2.A10ヘドニック・ナーブ

「菜那緒、菜那緒――」
 愛されているのは十分なほど解っている。
 彬が私にぶつけてくる、それを愛と呼ぶのなら。
「愛してる」
 何百回と繰り返された言葉。汗と共に飛び散る激情。私はそれを受け止め、夜の闇に発散させる。
 私は抱かれている時、彬の顔を見ない。いや、眼で捕らえていても、視神経が見ることを拒否しているのかもしれない。
 元来、この行為は生殖と言う意味しか持たない筈だ。動物も「報酬」という快感を感じ取るらしいが、所詮この快楽エクスタシーなんて、人間の脳内のみに発生した狂いバグ
 そしてそれに付随する愛もやはりバグなのだと私は思っている。けれど、私には後者が芽生えなかった。
 彬が私の中心に触れる。バグが痙攣ふるえを引き起こす。私は思わず彬の首を抱いた。
 そして、終わった後、投げ出した身体をいつものように引き寄せると彬は言った。
「あれから、もうどれぐらい経つ?」
「さぁ……」
「まだ、あの時の言葉、撤回されてないのか」
 私は言葉を返す代わりに頷く。刹那、彬の顔が哀しく歪んだ。
「俺は、お前に男として見られてるのか」
「いいえ、見てないわ」
 そう、出遭った頃から今までずっと、そして多分これからも。
「強いて言うなら――雄ね」
 それでも良い、それでも、譫言うわごとのように繰り返すと、彬は再び私の胸に手を這わせた。

