5.欺瞞

――今日の彬はいつもより攻撃的だ。
 けれど、それで私自身に害が及ぶ訳じゃない。私は、流されるふりをしてそれを操る。文字通りの、身体を張った駆け引き。互いに戦い、奪い合う。私にとって、これは高度な児戯ゲームに過ぎない。そして得るのは、快楽――それだけ。
 こんなもののために。
 コンナモノノタメニ……。
「……どうしたの?」
 ふと、彬の手の動きが止まった。
「この前、来なかったな。俺はずっと待ってた」
 私は声を殺して笑った。笑わずにはいられなかった。何て子供っぽい拗ね方。
「ちょっとあってね、行きたくなくなったの」
「それだけ……なのか?」
「ええ」
 私は笑気の抜けきらない声で応えた。彬の表情が歪む。顔をしかめる。
「菜那緒」
「――忘れないで。私、あなたに縛られたわけじゃない」
 それは、最初に交わされた契約。
「その気が無かったら、こんなことなんか出来ないわ」
 それが無くなってしまえば、いつだってこんな関係は解消できるのだ……ただ、最高のゲーム相手との遊びを止めるつもりは、今のところ無いのだけれど。
「今更だが、俺が抱いてるのは抜け殻だな」
 時々彬はこんな面白いものの言い方をする。そう言うと、決まって彼は「菜那緒の方がよほどそうじゃないか」と応える。
「お前の心が欲しいと思うのは、俺の我が儘なのか」
 私の指が、彬の喉を滑っていく。流れる汗、漏れる嗚咽。
「心なんて、最初から持ってないの」

 水尾祐人という怪人物(?)との出会いは、陸朗の頭の中に構築されている「黒羽菜那緒」の人物像を更に曖昧なものにした。菜那緒や祐人の言葉の一つ一つが陸朗の心に波紋を作り、互いに干渉し合い、打ち消し合う。
(――ああ、もう、僕は何て事ばっか考えてるんだ!?)
 こんな自分を止めなければならないと言う腹立たしさと焦りばかりが先に立ち、朝からいっこうに授業に集中出来ない。
 今まで彬が菜那緒のことを本気で好きではないのだと思っていた陸朗は、実際に二人を見て違和感を感じた。そして彼の想像とは全く逆のパターンが、実はその違和感の正体だったのだということが、彼の思考の迷走の原因だった。
 昼休みの教室の、人の出入りの激しさの間を陸朗の視線が走る。
 保は麻衣香と何か話している。
 女子達はまた良からぬ相談をしているようだ。
 ベランダでウォークマンを聴いている奴もいた。
 だが、肝心の菜那緒の姿が何処にも無かった。それを認識してしまうと、途端に教室は陸朗にとって空虚な場所のように思えた。ここにこのまま残っていたくない。
(いっその事、誰もいない所に……)
 殆ど直感的な動機であったが、陸朗は階段を屋上まで上っていく。屋上は本来、生徒の立ち入りを厳重に禁止されているはずなのだが、扉の鍵が壊れているらしいということを、以前保から聞いたことがあった。そしてドアノブに手をかけると、それが真実であると言うことがすぐに判った。
 扉を開放すると、微風が陸朗の髪を優しく掻き上げた。染みるような青空が、フェンスの上方に広がっている。強い太陽光によって眩しく輝く床面に、一つの影。
「黒羽さん――」
 菜那緒は屋上の一角に座り込んで、あの緑色の布製カバーのかかった文庫本を読んでいた。その脇には、ギンガムチェックの布地に包まれたランチボックスが放置されている。
 陸朗の影が彼女の本に落ちて初めて、菜那緒は顔を上げた。髪が静かに揺れ動き、頬を滑る。
 しばらくの沈黙が、陸朗にあの朝の事をフラッシュバックさせる。
「桂君とは、つくづく意外な所で出遭うことになっているのね」
 再び風が吹いた。菜那緒の言葉が、はらはらと散ってゆく。軽く溜め息を吐くその表情かおさえ、妖精のように美しくて。薄く開かれた唇に、我と我が身を全て預けてしまいたくて。
 刹那、陸朗は何もかもを忘れた。ただ、この一瞬にだけ永遠に生きていたい。そう、このまま彼女の白い腕に抱かれて、暗い暗い水底へ共に沈んでいきたい――。
 そこまで夢想して、陸朗は我に返った。
(僕は――僕は今、何を)
 今の心の動揺を、決して菜那緒に悟られてはいけない。陸朗はとにかく話題を捜した。
「黒羽さん、一体今何を読んでたの?」
「グリム童話」
 陸朗はまたも意表を突かれる。グリム童話と言えば、彼にとっては幼稚園から小学校低学年の間に卒業し終えている代物であり、少なくとも美貌の女子高生が読むに相応しいものとは思われなかった。
「驚いてる?」
 菜那緒はそんな陸朗に、文庫本の出版社を教えた。それは、日本や外国の有名な古典を多く取り扱っている事で有名な真面目な文庫であった。菜那緒は本に革製のしおりを挟むと、それを静かに閉じてランチボックスの上に乗せた。
「良く知られていて絵本なんかになっている童話はそう多くないけれど、こういう物にはだいたい全て掲載されているから」
 なるほど、確かに全ての話を知りたければ、童話だって「名作古典」なのだから、原本の翻訳が出ているのを買って読めばいいのだ。
「黒羽さんって、そういうの好きなんだね」
「好き?とんでもないわ」
 またもや菜那緒の返答は陸朗の想像力の範疇を越えていた。口元に、何かを嘲るような笑みを彼女は浮かべている
「知ってる?『赤ずきん』は強姦レイプの寓話って説」
「へっ!?レ、レレレイ……」
「結構有名な話よ。『男はみんな狼だ』って良く言うでしょう?文字通りの意味よ。『赤ずきん』の類話はたくさんあって、中には、赤ずきんは自分から服を脱いで狼が化けたお婆さんのベッドに入る、って話もあるわ」
「は、はあ」
 当然、陸朗にとっては全てが初耳である。ただ両目を白黒とさせるしかなかった。
「他の例だと『白雪姫』。この前、桂君と本屋で遇った時に買った本によると、これは白雪姫と父親の近親相姦が仄めかされている。また類話を持ち出すけれど、伯爵とその妻が雪の日に黒髪と白い肌、紅い頬を持った女の子を拾って、王がその子をあまりにも可愛がるから、お妃はその子を憎むようになった、というのがあるのよ。白雪姫と王が肉体関係にあったからお妃は姫を憎んだ、と言うわけ。でも、もっと簡単に想像できるのは、王子が死体愛好者ネクロフィリアだってことね」
「確かに、王子は死んだ姫を小人達から貰うけど――」
「そう。そもそもそれがおかしいの。だって、王子は以前に姫を見たことがあるわけじゃない。それなのに彼は、どんなに美しくたって普通の人なら近寄りたくないだろう死体に執着する。極めつけは、姫の死体を持ち帰った王子が、それを寝室において生きている人間同様に化粧まで施していた、という類話ね。これっていかにも異常でしょう?そして王子の使用人の一人が『死んだむすめっ子を生きてるものみたいにあつかうなんて、ばかにしてる』と怒って姫の背中を殴る。そして林檎が口から出る」
「そうなんだ……」
 ならば、生き返った姫に対して王子はどう思ったのだろう、と陸朗は少し考える。
「アンデルセン童話にしてみても、『人魚姫』で王子は人魚姫を自分の寝室の隣に寝かせて、しかも当時としては異常だった男装をさせているんですって。多分、王子は人魚姫の事をていの良い玩具おもちゃとしか見ていなかったんでしょうね」
 他にも色々なことを菜那緒は教授してくれたのだが、陸朗ならばとても言えそうにない単語を、彼女は平然と連発している。陸朗は羞恥で顔を真っ赤にして、他に誰かいるのではないかと、何度も周囲を見渡してしまった。
「グリム兄弟はね、童話集に何回も手を入れて、そのつど性的な部分を削除していったの。今度、本屋で見てみると良いわ、童話の評論本って結構多いから」
「し、知らなかったなぁ、そんなの」
「ええ、普通の人は知らない。だから、童話なんて」
 菜那緒の顔が、フェンスの方を向く。視線が遙か彼方にたゆたう。
「所詮、偽善の塊だわ」
 急に風の勢いが増し、彼女の黒髪が激しく踊った。
「だから私、童話は嫌い。特に『白雪姫』や『赤ずきん』は大嫌い」
(じゃあ、君はなんでそれを読むんだ?)
 しかしその問を口にすることが陸朗には出来ない。そして昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
「赤なんて嫌いよ、赤なんて――……」
――きっと錯覚。
 菜那緒の肩がやけに小さく、弱々しく見えたのは。

