさか、そんなことあるわけ……」
「嘘は駄目ですよ。最初に祐人さんに遇ったとき、どういうわけかそう『悟った』んです」
陸朗が祐人の言葉を遮るように言い切ると、彼はとうとう、天井を仰いだ。
「降参。君は、僕以上に凄い感覚の持ち主みたいだ」
電車が停車し、車両が大きく揺れる。どうやら、目的の駅に到着したようだった。
祐人の部屋に到着するとすぐ、陸朗はリビングに通された。彼の住まいには、一人暮らしの男の部屋という言葉から想像される乱雑さというものが無く、インテリアも洗練されている。それが陸朗にはちょっと意外だった。
「そこのソファに座って&あ、何か飲み物いるっ?」
「いえ、お構いなく」
しばらくの沈黙の後、祐人はトレイを持ってダイニングから現れた。
「陸朗君、お待たせ〜★」
「あ、別に結構でしたのに――あれ?」
しかし、トレイに乗っていたのはグラスなどでは無かった。
それは、一本のビデオテープ。
「まさか、これ」
「そう。これが例のビデオだよ」
あの、チラシに載っていたロリータビデオ。「赤いスカート ななお・十歳」。
「……何で、いきなりこれが出てくるんですか?」
「半年前に、君と同じ疑問を抱いてビデオ買おうとした人間がいたからね」
祐人はテレビとビデオデッキの電源を入れ、テープをデッキにセットした。テープが入ると、自動的に「再生」のマークが現れる。
「そいつの名前は織田彬って言って、世にも綺麗な女子高生の彼女がいた。その彼女は、最初から彬のことを愛さないと宣告していた」
「え!?そ、それって!」
「それ以前にも、彼女と寝た男は大勢いて、そしてみんな彼女に夢中になってしまった。けれど、誰も彼女をつなぎ止めることは出来なかった。彼女はその場限りの肉体関係以外の一切を拒否し続けたから。多分、形だけでもつき合えるようになったのは彬が最初なんだろうけど、それでも彼女は一人でいるとき『彼氏』がいないのと同じような態度をとり続けた」
陸朗の動揺を全て受け流しているような、淡々とした祐人の口調。サングラス越しの視線はブラウン管にも陸朗にも向いていない。
「――っ」
喉が詰まってしまったのだろうか、声が出ない。だが、陸朗はラブレターを破る菜那緒の姿を思い出せた。祐人が以前言っていた、「肝心の相手に愛されていない」という言葉の意味が、遂に残酷に楔を打った、陸朗の心臓に。
既に映像は始まっていることに気付き、陸朗は画面を食い入るように覗き込んだ。そして次の瞬間、息を呑む。しかし喉は急速に乾いてしまっていて、ちりちりした痛みを彼は感じた。
そこは何処かの公園。赤いスカートを履いたあどけない少女が、三十代半ばぐらいの男に手を引かれている。
「黒羽さん――」
古い映像のためか画像は不鮮明だったが、その少女が菜那緒だと言うことは、陸朗には即座に判った。
状況は把握できないが、菜那緒ははしゃいだ様子で男について歩いている。無邪気な笑顔。満ち足りている、疵や欠けなんて、一切無い表情。
これから自分の身に何が起きるかも知らず。
突然の場面転換。ベッド以外に何もない部屋。光沢のある白いシーツの上に、少女は荒々しく投げ出された。
菜那緒の顔がアップになる。表情が混乱している。
それを見て、陸朗は脊髄を電流が走ったかのような幻覚を覚えた。
何という妖艶さ。これが本当に、十やそこらの子供なのか。陸朗が今の菜那緒から時々感じるものとは格段に違う。この少女は心の底から怯えながら、全身で男を誘っている。
「僕も彬も、最初に見たとき本当に驚いたよ」
祐人を見ると、彼は下を向いていた。何かに必死に耐えているかのようだった。組んだ両手が握力の放出先を喪って、小刻みに震えている。
画面の少女は抵抗をねじ伏せられ、真っ赤なスカートが乱暴に引きちぎられた。まだ筋肉の堅さが隠されていない太股が露わになる。やがてブラウスのボタンも飛んだ。まだ起伏の乏しい、磁器のようななめらかな胸。
あまりにも無惨な光景に、陸朗は口を覆った。自分の顎も震えているのが感じられた。
「菜那緒ちゃんは希有な娘だよ。生まれつき、存在だけで男を誘惑できるんだ。たとえ本人がその気じゃなくってもね」
祐人の声が、悲鳴のような嬌声に交じる。陸朗は思わず彼の襟首を掴んでいた。
「だから、だからこんなひどい目に遭わされたんですか!?」
「この世界にはね、売れる作品作るためなら何だってする奴は少なからずいるんだ。アメリカ辺りじゃ本物のレイプ殺人のビデオだってあるんだよ。菜那緒ちゃんはそう言う奴らには格好な被写体だった。僕って、職業柄性欲押さえるの結構得意なんだけど、彼女相手には一秒たりとも気が抜けない。このビデオに至っては、正視したら気が狂いそうだ」
狂う、というニュアンスは陸朗にも痛いほど感じられた。ビデオの制作者に激烈な怒りを覚える反面、菜那緒の痛々しくむき出しにされたもの――あの朝見た、聖性の中の退廃――が凝縮され、ぎらぎらと輝いているさまを徹底的に見せつけられて、知らず身体が熱くる。
耐えきれずに、陸朗はリモコンを掴むとテレビの電源を消した。頬に感じる気持ちの悪い感触は、きっと大粒の涙だ。
「くそっ……!!」
そのまま床に手をつき、肩で大きく息をする。カーペットに染みが出来たが、それが大きくなるにつれ、視界がぼやけていく。
「事実はこれだけじゃない」
そして、まるで死刑を宣告するかのような、祐人の声が降ってくる。
――ビデオのあの男、菜那緒をこんな目に遭わせた奴は、彼女の実の父親なんだ、と。
「そんな――!」
「個人的に調べたけれど、何せかなり昔のことだから、このビデオが撮影されるまでの詳しい事情は判らなかった。けど、あいつが前から娘に道ならぬ欲望を抱いてた、ってことだけは確かみたいだよ。これは彬から聞いたんだけど、彼女は今、母親の従姉妹の養女になっているらしい。多分、このことがきっかけで、両親は離婚したんだろうね」
ブラウン管は無表情のまま、ビデオテープは最後まで回りきった。結末まで見なかったが、陸朗には想像出来る。
シーツの上に取り残された少女は、その身体に吹き荒れた暴風雨の余韻を微塵も感じさせない無表情で横たわっている。右斜め四十五度の表情は、無垢な雪原のイメージ。
しかし既に彼女からは、一番大切なものが欠け落ちてしまったのだ。
「多分、僕が陸朗君にこれを見せたのは、君が彬と同じ位置に来てしまったからだよ、あいつとは別の方向から。君は何よりも先に彼女の闇を見て、本気で好きになってしまった」
陸朗は声をあげて泣いた。何度も何度も、カーペットを拳で殴った。自分の痛みなんて、そうと知覚するにも値しない。
「知りたい」と思ったことを、これほど後悔したことは無かった。
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