「最近お前はよく物思いに沈んでいるな」
ある時ヴァインにそう指摘され、カッツェは自分が頻繁に考え事をしているのに漸く気づいた。
「そう、なのかしら?」
「ああ、お前にしてはらしくもない。一体どうしたのだ?」
「……別にどうもしないわ。ただの気まぐれよ、いつものように」
カッツェは嘘をつく。だが彼女は平然とはしていられなかった。
『夢はとても綺麗じゃないですか――』
何をしていても、彼女の耳からミュスカデの言葉が離れることは片時も無い。
『僕も人間に生まれていたら』
夢魔にとっての背徳の思想はあまりにも甘美で。カッツェは自分の夢を見るミュスカデを想像した。そして、彼の夢に侵入っていく自分を。だがそれすらも彼女の本心では無いことに、まだカッツェは気づいていない。
「――ッツェ、カッツェ」
「あ……ええ?」
「やはりどうかしたとしか思えないな、お前は。カッツェ、この私に心配をかけてくれるな。お前は私の花嫁になる女夢魔なのだからな」
そう言うとヴァインはカッツェのしなやかな白い肢体を抱き寄せた。途端に彼女は、やっと自分が「シュバルツカッツェ」であることを自覚する。自分は最も美しく力ある女夢魔であり、その生き甲斐は人間の無意識を喰らうことにある。そして彼女に相応しいのは、目の前にいる夢魔の王なのだ。
(そう、ミュスカデと話したのは『いつもの気まぐれ』、もう、そんなことは止めなければ――)
しかし、カッツェは自分の心の舌の根が乾かぬうちにミュスカデのもとを訪れているのだった。自分ではどうすることも出来ない。身体が目に見えぬ衝動に突き動かされているとしか考えられなかった。
葛藤、焦燥、安堵、後悔――その永劫に続くと思われる繰り返しに彼女の心は呵まれて。まるで、甘い狂気に捕らわれたかのように。
「あの、カッツェ様、どうかなされたんですか?」
ミュスカデは表情の暗いカッツェの顔を上目がちにのぞき込んだ。彼は、宝石の樹の下に座り込んで何かを作っているようだ。彼女は自分の心のみに気を取られていて、声をかけられるまで気が付かなかったのだが。
「別に、これといって異常はないわよ。それより貴方こそ一体何をしてるのかしら?」
「実は僕、精神体を転生させる道具を作っているんです」
「えっ?」
「僕は夢魔だから、この夢界の外に出ることは出来ない、でも、その鎖を断ち切って転生の輪に乗る事ができたら、人間として人界に生まれて……」
そして、「人」として自分自身の夢が見れるかも知れない。
「その為に、僕、今までちっとも使ったことがない力を頑張って駆使しているんですよ!」
夢界は何かを望めばそこに在る世界。ミュスカデの想いが真剣であれば、遠くない将来にそれは完成するだろう。
「そ、そうなの――」
嬉しそうなミュスカデの表情がカッツェの双眸で揺らぐ。この世界で本来的に存在しないはずの「足下がふらつく」間隔に、彼女は目眩がする思いだった。
(ミュスカデが、人間になる?この夢界からいなくなる?)
圧倒的な、身体の表面が剥離していくような喪失は何だろう。ミュスカデの希望は知っていた。そしてそれが叶ったときのことをしょっちゅう考えていたのに。
――全ては気まぐれのはずなのに。
想像と、実際に提示された物事の差はこんなに大きいものなのか。
「人間になったら見たい夢がいっぱいあるんですよ、僕。前もお話しましたよね?」
「ごめんなさい、私はもうおいとまさせていただくわ」
苛立ちの募るカッツェは、ミュスカデに背を向けて駆け出した。
「カッツェ様!?」
ミュスカデは手を伸ばしたが、それがカッツェにまで届くことはなかった。
「ミュスカデ――あの異端の者か?」
「うん☆彼に逢ってからだよ、カッツェの様子がおかしくなったのはっ#」
ヴァインは密かにバニュルスを呼び、最近のカッツェの変わりようについて問いただしていた。カッツェ自身は気付いていなかったが、彼女の変化は既に第三者に判るまでになっていたのである。
「最近じゃっ、妙なバリア張って、一人きりで閉じこもっているよっ♪あの子は何にも言わないけどっ、もしかしてもしかしたらっ*」
「その先は言うな、バニュルス」
ヴァインは氷の瞳でバニュルスを睨んだ。バニュルスは「おお、怖っ×」と、肩をすくめる。冷たい怒りの波動が、ヴァインの身体の周囲からゆらゆらと立ち上がっていた。
カッツェが籠もっているのは、無数の茨で編まれた球体。これまで彼女が多くの男達を惑わし、破滅に導いた床。だが、今はカッツェ自身の心が、身もだえるような苦しみを味わっていた。
『貴方は私をおいて行ってしまうの?』
あの時、もう少しでミュスカデにぶつけてしまうところだった言葉。
(私は今までこんな事を誰かに対して感じたことなんて無かったわ。なのに、何でそう思ったのかしら……?)
