森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2002年08月03日〜08月31日

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20例目の脳死・臓器移植 投稿者:てるてる  投稿日: 8月31日(土)22時30分41秒

東北で脳死と判定された患者さんから、20例目の臓器移植手術がおこなわれました。

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2002/0831/nto0831_12.html


Re:はじめまして 投稿者:翠蓮  投稿日: 8月22日(木)15時59分01秒

>はは様
情けないことにどのような言葉をおかけしてよいのやら判断がつきません。はは様が脳死について調べられたときの想い、人工呼吸器をはずすことのできなかった想いがお妹様に通じ、それを抱いてお妹様が旅立たれたと信じております。お妹様の分まで、と申し上げるのは所詮他人の無責任かもしれません。また、時の流れが本当に痛みを癒すのかもわかりません。ただ、それが許される状況におありなれば、しばし緩やかに時をお過ごしください。そして何よりご自愛くださいますよう。

はじめまして 投稿者:はは  投稿日: 8月18日(日)10時33分08秒

はじめまして
妹が脳死状態になりいろいろな知識を得ようと
いろいろなHPを検索しましたが、ほとんどのものが
移植に関するものばかりでした。
妹の脳死に接する前は、自分が脳死状態になったら
移植を希望しようと思ってましたが、実際に接すると
肉親としてはとてもその行為を許せる感情はなく
妹はドナーカードの登録はしていませんでしたが
この状態で、回復が不可能とわかっていてもやはり
人工呼吸器をはずさせることはできません。
妹は一昨昨日に逝きました。
支離滅裂な文章でもうしわけありませんが
ここの掲示板等で脳死移植についてかなり考えさせられた
この数日間でした。

人格と所有と環境と 投稿者:のり  投稿日: 8月13日(火)17時11分43秒

> Hegelは、所有の性質の十分な理解のためには、
> 所有が人格の一表現、つまり人間の世界形成の結果であることを把握せよって、
> 言っておりますね。

これはもっともなのですが、一方で人格は所有を含まないと考えた方が良いこともあります。
また、所有物だけでなく環境全体も含まないといけないこともあります。
つまり、人格はときと場合によって1)身体のみ、2)身体と所有物 3) 身体と所有物と環境
でないといけないわけです。
こうしたあいまいな概念をもとに議論をするのは非常に困難であるはずなのに
その困難さに気づかずに議論をすすめているのが、現在の生命倫理の議論だと思います。
これを解決するためには、「人格」がどこから立ち上がってくるのかという
原点に帰った、根本的な議論をすることが欠かせないと私は考えています。


人格と所有 投稿者:色即是空  投稿日: 8月10日(土)01時08分05秒

のりさんが書きました:

>人格というのは、自分の身体だけでなく、
>所有物も含むとしないといけない。
>そして自分の環境も含まないといけない。

そうですね、所有を含まないといけませんね。Reeveという学者がHegelの自由―労働―所有のラインから人格を解き明かそうとしていますが、所有は自由にとって必要であって、自由は取得したり作ったりする行為、従って、労働行為の中で実現されると理解しています。Hegelは、所有の性質の十分な理解のためには、所有が人格の一表現、つまり人間の世界形成の結果であることを把握せよって、言っておりますね。

私も、このあたりのある種嫌われそうな領域を臓器の所有権とからめて、エッセーを書いているところです。のりさん、奇遇ですね(笑)。


臓器提供先指定の是非 投稿者:色即是空  投稿日: 8月10日(土)00時45分29秒

自分の死後臓器を必要な人のだれをも対象にして、提供意思を表明するのではなく、
提供したい先を指定するのは、意思としては、すごく自然であろうかと思います。
たとえば、100名の村があって、そのうち95名が気に入らない人たちである場合、
できれば、残る気に入った村人に自分の死後の臓器をあげるよ、と指定するのは、
その気持ちを理解できる行為でしょう。

ドネーションという言葉の含みが、神と絡むにしろ、別の含みを持っているにしろ、
何かを提供しようという気持ちは、その提供主の気持ちですから、
意思というものの内容や性質を考えると、提供の指定先は、尊重されるべきでしょう。
もちろん、指定先の範囲が狭くりますと、提供臓器が指定先に届かず無駄になるということになりますから、
効率的には問題があるでしょうけど・・・。

また別の問題は、そうした一種私的な選好が及ぼす、社会的な影響でしょうか。
臓器提供の厳格な理念実践者にとっては・・・たとえば「他利主義」や「博愛」主義者でしょうが・・まがいもの的な欲(提供欲?)が介入してきていると見えて不満でしょう。

