そこは全ての生ある者の内面にある世界――ある者は無意識の領域と呼び、またある者は夢と呼ぶ。
 「彼ら」は自分たちが暮らすその場所の全てを包括して「夢界」と呼んでいた。
 「彼ら」は肉体を持たない代わりに、無意識の法則全てを知り尽くしており、気まぐれにそれを操る。無意識の変化はその領域を支配する意識体の変化を誘発し、時にその破滅を誘う。「彼ら」は物質界で人間と呼ばれる意識体達を喰らうのを好んだ。何故ならその発狂の過程は彼らにとって甘美であり、自分たちの内部うちに取り込むときの恍惚感は何物にも代え難かったからである。
 人間達は夢界のヒエラルキーの頂点に立つ「彼ら」を「夢魔ナイトメア」と呼び恐れた。

 その騎士は既に満身創痍の姿であった。額には一面血がこびりつき、恐らく肩が砕けているのであろう、右腕はだらりと垂れ下がっている。彼は感覚の無くなった身体にむち打って、ロングソードを杖代わりに立ち上がった。
『勝っ、た――姫、私が、勝者、で、す……』
 騎士は、彼のいる場所より一段高いところにしつらえられた席に腰掛けている美しい娘にそう話しかけた。騎士の言葉通り、彼の足下のそこかしこに、男達のむくろが転がっていた。
『お約束、通り、あなたの、ために、この……戦い、を、勝ち……抜き、まし、た』
 娘は席を立つと、優雅な足取りで騎士に近づいていった。透き通るような白い肌に腰までの長さのある淡い金髪。輝く水色の瞳の上で褐色の眉が綺麗な弧を描いている。
 騎士はわずかに残った力を振り絞り、剣を手放し自分の両脚のみで立った――愛する女性を、片手でだけでも抱擁するために。
 だが娘は騎士の元にたどり着く前に歩みを止めた。そして左手の薬指にはめていた指輪を、彼の目の前で抜いた。出血によって青ざめていた騎士の顔色が更に色を失う。何故ならその指輪は戦いが始まる前に彼が娘に贈った物なのだから。
 娘は残酷な、だが魂を引き抜かれるほど美しい笑みを浮かべ、指輪を肩越しに放り投げた。
『姫……私を、あい、し、て――』
 絶望の表情を浮かべ、遂に騎士は力つきて倒れた。と同時に、周囲の光景がぐにゃぐにゃとゆがみ、やがて水で流れたインクのように溶けていった。
 後に残されたのは、もはや動かぬ騎士と娘のみ。
 娘は再び騎士に歩み寄ると、その場にかがみ込みそっと彼の身体に触れた。騎士の身体は霧状になり、みるみるうちに娘に吸い込まれていく。
 騎士がすっかり消えてしまうと、今度は娘の方に変化が現れた。金色の髪と褐色の眉が闇を紡いだ漆黒になる。金の髪は騎士達にとって理想の美女の絶対条件だが、この艶やかな黒髪の方が娘の神秘的な美貌を更に際だたせている。水色の瞳はまるで大粒の翠玉エメラルドのような緑へと変わった。
 娘の名はシュバルツカッツェ――無数の男を狂わせ破滅に追い込む夢魔。
 夢魔の上下関係は単純にその力関係で決まり、力が強い者ほど人間に近く彼らを欺き魅了する姿をしている。そしてカッツェは最も美しく最も力のある夢魔であった。
「カッツェ、児戯は終わったか」
「ええ――」
 カッツェの背後に、まるでタペストリが壁を滑り落ちるかのように現れたのは、凍えるように冷たい輝きの銀の髪、暗い湖の瞳の男。カッツェと並んでも見劣りしない美貌だが、切れ長の双眸のあまりの冷たさに、見る者は絶望にも似た畏怖と渇望を覚えるであろう。
「いかにも、物足りぬといった顔をしているな」
「ああいう愛の幻想に取り憑かれた騎士だなんて、自分から進んで罠にかかってくれるんだもの。簡単すぎて面白くないわ」
 でも、とカッツェのエメラルドの瞳が笑った。