「や☆援交オヤジ%」
 水尾みずのお祐人ゆうじんは、久しぶりに彼の部屋を訪れた幼馴染みを見るなり、そんなひどいことを言った。
「……殴るぞ、祐人」
 そしてその、いきなり失礼な事を言われたその相手―― 織田おだ彬は思い切り顔をしかめた。
「まぁまぁ$菜那緒ちゃんが女子高生だから、ちょっとふざけてみただけさっ@」
 オールバックにして一つにまとめた髪、滅多に外さない丸レンズのサングラス、という奇装なりが、祐人の言葉が真実ほんとう虚構うそかを曖昧にしている。
「いや、悪質な冗談だ」
「あやまる、あやまるからそんなに怒るなよっ+でっ、あがるんだろ?」
「ああ」
 彬は祐人に持参していた酒屋の袋を渡し、マンションの部屋の中に入った。リビングの、背の低いガラステーブルを囲む灰色のソファの一つに腰を下ろす。
「おっ、ワインかいっ?気が利くね♪」
 ダイニングの戸棚から取り出してきた二つのグラスを、祐人は何処かきざな所作でテーブルに置く。カーテンの隙間から差し込む光に照らされたそれらは、透き通って室内の薄闇に半ば溶け込んでいて。
「彬、仕事の方は最近どうっ?」
「まぁまぁ、だな……」
「失業したらいつでも言ってくれよっ♭僕が良いクラブ紹介したげるから◎」
 祐人はワインボトルのコルクを抜きながら、笑った。彼は、母親がその筋の人間であったのも関係しているのか、かなり早い時期から夜の繁華街と密接な関係を築いていた。本人が「遊ぶ」ことは無いのだが、裏の世界に幅広く顔が利く。
「馬鹿言うな」
「ははは◆気にしない、気にしない☆彡ところで彬、今朝は朝帰り?」
「いや、俺は菜那緒の家に行ったことは無い。菜那緒はずっと前に、家に帰った」
「彬、身辺の整理は付けといた?」
「どういう意味だ?」
 言いながら彬が祐人から受け取ったグラスには、既に芳醇な香りを放つ深紅の液体がたゆたっている。
「ほら、カレンちゃんとか来るかもしれないし&もしかしたら修羅場とか起こって彬死んじゃうかもしんないだろ?」
 カレン――赤井あかい華蓮かれんは、現在雑誌のグラビアなどで大人気の、モデルとアイドルの境界線に立っているような存在だ。彬がまだ無名の時代とき、いち早く彼の魅力の虜になったのは、誰あろう華蓮だった。
「……」
 彬は隣の空席を見つめながら、無言でワインの水面を見つめる。華蓮は、菜那緒と出逢う前までの彼の恋人だったのだ。
「ま、さしもの華蓮ちゃんも菜那緒ちゃんには太刀打ちできないか☆あの子のルックスは空前絶後だしね〒――さぞかし、『良い』んだろーね▼」
「……」
 途端に、彬の視線が祐人を貫く。怒りの蒼い炎が、瞳で燃えている。
「い、今のは本音じゃないっ!誓って、彼女に手を出そうだなんて思ってませんっ!」
「本当か?その言葉、しっかり憶えておけよ」
「あぁ、あんな危険な娘を抱くほど、僕は馬鹿じゃないから」
 祐人は、サングラス越しに彬を一瞥するとグラスをあおった。
「危険?」
「一旦溺れたら、二度と助からないから」
 真剣に切り出された祐人の台詞は、彬の胸に刺さる、杭。
「――」
 応えることが出来ないのは、身を切られるほどに理解しているから。
「顔やスタイルの問題じゃない――もちろん、それもあるけど――あの子は男を狂わせる素質を、持ってる」
「『男を狂わせる』、か……」
 ようやく彬の口から発せられた呟きは、どことなく自嘲めいていた。
「彼女の意志はどうであれ、存在だけで男を誘惑できる。あれはきっと、天賦の才だよ。なのに、年齢としの割にドライ。男を弄ぶのに慣れてるんだろうね。僕が保証する」
 しかも折り紙付きで、と言う祐人に、「お前に保証されてもな」と彬は苦笑した。しかし、表情はそのまま、彼の心情の裏返しで。
「俺だって、最初は自分がこうなるとは思ってなかった。けれど、今はもうあいつから離れられない。菜那緒がいなければ、きっと俺は」
「そう、正にそこが、僕が言う『危険』なのさ。一度惹かれてしまったら、もう自分から見放すことが出来ない。今の彬が一番良い見本だよ」
 時代が違えば、もしかしたら国の一つは滅ぼせたかもね、と祐人は独り言を言う。そして彼は、先程から彬のワインが一滴も減っていないことに気付いた。
「――呑まないのっ?」
「ああ」
「彬が何で僕んトコ来たのかやっと判ったよ☆その菜那緒ちゃんと何かあったんだねっ?」
「気付くのが遅すぎる」
 紅い液体が、薄明かりを浴びて煌く。水面に映る彬の顔が揺らいで、歪んだ。
「このワイン、本当は菜那緒と呑むつもりだったんだ」
「おいおいっ;未成年になんてことを¥」
「俺がボトルを見せたら、菜那緒が『私、赤は嫌いなの』って言った。あいつ、 微笑んでわらってた――」
 彼女の言葉の意味を知っていたから、彬は耐えることが出来なかったのだ。祐人はそんな親友の隣に座り直すと、手で顔を覆った彬の肩を抱き、叩いてやった。