しかし、指定した先以外は駄目、とかたくなな態度をとらないのであれば、まず優先順位として、親族、狭い共同体で提供したい人たち、提供者が住んでいる地域の人、同じ民族・・・といった具合に、本人と関係が濃厚な人たちを優先してデーターベース化していくのも、ひとつの選択肢であろうかと思います。

自分の死後、臓器を見知らぬ人にあげる・・・死ぬまでそうした博愛的なこととおよそ無縁の生活をしてきた人が多いわけですから、死んでからそうするというのも、なんだか妙に薄っぺらに感じてしまいます。提供先の指定は、そうした気持ちのギャップを埋めるという意味でも、提供者に提供しやすくさせるのではないでしょうか。

追伸:のりさん、ファイル転送ありがとうございました。
あの判例、ずっと読みたかったものですから。
とてもうれしいです。お手数をおかけしました!


人格概念の問題 投稿者:のり  投稿日: 8月 7日(水)00時37分41秒

> 「人格」を仮に、人が人であるための必須要件であると定義してみると、
> 哲学的議論でも法律論でも、かなりしっくりくるのではないでしょうか。

法律論としてそうせざるを得ないのは当然ですが、
哲学的には問題があります。
これは私の次の論文で書こうとしていることですが、
ちょっとだけ披露。
(そう遠くない将来に発表できると思います)

人格というのは、自分の身体だけでなく、
所有物も含むとしないといけない。
そして自分の環境も含まないといけない。
(↑説明不足ですが詳しくは省略)
私たちはどこかで恣意的であいまいな区分で
人格の内部と外部を分けているのであり、
人格というのが「定義可能」であるというのは
そもそも私たちの幻想でしかないのです。
このため、人格を基準にものごとを考えるとき、
人格と決めた枠の内側と外側の関係性において
様々な問題が起きてしまいます。

たとえば死の自己決定権であれば、
死という決定は人格の内部の問題であると同時に、
人格の外側のみとる者の問題でもあるし、
環境倫理の問題も人格と人格の間の
線引きの問題につながってきます。
こうした問題は、少なくとも一つの見方をすれば、
法律という場において人格の内部と外部を無理矢理
線引きしたことによっておこる問題と言えるでしょう。

もちろん、法律の場ではどこかで「人格」を
設定してそれをもとに議論しなければいけないというのは
言うまでもありません。
しかし、法律の問題である「人格」を
あたかも自明のものとして扱うことは、
重要な問題を見逃すことになってしまいます。
「人格」という言葉を使う時には
こうした概念そのものの問題を理解した上で
使わないと意味のない議論になってしまうと思います。

P.S.
色是即空さん、コピーとってきました。
B4×3枚。もうちょっとでお送りできると思います。


臓器移植と人格 投稿者:色即是空  投稿日: 8月 6日(火)22時49分38秒

>のりさん、てるてるさん

「人格」を仮に、人が人であるための必須要件であると定義してみると、哲学的議論でも法律論でも、かなりしっくりくるのではないでしょうか。ぬで島氏やてるてる氏の人格テーゼの本質は、そうした必須要件が犯される場合に、尊厳侵害になったり、権利侵害になったりすることなのだと思います。

この人格はさまざまな生物学的な、また社会的な契機(たとえば、年齢、人種、社会的階級など)を超えて、その価値が評価されるべきもので、なぜなら、「人でいること」「人であること」に最大の価値をみながもっているからでしょう。「人でいること」「人であること」が最大の価値をもっているのは、「思考できること」「目的的行為ができること」「理性的に選択することができること」「感じること」「歴史を作ること」といった能力的なものだけでなく、言葉をあやつて、さらに自身がシンポルになり得るからではないでしょうか。この能力やシンボルは、いわば他と区別できる(同じことをしながら、じつは人間は同じ意味、同じ目的、物理的にもまったく同じことはできないと言う意味で)かけがえのない・・・換言すると、代用のきかないものとして、私たち人間に備わっているのだと思います。

能力を重視するだけだと、トーリーのパーソン論からエンゲルハートが修正した、「厳密な意味での人」(理性的人間)と「さまざまな社会的な意味での人」(社会的配慮のために、人として扱われる人のこと。たとえば、乳児、知恵遅れの人、重度のアルツハイマー患者など)の二分化の愚に陥るのですが、シンボル・テーゼだと、この愚を克服できると思います。