 下駄箱に入っていたラブレター。あまりにも古典的で、それだけに切ない求愛。
 ある朝、菜那緒が昇降口でそんな手紙を自分の下駄箱から取り出すところを、陸朗は目撃してしまった。
 最近、陸朗は菜那緒と登校時間を一致させようとして、わざと毎朝早起きをしている。もちろん、こんな事態は彼の頭の中で予めシミュレートされていた。しかし、いざこのようなシチュエーションに出くわしてみると、どうして良いか判らなくなる。
「あら、おはよう、桂君」
 だが、陸朗が躊躇っていると、先に菜那緒の方から声を掛けてきた。彼女は、陸朗には他のクラスメイト達に対してより良い対応をしてくれる。それはやはり彬とのことを陸朗が知っているからなのだろうか。その辺りの真相はまだ判らない。
「お、おはよう。そ、その」
「これのこと?」
 菜那緒は手紙をちらりと見ると、陸朗の目の前でそれを二つに裂いた。
「!?」
「別に、要らないから」
「そ、そんな……中身も見ないで」
 あまりの残酷さにうろたえながら、陸朗はいつかの保の言葉を思い出す。
『黒羽は告白を全部断ってるんだぜ』
 確かに、菜那緒には彬という『愛人』がいるのだから、当たり前と言えばそうなのだが、やはり彼女がその後に続けた言葉は、陸朗の予想を裏切るものだった。
「――同じ学校の人ともし関係を持つことになったりしたら、絶対に面倒なことになるから。それに、噂が流れて学校をやめなければならなくなるかもしれないし」
 そのまま陸朗を置いて去ろうとする菜那緒の背に、陸朗は慌てて取りすがる。
「まさか、そうじゃなかったら逢ってみたりするんだ?」
 だが、菜那緒は彼の問に笑うだけだ。それが否定の証でないと誰が言えよう。不安を感じた陸朗は、話題を変えることにした。
「ねぇ、黒羽さんは織田さんのモデル仲間の人達と会ったりする?」
「……桂君って、実はミーハー?」
「僕は違うよ。保の彼女はそう言うのに興味あるみたいだけど」
「私は、あまり彬の仕事には口出ししないと決めているから。彼の同僚は赤井華蓮しか知らないわ」
「華蓮……って、あのカレン?」
 陸朗は、保や麻衣香のとの会話、あの日書店で目撃した菜那緒と彬の様子を脳裏に思い描く。
「そう。彬の前の彼女」
 菜那緒は教室に辿り着くと、すぐに鞄を机に置き、また何処かへと去ってしまった。

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