茶会が終わり、空羽が茶室を出ていくと、落葉は急いでその後を追った。
「空羽さん!!」
「あら?どうしたの、落葉?」
「あなたは、そんな一族の都合で人生動かされて、何とも思っていないのか?」
 空羽は、少女のように小首を傾げると、少し考え込んだようだった。だが、すぐに曖昧な微笑を浮かべ、言った。
「――そんな事、考えたこともなかったわ。物心付いたときから、私は自分が将来こうなるんだ、って教えられてきたし、信じていたから。だって、それが大昔から続いてきた一族の習慣なんですもの」

 その日、紗綾の部屋に戻ってからの落葉はまるで上の空に見えた。紗綾は、いつもの苛烈な眼差しを向ける落葉よりも近寄りがたいものを彼に感じた。
「……なぁ、紗綾」
「な、なぁに?」
「もう少し、さっきの『ビジネス』の話をしてくれ」
「大体のことは、空羽様が言ったとおりよ。天衣一族は、本家の人間を有力者の配偶者にして、そのコネで分家の人達を政財界に送り込みやすくして、世の中を動かしてきたの。先の落葉さんとか、長老会の人達がそう。皇王様自身は表に出ることが出来ないから。皇王様の存在は、一族と日本のトップの人達だけの秘密みたいなものね」
「翼が生えてるからか?」
 紗綾は「誰も言わなかったのに、何でを知ってるの?」と落葉に尋ねたが、彼は「空羽さんから聞いた」と嘘をついた。
「そうか、だから俺はそんな世界に送られるために連れてこられ、身内でもない奴らは今から皇王の子供について今から騒いでる、という訳か」
「そんな、落葉……」
「悪い、紗綾、話はこれで終わりだ。俺は自分の部屋に戻る」

 翌日、落葉は再びこっそりと皇王の居る離れを訪れた。
 今では、外の世界に憧れる皇王の気持ちが、痛みを伴って落葉の喉のあたりに引っかかっていた。
「皇王、俺だ。入って良いか?」
「落葉?良いよ、君なら大歓迎だ」
 皇王はこの日もやはり床にふせっていた。顔色などはさほど悪く無さそうに見えるが、布団の上に置かれた腕は痛々しいほど細い。
「昨日叔母さんと会った?」
「ああ、あんたとよく似てるな」
「うん、僕は母親似だから。母さんと叔母さん、双子じゃないけどそっくりだったんだ」
 そう言えば、落葉と同じように、紗綾達も皇王も先代の死によってその座を継いだのだ。落葉ははじめから「父親」はいないのだと思って過ごしてきたのだが、それでも幼い頃は言いしれぬ不安と寂しさを感じてきた。皇王はなおさら辛かろう。
「そう言えば、皇王に兄弟はいないのか?」
「うん。だから、僕はいっぱい子供作らなきゃならないんだ。参っちゃうよね、今からそんな事ばっかり言われてるんじゃ」
「全くだ――あんた、今の生活って、当然のことだって思ってるのか?」
 突然変なことを訊かれ、皇王は色素の薄い黒目がちの瞳をくるくるさせた。
 落葉の脳裏には、昨日の空羽の姿があった。太古からの時間の流れに屈し、運命を甘受する姿勢が彼にはショックだった。そしてそれが、落葉がこの屋敷と人々になじめない原因であることに落葉は気づいたのだ。皇王も、既に空羽と同じように諦めているのだろうか?
「本当は、僕はもっと色々なことをやってみたいんだ。もっと外に出たかったし、学校にも行きたかった。でも、僕には翼が生えているから、周囲に止められる。僕のことが世間にばれたら、大変なことになるからってね。それはちゃんと自覚してる。けど、時々やりきれなくなるよ」
(そうだ、皇王は諦めたくなくても、無理矢理諦めないとならないんだ。そして、一族のために、閉じこめられたまま道具にされる)
「この翼、大きいだけで何の役にも立たないんだ。これで飛べたら、そうやって屋敷を出られたら、って何度も思うよ――落葉、どうしたの?」
「いや、何でもない」
 本当は色々と思うところがあった。が、皇王の前でやり場のない怒りを爆発させても仕方がないのだ。
「それに、僕のせいで自由になれない人はいっぱいいるんだ」
「え?」
 感情の高ぶった落葉に、それは意外な言葉だった。
「僕自身が不自由なのはまだ耐えられる。でも、例えば君だって、僕のせいで将来が制限されてるんだよ?」
「あんた……」
 その時の皇王の口調は、少年のそれとは思えないほど苦痛に満ちていた。

 気に入らない。何もかもが気にくわない。
 ここ数日で、落葉の憤りは無限級数的に膨れ上がっている。
 自分がここに連れてこられた経緯といい、本家の人間の扱いといい、天衣一族の人間はすべからく他人の気持ちを考えたことがないのではなかろうか。
 今では、生前自分を認知しなかった父親に感謝している程だ。先代は、多分真実愛した女に生まれた息子に自分と同じ名を与えるつもりは無かったのだ、と落葉は根拠もなく確信していた。だが、京子は恐らく先代が何気なく語った寝物語を憶えていて、失われても変わらぬ愛のあかしとして子供に「落葉」と名付けたのだ。
 もし、自分がすぐにこの屋敷に引き取られていたなら――いや、そんなぞっとするような仮定は、しない方が良い。
 縁側に座り込み、苦々しい顔で肘をつく落葉に、紗綾は声をかけた。
「落葉ぁ、何そんな難しい顔してるの?そこ暑いでしょ?部屋の中に入った方が良いわよ、扇風機もあるし――」
「別に、気にならない」
「相変わらず素っ気ないのねぇ」
 ま、そこが良いんだけど、と呟く紗綾に、越智は苦笑した。今、紗綾は越智に夏休みの課題を教えて貰っているのだ。それも何故か、落葉の部屋で。
「なぁ……紗綾や越智には、もし一族に生まれなかったら、夢みたいなものって、あるのか?」
「何よ、いきなり。でも、そうねー、あたしは、こんな山奥にくすぶってないで、東京に出たい」
 それを聞いて落葉はわざと紗綾に判るように大きな溜息をついた。
「あら、それにはちゃんと理由があるのよ。東京で勉強して、美容師になるの」
「別に東京じゃなくても、美容師にぐらいなれるだろ?」
「日本のファッションの最先端と言えば、やっぱ東京でしょ?あたしは、ただの美容師じゃなくて、時代をリードする美容師になりたいの!」
 なるほど、確かにそれでは一族は許すまい。今初めて、日本家屋にそぐわない紗綾の服装が、夢とささやかな抵抗の現れなのだと落葉は知った。
「越智は?」
「私の場合は、別に『越智』でなくとも、医学の道を志したと思うよ。ただ、出来ることなら、海外で医療研究に没頭できたら良かった、と思う」
 『越智』は皇王の侍医であることを落葉は少し前知った。越智は医者になることが出来たが、日本から出ることを決して許されない。
「羅衣は、どうなんだろう」
 誰とはなしに尋ねてみたが、越智と紗綾は顔を見合わせるだけで、何も言わなかった。
「――越智、あんた皇王の翼を切り落とせよ」
「!?」
 あの薄い青磁の色をした翼、主を大空に解き放つでなく、ただ地面に見えぬ鎖で繋ぐ翼さえなければ――。
「皇王に翼が無ければ、あいつだって、俺達だって自由なんだ!自分の生き方だって、自分で――」
 その時、落葉の目の前で何かが翻ったかと思うと、彼の頬が乾いた音を立てた。
「そのような――そのようなこと!翼あってこそのあの方なのです、落葉、二度とその言葉、口にしてはなりませぬ!!」
 そこに、羅衣が立っていた。いつの間にか、三人にお茶を運ぶためこの部屋に来ていたのだ。彼女はそのままきびすを返すと、早足で去っていった。
 そして確かに、彼女は泣いていたのだ。

