3.sense of incongruity

 私は指輪を掌の上に乗せた。
 これは、彬から貰った最初のモノだ。彼はそれが私にそっくりだったから買ったのだ、と言った。確かに疵だらけの宝石いしの冷たさは私に似ているのかもしれない――気の利いた皮肉アイロニイ
 ついさっき、海の向こうにいる私の保護者達から電話があった。私は以前と少しも変わらないのに、二人の言葉ばかりがぎこちなくて、何だか馬鹿馬鹿しかった。あの人達はまだ、何年も前のことで私を過剰に気遣っていた。
 七色のセロファンを丸めたような満月がこちらを見ている。
……もう、今夜は、何処にも行かない。

 マンションの出入り口に固まっている、郵便受けからだらりと垂れ下がった、ピンクや黄色の紙きれ類の束。祐人は、ヤレヤレと言った様子でそれを引き抜いた。
「……ごくろーさまなことでっ#」
 男の一人暮らし世帯でなければ、大抵棄てられてしまう裏ビデオのチラシだが、配る方はいちいち相手の家族構成など考えない。結果、一人暮しの女性の部屋や、可愛い子供達のいる家族が暮らす団地にまでチラシが配布されてしまうのが、滑稽でもあり哀れでもある。
 郵便受けの前で普通の郵便物とこれらの怪しいチラシを分別している姿を隣人に見られるのは流石に嫌なので、祐人はそれらを丸めてポケットに突っ込み、そのまま部屋に持ち帰らざるを得なくなった。
 そして、帰宅していざ捨てようとすると、思わず興味本位で文面を見てしまう。結局祐人は、ソファに腰掛けてチラシを読みふけることとなってしまった。
「相変わらず、どれもセンス無いタイトルだなぁ×」
 限られた情報量で客に内容を類推させねばならないのだから、表題や解説は自然と露骨な表現になる。それが、笑いを誘わずにはいられない。しかも、有名タイトルに関しては、大抵どの販売業者みせでも扱っているので、チラシに書かれている商品リストはどれも殆ど同じなのである。その中で、どれだけオリジナル部分の特色(例えば、価格や自社作成のビデオなど)を打ち出すかが勝負の鍵となる(同じ事は、どんな物にも当てはまるのではあるが)。
 そんな打算的なことばかりが脳裏に浮かび、いつのまにか純粋な目的の為にビデオを見れなくなった自分に祐人は苦笑した。未だ一人暮しをしていなかった頃、彬と二人で部屋に鍵を掛けてどきどきしながら画面を凝視していたのを思い出す。
 祐人は再び紙面に目をおとした。
(コギャルや援交なんて言葉が出て以来、女子高生モノ増えてきたな§)
 素人を映したビデオのタイトルに書かれた少女達の歳は、殆どが二十歳以下で、いわゆる熟女モノはすっかりなりを潜めている。しかし、いつの世にも変態という名を冠する輩はいるもので、幼女モノは一向に減る兆しを見せない。それどころか、むしろ増加しているようだ。今や売春行為をする女子の年齢は低下しつつある傾向にあるので、女子高生でも幼女でも簡単に捕まえられるのだろう。
「……未だ売ってるんだ、このビデオ」
 リストの中から往年の名作と名高いロリコンビデオを発見し、祐人は珍妙な顔つきになった。およそ七年前から流出している作品である。
 そこで、文字を追うのに飽きた祐人は、チラシを改めて廃棄すると、そのままソファの肘掛けに足を載せ、寝ころんだ。

