1.「愛人」

――もう、何度こうして朝を迎えただろう。
 あきらの鼓動も、汗ばんだ肌の吸い付くような感触も、私は全て憶えている。彼は今朝も私を広い裸の胸に捕らえたまま寝息を立てていた。
 私は世間的には彬の彼女、という事になっている。だから、彼に抱かれる私を咎める知人はあまりいない。
 確かに、それを拒む事は殆ど無いし、むしろ望んでいるかもしれない。けれど、全てが終わった後、夜明けを迎える私の心には、別に幸せだとかそんな甘い気持ちは微塵も無かった。ただ、奇妙な虚脱感だけがいつも私を支配する。
 彬の事は嫌いじゃない。戯れるには最高の相手だと思う。
 ただ溺れる気になれないだけだ。
 愛という感情はどういうモノなのか。
 私には解らない。

 雪花石膏アラバスターの膚、宝石の瞳。いじめられていないボブカットの髪は、その黒さ故に銀のような光を放つ。
 黒羽くろは菜那緒ななおは、夜空に浮かぶ玲瓏たる月のような美少女だった。
 ただ綺麗なだけでなく、成績も優秀。学校では男子はおろか他の女子すら周囲から遠ざけ、一人でいる事が多かった。そのせいか同じ年頃のどんな少女よりも大人びて見えた。
 かつら陸朗りくろうは同じクラスになってからというもの、そんな彼女を毎日のように目で追っていた。
(あ、五限目の小テストの勉強してる)
 菜那緒の日常的な動作、ほんの些細な仕草さえ、陸朗をまるで映画の感動的なラストシーンを観ているかのような気分にさせる。
 しかし、陸朗は周りから孤立こそしていないが、思いもよらず内気な性分で、ことに恋愛に関してはおくてだった。彼女に話しかけるなど、出来るはずが無い。
「おーい、陸朗、また黒羽見てるのか」
「ひゃっ!!」
 突然背後から肩を叩かれ、陸朗は情けない声をあげて肩を竦めた。
「た、たもつ
 陸朗を驚かせた犯人は、彼のクラスメイトの栗本くりもと保。陸朗とは対照的にお調子者で広く名を知られているが、陸朗との間柄は文句無しの「親友」として通っていた。
 保は陸朗の反応に我が意を得たりとばかりに、もう一度勢い良く陸朗の肩を押した。バランスを崩した陸朗は、前の時間割のノートに顔をうずめる羽目になってしまった。
「あいててててて、何するんだよ、保」
「ふっ、その様子じゃ図星だな」
「何言ってんだよ、違うよ」
「バーカ。誤魔化しても無駄だぜ、バレバレなんだよ」
 そう断言すると、保は手近なところにあるあるじ不在の席に座った。陸朗は顔を上げると頬杖をつき、軽く嘆息する。
「実は面食いだったんだな、お前」
「ほっといてくれよ」
「ま、確かに黒羽はすげぇ美人だしな。あれだけのは今時モデルにも芸能人にもいないぜ。ましてやさぁ、このガッコのオンナなんてメじゃないな」
 全くもって保の言う通りだった。陸朗も以前から、どうして菜那緒がスカウトされなかったか、されたとしてもそれを受けなかった事の方が不思議なくらいだ、と思っていた。
 そして、こうとも。
「でも、僕なんか全然望み無いよ。だって到底釣り合わないし、ライバル多そうだし、それ以前にもう彼氏作ってそうだし。お前に笑われそうだけど、今は見てるだけで十分だよ」
「あーあー、度胸無いなぁ。ま、確かに黒羽は一年の時から数えんのがヤになるぐらい告白されまくってるらしいからな。でも、話によると彼女、それ全部断ってるらしいぜ」
「……嘘だろ?」
「いやマジで。それで泣いた男を俺何人も知ってる」
「まさか保もその一人だったりして?」
 陸朗が先程のお返しとばかりにそう言うと、保は目を白黒させた。どうやらその通りらしい。陸朗は悔しいような嬉しいような気分になった。
「ま、まぁ、あまり期待はしなさんな。そこんとこは親友として忠告しとくぜ」
 そこで予鈴がなり、保は慌てて自分の席へと戻って行った。

