彼がカッツェの方をじっと見つめている間、まるで時が止まっているかのように感じられた。男達に見られることは慣れているはずなのに、彼女は動揺を隠せなかった。その視線が、まるで欲望のない子供の不躾さできらきらと輝いていたからだった。それは初めて見るものに対する驚きだった。
「ねぇ、お兄ちゃん、もう遊ばないの?」
 青年の隣に立っていた小さな少女――もう一人の意識体が、青年の腕を引っ張る。彼は困った顔で、けれど何度もカッツェの方に視線を戻しながら、言った。
「ごめん、ああ、でもそろそろ君は帰る時間だよ。また明日遊ぼうね」
「ほんと?約束だよ」
 少女はかわいらしい頬を膨らませながら消えていった。恐らく肉体の方が覚醒したのだろう。少女の意識体やその無意識領域には、結局何の損傷もないようだった。
(何のつもりなのかしら、あのまま返すの?)
 カッツェ、いや夢魔という存在にとってそれは信じられないことだった。
 青年はまたカッツェの方を見ていた。遠目でもその頬が染まっているのが解る。カッツェは青年の方に近づいていった。
 彼女の双眸があまりに厳しかったのか、カッツェが目の前に立つと青年は我に返った。
「あっ、ああっ、すいません!あの、悪気は無かったんです――その、あなたがあんまり綺麗だったから……」
 語尾はかすれて殆ど聞き取れなかったが、ますます赤くなった彼の顔色が代わりに雄弁に物語っていた。
「ふふっ……」
 下を向いてしまった青年を見て、カッツェは思わず笑い声をもらした。やはりあまりにも正直で、純粋だ。こんな夢魔は初めてだ
「ぼ、僕ミュスカデと言いますっ。あなたのお名前は何と仰るんですか?」
「私?私はシュバルツカッツェよ。今日は失敗したみたいだけれど、今度は巧くやる事ね」
 カッツェは笑みながらミュスカデに軽く手を振り、その場を立ち去った。そして、彼のことはすぐに忘れてしまうはずであった。

 しかし、ミュスカデのことは急速には忘れることが出来なかった。
「あら、カッツェ様、またお遇いしましたわね。そんなに嬉しそうなお顔をなさって、何かあったんですの?」
 カッツェはその後再び遭遇したキャンティとマルゴーの二人組に、どういう訳か彼の話をする気になった。いつもの気まぐれだろう、と彼女自身は感じる。
「さっき、王国の端で、多分発生したばかりの上級夢魔を見たわ。喰らうためにどのように人の意識体に接すればいいのか良く理解していないのか、遊ぶだけで相手に何もしないで帰ったの。何となく面白いひとだったわ」
 カッツェが言うと、キャンティ達は顔を見合わせた。
「キャンティ、それって……」
「ええ、多分間違っていませんわよ、マルゴー。ここしばらく、新しい上級夢魔は発生してませんし」
「どうしたの?あなた達」
「カッツェ様、その夢魔はミュスカデという名前でしょう?」
 相手の名前をキャンティに言い当てられ、カッツェは彼女にしては珍しく、驚いた。二人の様子から言って、マルゴーもミュスカデのことを知っているのだろう。
「まぁ、カッツェ様は王国にいらっしゃる時間が少ないですし、わたくし達も、あなた様やアイスヴァイン様の前では彼のことなど話しませんから、仕方がないとは思いますが……」
「バニュルスが何も言わなかったのが悪いんじゃないの?」
 マルゴーの言葉に、カッツェは苦笑する。そもそもカッツェは噂話に興味を持つことなど殆ど無いし、またそう言うことは自分から知ろうとは思わない性質たちなので、兄であるバニュルスも妹に噂を話すことはしないのだった。
 だが今のカッツェは、ミュスカデに少し興味を持っている。
「それで、あなた達が知っているミュスカデって、どういう人物なわけ?」
「カッツェが見た通りよ、あいつ、絶対に人間を襲おうとしないの。勧めても嫌がるのよ」
 マルゴーが吐き捨てるように言う。彼女の口調が示すように、人間の意識体を喰らわぬ夢魔は異端であり、忌避すべき存在である。なるほど、彼女たちがヴァインの前でミュスカデの話をしなかったというのもうなずけた。夢魔達の頂点に立つ彼が、一番ミュスカデを厭うているだろう。
「ふぅん、そうなの――」
「カッツェ様も、彼とはあまり関わり合いにならない方がよろしくてよ。では、ごきげんよう、カッツェ様」
「さようなら、キャンティ、マルゴー」
 キャンティとマルゴーが行ってしまった後、カッツェはしばらくその場に佇んだまま、二人から聞いた事について考えていた。そしてミュスカデの顔を思い出す。
 ミュスカデは、何故人間を襲わないのだろうか。その行為の裏にどんな理由があるのだろう。
 こんなに一つの物事に興味を惹かれるなど、彼女にはとても珍しいことである。忠告してくれたキャンティ達には悪いが、もう少しミュスカデに話しかけてみても良いかも知れない。カッツェはそう思った。