 喫茶店の窓際の席で、彬はアイスコーヒーのストローをくわえながら外を見ていた。
 雑踏の中に、目当ての人は見つからなくて。今日は、このまま待っていても無駄かも知れない、という諦めは、けれども視線を硝子の向こう側から引き剥がすことは出来なかった。
 そんな彬の心情を知ってか知らずか、菜那緒はその向かいの席に黙って座った。
 突然現れた少女の姿に驚いた彬は、勢い良くコーヒーを吸い込んで激しくむせる。
「幽霊みたいに驚かせるなよ」
「だって、ずっと外の方ばかり見ていて、全然気付いていないから」
 そう言うと菜那緒は、少し肩をすくめて小首を傾げた。悪びれもしないその仕草がコケティッシュで。
「そろそろ変装でも覚えた方が良いんじゃない?」
 冗談交じりに菜那緒が言う。
「……別に」
「あなた最近売れてるんだから、こんなところ見られたらスキャンダルになるわよ?」
 確かに彼女の言うとおり、人気が上昇気流に乗っている今、特に女性問題は命取りになりかねない。だが、彬は視線を再び外に戻すと、構うものか、と呟いた。
 しかし菜那緒の返事はいささか冷ややかなものであった。
「私は嫌よ、面倒な事に巻き込まれるのは」
 そして彼女はウェイトレスを呼ぶと、ミルクティーを注文した。優雅に動くその手には、大粒のブルー・ムーンストーンのあしらわれた指輪が光っている。石はガラス越しの陽光を受け、虹のように輝いていた。
「それ、忘れられていなかったんだな」
「くれたのは、あなただから」
「でも俺と逢う時にはしていない」
「忘れたの?私、高校生よ。それに、これでも学校では品行方正で通ってるんだから」
「品行方正?菜那緒が?」
 冗談めかした菜那緒の言葉に、彬は意地悪に苦笑する。
「冗談だろう?」
「やっぱり、そうとしか聞こえないわね」
 カチャリと音を立てて置かれたカップとソーサー。薫り高い紅茶を一口含んでから、飲みながら、菜那緒は緩慢な動作でそれを戻すと、頬杖をつく。
「だって、今彬といること自体、さっきの言葉が嘘だと宣言しているようなものだし」

 喫茶店を出た後、二人はこの街で最大の書店に入った。と言うよりも、「移動した」と言った方が適切かもしれない。ここは七階建てのビルで、地階から六階までが書籍売り場、七階はレストラン、一階が新刊・雑誌売り場と喫茶店、という造りになっている。機械による検索システムが、欲しい書籍を探すのに便利だという理由で、菜那緒が良く利用する店だ。
「今度は、何を買うつもりなんだ?」
「グリム童話の評論本」
「相変わらず、変わったのが好きだな」
「何にも読まない彬よりましだと思うのだけれど」
「いや、俺だって多少は読む」
「どうせ漫画じゃないの?」
「いや、写真関係の本だ」
「モデルとしては、気になるから?」
「今の仕事に就く前は、写真家になるつもりだったんだ。前に言わなかったか?」
「ふぅん」
 菜那緒はお目当ての本を棚から取り出すと、「面白そうね」と一言言った。
「良ければ、今度菜那緒の写真撮るか?」
「それは光栄だわ」
 本の会計を済ませると、菜那緒と彬は写真集が所狭しと並べられているスペースに足を運んだ。
「あ、華蓮さんの写真集。昨日発売だったっけ?」
 平積みにされた本の一冊を手に取り、菜那緒はページをめくった。
 写っているのは、自信のある女。
 自分が若い事、他者に対して魅力のある事を、十二分に知り尽くしている女性の見事なまでの肢体。
「凄く綺麗な出来よね、彬」
「……やめろ」
 無邪気に微笑む菜那緒から写真集を取り上げる、彬。
「お前がそんな事言うな――」
 そんな彼を、菜那緒は人形のような瞳で見つめる。
 まるで永遠が訪れたかのような沈黙。
 だがその時、二人の背後でバサバサと本の落下する音がした。突然のことで驚いた菜那緒達は反射的にその方を向く。
「かっ、桂君っ!?」
「こ、こんにちは……」
 初めて聴く菜那緒の頓狂な声に更に驚いた彬は、自らも取り上げたばかりの写真集を落としてしまった。
「ぐぐぐ偶然だね、黒羽さん。ででででも、で、デートの邪魔だった?」
「菜那緒?」
「高校のクラスメイト……」
 陸朗の方を指さす彬の意図を汲み取って、菜那緒は言った。
 陸朗が床にぶちまけたものを見てみると、数冊の園芸関係の本に混じり、若者向けのファッション雑誌が一冊。
「あぁ、これ、俺が表紙の」
 彬は、写真集でなく陸朗の雑誌を取り上げると相好を崩す。カメラの前で見せる、人の心を艶めかせる凍て付いた視線とは裏腹の笑顔に、一瞬陸朗は気圧けおされた。
「織田……彬さん、ですよね」
「そう。俺の名前、憶えていてくれるんだな」
 彬はその事が純粋に嬉しいらしく、珍しく照れた表情をしていた。しかも陸朗は自分の仕事の結果を持っていたのだ。
 そんな彬は陸朗の眼にただの青年にしか見えなくて。ついさっき菜那緒から写真集を取り上げたときの顔が嘘のように、今日まで想像していた残酷なイメージは彼からは微塵も感じられなかった。なのに、何だかおかしい。彬と菜那緒が並んで立つその姿に、さっきから陸朗は奇妙な違和感を感じていた。
「はい。でも、まさかクラスメイトと縁のある人だったなんて、思ってもみませんでした」
 だが陸朗は、自分のそんな思考に背を向けるかのように、慌てて園芸関係の本を拾うと、陸朗は気弱な手のひらを彬に差し出した。
「はい、これ」
 何も知らない彬は、その上に雑誌を乗せてやる。
「あ、有り難うございます。じゃ、黒羽さん、また学校で」
 菜那緒は何も言わず、ただ微笑んで手を振った。