「その日その日の出来事の断片的な映像イメージしか無かった無意識領域に、亡霊騎士が毎日のように増えていくのは見物だったわ。戦って彼らを全滅させないとこの私を手に入れることが出来ないって、あの騎士ひとは思いこんだみたいね」
「それはお前がそうさせたからであろう?」
「私がしたのは、最初の一体を造り上げたことと、彼から指輪を受け取ったこと、そしてそれを投げ捨てたことぐらいよ。後は自分から妄想してくれたわ。だから今回は、あなたの言うとおりほんの『児戯おあそび』ね、ヴァイン」
「お前が本気になれば、この夢界でお前に跪かぬ男はおるまい――無論この私をも含めてな」
 そう言うとヴァイン――夢魔の王たるアイスヴァインは背中から彼の花嫁を抱きしめた。

 全ての生物の無意識領域の共通部分、太古から蓄積されてきた記憶データ領域。その中心に、人間を襲わないときの夢魔達が生息している。彼らの王国は無論、人間達のそれとは異なっており、明確な領土範囲も法も無く、「王」の称号はただ最も力ある者の証。それでも、やはり力による上下関係は彼らの間に歴然として存在している。
 カッツェはヴァインに伴われ、王国に帰ってきた。
「もういいわ、ヴァイン」
 戻った途端にカッツェはヴァインの腕を無慈悲にふりほどいた。だがヴァインは、それがカッツェの性だと理解している。気まぐれで、愛という甘い関係には決して縛られない、その名の通り、まるで緑色の目をした黒い猫。
 もうカッツェは彼からかなり離れたところまで歩み去っている。だが、ヴァインに追うつもりはない。それでも既にカッツェは彼のものなのだから。現実界で生物がより優秀な配偶者を選ぶ様に、夢魔達の誰もがその白いかいなに抱かれることを望むカッツェは自分より「強い」ただ一人の夢魔であるヴァインを選んだのだ。
 カッツェは夢界の中をあてどなく彷徨っていた。夢魔に決まった住処はない。歩いていれば、やがて相手の方から自分を見つけてくれるだろう。
 思った通り、カッツェの前に突如一人の男が現れた。ヴァインと似たような格好をしているが、その髪の色は海のような紺である。
「久しぶりっ♪僕の可愛いカッツェ☆」
「……お兄様」
 男は上級夢魔の一人でバニュルスと言い、彼とカッツェは、人間と言えば「兄妹」にあたる関係である。バニュルスはカッツェほどの力を持っていないが、妹をひどく可愛がっていた。
「お兄様は最近、誰も襲っていないのね」
「なかなか僕好みの人間が見つからないからさっ♯」
 夢魔は格が上がれば上がるほど、喰らう人間をえり好みする。単に容姿で選ぶのもいれば、特定の心の傷トラウマを受けたかどうかで獲物を決める者もいる。人型を取らぬ下級の夢魔は手当たり次第に取り憑くのだが、力が弱いが為に人間の意識体を食い破る事が出来ない場合が多い。人はそれをただの悪夢として片付ける。
「カッツェこそ、何だかつまらないことをしたそうじゃないか♭」
「先にヴァインに遭ったのね。そうよ、今回の獲物を襲うことになったのは、本当に偶然だったの。向こうの方から私に気づいて、おお我が愛しの姫よ、って言うものだから思わず乗せられてしまったの。でも、やっぱり自分の気持ちには正直であるべきね。喰らってもあまり嬉しくないもの」
「今度はもっと獲物を選ぶんだね†でも、どうせしばらくは誰も襲わないだろっ?」
「そうね、すぐにまたここから出たら疲れるもの」
 食べずとも存在できる夢魔にとって人間を喰らうのは「趣味」の領域に近い。カッツェは、バニュルスにいったん別れを告げると別の方向へと彷徨っていった。その名の通り、猫のように。