脳死の前後で、死のグレー・ゾーンが生じて、脳死患者の遺族が心情的に、患者をシンポルと見なし続けるから、シンボル化した臓器を提供するように説得される過程で、大変な反発を感じるんです。温かい体温をもった、赤みのさした脳死患者の「姿」が、その人の過去のその人の「人格」をもって、大変なパワーでシンボルとなって、家族の前に君臨しているのです。出口顕氏が「臓器は商品か」のなかで、おっしゃっておられましたが、そういうパワーを持つ身体から、およそ代用できない(家族にとっては)シンボル化した臓器を、移植推進派が流通させようとするのが、だいたいのところ無理なんです。流通させるためには、臓器をシンボルと感じないようにするか、臓器のシンボル度を減らし、かわりに別のかたちでシンボルと見なせるような代用の価値を作りあげるか(一種宗教的な信念みたいなものなど)して、シンボルとしての臓器のパワーを弱めるかそらせないといけないのです。

結局、広い意味で、人間がどう納得して、臓器提供できるかなんでしょうから、人々の心を解決する打開策を出していかないと、功利主義的な結果万能主義で、やれ臓器移植の効用ばかり並べ立てられても、誰だって、「人格」をもっていて、それをかけがえのないと思っているですから(自己否定する人は別にしても)、さらに言えば、推進派の人たちも、自身の「人格」をかけがえのないものだと思っているのですから、「人格」のレベルでの議論がもっとされてしかるべきでしょう。

「尊厳死」だって、「脳死」だって、結局のところ、本人は、納得して死にたいということでしょう。この「納得」とは、あなたの「人格」を尊重しますから、私の「人格」も尊重してください。互いに尊重し合えたら、「納得」して、心臓でも、腎臓でも、角膜でも差し上げましょう、お役立てください・・・そうしたら、あなたの生者としての「人格」は生き続け、私の死後も私の「人格」が生き残って、つまり人々の心や記憶に生き残って、かけがえのない関係を持続することができる・・・。そういう社会での道徳的バランスをとった関係の中で、成り立つのが、臓器移植ではないでしょうか。こんな風に考えますと、脳死にいたっていないのに、移植医が患者から臓器を摘出することがいかに患者の尊厳を傷つけているかがわかります。臓器をかけがえのないシンボルであると思う遺族の目には、功利主義的な移植推進派の心は、見透かされているのかも知れません。


曖昧さ 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 6日(火)09時20分37秒

曖昧といえば、人格だけでなく、身体そのものも、曖昧だと思います。
どこかで、直感的なもの、感覚的なものに頼って、是非善悪を判断しています。
髪を切るのと、手足を切るのとは、明らかに違う。
髪を売ってもいいが、手足を売ることはできない。
むかしは、奴隷制度のある国もありました。
いまは、人身売買は、どこの国でも禁止されています。
しかし、人格や身体という概念が曖昧で時代によって変化するからといって、
人格権という概念なしでは、今の法律は、運用できなくなっていると思います。

>色即是空さん >人格テーゼを主張されるならば、文化相対主義的ではなく、たいていの文化に汎用できる基準なり根拠が必要ではないか、と思います(あればの話ですが (^^))。つまり道徳的に深くからんだ人格テーゼは、現行法で正当化するだけではとても不足で、やはり道徳的正当化を試みなければならないと思うからです。

これは確か、倉持武さんからも指摘されていた点です。
人格権の定義も含めて臓器移植には、哲学的な根拠が必要なのに、まだだれも、成功していないように思えます。

ハンドル、気に入っていただけてうれしいです(^_^)

>のりさん
>人格、権利、責任、といったものはある見方をすれば、
>非常に不確かで、恣意的で、とらえどころのないようなものです。

おっしゃるとおりですね。考えれば考えるほど、むずかしくなります。


人格、権利、責任 投稿者:のり  投稿日: 8月 6日(火)00時41分14秒

色是即空さん、てるてるさん

人格、権利、責任、といったものはある見方をすれば、
非常に不確かで、恣意的で、とらえどころのないようなものです。
ところが、私たちはしばしばこれらを当たり前のものとして受け入れて
その上で議論をすすめることになります。
通常、前者が哲学の文脈、後者が法律の文脈とみなされるわけですが、
もちろん実際にはそんなに単純なものではありません。
どちらも正しい見方なのであり、
どちらがより正しいということはできないものですが、
自分がどういう立場にいるのかを意識しながら議論をしないと
議論が平行線になってしまいます。


RE:人体と人格権 投稿者:色即是空  投稿日: 8月 5日(月)18時43分22秒

>てるてる様(このお名前、気にいってます)(^^)y

レス、ありがとうございます。

森岡さんが、この掲示板は議論の場ではないとおっしゃっていたんですが、少し、議論めいたことをさせていただきます。

てるてる氏の血液および頭髪についての説明を拝見して感じることは、氏の主張である、「人格テーゼ」が、どんな基準や根拠によってなされているのかがわかりにくいということであります。