 陸朗は、これまで「愛人」という言葉の意味をこれほど真剣に考えた事が無かった。
(愛人……愛する人、恋人――情夫、情婦)
 「愛」という漢字はそれ一つでは崇高な存在ですらあり得るのに、人が関わるとどうしてこうも印象が違ってしまうのだろう。
 あの時の菜那緒の呟きが、彼の耳から離れない。
『……恋人じゃないわ』
 それは、あの青年から愛されていないという事なのだろうか。
 焦燥に駆られて教室をぐるりと見渡してみると、その菜那緒の姿が無い。髪を茶色に染めた他の女子達が、陸朗の席のすぐ近くに集まって弁当を食べているだけだ。
「今日、午後の授業サボろうかなぁ」
「でも、あたし最近カネ無くってさぁ」
「じゃ、援交でもヤル?」
 そんな密やかな会話が、否応無しに陸朗の耳に入ってくる。その時、菜那緒が教室に戻ってきた。誰に挨拶をするでなく、誰と視線を交わすでなく、静かに自分の席に着く。
「黒羽さんだ」
「また、男子から呼び出されたんでしょ?」
「どーせ、今度も断ったんじゃない?」
「良いよねぇ、モテる子は」
 少女達の口調は非難がましいが、その中には明らかに羨望のエッセンスが含まれていた。
 中の一人が、不意に身体を丸める。彼女の仲間達もひそひそ話に加わるかのように、身を乗り出す。
「……ねぇ、黒羽さんも誘ってみない?」
「えーっ?」
「あの子美人だから、スケベなオヤジ達が幾らでも寄って来るよ」
「もしかして、それであたしらだけトンズラして、黒羽さん置き去りにするとか?」
 刹那、陸朗は身体がカッと熱くなるのを感じた。
「そだよねー、どーせ彼女、処女だろーしさぁ、良いお金になるかもねぇ」
 そんなひどい事を平気で言う女子達を、陸朗は本気で殴りたかった。しかし、激情よりも一足先に、あの言葉がリフレインされる。
『私はあの人の、愛人』
 何の前触れもなく、菜那緒の白い肌に血が上り、うっすらと紅くなるさまが陸朗の脳裏に描かれた。彼はいたたまれなくなって、苦しそうに握った拳を机の上に置いた。
 当の菜那緒は、いつ取り出したのか、濃い緑色のブックカバーを被せた文庫本を読んでいる。ろくでもないクラスメイト達の無駄話も、自分のよこしまな想像も、大気を媒介に全て彼女に伝わっているのではあるまいか、と、陸朗はそのまま顔を伏せた。

 保に、最近彼女が出来た。円城えんじょう麻衣香まいかと言う、ポニーテールが良く似合う隣のクラスの娘だった。
 ある昼休み、その日発売されたファッション雑誌を抱えた麻衣香が、陸朗達のクラスにやって来た。
「やっほー?」
「保、カノジョのお出迎えだよ」
 陸朗が肘で保を突付くと、保は「からかうんじゃねぇよ」と照れ笑いしながら弁当包みを取り出した。
 麻衣香が二人の近くまで来る。本当は二人きりにさせてあげたかったのだが、「気を遣われたらこっちが変な気分になるから、やめろ」と言われ、大人しく昼食を同伴することになってしまった。
「円城さん、今日、何かいつもより機嫌良いね」
「そーなのよう!だぁって、『アルディア』の今月号の表紙、織田彬なんだもん」
「オダアキラ?」
 きょとんとする陸朗に、保はヤレヤレ、とわざとらしい身振りを交えながら教えてやった。
「相変わらず物を知らないな、陸朗は。織田彬ってのは、今、かなり売れてるモデルだよ」
「いや、モデルなんて、名前知らない方が普通だと思うけど……」
 そんな陸朗の呟きは、「陸朗、うるさい」という保、「彬は特別なのっ!」という麻衣香の非難にかき消されてしまった。
「ま、こいつはあのカレンとデキてるって噂があるからな。そう言った意味でも名が知られてるのさ」
「カレンって、あの、よく漫画雑誌とかに出てる?」
 流石に、電車の中吊り広告に良く登場する、眩しいばかりの美女のことぐらいは、陸朗も知っていた。何かのCMかポスターかでブレイクし、以後はモデルという範疇を越えた活躍をしている。そろそろ初の写真集が出るということで、クラスの男子の中にはそれを心待ちにしている者もいたはずだ。
「いやー、保君そんな事言わないでよ、それ絶対にウソだってばっ!アタシの彬に恋人なんかいないの!!」
「お前なぁ、彼氏の前で良くそんな事言えるね」
「それとこれとは話が別っ」
「ねぇ、ちょっとその表紙とやらを見せてよ。保とどっちがイイオトコか、僕が比べてやるから」
「りくろぉ〜!」
 情けない声を上げる保を尻目に、麻衣香は雑誌を陸朗に手渡す。こういうときのファン心理として、自分が好きなタレント等が他人から注目されるのは嬉しいらしく、麻衣香はとてもにこにこしていた。
 そして、雑誌を受け取った陸朗も、その時までは単純な好奇心のみで表紙を眺めるつもりだった。
「――っ!?」
「どした、陸朗」
 だが、陸朗にはそれが出来なかった。
 菜那緒が、自分はその愛人だと言ったあの青年が、ポーズを取って陸朗を見据えていたのだから。

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