例えばヴァインがカッツェを置いて別の世界に行く、と告げても、彼女はきっと無関心に「そう」と言ったきり、もうその事を気にとめることは無いだろう。
なのにミュスカデとは離れたくないのだ。
『貴方は私を捨てて行ってしまうの?』
彼女は突然、気付いた。それは、カッツェが喰らってきた人間達が、少なからず口にした言葉だったのだ。
子供のように無邪気なミュスカデ。
夢を綺麗と言ったミュスカデ。
人間に憧れたミュスカデ。
他のどの夢魔達とも違う異端の夢魔。
彼に出逢い、確かにカッツェは変わった。今では、彼女も人間の夢をただ喰らう対象と見ることが出来ない。それぞれの美しさを既に知っている。それを破壊しているのが夢魔の余興であるということも。
(ミュスカデに逢いたい、私は彼に逢って、話をしなくてはならないんだわ)
茨の絡み合った棘が徐々にほどけ、中から一匹の黒猫が飛び出した。緑色の瞳の猫は、ミュスカデを求めて駆け去っていった。
「やった、完成したぞ!」
ミュスカデは、遂に完成した念願の道具を片手に飛び上がった。それは、長い銀の柄の付いた天眼鏡のようなもの。そのレンズには、人界の様子が滲んで揺らぎながら映っている。
だが、彼のはしゃぎぶりは長く続かなかった。ミュスカデには、気になっていることがあったのだ。
「カッツェ様、最近どうしたんだろう……」
誰よりもこの喜びを分かち合って欲しかった女。彼女はあの時以来、一度もミュスカデの前に姿を現さなかった。
(そうだ、夢界の中心までカッツェ様を探しに行こう)
今まで、ミュスカデは好んで辺境におり、他の夢魔達が集う中心地に行ったことは殆ど無く、また行く気にもならなかった。周りの蔑みの視線をわざわざ浴びるつもりなど毛頭無い。
しかし、今回だけは別だ。一刻も早くカッツェに逢いたかった。もしあの時彼女を不快にさせる事をしたのなら、すぐにでも謝りたかった。そして何より、彼女に伝えたいことがある。
はやる気持ちを押さえながら、ミュスカデは走り出す。だが、その時、彼の前に立ちふさがる一つの影があった。
「……何をそんなに急いでいるのだ?」
それはミュスカデが見たことのない銀の髪の男夢魔。
「えっ?」
「随分嬉しそうな顔をしている」
そう言うと男は薄く笑った。ミュスカデも一瞬くらっとしかけるほど、妖しく美しい。きっと彼は相当上位の夢魔だ、とミュスカデは直感した。彼ならきっとカッツェのことを知っているだろう。
「あっ、あの、あなたはシュバルツカッツェという名前の夢魔を知りませんか?僕、その人を探しに行こうとしていたんです」
カッツェの名を出したとき、ミュスカデの表情が自然とほころぶ。彼にとってカッツェは、ある種女神にも等しい存在だった。
「知っているが、お前はカッツェに何の用がある?」
「これが完成したから、カッツェ様に見て貰おうと思ったんです。それに、言いたいこともあって――」
刹那、ミュスカデの笑顔が凍り付いた。
「かっ……はっ……!」
ミュスカデの腹から生えているのは、彼が作った天眼鏡の柄。
銀の髪の男――ヴァインが、素早くミュスカデから天眼鏡を奪い、彼の腹に突き立てたのだ。
「お前のような、か弱い異端の存在で、このアイスヴァインの花嫁を奪おうとは」
「え……?」
光を失い駆けたミュスカデの目が、驚愕で一瞬力を取り戻す。彼ですらもその名を聞いたことのある、夢魔の王。それが目の前の男というのなら。
(そうだ、シュバルツカッツェ、夢界で一番美しい、夢魔の女王――なんで僕は今まで思い出さなかったんだろう……!)
だが。
それでも。
「で、も、ぼ……く、は、あい、して――」
ミュスカデの身体が、舞い散る花びらの如く四散していく。
(本当はちゃんとお別れしてから、自分の手で人間になるつもりだったんだ。さようなら、カッツェ様――僕が愛した美しい人)
「きゃあああああああっ!!」
やっとミュスカデの気配を発見してその場に駆けつけたカッツェが見たものは、消えゆくミュスカデと、その傍らに立つ冷酷な夢魔の王だった。
「ヴァイン、貴方、一体――!?」
「ミュスカデは消滅した。カッツェ、お前も正気に返るのだな」
「そ、んな――」
カッツェの腰がすとん、と落ち、ドレスの裾がふわり、と優雅にひるがえる。それが逆に、彼女の受けた衝撃を表すかのようであった。
(せめてもう一度だけ、別れる前に話がしたかったのに)
だが、そんなカッツェにヴァインは無情に言い放つ。
「ミュスカデは、女王たるお前には到底釣り合いが取れぬ。お前を手に入れようと夢想しただけでも、消滅に値するのだ」
一度は自分の伴侶にと決めた男の顔が、この時ほど醜く映ったことは無い。色を失った唇をカッツェは噛んだ。
「――あれは夢を喰らうのを嫌うからな」
刹那、ぱん、とカッツェの頭の中で小さな音がしたような気がした。
「ヴァイン……どのようにミュスカデを消滅させたの?」
「ミュスカデがお前に、この杖のようなものを見せたいと言っていたからな、これであれの胸を突き刺した」
そう、と呟くとカッツェは、そしてヴァインの瞳をじっと見ながら、すっと立ち上がる。その仕草は、常の彼女に戻ったかのようにヴァインには映った。そして、そっと彼に近づいてくる、カッツェ。
「解ったか。では、戻るぞ、カッツェ」
「いいえ」
婉然と微笑んだカッツェは、次の瞬間、ヴァインの手から天眼鏡を取り上げ、ヴァインがミュスカデにしたように、それを自らの身体に突き立てた。
「カッツェ、何をする!?」
みるみるうちに崩れていくカッツェの身体。
「私も、人間になるの、よ――」
(本当は、私もこうしたかったのだわ。それが、やっと判ったの)
たとえ同じ時間に生まれることが出来なくとも、ミュスカデと同じ人間になって、夢を見、彼が愛した美しい夢を自分が護るのだ。
そして、たとえそれが遠い未来になったとしても、必ずミュスカデに伝えたい。
『私は、生まれて初めて愛したのよ――貴方のことを』
〜了〜