 この日の放課後は所属している園芸部の活動日ではなかったため、陸朗はまっすぐに家に帰る事にした。保のサッカー部も休みならば一緒に帰宅するのだが、そこは体育会系と文化系、そうそう都合良くタイミングが合うわけでは無い。
 ぼうっと歩いているうちに、駅の改札口まで来た。いつもなら、ここであまり意識することなしに定期を取り出し、そのまま通り抜けてしまうだろう。しかし、何気なく視界が捕らえたものに陸朗は一瞬どきっとした。菜那緒が改札脇の円柱にもたれて立っていたのだ。
 時々腕時計の時間を確認する時の、少しうつむきがちの視線の角度、綺麗な髪が頬にかかるさまが、フォトグラフィーの美しさで。
(何か、声、かけたいな。でも、いくらクラスメイトだからって言って、全然話をしたこと無いし、すっごく不自然だよなぁ)
 だからと言って、気になる相手の気になる様子を目撃して、そのまま立ち去る気にはなれなかった。陸朗は、そんな必要など微塵も無かったのだけれど、菜那緒からこそこそと隠れるように別の円柱の側に立った。
(やっぱり、待ち合わせでもしているのかなぁ)
 菜那緒が左腕を上げるたびに陸朗は彼女を注視して。何度かそれを繰り返した後、菜那緒の待ち人らしき人物がようやく現れた。
 陸朗の胸が、激しく鳴った。
 それは、すらりとした長身の青年だった。鋭い双眸が目を引く、かなりの美形だ。颯爽と歩く身のこなしが、クールな美貌とは対照的に野性的な印象を与える。何よりその存在感が、選ばれた華やかさを放っていた。
 男は券売機のある辺りから、確実に菜那緒めがけて歩いてくる。彼女の方でも男に気付いたらしく、やや伏せていた顔を上げると、口元に笑みを浮かべ彼に近付いた。そして、制服と私服という組み合わせにも関わらず、あまりにも絵になりすぎる二人はごく自然に寄り添うと、改札の奥へと消えて行った。
 陸朗は、何も言えず何も考える事が出来なかった。

 陸朗が菜那緒をはじめて意識したのは、新しいクラスに足を踏み入れたその日の事だった。
 一年生だった頃、彼はいつも最初に教室入りしていた。そして、二年生になってもそうなるであろう、と思っていた。しかし、彼の予想は初日から外れてしまった。教室には、既に先客がいたのである。
 電灯のつけられていない教室に浮かぶそのシルエットに。
 陸朗は、ハッとした。
 恐る恐る中に入った彼に、シルエットの主は別段注意も払わなかった。ただ、燦々さんさんと朝日の差し込む窓際にもたれ、気怠けだるげな視線を虚空に漂わせていた――それが、菜那緒。
 互いに挨拶を交わすことも無く、最初は噂の美少女に見蕩れていただけの陸朗だったが、ふと、菜那緒を包んでいる不可思議な空気に気付き、圧倒された。
 菜那緒の美貌は、どちらかと言うと神秘的で透明な、山奥にある静謐な湖の雰囲気を持っていたが、その内に何がしかの妖美なものが見えた。それは陸朗やその他の同じ年頃の人間には見られない、特異なうつくしさだった。
 聖性に潜む退廃に、陸朗はどうしようもなく惹き付けられた。ただ――その美には何か大きく欠落している部分があるように彼には感じられた。それが何なのか、という事までは判らなかったが、少なくとも外見的なものではないはずだ。そしてその欠けたものこそが、菜那緒のしろい膚に憂いの蔭を投げ掛けている。
 菜那緒が無くしたもの、落としたものをどうしても知りたい。
 そんな無意識下での願い、それが始まりだったのかもしれない。

「オハヨ、陸朗――おい、どーしたんだよ、目がヤバい事になってるぜ」
「ちょっと、寝不足なんだ」
 もうテストの勉強でもしてるのか、無理すんなよと言い残して去った保の背中を、陸朗はぼんやりと見つめていた。
 昨晩は一睡も出来なかった。無論、菜那緒と謎の青年の事を考えていたがためである。だが彼は、その事を他人に言うつもりは無かった――菜那緒本人以外には。
「やっぱ、彼氏なのかな」
 小さく呟くと、ますます心が重くなる。
 自分よりずっと年上の、菜那緒に似合いの美青年だった。
 あんな恋人がいれば、次々とされる告白に見向きもしないのも当然だろう。ましてや陸朗のように、上背も無く女のようだと言われる程の童顔少年は、はなから用無しに違いない。
 だが、青年が菜那緒の兄や親類という可能性も無いわけではない。彼女は、家庭の事情で現在一人暮しをしているらしいとは、保のげんである。
(やっぱ、直接探りを入れてみよう)
 それはきっと、陸朗のこれまでの人生で最も重大かつ、極めて勇気の要った決断で。通りすがりに菜那緒に軽く声をかけたときの心臓が爆発しなかったのは、全くもって幸運だった。
「黒羽さん、確か昨日、園酋えんじゅ駅にいたよね?」
「ええ」
 菜那緒は「何でそんなことを知っているの?」とでも言いたげに、小首を傾げた。
「待ち合わせしてたみたいだけど、あれ、君の恋人?」
 あくまでも軽く、世間話程度の語調トーンで。裏に隠された真の目的を悟られぬよう、陸朗は細心の注意を払い、一音一音を発声する。
 だが、菜那緒の見せた反応はあまりにも意外なものだった。
 照れるでもなく、怒るでもなく。
「……恋人じゃないわ」
 投げやりな言葉。諦めの強い微笑。
「私はあの人の、愛人」

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