「ごめんね、落葉。その、仕方ないの」
 残された重苦しい雰囲気を何とか振り払おうと、最初に口を開いたのはやはり紗綾だった。
「あんな羅衣は初めて見た――正直、あいつがこんなに怒るなんて思わなかった。何故だ?羅衣は皇王が自由もなく軟禁されてる方が良いのか?」
 紗綾は困ったように越智を見たが、彼は悲しそうに眉を寄せるだけであった。それは一族にとってあまりにも当たり前のことなのに。
「……あのね、別に黙ってるつもりなんか無くて、まさかそれも知らなかったなんて思わなかったの、凄く大切なことなのに、ええと」
「お前らしくないぞ、もっとはっきり言え」
「宝四家当主の条件は、先代の最初の子供なんだけど、唯一『羅衣』だけは違うの。宝蓮家の本家もしくは殆ど血筋的に隔たりのない分家に生まれた子供で、その時の『皇王』またはその跡継ぎと違う性別の最年長者じゃなきゃいけないの――『羅衣』は『皇王』の配偶者だから」
「!!」
「初代に生まれた子は天女の名を受け継いだ『皇王』と、『羅衣』・『落葉』・『紗綾』・『越智』を合わせた五人。他の三人はそれぞれ自分の長子に名前を継がせたが、二代目皇王は、天女の血をなるべく濃いかたちで残すために、すぐ下の妹の羅衣を娶ったんだよ。そして、二人の間に生まれた子のうち翼がある者を三代目皇王とし、無いものの一人が宝蓮家を興した。その、宝蓮家の始祖と二代目の『紗綾』の子の一人との間に生まれた子の一人が二代目の羅衣となった。宝蓮家は『羅衣』とは別に実質的な当主をたてることによって続いてきたんだ」
 越智の説明はややこしかったが、落葉には何となく理解できた。そして以前感じた違和感が何だったのかも判った。そう、羅衣に兄がいたことだ。
「最初から当主に決められてたあたし達と違って、皇王様が女だったら、お兄さんの繻子さんが『羅衣』になるはずだった。今年羅衣が十六歳になったらすぐに、皇王様と結婚するのよ」

 羅衣は、あの鯉の池のほとりにいた。
「――すまなかった、羅衣、事情を知らなかったのもあるが、あんたの気持ちを考えないで」
「いえ……わたくしも、少し感情的すぎました」
 羅衣は優雅な仕草で池をのぞき込むようにしゃがみ込み、落葉の方を振り返らなかった。
「わたくし達が皇王様に対してしていることは、確かに人道的ではありません。そうと解っているのです。けれども――」
 言葉に先はなかった。代わりに、か細い嗚咽が落葉の耳に痛々しく響いた。

「『羅衣が十六歳になったら』と言ったって、皇王の方がまだ全然駄目じゃないか」
「落葉、ああ見えても、実は皇王様はもう二十三歳なんだ」
「おい、いくら何でもそれは嘘だろう?」
 驚きのあまり、珍しく落葉の声が裏返った。皇王が自分より年上だとは信じられない。彼を見た者なら誰だって、落葉の意見に賛成するだろう。
「皇王様は、多分近親結婚を繰り返したのと、特殊な天女の遺伝子の影響で外見的な成長は殆ど止まっている」
「ああ……」
「羅衣はずっと前から本気で皇王様のこと好きなの。あの子は『羅衣』だから必ず『皇王』と結婚できる。羅衣は皇王様が優しいから、掟に縛られた結婚でも文句を言わずに従うんだ、って思ってるのよ。逆に言えば、どちらか片方でもその立場じゃなきゃ、この恋は実らない、と言ってるわけ」
「それに、本家に生まれた人間は、全て生まれつき生命力が弱くてね。現代の医学ではどうしようもない。特に歴代の『皇王』は、四十五を越えて生きられた例は最も長寿だった三代目を含めて数件しか無いんだよ。先代も、四十に手が届く前にお亡くなりになられた。恐らく今の皇王様も、叔母である空羽様より先に――」
「もう、止めてくれ!!」
 耐えきれず落葉は叫んだ。皇王の青白い肌が生々しく思い出される。いくら自由を望んでも、『皇王』であるが故彼には時間が殆ど残されていない。しかし翼が無ければ『羅衣』を配偶者として迎えることはない――そして、羅衣はそれを痛いほど知っているから――。
「本当は、皇王様に自由になって欲しいって一番思ってるのは羅衣なの。だから、いつも凄く悩んでいるんだわ」

 落葉は二夜連続で皇王のもとを訪れた。
「やぁ、落葉、どうしたんだい?最近、浮かない顔ばかりしているね」
「今日、紗綾や越智から、あんたがもう二十三歳なのを聞いた。正直、驚いた」
「うん、そうだね、僕自身も信じられないから、落葉の気持ちはよく解るよ。もう何年ぐらいこの姿かなぁ」
 もしかしたら中学生ぐらいからやり直せるかな?と皇王は笑った。
(何言ってるんだよ、自分の寿命を知っているくせに)
 きっと皇王は、落葉がそれを知らないと思っている。でなければ、そんな無理をしたような、一件屈託のない表情なんて出来るはずがない。
「羅衣が十六になったら、あんた達結婚するんだろう?やっぱり結婚式はこの屋敷で?」
 その時、初めて皇王が少し悲しい顔をした。自由を願う言葉でさえ淡々と紡がれていたのに。
 やはり、羅衣が思うように、皇王は結婚を嫌がっているのだろうか?
「――そうなんだ、羅衣には可哀想だけれど」
「えっ?」
「昔、羅衣がこの屋敷に来たときに、君と同じようにここに迷い込んできてね、僕の正体を知らずに、良く話しに来ていたんだ。羅衣は良く言っていたよ、『それが代々の習慣だからって、勝手に結婚相手を決められて、こんな所に連れてこられるなんて嫌だった』って。僕達二人は、一度屋敷から逃げ出した事があるんだ。一族の都合で犠牲になっている羅衣を、何とかして自由にしてあげたかった。でも、僕の身体が弱いせいで、結局失敗しちゃったんだ。彼女は、泣きながら僕を支えて山の斜面を登っていった。その時から、僕は彼女の幸せだけを願ってる。でも、”皇王”の名だけで何の力もない僕には結局何も出来ないんだ」
 その時、落葉は知った。皇王と羅衣は、互いに相手を想いながらも、ある楔によって誤解しながら数年を過ごしてきたのだ。
「皇王、俺はいつかあんたが抵抗するための力を持ってやる」

