4.虹色月長石
約束を破ることに決めた私は、躊躇わず進む時計の秒針を見るのに飽きて、ベランダに出た。
虹色の月長石は、冷たい夜空の下で透き通った光彩を放つ。とらえどころのない妖しさが、逆に穢れを知らないような美しさで。
私は突然、それがひどく哀しい色をしていることに気付く。
青、黄、緑……足りないのは、赤――内に秘めた激情。
――彬が、菜那緒と初めて出逢ったあの日――
その日、まだ売れない新人モデルだった彬は、オフの暇を潰す為に巨きな街をぶらぶらとしていた。
同じ事務所の華蓮とのデートで来る事はよくあったが、一人で昼間歩いてみると、そこはいつもの喧騒とは裏腹に寂しい場所に思えた。
財布の中を除いて見ると、数枚の札に混じって二枚、あるデパートで行われている美術展の特別招待券が入っていた。妹の葵から押しつけられたものだ。
あの時の葵はやけに機嫌が悪かった。怪訝に思った彬が事情を問いただしても、何も言わない。しかし、チケットに描かれている絵画を見て、得心がいった。それを描いたのは、彼らの幼馴染みの祐人が好きな画家であったのだ。多分、祐人と一緒に行くつもりだったのだが、祐人の都合が悪くなったのだろう。祐人からも彬と同じように甘やかされて育ったせいか、葵は彼にも実の兄と同じように甘える。
だがそんなことよりも、今は彬がどうするか、だ。彼はしばらく考えた後、
「まぁ、行ってみるか。他にすることも無いし」
――と、彬はそのデパートへと足を運んだ。
どの百貨店でも同じ事だが、一階には化粧品や鞄、アクセサリー等を取り扱うスペースが並んでいる。平日で、まだ開店して間も無いためか、化粧品売り場には「お洒落こそ人生の最大の目的」だと考えているような女性客は殆どいなかった。アクセサリー売り場も同様で、これがクリスマスとかバレンタインと言った一大イベント前ならば、恋人のご機嫌を取る為に訪れる若い男達の真剣な眼差しが飛び交っているのにと思うと、彬は少し可笑しかった。
無論、アクセサリー売り場で取り扱っているのは女物だけではないし、彬も職業柄、装身具にはちょっと興味があった。それに、給料が入ったばかりで金銭的にも余裕がある。彼は美術館に行く前に、ひとまず商品を物色して歩く事にした。
しばらく各スペースを冷やかしていると、不意に一人の少女が彬の視界に入った。
(こんな時間に……珍しいな)
遠目ではよく判らないが、どう見ても高校生ぐらいにしか見えない。本来ならば、こんな場所にいる人物ではないとだけは言えた。
彼女は現代的なデザインの宝飾品を扱う店で、指輪か何かを見ているらしい。私服姿の店員の説明が、彬の耳にまで届いた。
少し興味をそそられた彬は、こっそりと少女に近付いた。そして、彼女から少し離れた後ろに立つ。人が少ないので、恐らく邪魔にはならないだろう。他の店員達も、自分に直接係わり合いの無い客には無関心だった。
彬の目的のない視線を受けた少女の黒髪は、肩のあたりまでと長さこそ無いが、トリートメントの宣伝に出てくる美人のように綺麗な艶をしている。
(指輪の試着をしてるのか)
少女は指輪を色々な角度から見ようと言うのか、左手をかざして見ている。肩越しにふと見えた指の白さに、彬の好奇心は更にくすぐられる。柱に作りつけられた、その売り場専用の小さなショーウィンドウは店員から死角になっていて、陳列された商品を見ているふりをすれば怪しまれない。彼は何気ないふりを装い、そこに移動した。
ちらりと横目で様子をうかがうと、うつむきがちの少女の横顔が見えた。予想以上に可憐で美しいその容姿に、不覚にも彬はどきりとした。
それは触れてみたいほど柔らかな、天使。
店員が、少女に一つの指輪を差し出す。彼女はそれを指に嵌め、目を細めた。それはロイヤルブルー・ムーンストーンです、と店員は言った。
「普通ムーンストーンは乳白色のものが多いのですが、こちらは光があたると青く輝くんです」
その石は、デパートの蛍光灯の光を反射して、夢のように煌いている。
その淡く神秘的な輝きは少女に似ていた。それ程指輪は彼女に似合った。
しかし、彼女はしばし逡巡した後、結局その指輪を店員に返した。ウインドウにもそれと全く同じ品があったので値段を見てみると、三万九千円。躊躇わせるには十分過ぎる額だ。
少女は店員に二、三言挨拶した後、彬のいる方向の先に歩み去ろうとした。
「残念だな――似合ってるのに」
思わず、そんな言葉が口をついた。自分でもなぜだか解らなかった。
当然、少女は驚いた。彷徨う視線が戸惑いを伝える。しかし、さほど時間もかけずに少女は落ち着きを取り戻したのか、澄んだ瞳で彬の双眸を見つめた。