 そしてカッツェは、またも王国の周辺部に現れた。夢界では、時間の流れ方や空間の境界は現実界とは違い、非常に曖昧だ。カッツェは、また同じ少女の無意識領域で、意識体と遊んでいるミュスカデを発見した。
「楽しそうね」
「あっ、ああっ、シュバルカゥ……痛っ!」
 カッツェの声に振り返ったミュスカデは、慌てたためか口がもつれて舌を噛んでしまったらしい。同時に、彼がさっきまで相手をしていた少女の姿がかき消える。今度は、目覚めの時が来たのだろうか、それともミュスカデが不可抗力で彼女を覚醒させてしまったのかは判らない。
「カッツェ、でいいわ。皆そう言う風に呼んでいるから」
「す、すいません……」
 ミュスカデは、以前逢ったときと同じように、顔を真っ赤にしてうつむいた。それだけではなく、動作も全てぎこちない。
「じゃ、じゃあ、失礼ながらカッツェ様って呼ばせていただきます」
「そんなに堅くならなくても良いわ」
「でっ、でもっ、そう言うわけには行かないですよ」
「どうして?私よりあなたの方が力関係が上かもしれないわ」
 カッツェは薄く微笑み、言った。それはもっともなことで、力を使わないミュスカデの強さと地位は、誰にも判らないのだった。彼が例えばヴァインより強くないという保証は何処にもない。
「そんなわけないですよっ、だ、だって、――前にも言いましたけど、そんなに綺麗なんですから、きっとあなたは僕なんかよりずっと偉い夢魔だと思いますっ!」
 相変わらず正直にものを言うしか出来ないらしいミュスカデは、顔じゅうをくしゃくしゃにした。そんな彼に、やはりカッツェの頬が緩む。
 彼女が獲物とするのはすべからく成熟した男で、(万人がロートシルト並ではないが)彼らが口にする賛美は少なからず修飾されている。だがミュスカデの言葉は子供のように単純ストレートで、微笑ましい。
「ところで、あなたに訊きたいことがあってここに来たのだけれど」
「はいっ!?」
 ミュスカデは、返事をするたびにいちいちかしこまる。
「あなたって、人間の夢を喰らわないそうね。何故?」
 カッツェは何の遠慮もなく、ストレートにそう質問した。彼女は誰に遠慮もする必要が無い夢魔だからだ。そんなやや高慢な態度さえ、カッツェには相応しく見える。
 ミュスカデはたちまち困った表情になった。他の上級夢魔達からあからさまに奇異の、そして軽侮の表情を見せつけられることには慣れていたが、面と向かって訊ねられたのは生まれて初めてだったのだ。だが彼はすぐに思い直した、自分からは言えなかった事を漸く他人にぶつけられるチャンスだと。
「……僕には、夢を喰らうあなた達の方が不思議です。だって、夢はとても綺麗じゃないですか――」
 その瞬間、頬を力強く張られたような衝撃がはしった。
 夢はとても綺麗じゃないですか。
 カッツェはそんなことなど一度も考えたことがなかったのだ。
 彼女にとって夢とは、意識体を弄び喰らうための、そのためにはいかなる破壊をも厭わないただの粗末な舞台に過ぎなかった。その認識は全ての夢魔達にとっても同じはずである。それがミュスカデは違ったのだ。
 カッツェは改めて周囲を見渡した。七色の花がとりどりに咲き乱れる、素晴らしい花園。恐らくこれが外界のイメージなのであろう、澄み切った青玉サファイアのような青空。そこにたゆたう雲は柔らかな白。そして疑似太陽が強い光を放つ。
 少女の夢はそれだけではただの映像であろう。だが、カッツェが近くの花の一つを摘んでみると、それは光を屈折するプリズムの水晶で、それが花園の七色を生み出しているのだった。極上の翡翠の茎から細く白い指をそっとはがすと、花弁は自身を大きく広げ、華麗な蝶となって青空へと舞い上がった。
 その時、甘い香りのする一陣の風が花園を通り抜けた。無数の花弁が離れ、飛び、蝶の大群となってカッツェとミュスカデの周囲から飛び立ってゆく。それは正に夢幻的な(夢界に於ける出来事にこのような形容を付けることは一笑に付すべきことではあるが)光景であった。
「綺麗……本当に綺麗ね」
 カッツェはそれだけ言うと、黙ってミュスカデの傍らにて立ちつくしていた。

 それから、カッツェの行動が変わってきた。
 彼女は今までと同じように人間の無意識を渡り歩いている。ただ、それはミュスカデの言葉と、あの時自分が感じたことが真実ほんとうなのか、確かめてみたいという気持ちからであった。
「不思議ね」
 あれから頻繁に訪れるようになったミュスカデのもとで、カッツェは発見への驚嘆でほんのわずか頬を上気させながら、言った。ミュスカデも例の花園の少女のところだけでなく、色々な無意識領域間を転々としている。
「確かに、良く注意してみると、人間って面白くて綺麗な映像イメージを思い浮かべているわね」
 それは雄大な自然であったり、豪壮華麗な城であったりした。時には何もない静かな草原であることもある。いずれにしろ、人間達は彼らの夢の中で実に幸福そうに過ごしている。
 逆に何の美しいところも見られない夢は、全て夢魔が食い荒らしているものであった。それに気づいたとき、カッツェは自分の心に暗澹たる想いが浮かんできたのを自覚した。しかしそれは同時にカッツェの夢魔としてのアイデンティティを揺るがすものであるため、まだミュスカデにも語っておらず、胸の奥に封印していた。
「僕は時々羨ましくなるんです……僕も人間に生まれていたら、こんな綺麗な夢をきっと持てたに違いないって」
「そう――」
 ミュスカデがはにかみながら語る「願い」も、夢魔としてあるまじきことである。しかし、そんなことを誰にも遠慮することなく、素直に言ってしまえるミュスカデがカッツェには微笑ましく、また好ましく思えた。
 カッツェはミュスカデに惹かれていた。

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