 皇王に決意表明をしたは良いものの、正直落葉は途方に暮れていた。今ほど、自分が何の力も無い高校生なのを恨んだことはない。皇王の、そして自分たちのために、まず自分は何が出来るだろう。
「落葉ぁ、そんなに難しい顔しないでよ」
「――何だ、紗綾か」
「あんまり顔をしかめてると、それがほんとの顔になっちゃうよ」
「余計なお世話だ。一人にしてくれ」
 そう言って落葉は紗綾を追い払おうとしたが、彼女はその場を動こうとしなかった。
「落葉は何にも言ってくれないけど、何しようとしてるかは解るよ。でも、無理よ――あ、『やってみなければ判らない』って言うつもりでしょ。それでもやっぱり、無理よ」
 この前事情は説明したでしょう、と紗綾は言った。確かに、宝四家当主の一員である彼らが、天衣一族の最年少であること、批判される年功序列の制度から視点をはずして見ても、落葉に力がないのは歴然たる事実だった。だから落葉はいらいらするのだ。
「落葉、せめて長老会があなたのことを宝剣家の当主だと認めるまでは待てないの?」
「それからじゃ遅すぎる」
 落葉の短い言葉の先を読みとって、紗綾は黙り込んだ。

 それからしばらくは何事も無く、九月になった。落葉は紗綾の通う地元の高校(勿論、理由は屋敷から一番近いと言うことだけだ)に、共に通うことになっている。
「落葉、行くわよ」
 落葉を迎えに来た紗綾は、何のてらいもない白と黒のセーラー服を着ていた。この方が、いつもの紗綾の格好に比べて日本家屋になじむのはどういうことだろう。
「――やっぱり落葉は、硬派だからブレザーより学生服の方が似合うね」
 そうかも知れない、と落葉は思った。
 二人を学校まで車で送ってくれるのは、庭師も兼ねている呉絽ゴロという老人だった。越智は、彼が勤めている県下有数の大学病院に通っているので、既に屋敷にはいなかった。車窓から外の林を見ながら、落葉は越智のことを考えた。ドラマなどで見る大学病院の上下関係は酷く厳しかった。皇王のためにしょっちゅう病院を休んでいる身では、さぞかし風当たりが強かろう。それとも、そこに一族の圧力が掛かっているのだろうか。
「呉絽さん、もしかしてこの車は、校門前まで行くのか?」
「ええ、そうでございますよ落葉様」
 朗らかな呉絽老人の言葉に、落葉は一瞬うっと詰まった。いくらなんでも、想像したくない光景である。
「うーんと注目されるわね、あたし達」
 紗綾の方は慣れているのか、至って涼しい表情だった。
「だって学校中の憧れの的のお嬢様が、新学期にいきなり男連れで登校するのよ」
「誰が『学校中の憧れの的のお嬢様』だって?」
「ひっどーい!」
 まあ、紗綾の言葉もあながち間違ってはいないので、落葉は呉絽に頼み込んで一つ手前の角のところで降ろして貰った。呉絽は残念がったのだが、迎えも最寄りの駅まで来て貰うことにした。
「あたしは別に良いんだけど。落葉と歩けるし」
 結局、紗綾はどちらでも良かったみたいだ。

「初めまして、――の――高校から来ました宝剣落葉と言います。よろしく」
 さしもの落葉も、転入初日のクラスでの挨拶は丁寧な態度で行った。彼の新しいクラスメイト達は、彼を見て様々なところで何か囁き合っていた。
「宝剣君、窓際の最後尾の席が空いているでしょう?取り敢えずあの席に座って。後で席替えをするから」
「はい」
 落葉は担任の指示通りの席に着いた。だが、やはり落葉生来の雰囲気がそうさせるのか、まだ彼に積極的に話しかけてくる人間はいなかった。そのまま朝のホームルームは終了し、体育館の始業式も何事もなく終了した(整列の際に紗綾が自分のクラスから手を振っていたが落葉は無視した)。
 再びクラスに戻ってくると、落葉には関係のない一学期に関する幾つかの事務的なことが行われ、そのすぐ後に担任の宣言通り席替えがあった。席替えはオーソドックスなくじ引きであり、落葉の引き当てたのは今度は廊下側の最後尾という笑い話のような場所であった。だが、今度彼の隣に座ることになった少年は落葉に興味津々の眼差しを向けた。最初は前を向いていた落葉だが、絶え間ない視線攻撃に堪らず降参した。
「あんた――」
「僕は那珂ナカ秀人ヒデト。よろしく、宝剣君」
 すると間髪入れず、少年は早口で自己紹介してきた。しかも握手をしようと右手まで差し出している。圧倒された落葉は思わず彼の手を握ってしまった。越智や紗綾とすらしたことがない行為である。
「よ、よろしく」
「宝剣、って事は、E組の宝弓さんと同じところに住んでるだろ」
「何でそれを……」
「あ、やっぱり?」
 しまった、カマを掛けられたのだと落葉は頭を抱えた。どうもこの秀人という少年には、今後も大いに振り回されるような予感である。
「僕の名字もかなり珍しいけど、宝弓さんや君だって相当珍しい名字じゃん。君は名前もだけど。しかも二人とも『宝』が付いてるし、あの天衣様のお屋敷と関係があるんじゃないか、って、自己紹介の時から思ってたよ。まぁ住所を見たらすぐ判っただろうけど」
 実は自分は天衣邸のある山の麓の村に住んでいるのだ、と秀人は言った。(流石に皇王の翼に関しては別だろうが)素封家・天衣家の事は彼の村では知らぬものはいないらしい。
「宝剣君、今頃こっちに越してきたって事は、何かわけアリだろ」
 突然、秀人が落葉に顔を近づけたかと思うと、耳元にひそひそと囁いてきた。
「お前、普通面と向かって言わないようなことをポンポンと言うな。その通り、俺はいわゆる『愛人の子』だ」
 しかも秀人に悪気は一切無さそうである。怒りを通り越して落葉はすっかり呆れてしまい、正直に囁き返してしまった。長老会側に知られでもしたらどのような叱責を受けるか分かったものではない。
「じゃあ遺産相続とかで大変じゃない?お気の毒に」
「まぁな、だからこのことは他言無用だ」
「いいよ。その代わりと言っちゃ何だけど、仲良くやろう。宝剣君って何だか人間的に面白そうなオーラを発してるからさ」
 それは落葉が生まれて初めて受けた評価であった。