 おぼつかない足取りながら一刻も早くその場を立ち去ろうとした陸朗は、ものの五メートルも進まぬうちに今度は別の客と衝突してしまった。
「わっ%」
「ああああああの、すすすすスミマセンっ!」
 被害者はオールバックの髪を後ろで結び、丸いレンズのサングラスをかけた若い男だった。
「いやいや、お構いなく☆」
 さらりと流した言葉が、黒い丸眼鏡に道化じみた反射光ひかりを添える。
「――祐人じゃないか」
 陸朗と被害者を交互に見た後、彬が相手にそう呼びかけた。
「や♪彬。菜那緒ちゃんも一緒なのかぁ※」
「こんにちは、水尾さん」
「えっ?えっ?えっ?」
 まだ状況の飲み込めない陸朗は、眼を白黒させた。
「もしかして、黒羽さんこの人とも知り合いなの?」
「そっ$僕、水尾祐人って言うんだ★祐人って呼んでね@」
 祐人は陸朗の手を掴むみ、ブンブンと振り回した。
「珍しいな、お前がこんなところにくるとは」
「失礼だなぁ△少なくとも彬より本を読んでるつもりだけど?それより君たちっ○どう見てもデートじゃない?お邪魔虫はサッサと退散するから楽しんできなよー◇」
 祐人は、何の前触れも無しに陸朗の肩を掴み、まるで荷物のように彼を押して行った。
「え?え?え?え?え?え?え?」
 何が何だか解らぬまま、陸朗はこの初対面の男によってどんどん菜那緒達から離れされていく。
 本当は振り返りたかったのだが、陸朗にはどうしてもそれが出来なかった。
 きっと、菜那緒は彼のことを見てくれないから。

