6.Succubus

 気詰まりな空間の中で、またも繰り返されること。さっきからそわそわしている男の所作は、部屋に入った途端にせわしなさを増した。それがあまりにも、滑稽だ。
 私はその逆。感じない。期待なんて何もない。
――けれど、それでも止めることが出来ない。
「キスだけは、駄目」
 私は顔を寄せてきた男の口を覆うと、その胸板を押し返す。
「キスをする事は、相手を愛してる証拠だから。私は絶対に、しないの」
 もう数え切れないほど言ってきた、言葉。
 最後にそれを伝えた相手の泣きそうな表情が思い浮かんできて、それを打ち消したくて私は自分の服に手をかける。
『君はそれで、良いの?』

「華蓮、これから飲みに行かない?みんなで行こう、ってことになってるの」
 黄田きだ木綿ゆうは、撮影から上がってスタジオを去ろうとする華蓮に声をかけた。そして、参加する予定の面々の名前を挙げ、「つまりはコンパみたいなもんなんだけどね」と付け加えた。
 しかし華蓮は、少し不機嫌そうな、疲れた表情で親友の誘いを断った。
「ごめん、あたしそんな気になれないから」
 そんな華蓮の様子には思い当たる節があって、木綿は困った顔をする。
「まだ、彬君のこと忘れられないの?」
「……」
「別れてからどれだけ経ったと思ってるの?彼、新しい恋人いるんでしょう。しつこい女はよけいに嫌われるだけよ」
 解ってる、と、苛立った声が帰ってきた。
「今のあたしは、彬じゃなきゃ駄目なの。そりゃあ、思い出にしようと何百回も思ったわよ――でも、あんな子に彼は譲れない」
「華蓮……」
 何故?と木綿は尋ねることが出来なかった。
 かぶりを振ったがために乱れた髪をまとめ直しながら呟く華蓮の顔が、刹那、女ゆえの修羅の影を背負ったから。

「華蓮、すまない――俺、お前と別れたいんだ」
 それは、華蓮に世界の崩壊を錯覚させる、宣告だった。
「何で?何でよ彬」
 とっさに華蓮が返すことが出来たのは、そんな陳腐な台詞だけで。それほど、彼女は自分の耳を信じられなかったのだ。
「他に好きな女が出来た」
 彬の返答は、言葉少なだけに非常な説得力を持っていた。
「さよなら」
「ま、待って!」
 だが彬は振り返らなかった。急いで背中を向けたのは、きっとすがる華蓮の視線を振り切るためで。彼女の講義は、その一動作で全て封じられてしまった。
 取り残されてしまった華蓮は、泣いた。
 彼女に出来ることは、そのたった一つだけしか残されていなかったから。
――喉の震えが、止まらなくて。

 幼い頃から容姿を認められ、異性に崇拝に近い感情を持って見られることに慣れていた華蓮にとって、男の方から別れを告げられると言うことは文字通り屈辱であり、絶望であり、そして悪夢だった。
 華蓮には女としての絶対の自信があった。彬がモデルになったときから彼に眼をかけてきた、そんな自負も。だから、自分から恋人を奪った女を、華蓮はどうしても自分の目で見たかった。でなければ、到底納得出来るとは思えなかったから――事実を。
 その時は、案外早く訪れた。華蓮の仕事がオフの日、偶然街で歩いデートしでいる彬達と鉢合わせたのだ。
「華蓮」
 華蓮を見た彬は明らかに動揺していて、左隣を歩かせていた少女をかばうかのように、腕で少女を押しやった。
「彬、もしかして、その子が」
 みっともない姿と思っても、身体がその少女を見ようとして、前へ前へと乗り出していく。
(負けた……)
 そして彼女を一目見て、そう思った。女が同性を見る目は、男の異性に対するそれより格段に厳しい。その厚いプライドのフィルターを通してなお、少女は満月の美しさを放って華蓮の前に立っていた。
「もしかして、モデルのカレンさんですか?よく雑誌などで拝見してます」
「あ、有り難う。あなたは――」
「私の名前ですか?黒羽菜那緒と言います」
 男を間に挟んで、優越感など微塵も見せない少女の笑顔。
 その時、久しぶりに彬と目が合った。彼も戸惑っているのだ、華蓮と同じように。どうして菜那緒は恋人の昔の女に対し、ここまで普通に接することが出来るのか。華蓮の心は、嫉妬と敗北感でいっぱいなのに。
 そして同時に耳元で鳴り響くのは、警鐘。
 華蓮は、場合によっては「女」であることさえも武器にしなければならない世界に生きている。それが長かったせいだろうか、彼女には同じく子宮を持つ者の、どろどろとした汚物が見える。
 確かに、菜那緒は聖少女とも言える透明な美貌を誇っている。だが、その胎内には今にも崩れ落ちそうな怪物が宿っているらしいのが、華蓮には見えたのだ。
 見えないはずの怪物の腕が、彬の首を掻き抱いている。彼はこの少女に食い潰され、堕落しおちてしまうのではないか。いや、もしかしたら既に菜那緒の美しい歯牙にかけられ、既に破滅寸前なのかも知れない。
 彬が菜那緒を連れ、決まり悪そうに立ち去った後も、華蓮はしばらくその場を動くことが出来なかった。
 その後の行動に関する記憶は、既に彼女には無い。しかし感情だけは心臓の――いや、子宮の内壁を抉るように刻みつけられた。

 華蓮は彬を忘れることが出来なかった。そしてそれは皮肉にも、菜那緒が彼女に与えた過大な「不安」のためであった。
 いつの間にか、華蓮はあの街を訪れるたび、自然と目で菜那緒を捜すようになっていた。だが菜那緒と再会し、その先に何があると言うのだろう。勝負は既に決しているというのに。少なくとも彬を返してくれるよう懇願するためでは無いのだから、自分が何故そんなことをしているのか、彼女自身も理解できずにいた。
 華蓮の、その正体不明で一途な念が引き起こしたのだろうか、遂に彼女は菜那緒を発見した。どうしても記憶から捨て去ることの出来ない、至高の容貌かおを持つ娘。しかし、彼女の隣に立っているのは彬ではなかった。
 「どういうこと!?」と思う反面、何処かでそれをすんなりと受け入れることが出来る自分が、華蓮の中にいた。
 菜那緒達が向かった方向に何があるのか、華蓮は知っている。
(あの子、あたしから彬を奪っておきながら、彼を裏切った――)
 彬に密告するべきか、彼女は迷った。だが、それは諸刃の剣。言ってしまえば彼女と彬の間にまだ残っている、細い細い繋がりを永久に断ち切ってしまうかもしれない。
 赤いマニキュアに血が滲むほどの、手のひらの痛み。諦めかけた気持ちが、再び華蓮の中で別の彩りを得て肥大する。
 分裂し、四散し互いに矛盾する感情。
 生理でもないのに疼く子宮。
 溶けてゆく。溶けてゆく。
 華蓮の自我は憎しみを孕んで溶けてゆく。
 アンナコニアキラヲワタスワケニハイカナイ――。

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