 秀人の見た目通りに人なつこい性格に巻き込まれ、たちまち落葉はクラスじゅうの人間とコミュニケートする事になってしまった。そもそもお祭り騒ぎにも似たこんな状況は大の苦手なのだが。しかも他のクラスメイト達のノリも秀人を越えるほどではないが彼とさほど変わらず、落葉は応答に文字通りしどろもどろとなってしまった。
「宝剣、前の学校はどんなところだった?」
「どんな、って言われても、まぁ――」
「宝剣君格好良いから、遠距離恋愛の彼女とかいるんじゃない?」
「そんなのはいない」
「早速、歓迎会を兼ねて学校帰りに遊びにいかない?」
「いや、あの……」
 運良くそこに担任が戻ってきたので落葉は質問責めから解放されたが、これからどうなるのかと思うだけで頭が痛くなるのだった。

『何だか困っているみたいだな』
 席に戻ると、秀人は今度はノートの切れ端に手紙を書いてよこしてきた。
『お前のせいだ』
『そう?昨日とかに学校の案内してもらった?』
『いいや』
 本来はそうすべきだったのだろうが、屋敷内でちょっとしたごたごたがあって車が出せなかったのだ。
 やっと本当に学校が終わると、秀人が言った。
「じゃあ、今日僕が学校を案内してあげよう。木村とか山田とか残念がるかもしれないけどさ。あいつらは何かにつけ騒いだりするのが大好きだから」
 落葉は天才というわけでもないので、転入初日でクラスメイトの顔と名前が一致するという事は無いが、木村と山田という生徒達だけは何となく解った。真ん中あたりの列で自分たちと同じように投げ文のやりとりをしていた連中だ。
「まぁ、それに懲りずに今度の土日にでもカラオケ大会でもしようって言い出すな」
 秀人の言葉を聞き流しながら、呉絽の送迎でやって来るところを見られたらどう思われるだろう、などと考えていた。
 秀人の言うとおり、木村・山田他のクラスメイト達は落葉が放課後に自分たちと遊びに行かないのを酷く残念がったが、別の日に彼らに付き合うよう落葉に約束させた。
「職員室と体育館は解ってるだろうから、後は実験室とか保健室とかだな。ほら、行こう」
 秀人に引きずられるようにして廊下に出ると、落葉を迎えに行こうとしていた紗綾に出くわした。
「あっ、落葉!何処に行くつもり?」
「……クラスメイトの那珂に、学校を案内して貰うんだ」
「えーっ!?それ、あたしがやろうと思ってたのに〜!」
「うーん、やっぱり宝剣君と宝弓さんは知り合いだったか」
「やっぱり、って?」
 当然の疑問をぶつけてきた紗綾に、落葉は先刻の那珂とのやりとりを説明してやった。
「ねーえー、あたしも落葉の学校案内についてくー!良いでしょ?――あ、落葉いまちょっと嫌な顔をしたでしょ。でもあたし達が一緒に帰らないと、呉絽さんに迷惑かけるのよ」
「……」
「いいよ、宝弓さん」
「那珂君だっけ?話せるー♪」
 結局、紗綾は二人についてきた。それから、一年生の教室のある三階から一階に降りて保健室の位置を確認し、実験室の集中している理科校舎を回った。そして、次は体育館。
「あれー、何で二階なんかに上がるの?那珂君」
 演劇部が公演をするときに照明係が使ったり、中で他校との交流試合をしたときの応援席がわりぐらいしか使い道がない場所である。
「ほら宝剣君、放課後にこっからプールを見ると水泳部が――」
 秀人が全てを言い終わらないうちに紗綾が彼を殴った。
「いてててて」
「っんとに、もう!」
「……」
 落葉は何も言わず、二人を置き去りにして二階から降りようとした。
「あっ、待ってくれよ宝剣君!」
「落葉ぁ〜っ!!」

 最後に秀人が落葉を案内したのは、別棟として独立している図書館であった。
「けっこうでかいな。俺が前いた高校は普通に校舎の中にあった」
「見ての通り二階建てさ。結構すごいだろ?ここ、地元の郷土資料館的役割も担っていて、学校側の許可があれば昔の資料も見せてくれるらしいけどさ、まぁ、一般の生徒はそんなもの見ないだろうけど」
「勿論紗綾は見ないだろうな」
「何それ、酷いわよ落葉!――って、本当の事だけどねっ」
「普通の本も、雑誌とかなんか種類が多いから、授業サボってここに来る連中は多いんだ」
 秀人が言うと、落葉は紗綾の顔をじっと見た。
「な、何よう、あたし授業は真面目に出てるわよっ!!」
「あっはははははは!!宝弓さん、宝剣君からの評価低いね」
 そんな二人を見て思わず笑い出す秀人。
「いいわ、あたし、何か借りてくる」
 紗綾は落葉に見くびられていると思い、いかにも古そうで分厚い本が並べられている本棚に向かった。彼女に付いてきた二人が棚の本の背表紙を見ると、どうやら昔発行された日本古典関連のコーナーらしい。紗綾はタイトルを知っているものの方が良いと思ったのか「源氏物語」を選び出した。
「これ借りたら、落葉、帰ろう?」
「ああ」
「宝剣君ってさ、やっぱ宝弓さんみたいに校門まで車で迎えに来て貰う?」
「紗綾、お前やっぱりそんな恥ずかしいことしてたのか」
「いいじゃない、別に」
「俺は嫌だ。那珂、そう言うわけで車には駅まで来て貰うことにしてもらった」
「僕も駅からバスに乗るんだ。良かったら、そこまで一緒に行こう」
「お前、部活は?」
「入ってたら君の案内なんかしてないさ」
「それもそうだな」
 そう言うわけで、紗綾が本を借りるのを待って、落葉達は揃って学校を出た。