人格テーゼを主張されるならば、文化相対主義的ではなく、たいていの文化に汎用できる基準なり根拠が必要ではないか、と思います(あればの話ですが (^^))。つまり道徳的に深くからんだ人格テーゼは、現行法で正当化するだけではとても不足で、やはり道徳的正当化を試みなければならないと思うからです。その意味で、違法性阻却理論をここに持ち出しますと、法の側面だけで判断することになってしまい、てるてる氏が引用されていた、ぬで島次郎氏の「人体とその一部は、人の尊厳の源である人格及び人権の座であり、国はそれらの保護を通じて人の尊厳と人権を充足、促進する義務があると考えられる。」という主張は、一種、宣言的に述べるだけになってしまいます。

法はその時代の人々の意識や社会の実相を反映しているものですが、てるてる氏が言及されている頭髪の市場性やその特質からの正当化が成功しているかどうかは、ふるい日本では髪の毛は女の命という価値観からみても、人格テーゼが法による正当化を超えていることは明らかでしょう。

いかがでしょうか?


RE:人体と人格権 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 5日(月)17時13分58秒

頭髪は、かつら用に売られているのでしょうか?
血液は、USAでは売買が認められているけれども、
日本では、売買が認められていなかったと思います。

頭髪については、そもそも、理髪店や美容院で髪を切ることは、
傷害罪の違法性が阻却されるということから拡大して、
売買されても問題にならないのではないかと思います。
痛くもないし、再生するし、ということで、強制がなければ。

血液の売買は、本来、禁止するべきだと思います。
薬害エイズは、売血によって材料を得たUSAの血液製剤で
起こされたのでは?


人体と人格権 投稿者:色即是空  投稿日: 8月 5日(月)07時44分04秒

教えていただいた文献を拝読したのですが、「人格権」に関して、ますますわからなくなりました。

臓器や組織等は、「所有権」や「財産権」の対象にするのは不適切であり、「人格権」の対象になり、その理由は、譲渡性がなく、一身専属であると、てるてる氏は主張されていますが、実際には、血液や頭髪といった人体からの産物が、「所有権」や「財産権」の対象として、商品として、流通しているわけで、そうなると血液や頭髪は「人格権」の対象とはならないのでしょうか?


ありがとうございます。 投稿者:みき  投稿日: 8月 4日(日)16時27分08秒

てるてるさん、ありがとうございました。参考になりました。
この事についてレポートを提出しようと思ってるのですが、
なかなかうまくまとめられなくて、困っています。。。
めげずに頑張りたいと思います!!

死者の人格権 投稿者:のり  投稿日: 8月 3日(土)22時51分11秒

死者の人格権が認められると言っても、
死者の代理人となる人が死後永遠に契約などの
法的な決定をしたりすることを認める制度はありません。
相続にしても、臓器移植にしても、生きている人の人格権と似ているが
違うものを「死者の人格権」としていることに重要な問題があるのです。
死者の人格権と言ってしまうとこうした微妙な問題が覆い隠されてしまうのが
危険なところだと思います。

みきさんへ 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 3日(土)22時09分06秒

昨年秋の状況が、↓に書いてあります。
「臓器移植法の見直しをめぐる論点」
http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/gekkanfukushi.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~terutell/gekkanfukushi.htm

その後の進展については、次のようになっているらしいです。
---------------
デイリー自民より
↓↓
http://www.jimin.jp/jimin/daily/02_07/17/140717b.shtml 【平成14年 7月17日】
■ 「15歳以下の臓器移植を」の声、大勢 臓器移植調査会
 日本の法律では15歳以下の臓器移植ができないことになっているため、子供の心臓移植手術などは海外で受けるしかない現状について、17日開かれた脳死・生命倫理及び臓器移植調査会で論議。「法改正によって可能にするべきだ」という意見が大勢を占めた。厚生労働省の説明によると、これまで43人の子供が心臓移植などを受けるため海外に渡航、うち12人が死亡している。同調査会は、論議を集約して可能にするための「たたき台」をつくり、超党派の「生命倫理研究議連」(中山太郎会長)とも連携、実現に向けて努力していくことになった。 