 久方ぶりに歩く夢魔の王国で、カッツェは多くの夢魔達から声を掛けられた。彼女の力から言えば当然のことだが、慣れてくるとひどく煩わしく感じる。特に詩人っけのあるロートシルトと遭遇したときは、
『おお、これはこれは麗しき黒真珠の姫、お久しゅうございます!再び貴女に相見あいまみえることが出来ようとは……』
 と、こんな調子の口上が長々と続き、賛美には慣れたカッツェも流石にうんざりしてしまった。第一、ロートシルトは彼女にでは無く、自分の言葉に酔っているのだから始末に負えない。かと言って黙ってその場を離れようとすると、「おや何処に行かれるのですか?」と進行方向に素早く回り込まれ、お手上げ状態になるのだった。
「あら、カッツェ様ではございませんの?」
 その時、二人連れの女夢魔達が偶然にも二人の側を通りがかった。声を掛けてきたのは豪奢な金髪の乙女の姿をし、今一人は対照的に燃えるような深紅の赤毛をしている。
「キャンティ、マルゴー」
 振り向いたカッツェの表情は明らかにほっとしている。
「金とルビーの姫君達、良いところにおいでくださいましたな。あなた方はまるで――」
「ロートシルト、あんたいちいちうるさいのよ」
 ロートシルトが更に賛美を重ねようとしたところを、赤毛の少女――マルゴーがぴしゃりと言って黙らせた。こんな事が出来るのは夢界広しと言えども彼女ただ一人だろう。殆ど恐れを知らないと言ってもいいマルゴーは、たった一人を除き誰にでもずけずけとものを言える。
「本当にお久しぶりですわね。どうでしたの、今度襲った相手は?」
「その質問は何度目かしら。手間が掛からないぶん退屈だったわ」
「それで疲れた顔してるのね。ロートシルトなんかに関わってたからってだけじゃ無かったんだ」
「マルゴー殿、それはあまりの仰りよう――」
「だって本当の事じゃない」
 ロートシルトとマルゴーが言い争いを始めたので、カッツェはキャンティに短く別れの言葉を言うとその場を離れた。勿論、感謝の言葉を含めて。
 今度はカッツェは王国の周辺部側に向かった。あまり上級夢魔の集まらない地域である。彼女自身、この辺りにわざわざ足を運ぶのは初めてのことだ。やはりロートシルトとの邂逅は彼女に多大な疲労をもたらしたらしい。
 やがて、周囲の曖昧な景色が鮮明な色と形を持ち始めた。どうやら誰かの無意識領域と混ざり合っているようだ。何の悩みも無さそうな、光度の強い領域ばしょだった。無論、彼女はこんな明るいだけの夢には興味がないのだ。多分、子供かよほどの愚か者のものであろう。彼らはカッツェが、いや殆どの上級夢魔が好んで喰らう種類の人間ではない。
 つまりはカッツェに声を掛けてくる輩はいないはずで、彼女はそこで一休みすることに決めた。思わず吹き出してしまうような形状の木の下に腰を下ろし、寄りかかる。
 夢の中に棲む夢魔には当然眠りはなく、夢もない。休むと言うことはただ何もしない時間が過ぎていくと言うことだ。寿命の長い彼らの、普段の生活はあまりに単調である。
 ふと、カッツェは自分の近くで何かが動いていることに気づいた。
(あれは、この領域の意識体かしら――)
 だが注意して見てみると、動いているものは二つある。小さな女の子と、青年の姿をしたもの。しかし人間が一つの個人領域を二人以上で共有することはない。
(あの男が夢魔?見覚えが無いけれど)
 他人が目を付けた無意識領域には立ち入らないというのが、上級夢魔達の間での暗黙のルールだ。カッツェは急いでその場から立ち去ろうとした。
 その時、青年がカッツェに気づき、彼女の方を向いた。

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