 駅前には、既に呉絽が運転する車が到着していた。呉絽は落葉の姿を確認すると、車外に出、落葉と紗綾にお辞儀をした。
「落葉様、紗綾様、お待ちしておりました――おや、そちらの方は」
「クラスメイトの那珂だ」
「そう、那珂秀人って言います。今日から宝剣君と宝弓さんの友達になりました!」
「左様でございますか。那珂様のお住まいはどちらで?」
有羽ウハ村です」
「それでは、私どもと同じ方向でございますね。どうです、お宅までお送りしますので、乗っていかれませんか?」
「いいんですか?やったあ、高級車に乗れるぜっ!」
ガッツポーズを取る秀人に、思わず紗綾が吹き出した。
「あははっ、那珂君って面白いのねぇ」
 落葉の方は、「やれやれ」と言いたげに眉をしかめるだけだった。だが、既に落葉のそう言うところを理解しているのか、秀人は気にする様子もなかった。
「では、お乗りください」
 車の後部座席はゆったりとしていて、三人が優に座れる。まず紗綾が乗り込み、次に落葉、そして流石に遠慮したのか秀人は最後であった。
「わっ、すげっ、シートがふかふか」
「……那珂、あまり揺らすな。子供っぽいぞ」
「別にいいじゃない、落葉。あたしだって、初めて乗ったときはやったわよ」
「だと、那珂。お前、昔の紗綾と同レベルだぞ」
「う〜ん、それはちょっと……」
「落葉っ!!」
 運転しながら三人の会話を聞いていた呉絽が、相好を崩す。初めて館に来た頃の落葉は全てのものにその苛烈な眼差しを向けるだけだったが、やはり学校というものが彼の年相応の部分を引き出すのかもしれない。ぶっきらぼうなのは相変わらずだが。
「そのご様子では、落葉様は既に新しい高校に馴染んでおられるようですね」
「そうとも言えるかも知れないな」
「心配しないでくださいよ、僕が責任持って宝剣君の面倒みますから」
「えーっ、その役、あたしに譲ってよ!」
「――勝手にやっていろ」
 落葉はシートに全体重を掛け、とうとう目をつぶってしまった。

 那珂を途中で降ろし、車が天衣邸まで戻ると、太布が落葉達を出迎えた。
「お帰りなさいませ」
「太布さん、皇王様のお加減は?」
――そう、昨日の「ちょっとしたごたごた」とは、皇王が急に熱を出したことだった。宝剣の当主である落葉は皇王の一大事ゆえに外に出ることが許されなかった。
 落葉は、短い間に、太布達と皇王について話すときは敬語が使えるようになった自分に心の中で嘆息した。
「越智様のご尽力で、昨夜よりずっと状態が落ち着いておられますよ」
「それは良かった。あたし達、鞄を置いたらすぐにお見舞いに行くわ」
「落葉様、紗綾様。先ほど宝蓮の本家から、繻子様がお着きになったのですよ。今、離れの方にいらっしゃいます」
 太布の口から繻子の名が出たとき、落葉の表情が強張った――繻子、「羅衣」になれなかった、羅衣と十も歳の離れた兄。若いながらも長老会に認められた実力者、宝蓮家の跡継ぎ。落葉は、少なくとも皇王に初めて「謁見」した夜に繻子と会ったはずなのだが、あの時はうんざりしていて自分が誰と何を喋ったのかもよく憶えていない。当然、繻子の顔も思い出せなかった。ただ、彼が長老会側に属していると言うことだけが落葉の胸の辺りに居座っていた。
 落葉は紗綾の言ったとおり、いったん部屋に戻ってから離れに向かった。
「繻子さん、まだ離れにいるかしら。それとも何処かで羅衣と話しているのかな?やっぱり、あの子の立場だと、家族にはあまり会えないもんねぇ……」
 他の三家の当主は比較的自由に家族と会えるが、「皇王」の配偶者たる「羅衣」は、「皇王」が代替わりした際に、どんなに幼かろうが親元から引き離され、「皇王」と死に別れるまで決して里帰りすることは出来ない。宝蓮家の方でも、「羅衣」となった子に、もはや自分の家族としてではなく、天人に最も近い座に座る敬うべき者として接する。
 羅衣と繻子が会ったならば、二人はどんな気持ちで語り合うのだろう。

 離れに二人が着いたとき、ちょうど離れから誰かが出てくるところだった。最初に襖を開けたのは羅衣。続いて、一人の青年が中から現れた。
「では、皇王様、お身体になおいっそうお気をつけください」
 青年はいったん振り替えって挨拶し、そして視線を前方に戻したところで、落葉と視線があった。
「これは落葉殿と紗綾殿、お久しぶりです。落葉殿の披露目の時以来ですか?」
「繻子さん」
「……お久しぶりです」
 繻子は、羅衣によく似た、細面の美形だった。切れ長の瞳に白皙の膚が、内裏雛を思わせる。その視線は、苛烈な落葉とは対照的に、凍てつく氷柱のようであった。
「昨夜、宝珠ホシ殿から皇王様が病に倒れられたとの連絡があって、急いでこちらに来てみたのですよ」
「皇王様、あたし達が学校に行くときはまだ結構熱があったんですけど、どうでした?」
「越智殿のお陰で、峠はもう越しました」
 それまで黙っていた羅衣が、静かに言った。彼女がやつれて見えるのは、恐らく昨日からずっと付ききりで皇王の看病をしていたためだろう。
「なら、よかった」
「本当に、越智殿のお陰ですね。昨日の話ではかなり具合が悪かったそうですが――」
 その後、羅衣と繻子は久方ぶりに話をするとのことで、茶室へと去っていった。
 だが、落葉は繻子がその前に言った言葉に強い憤りを憶えていた。
『羅衣が十六になるまであと二ヶ月、その前に皇王様にお亡くなりになられては困りますからね』

「っ――――――」
「落葉……あっ!」
 繻子達の姿が見えなくなると、落葉は彼の右手首をしっかと掴んでいた紗綾の手を乱暴に振り払った。そして怒りでぎらぎらと光る視線を床に落とす。
「――駄目よ落葉」
「ああ、でも、俺はあいつの言い方が許せない」
 繻子の眼。皇王を一族のための道具だとしか思っていない、氷の眼だった。落葉の拳は繻子の言葉に瞬発的に動こうとしたが、その様子に気づいた紗綾が無言で落葉を抑えたのだ。
「落葉の気持ち、あたしも解ってる……つもりだけど、ここで繻子さんを殴っても、羅衣も皇王様も悲しむと思うの」
「――」
 落葉が怒れば、それは逆に皇王が正に「囚われの身」であることを認めてしまうことになる。そう紗綾は言いたいのかも知れない。
「とにかく、早く皇王様のお見舞いしよ?」
「ああ」
 ちょうどその時、外の物音に気づいたのか、部屋の内側から使用人の一人、葡萄エビが障子を開けてくれた。
「落葉様、紗綾様。皇王様のお見舞いに参られたのでございますね」
「ええ。お会いできるかしら?あたしたち」
「――とのことですが、越智様」
「構いませんよ、葡萄さん。二人を通してください」
 越智の許しで、落葉達は葡萄によって床に伏せる皇王の前に導かれた。
「皇王様、お加減はどうです?」
「うん、紗綾、だいぶ良くなったよ。越智の言うことを聞いていれば大丈夫だね」
 繻子と同じことを言う、と落葉は思った。
「落葉、新しい高校はどう?なじめそう?」
「まるでお袋みたいなことを言いますね、皇王様」
 葡萄の目があるので、落葉は気を付けて丁寧な言葉遣いを心がけた。皇王に対しては、慣れぬことなので、心なしかやりにくい。
「お節介な奴がいて、思ったより早く慣れると思います」
「それって那珂君のこと?」
「それ以外に誰がいる?いきなり話しかけてきて、お前と何か関係あるだろうとか、自分が校内を案内してやるとか……」
「え?でも落葉、楽しそうだったじゃない。意外に那珂君の評価も低いのねぇ。ねね、あたしと那珂君、どっちが上?」
「〜〜〜〜〜(汗)」
「ね!?どっち!?」
 そんな二人のやりとりを見て、皇王は青白い顔ながらも精一杯、笑った。
「面白そうな子なんだね、その『那珂君』って。僕も会ってみたいなぁ」
「み、皇王様!」
「葡萄、冗談だよ冗談。ちゃんと自分の立場は理解しているから」
 落葉の表情が、また暗くなった。