「――もしかして、新手のナンパ?」
少女のこの台詞は、ものの見事に彬の虚を突いていた。しかし、嫌な気はしなかった。
「……そうかもしれない」
彬が頬をひっかくと、その姿に少女は笑み崩れた。額にかかる髪を払い除けた指の動きを彬は目で追った。そして、どうせなら冗談ついでに本当に「ナンパ」してやれ、と思った。
「何なら、これからこのデパートの美術館に行かないか?招待券、あるんだ」
少女は軽く首を傾げて、悪くないわね、と言った。
普段は興味すら示さない絵画の数々の前に立って、彬はそれらを見ることよりも隣に立っている美少女の気配を感じることに神経を集中させた。
彼女は、黒羽菜那緒と名乗った。彬の想像通り、高校一年生(ただし、彼はもっと上の学年だと思っていたのだが)らしい。この日はちょうど創立記念日で休みなのだそうだ。
「良かった」
呟く菜那緒の、唇の震えの一つ一つが玻璃の破片のように彬の心に突き刺さる。
「――一銭も払わないでこんな素敵な展覧会が見れて」
「『一銭も払わない』って、古い言い方するんだな、あんた」
「だって、無償じゃないもの」
「?」
「私は、あなたと一緒にここに来る事で、チケットの代価を支払ってるのよ」
「面白いものの見方だ。俺には想像付かない」
「私がひねくれてるだけよ。よく、『変わってる』って言われるわ」
展示場の弱い照明が、菜那緒の膚に月長石の蔭りを生む。それは温かいのか、それとも冷たいのだろうか。
「ここを出たら、『支払い』は終わりね」
冗談めかした菜那緒の言葉に、足元が崩れ落ちるような喪失を彬は感じとった。
何故だろう、最初はほんの気まぐれのつもりだったのに。
「でも、俺は――」
「この後も、一緒に遊んであげても良いけれど」
――心の中を、見透かされたような気がした。
エスカレータで階を移動する途中、菜那緒は彬に先に一階まで降りるよう懇願した。
「ここに来た目的を果たさなきゃならないから」
「それなら、俺もついて行って良いだろ」
「……どうしても変態って呼ばれたいのなら、構わないけれど」
「う」
そう言われてしまうと、彬も引き下がらざるを得ない。菜那緒は待ち合わせ場所を指定すると、婦人服を扱う階でエスカレータから離脱した。
彬は一人で一階まで来ると、すぐにそこには行かず、再び例のアクセサリー売り場を通る迂回ルートを辿った。当然、彼が考えているのはあの指輪の事である。
(蒼月長石、か)
気が付くと彬は、店員に声を掛けていた。
デパートを出た二人は、他の店を覗いたりゲームセンターで遊んだりした。格闘ゲームの対戦に勝利したり、UFOキャッチャーで見事ぬいぐるみを獲得したりすると、菜那緒はやはり年相応に無邪気に笑った。遇ったばかりのはずなのに、それがやけに新鮮に見えた。
「たまには、こういうのも面白いわね」
「行かないのか、ゲーセンとか」
「殆ど無いわ。プリクラも殆ど撮った事無いわよ」
「女子高生にしては珍しいな」
「言ったでしょう?私は『変わってる』の」
「……じゃあ、今から記念にプリクラ撮ろう」
菜那緒が承諾の意志を見せたので、二人は早速機械の前に立った。
まるで恋人同士のようなツーショット。
画面の菜那緒の唇がやけに紅い。彼女はあまり化粧などしない方らしいのだが――。
「これからどうする?」
写真を取り上げた彬の喉は、いつの間にか酷く乾いていた。
「どうなったって構わないわ」
また不思議な返答だと彬は思った。
「『どうなったって』?」
「私はこんな身体別に大事じゃないから、たとえ海賊にさらわれてハレムに売り飛ばされたって、やくざに無理矢理ホテルに連れ込まれたってどうでも良いの」
紅い唇が急速に艶めかしさを増す。
神秘的な美貌が、殻を脱ぎ捨て本質をさらけ出す。
人形のような瞳が彬を見ている。引き込まれる。
「じゃあ、行くか?」
操られているのはどちらなのか。
操っているのは誰なのだろうか。
「なぁ、ひとつ訊いて良いか?」
沈黙に耐えきれなかったのは、彬の方だった。
「何?」
「どうしてあの指輪、買わなかったんだ?」
「ちょうど今、お金が無かったから。でも、きっと明日になったら欲も悔しさも消えてしまうわ」
そんな澄ました菜那緒に対し、彬は意地悪なことを言ってみたくなる。
「あんた女子高生なんだから、その気になればすぐに四万ぐらい稼げるだろう。何せ、こんなに綺麗なんだからな」
しかし、それでも菜那緒の精神的優位は変わらない。たおやかに微笑む。
「有り難う。でも生憎、私は援助交際しないの」
「どうして?」