「ときに少年☆」
 彬達から十分離れた所まで来ると、祐人はいきなり腕で陸朗の首を抱いた。
「あの二人とは一体どういう関係なの?あっ#そういやこっちが一方的に名乗っただけで、君の名前をまだ聞いてないね$」
(な、何だこの人っ……よく解らないぞ?)
「僕、黒羽さんのクラスメイトで、桂陸朗っていいます。織田さんとは、今日が初対面です」
「陸朗君ね、ふむふむ」
 祐人は陸朗を捕まえたまま幾度も頷いた。
「あの、ちょっと解放してくれませんか?」
「あ*そうだったね、悪い悪いα」
 身体が自由になったところで、陸朗は祐人に同じ質問を問い返した。
「俺はね、彬の幼馴染☆これでも結構カオが広くてさ&あのカレンとも一応面識あったりするんだ¥」
「は、はぁ……」
 一を訊くと十は喋る人だ、と陸朗は思った。
「陸朗君▲つかぬ事をお尋ねするけどっ、もしや君はこの店であの二人を見つけてから後を追ったんじゃない?」
 いきなり図星を槍で突かれて、陸朗の緊張度が一気に跳ね上がった。
「どどどどどどどうしてそれをっ!?」
「簡単なことだよΩ園芸書も『アルディア』もこの階には売ってないからね★」
 ああ、迂闊だった。
 地階は地図や趣味の本のコーナーだ。ここで陸朗が園芸書を物色していた時、紅茶の本のコーナーにいた菜那緒を偶然見かけ、まるでストーカーみたいにこそこそと彼女の後を付けてしまったのだ。そして、菜那緒が彬の待つ喫茶店に入っている間、一階の雑誌売り場で「アルディア」を捜し、そして二人が店から出てエスカレータに乗るのを目撃すると、再び陸朗は菜那緒を追ったのだ――持っていた商品の会計を済ませもせず。
「……おみそれいたしました」
 陸朗は泣きそうな声で呟いた。祐人が何を意図しているのか、全く想像がつかない。まるで拷問のような沈黙が流れる。
「あ@そんなに怯えなくても良いよ☆僕は別に君を捕って食ったりなんかしないからさ♪」
 場所を変えよう、と、祐人は陸朗を(無理矢理)連れて一階の喫茶店に入った。二人が案内されたのは、偶然にも菜那緒達がこの日待ち合わせに使ったテーブルだったのだが、彼らにはそれを知る由も無い。
「好きなもの注文して良いよκ僕のおごりだから◎」
 しかし、そう言われても陸朗は祐人の好意に甘えきれず、黙ったままでいる。まだ、相手に対する警戒が解けていないのだ。祐人はそんな陸朗の葛藤など知らぬ顔で、適当にケーキセットを二つ注文した。
 目の前に事務的に置かれた菓子を前にしても、陸朗はただ身体を縮こませ、それ以上は微動だにしない。
「んっどーしたの?遠慮しなくて良いよ〆」
「……もう、何が何だかわからなくて」
「ああ、僕、ちょっとやる事なす事強引過ぎたかな?」
 ちょっとどころじゃない、と陸朗は心の中でひとりごちる。
「でも、君と話がしたかったんだ☆――陸朗君、菜那緒ちゃんの事が好きでしょ♪」
「えええええっ?」
「僕、人間ひとを見る目だけは確かなの■」
 では陸朗は「菜那緒の事が好きな少年」としてこの男の目に映ったのか。そう言えば前も保にバレバレだと言われた。陸朗は、ひどく赤面した。
「僕が彬の幼馴染みだからって気にしなくて良いよβあの娘は、菜那緒ちゃんはそういう娘だから#」
「よく解らない、です」
 陸朗はようやくモンブランにフォークを差し込む。
「男を自分に夢中にさせる事にかけては天才的だってこと」
 一方の祐人の皿のケーキは、もう半分以上消えてしまっていて、既にどんなケーキか類推させる要素が残っていなかった。
「男がそれに無自覚だと捕まっちゃうよ、彼女に▽本人は別に望んじゃいないみたいだけどね◆」
「僕もその一人ですか……」
「お*認めたね?彬も君とご同類&あいつも『一度の過ち』で菜那緒ちゃんにハマっちゃってね∴今や彼女無しでは生きていけないぐらい重症★」
「えっ――?」
『……コイビトジャナイワ』
「二十年近く親友やってて、あんなに真剣に恋愛やってる彬なんて初めて見たよΘ」
『ワタシハアノヒトノ、アイジン』
「でも、肝心の相手に愛されてないんじゃね――」

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