「落葉ってさ、硬派そうに見えて、実はすっごく感情の起伏激しいよね」
 もうこの時期になると、暗くなれば障子の開け放たれた向こう側から様々な虫の音が聞こえてくる。
「紗綾、お前何で俺の部屋で本を読んでいる?」
「いいじゃない、別に」
「良くない。それに普通読書というものは、一人で黙ってするものだろう?」
 そう言うと落葉は、部屋の中央を当然のように占拠している紗綾を追い払おうとした。
「やん、落葉ったら、つれないんだからぁ」
「……冗談はいい加減にしろ」
 落葉の口調は怒っていると言うより寧ろ呆れているという感じである。しかし敵もさるもの、少しも動じることがない。
「ううっ、何書いてるのかわかんない……」
「は?」
 どうやら紗綾が借りてきた本は、その古さ故に現代語訳されていなかったらしい。紗綾に(いや多くの同年代の少年少女達に)とって、古語は英語と同等かそれ以上の未知言語だ。彼女は早々に本を放り出した。落葉に良いところを見せるつもりが、全くの逆効果になってしまった。
「学校の図書館のことだが――」
「えっ?なになに、図書館がどうしたの?」
 この状況で落葉が話しかけてくるとは思っても見なかった紗綾は、両眼をきらきらさせて落葉に詰め寄ってきた。
「地元の郷土資料館的存在、ってことは、天衣家に関する資料もあるのか、と思ったんだ」
「んー、どうかなぁ?」
「那珂が『天衣様』と言っていたぐらいだ、この辺りに伝説みたいなものが残っている可能性はあるだろう」
「ふーん?」
 紗綾の返事は容量を得ない。間違いなく、そんなことを考えたことは一度もないだろう。
「気になるなら、今度学校に行って見せて貰えば?」
 紗綾に言われるまでもなく、落葉はそうするつもりだった。

「おはようっ、宝剣君!」
 翌日、秀人は廊下で落葉を見つけると恥ずかしげも無く思い切り腕を振りながら駆け寄ってきた。
「朝からテンションが高いな、那珂」
「そう?僕はこれでもいつも通りに振る舞っているはずなんだけどなぁ」
 その「いつも通り」が常人とは違うのではと落葉は言いたかったのだが、やめておいた。
「那珂君おはよう」
「あ、宝弓さんもいたの?おはよう〜」
「……ちょっと聞き捨てならない発言だわね。まぁいいわ、紗綾ちゃんオトナだから」
「一体お前の何処が大人だと言うんだ」
 しかし、紗綾には思ったことをずけずけと言ってしまう、落葉である。
「落葉っ!」
 当然紗綾は猛烈に抗議したのだが「お前は教室違うだろう」と落葉に冷たくあしらわれ、彼と那珂に素早く一年一組教室に入られて、なおかつ勢いよくぴしゃりと扉を閉められてしまったので、すごすごと退散せざるを得なくなった。
 だが、紗綾から逃げたと思った落葉も、今度はクラスメイト達の攻勢に晒されることになってしまったのだが――。
「那珂、図書館にある郷土資料閲覧の許可は何処で取る?」
 漸く解放されたと感じた落葉は、早速昨日から思っていたことを那珂に訪ねた。
「何だ、宝剣君もう資料漁りしたいのかい?物好きだね」
「お前程じゃ無い」
「またまたぁ!……そうだなぁ、僕は利用すること無いから、って言っても全校生徒の殆どがそうだと思うけど、司書の人に訊いてみればいいよ」
「それもそうだな」
――昼休み、落葉が図書館で保管資料閲覧の申請手続きをしたところ、放課後までには許可が下りることになった。

 皇王の体調はこの日にはだいぶ良くなり、天衣家の人間達は皆安堵していた。
「一時はどうなることかと思ったが、このまま後二ヶ月乗り切っていただければ、無事に婚礼の儀も終わるだろうて」
 数多ある天衣邸の座敷のうち一つで、麻の着物を着込んだ骨董品のような老人は、至極満悦の表情で、彼と最も彼の気に入っている宝蓮家の若い当主のために茶菓子を運んできた使用人を下がらせた。
 彼こそは長老会の現在の首魁であり、『皇王』の代わりに屋敷のことを取り仕切る役を担う『宝珠』であった。宝四家当主が次々と代替わりした今、現在の天衣一族で最も強い発言力を持っているのは彼と言って良い。なお、付け加えるならば『宝珠』の地位は『羅衣』と同様厳密な長子世襲制ではなく、宝四家やそれに最も近しい分家の出身者から選び出される。
「宝珠殿、落葉殿の様子は最近どうですか?」
「繻子殿はまだほんの少ししかあれと話しておらんのか……だが、一目でも見れば解るだろう?」
「ええ、私も思いきり睨み付けられましたよ」
 湯飲みを捧げ持ちながら繻子は苦笑する。紗綾に押しとどめられ、必死に我慢していたのだろうが、あの強い感情の波動は乱暴に周囲を威圧していた。
 確かに今の『落葉』は危険な匂いがする。彼は明らかに一族――いや、正確には長老会かれら――に反感を持っていた。
「やはり、一族以外の血を引き、しかも十六になるまでよそで育てられた男が宝剣家の当主になるのがそもそもの間違いじゃろう」
「ですが宝珠殿、『落葉』は宝剣家の長子が継ぐ。それが古来より続くしきたりでしょう」
「でなければ、とっくに他の当主をたてておるわい」
 そう、一族にとってしきたりは至上の掟。敢えて破ろうなどとは夢にも思うことは無い。
「早う今の落葉に子を作らせ、すぐにでも代替えをさせぬと……今度こそ歴とした『落葉』となるよう、天衣の家で教育せねばな」
 宝珠の言葉は、他の長老会の面々の言葉でもある。今の『落葉』には、代わりが出来るまで辛抱しよう。いくらあの小僧が一族に批判的でもまだまだ子供、何も出来はすまい――。
 しかし繻子は宝珠と違い、直感的な危機感を持っていた。確かに落葉はまだ高校生、一族の全てを向こうに張っても、それは両手どころか全身を使っても彼の身に余る。だが、落葉のあの苛烈な双眸はそれを知ってなお、決して諦めていない。そう繻子には感じられた。