「TVに映って得意そうにしてる馬鹿な人達と同一視されたくないから」
「――あんた一人は違う、って事か」
「その意味は、宿題にしておくわ」
その部屋は、やけに薄暗かった。
ベッドの縁に腰掛け、彬はそもそも何故こんな所まで来てしまったのかをぼんやりと考えていた。
ほんの数時間前までは、こんな事になるとは互いに考えていなかったはずだ。ただ、指輪を買わない少女に対しささやかな遺憾の意を示し、彼女はそれを意に介さず去ってゆく、それだけの関わりしか本来は持てないはずだった。
しかし――彬は少しでも長く菜那緒といる事を望み、彼女は頷き一つでそれに応じた。
シャワールームから菜那緒が出てきて、彬は瞬時身体を堅くした。
伏せ目がちな顔が、湯の熱さでうっすらと上気している。その白すぎるほどの肌は、陽光の下で見るよりも輝いて見えた。バスタオルの下の彼女の肢体の完璧さは、石に彫り上げられた女神を連想させる。
「綺麗だ――」
それは素直な賞賛。
菜那緒の視線が彬を捉えた。首の動きに遅れて、湿って束に別れた髪がわずかに揺れる。彬の目に、それはスローモーションに映った。
何故だろう、これほど菜那緒の半裸体は神聖に見えるのに、彬の最深部で欲望が身悶えしている。
――ゲームセンターを出たときから続いている息苦しさが、一層酷くなった。初めて女を抱く時のように、彼は緊張しているのだ。
震える手が菜那緒の肩を掴んだ。
二人の身体が、柔らかくベッドに沈んだ。少女の両手がシーツの上に投げ出され、その拍子に身体を覆うバスタオルが緩む。まろい曲線の構成が、彬の眼前に晒された。
身体が無限に向かって墜ちて行く。
それは生まれて初めて経験する強烈な感覚だった。
一瞬、少女と目が合った。泣き出しそうな双眸が必死に喘いでいる。
快楽の特異点で互いの熱が加速度的に増す。
膨張、爆発――そして、虚無。
菜那緒はベッドの上で軽い寝息を立てている。
彼女の乱れた髪も、付けてしまった痕の一つ一つも、切なく甘く狂ったような感情を彬に呼び覚ます。
それは、もう二度と離れられないだろう、という予感。
彼はズボンのポケットから小さな包みを取り出すと、それを開封した。
彼の掌に転がり落ちたのは、菜那緒が試着しながらも買わなかった、あの指輪。
大粒のムーンストーンは、薄闇の中でより妖美に光る。やはり、その冷たい滑らかさまでが菜那緒に似ていた。
彬は力の抜けた菜那緒の手を取ると、細く節の無い指に指輪を嵌めた。その意外な重さに堪えかねたのか、菜那緒は体を震わせ目を開ける。
「んっ……」
「おはよう、は変か」
始まる前と同様にベッドの縁に腰掛けている彬を一瞥すると、彼女は手の先に感じる異物の正体を確かめるために上半身を起こした。
「何、これは」
しかし、喜ぶかと思われた菜那緒は、彬の予想に反して驚きと不快の表情を見せた。
「指輪だ、あんたが欲しがってた」
「いらないわ」
菜那緒は乱暴に指輪を外すと、それを彬に突き返した。
「おい」
彼女の思わぬ行動に、彬の語気も荒くなる。
「私、援助交際なんて真似はしないって言ったでしょう」
その言葉に、ようやく彬は菜那緒の不機嫌の原因を悟った。正確には、思い出した、と言った方が良いかもしれない。
「解ってる。これは『報酬』なんかじゃない」
そこで彬は一旦言葉を切り、菜那緒の瞳を改めて見た。周囲の光を全て飲み込んで暗く、それでもなお水気を湛えている双眸。
「俺は、あんたが好きだ」
菜那緒は応えない。
「出逢った当日に言うのもおかしいと思っているだろう。けど、どうしても俺の彼女になって欲しい。だから指輪を『贈った』」
菜那緒は小首をかしげ、暫し何かに思いを巡らせているようだった。
彬は再び菜那緒の手を取ると、その左手の薬指にもう一度指輪を嵌め直した。
「――俺がこれを買ったのは、あんたに似ていたからだ」
その言葉に、菜那緒の視線がようやく石に向く。
「いいわ」
暫しの沈黙の後出された回答は、彬の腰を浮かせかけた。
「あなた今まで寝た中で一番良かったし、そう悪くないわね、付き合ってみるのも」
いかにも彼女らしい言葉だった。だが、それにはまだ続きがあったのだ――彬の心を凍り付かせるに足る宣言が。
「でも、忘れないで。きっと私はあなたを愛さない」
菜那緒が左手を動かすと、万有引力の法則に従い指輪が彬を嘲るように傾く。
そして彼女は薬指から指輪を外すと、新しい「愛人」の目の前でそれを右手の中指に付け直した。
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