質問があります。 投稿者:みき  投稿日: 8月 3日(土)18時52分33秒

初めまして。
今、臓器移植法改正案について調べてます。
2002年8月現在、どのような段階なのでしょうか? よろしければ、教えて下さい。

「死者の人格権」 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 3日(土)08時46分32秒

なお、宮崎真由さんの
「『死者の人格権』の可能性〜臓器移植法改正に向けて〜」
という論文もあります。

http://www.kinokopress.com/civil/0402.htm

RE:臓器の人格権 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 3日(土)08時37分26秒

人格権については、「脳死否定論に基づく臓器移植法改正案について」の
「2.1. 人格権の対象としての身体」で、次のように説明しています。

-----------------  権利の主体が死んだ後も人格権は存続する、というのは、矛盾するように思われるかもしれない。 しかし、たとえば日本の著作権法では、著作者人格権は、著作者の死後も期間を限定せずに保護される。著作者人格権とは、まだ公表されていない著作物を公表する、公表に際し実名または変名を著作者として表示するまたは表示しない、著作物及びその題号の同一性を保持する権利である。これらの権利はその著作物の著作者が亡くなった後においても、著作者が生きているとしたならばその侵害となるような行為をしてはならないが、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他により、その行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は問題がないとされている。27)  またドイツでは、人の死後にも残る死者本人の人格権を認め、保護の対象としている。石原明著「医療と法と生命倫理」では、「死者の人格権」をドイツでは古くから認められている法理として紹介している。28)
「ドイツ刑法は、『宗教および世界観に関する罪』の章中の168条で、『死体、死体の一部、死胎児またはその一部もしくは遺灰を、権利者の保管から奪取した者……は、3年以下の自由刑に処する』としているが、その保護法益は、社会の風俗としての宗教感情のほかに、死後にも残る死者の人格権であるとするのが通説となっている。けだし、人は自分の死後、完全なかたちを保って保管され、埋葬されることを要求する権利をもち、それは人間の尊厳の不可侵性と結びつき、その尊厳性は死を越えて尊重されるべきである、と考えられるからである。」
 著作権法における著作者人格権と、ドイツの法律における死者の人格権とでは、同じ「人格権」という言葉を使っていても、個々の具体的な権利の行使として現われるときには、明確な限定があり、全く異なった種類の行為をさしている。
 しかし、そのもとになる「人格」という言葉でさすもの、人の人としての尊厳の保護という理念では共通するものがある。
 また、たとえば、著作者人格権は、著作物の芸術性や商品としての価値などには関係なく存在し、死者の人格権も、死者本人の生きていたときの業績や人柄や能力とは関係なく存在する。
 同様に、身体、または、臓器や組織等が、「人格権」の対象となるとき、それは、その権利主体の健康状態や、あるいは生死の状態とは関係なく、存在する。当然、持続的な植物状態患者または無脳児にも存在する。
 この人格権の行使は、臓器移植においては、以下のかたちをとって現われると考える。

臓器提供は、臓器提供希望者が、生前に、移植医療に関する充分な情報を与えられ、変更の自由を保障され、かつ、いかなる経済的対価も伴わずに、自由意志と倫理的判断とに基づき、自発的な、任意の、書面による意思表示を行った場合にのみ、許される。

 これが、脳死否定論に基づく臓器移植法改正案の、基本原則である。
 この原則は、生体間の臓器移植にも適用する。29)

http://www.kinokopress.com/civil/0302.htm


臓器の人格権 投稿者:色即是空  投稿日: 8月 3日(土)03時58分50秒

>2. 身体または臓器や組織等を「人格権」の対象とします。
>人格権は、所有権や財産権と違って、他者に譲渡できず、一身専属的で、死後も存続します。
>それは、その人の健康や生死とは関係なく、持続的な植物状態患者や無脳児にも存在します。

てるてるさんの案のQ&Aにあったくだりです。
身体・臓器・組織の対象とされる「人格権」について、どうもよくわからないので、
お聞きしたいのですが。

1.ここでの人格権とは、どんな権利なのでしょうか? で、その定義や、権利としての
範囲や内容がわかりますと、なぜそれが身体臓器を対象にできるのか・・・という
疑問も生じます。
2.人格権は一身専属であるとしても、この権利がなぜどのようにして、
死後も存続、つまり生き残るのでしょうか?
3.「生死と関係なく」とありますが、一身専属の人格を有する主体が、
死亡することで、権利主体を喪失しても、なお権利が持続するというのは、
どういうことなのでしょうか?
4.主体なき権利なんでしょうが、それをどんな風に正当化できますか?

もしお時間がおありでしたら、上の私の疑問にお答えいただけると、
うれしいのですが・・・。

http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/teruteruqanda.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~terutell/teruteruqanda.htm