「羅衣様、繻子様がそろそろお発ちになられるそうでざいますよ」
「解りました、市留さん。すぐに参ります」
 羅衣は葡萄に畳の上に広げられた着物を衣装箪笥に片付けておくよう言うと、市留に続いて本邸の玄関先に向かった。
(いよいよわたくしは、十六になるのだ――)
 先程まで彼女は、呉服屋から届けられた婚礼の衣装を見ていたのだ。雪よりも白い白無垢の、紗綾形の地紋が織り出されたその滑らかな手触りは羅衣を切なくさせた。掟に関係なく皇王を愛したその時から、羅衣はずっとその時が来るのを待っている。既に彼女の知らぬところで、婚礼の準備は着々と進められているのだった。
 だが、本当にそれで良いのか?誰よりも自由を望んだ皇王の気持ちをないがしろにしてまで。
 今まで、怖れ皇王への心の呵責にさいなまれながらも、最後には結局押し殺してしまう羅衣の内部なかの疑問符。
『――越智、あんた皇王の翼を切り落とせよ。皇王に翼が無ければ、あいつだって、俺達だって自由なんだ!自分の生き方だって、自分で――』
 落葉が叫んだ言葉は、昔の彼女自身の想いだったはずなのに。
 それでも。
 それでも羅衣は先程の白無垢の肌触りを思い出さずにはいられないのだ。

――さて、閲覧許可がでる放課後。
「さぁ、資料を見に行こう、宝剣君!」
「……那珂、何でお前がいるんだ?」
「嫌だなぁ、僕も君の直後に閲覧許可を申請したんだよ、一緒に行こうと思って」
(こいつ、いつの間に――)
 皇王の事に関わるため、本当は一人きりで資料を調べたかったのだが、落葉は秀人のことを甘く見ていたようだ。
(仕方がない、ぐずぐずしていると紗綾まで付いてくる。あいつのことだから、許可を取っていなくても駄々をこねて無理やり入るかもしれない。一刻も早くここを離れないと)
「どしたの、行かないのかい、宝剣君?」
「いや、すぐに行くぞ、出来るだけ早く歩け」
「うん?」
 落葉の予想通り、二人が教室を出てから二分後に紗綾が来て地団駄を踏んだのだが、落葉はクラスメイト達に「那珂と一緒に部活見学だ」という嘘の情報を伝えたため、彼女は学校中を走り回ることになる。
 落葉達が若い司書に伴われて資料室に入ると、古いものの発する独特の匂いがした。
「君たちが閲覧できるのは、この部屋の資料だけだよ。隣の、もっと古い書物なんかは専門家ぐらいにしか許可を与えられないからね。あともう一つ、くれぐれも静かに閲覧してくれよ」
「はい、わかりましたー」
「……」
 司書が出ていってしまうと、秀人は最後の忠告を忘れたかのように、早速落葉に話しかけた。
「宝剣君、何ぶすっとしてるんだよ」
「いや、そんな顔はしていない」
「僕には判ってるよ、ここの資料が全部見れなくて不満なんだろう」
 実にしゃくに障るが、秀人の言うとおりだった。落葉が知りたい事はきっと、この部屋の本達よりもずっとずっと年月を経た紙と墨にしか尋ねることはできない。
「でも、ここにあるものだけだって、絶対に見て損なことは絶対にないよ」
「――そうだな」
 秀人に言われ、落葉もすぐに考えを改めた。彼がまずやらなければならないのは、手がかりのための手がかりを探すことであった。
「まずはこれなんかどうかな?」
「それは?」
「ここに収められている資料の目録だよ。こういうのを予め見とかないと、どれから手を付けて良いのか判らないじゃん」
「なるほど」
 それから、落葉と秀人は何時間もかけて、それだけでかなりの量となる目録に目を通し、ページをめくっていった。

「皇王様、羅衣です」
「羅衣、入って。また来てくれて嬉しいよ、退屈だったから」
 羅衣が皇王の部屋に入った時、彼は背に上着を羽織り、布団の上に立ち上がっていた。
「そんな、床から出たりして、まだご無理をなさってはいけませぬ」
「だって、最近はずっと横になっていたし、いい加減歩き方を忘れそうなんだ」
「――越智」
「病は気からと申しますからね、皇王様にこれぐらい元気がおありになれば、大丈夫ですよ」
 越智はにこやかな表情で、心配そうな羅衣にそう保証した。
「ねぇ、羅衣、少し庭を歩かない?」
「それは流石になさらないほうが良いと思うのですが?」
「越智が治ったって言ってるから大丈夫だよ、少しぐらい。庭と言っても、この部屋の前ぐらいなんだし」
「ですが……」
「ねぇ、羅衣?」
 玩具をねだる子供のような瞳で見つめられては、羅衣もとうとう逆らうことが出来なくなって、皇王の供をすることになった。彼女に支えられながらも、皇王は本当に久しぶりに自分の足で歩き、障子を開けた。
 既に陽は傾きかけて、朱と藍が混ざり合って西の空を染め上げている。既に星が幾つか、藍の勝った空で瞬いていた。
「そろそろ、秋なんだね」
 念願の庭に降り立った皇王は、遂に羅衣の支えからも離れ、繊細かつ華やかな硝子細工の表情で羅衣に振り返った。
「ねぇ、羅衣は落葉から学校の話を聞いたりする」
「いいえ、特には……」
「そう。何でも、お節介で楽しそうな友達が出来たそうだよ。彼の事だから、転校したてでも愛想良くしないだろうから、そんな人でもいなかったら毎日喧嘩!なんて事になってたりして」
 そう言って笑う皇王。つられて羅衣も苦笑する。だが、すぐに皇王の表情は色を喪い、一瞬羅衣の目に、茜空に半ば溶け込んだかのように、羅衣には見えた。
「でも、それでも凄く楽しいだろうね、だって、学校だもんね――」
「……」
「羅衣も高校に行きたかったでしょ?」
 羅衣は首を横に振ろうと思った。皇王の妻になるのが自分の望みになった時点で、学業への未練はとうに捨てている。家を守り夫に尽くすのが女の「羅衣」の定めだからだ。しかし、義務教育を受けはした羅衣とは違い、皇王はこの世に生を受けた時より学校、いや外界との接触を諦めなければならなかったのだ。同じ年頃の越智や繻子が大学まで進んだのを、皇王はどう思っただろう。そんな彼の前で、高校を諦めたことを言うことなどとても出来なかった。
「あれ、羅衣、どうしたの!?何で泣いているの?」
 気が付くと、羅衣の頬にこぼれ落ちた涙を皇王が彼女より細い指で受け止めていた。
「え……あ、本当ですね、何故でしょう、わたくしにもわかりませぬ……」
「何か辛いことでもあった?」
「いえ、そのような事は決して――皇王様、そろそろお戻りになられた方が良いのではありませぬか?」
「うん、そうしようか、な、ちょっと身体が重くなったみたい――」
 その瞬間は、まるでスローモーションのように見えた。
 まるで回転を終えた独楽のような動きで、重心の定まらなくなった皇王がのけぞる。
「み、皇王様っ!?誰か――越智!!」
 悲鳴のような羅衣の声を聞き付けた越智が駆けつけたとき、皇王は既に意識を失っていた。

「……結局、こうした方が早かったね」
「ああ……」
 落葉と秀人が、資料一覧も普通の本のように、許可を貰えばコピーを取れることに気付いたのは、既に日も暮れてからであった。
「もう暗くなってきたな。後は、家で続きを読む」
「そうだね、そろそろ帰らないと、でも宝剣君、宝弓さんと車で帰ってるんだろ?二人揃ってなきゃまずいんじゃないの?あの子の事だから、君が学校にいる限りは居残ってそうだし」
 確かに、紗綾の落葉に対する執着心を考えると、秀人の言うとおりにしているに違いない。一応屋敷の方に連絡を入れてみたが、やはり、その通りだった。
「仕方ない、あいつを捜してから帰るか……」
「宝剣君ってさぁ、宝弓さんに対する評価はイマイチなのに、何だかんだ言って彼女をほっとけないみたいだよねぇ――あ痛っ!!酷いなぁ、殴ることないじゃないか」
「うるさい……うっ!?」
 落葉は突然、秀人から離れると、口を押さえた。
「どうしたんだい!?」
「いや、急に一瞬だけ、吐きそうになった」
「何それ、大丈夫なのかい?」
「本当に一瞬だけで、もう何ともなくなったんだが――」
「ふぅん?変だねそりゃあ」
「じゃあ、行くぞ」
「あ、待ってくれよ、宝剣君っ」
 これから紗綾を捜すのは面倒だな、と思いながら図書館を出た落葉だったが、幸運にも、ちょうど彼女がこちらに向かって来るところに出くわした。
「あーっ!落葉ぁ、そんな所にいたんだ!もう、あたし学校中捜しちゃったのよ」
「勘が鈍いな。と、言うより洞察力が欠片も無いのか?」
「うぇぇぇん、那珂君〜、落葉がいじめる〜」
「馬鹿な事言っていないで、帰るぞ」
「ぅぅぅ……あ、呉絽さんの車、もう駅に来てるって」
「じゃあ、僕も一緒に駅まで行くよ」
 秀人がそう言うと、紗綾は少しだけ残念そうな顔をした。が、秀人の方ではそれを全く気にすることは無かった。
「ねぇ、落葉が手に持っている紙の束って、なぁに?」
「図書館の資料の目録だ」
「へぇ、見せてよ――あっ」
 何の前触れも無しに、紗綾の身体がふらっと傾いた。落葉の腕がとっさに反応し、彼女を受け止める。
「紗綾、どうした」
「わ、わかんない。急に身体の力が抜けちゃって。今も、ちょっと足に力がはいんない……」
「ねぇ、あの運転手さんに、ここまで来てもらったほうが良いんじゃない?落葉もさっき突然具合悪くなったし、用心はしておいた方が良いよ」
「那珂の言うとおりだな」
 紗綾も先程の落葉同様、比較的早く回復したのだが、結局、呉絽に校門まで車を回して貰い、そこから秀人も乗せて帰宅することになった。

 落葉達が天衣邸に戻ると、漸く落ち着きを取り戻したはずの邸内が、再び混乱の様相を呈していた。
「太布さん、一体どうしたんだ?」
「え、ええ、皇王様の容態が再び悪化されたのです。しかも今度は、意識もはっきりとしておらず……」
「何ですって!?」
「今、越智様が必死で治療に当たられています。皇王様が少しでも回復されるまで、見舞いはならぬと、宝珠様の仰せです」
「そんな――」
「仕方ないわ、落葉。あたし達は部屋に戻りましょう。越智が付いているんだから、きっと大丈夫よ」
 だが、そう言っている紗綾本人の顔はすっかり青ざめていた。しかし事実上の面会謝絶状態では、落葉も紗綾も何もすることが出来ない。
 落葉は握りしめた拳の、掌に爪が食い込む痛みをこらえながら、幽かに「ああ」と呟いた。

 その夜遅く、目録を見て閲覧する資料の目星をつける作業をしていた落葉の元を、越智が訪れた。流石に集中して治療にあたっていた為、疲れが全身から滲み出ているかのように見える。しかし、ずっと皇王のことが気になっていた落葉は、越智に一服する暇を与えなかった。
「越智、皇王の容態は――?」
「何とか危機は脱したよ。一時はどうなることかと思ったがね」
「そんなに酷かったのか。治りきっていない風邪から肺炎に発達したとか?」
「いや、私も最初はそういった普通の病気かと思ったが、今回は違った。翼が――成長しているんだ」
「!?」
「前にも同じような事が起こって、その時も、早い時期に皇王様は体調を崩された。まぁ、成長痛みたいなものだよ」
「……前の『皇王』にも、こんな事があったのか?」
「確かに、先の皇王様もお生まれになったときは翼が小さくて、子供の時に一度翼が急成長したと父から聞いているが、今回みたいに二度目の翼の成長期が訪れたとは無かったらしい」
 何だか、嫌な予感がした。が、あまり良くない思考をし続けていると、寧ろ自分の方が具合が悪くなってしまうだろう、と、落葉は話題を転換しようと試みた。
「皇王の母親の翼も、一度見てみたい気になったな。やっぱり、淡い緑だったのか?」
「いや。先の皇王様の翼は、まるで海の色のような綺麗な碧だったよ」

 前回もあった「成長痛」との事で、やがて回復するだろうと天衣邸の者達は思っていたが、しかし、日にちが経っても皇王の容態は全快する兆しをいっこうに見せなかった。その代わり、彼の背中の翼は、日々少しずつ大きくなっていく。羅衣は越智と共に皇王に付きっきりとなり、落葉や紗綾の前に殆ど姿を現さなくなった。
「羅衣は心配なのよね……もう少しで十六歳の誕生日だもんねぇ」
「……」
「ところで落葉、資料漁りの方は順調なわけ?」
「いや、あまり参考になるようなものはまだ見つかっていない」
 流石に天衣一族の秘密は、上流階級以外には一切伝わっていないはずだ。そして「皇王」の事を知り、その高貴な血筋を欲しがる連中とて、直接「皇王」の翼を見たことは無い。それが出来るのは、この屋敷への出入りを許された、一族の中でも特別な人々だけだ。
「ねぇ……もう夏もとっくに終わったって言うのに、最近凄くだるくなぁい?」
「俺はそうでもないが、確かにいつも疲れが溜まっている感じがする」
「へんねぇ、あたし、健康と美容にはすっごく気を遣っているんだけどなぁ」
 紗綾の言葉と彼女たちの倦怠感はしかし、これから起こることの予兆にすぎなかった。

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