2003.09.14. by てるてる
2003年9月13日(土曜日)に関西大学で行われた、杉本健郎さんの講演で、こどもの「生と死の教育」についてのお話がありました。
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杉本健郎(関西医科大学男山病院小児科)さんの、レジメより
《論点を考える》
子どもの脳死・移植……親として、小児神経専門医として
(日本小児科学会の提言作成の一委員として)
子どもの臓器は親の持ち物でない、移植には成人同様に本人の意思確認が必要である。
4) 「試みる・始める」: 12歳以上は確実に自己表現できる。アンケート結果からも。
ならば12歳以上でインフォームドアセントの方法を考えてみる。
この年齢は虐待例がはいることはない。
文部科学省研究事業として全国のいくつかの中学校で「生と死の教育」を開始する。
生と死を考える会などのNPOの活動が盛んなところで、教育と、医療(小児科医)、心理の連携で取り組む。
チャイルドドナーカードも試作してみる。
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さらに、講演の後の質疑応答で、こどもの意思表示は親の代諾はいっさいみとめられないかなどの質問に対して、臓器移植法を、2年の時限立法でもいいから、1回改正して12歳以上から臓器提供意思表示できるようにして実施してみて、その結果をみてから、また次の改正を考えるなりしてはどうか、とも、回答されていました。
まず12歳以上で実施してみて、それからまた次の改正なりを考える、という方法に、賛成です。
ただ、杉本さんのレジメでは、中学校での「生と死の教育」について提案を書かれていますが、12歳以上から「脳死・臓器移植」について意思表示ができるようにしようと思ったら、その前の小学校高学年から、授業でとりあげておくことが必要だと思います。実際に、現在でも小学校高学年ぐらいから、授業で取り上げている先生方もいます。
現在の「脳死・臓器移植」を取り上げている教材や授業について、例を挙げてみます。
1. 現在の小学校・中学校では、どんな「生と死の教育」がおこなわれているか
「調べ学習 激動20世紀の真実と21世紀への課題3〜医療の倫理〜」
ロバート=スネッデン著、トム=ウィルキー監修、栗山康子訳、星の環会、2000年
中学生ぐらいを対象とした本です。
ナチスの人体実験、サリドマイド禍、代替医療、妊娠中絶、多胎妊娠の減数手術、避妊、代理出産、臓器移植、精神病の治療(電気ショック、ロボトミー)、遺伝子治療、クローンなどがとりあげられています。
臓器移植のことでは、臓器売買も、胎児細胞の利用も、載っています。本人の意思表示の問題では、ブラジルで、臓器提供拒否の場合は明示の義務があるという法律を作ったとき、この法律では、何枚もの書類を役所に申請して拒否の意思表示を記入しなければならず、貧しい人々や読み書きができない人々は、実質的に臓器をとられるばかり、というので反対運動が起こって廃案になったという例が引かれています。
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このシリーズは、よく知られていると思います。「難病の子どもたち」の姉妹編に、「障害のある子どもたち」という本もあります。小学校高学年ぐらいが対象です。
「心臓病の子どもたち」では、最後に、「全国心臓病の子どもを守る会」の活動が紹介され、こどもの心臓移植ができるように臓器移植法改正の運動をしているところもとりあげられています。
「腎臓病の子どもたち」、「白血病の子どもたち」では、腎臓移植や、骨髄移植のことも載っています。
「道徳授業記録 島根 道島根通信」No. 240, 2000年3月24日
小学6年を対象とした授業で「脳死問題を通じて人の死について考えると共に、生の尊厳に気づく」のがねらいです。
森岡正博さんの掲示板で話題になり、この授業では、脳死の知識がいいかげんだという批判が出ました。それに対して、学校の先生から、森岡先生に教材をつくってほしい、という投稿がありました。でも、森岡さんは、どうしても森岡正博・杉本健郎共同提案の臓器移植法改正案よりの教材になってしまうから、とお断りしています。
「道徳授業記録〜脳死問題を通じて人の死について考えると共に、生の尊厳に気づく〜」について
〜「森岡正博さんの『脳死臓器移植』専用掲示板 2002年5月18日〜6月1日」より〜
2. 臓器提供肯定または否定への偏り
森岡正博さんが指摘されているように、授業で脳死と臓器移植をとりあげると、教材を作る人や授業をする人自身の、脳死や臓器移植についての考えが反映されるのは、避けられないことです。生徒たちが、教師や教材作成者の提供する知識や考え方を理解しつつも、自分自身の考えを持つことができるようになることが重要です。
脳死と臓器移植については、おおざっぱに言って、次の三つの立場があります。
脳死は蘇生限界点を超えている→脳死は死である→拒否の意思表示がない人から家族の同意だけで臓器を提供してよい
脳死は蘇生限界点を超えている→脳死は死ではない・意識はない→同意の意思表示がある人だけ臓器の提供ができる
脳死は蘇生限界点を超えているのか?→脳死は死ではない・意識はあるかも?→脳死臓器移植は禁止する
高校・大学では、現在でも、いろいろな立場に分かれて、ディベートの授業が行われたり、ディベート大会が開かれたりしています。
臓器移植法が改正されて、小学校・中学校で、生と死の教育をするようになっても、どの立場の人も自由に教材を作り、授業ができるのが望ましいのではないでしょうか。その際、どの立場からの授業でも、生徒は、他の立場の提供する知識や考え方も知らされる必要があります。
もっとも、どの立場であろうと、根本的な、哲学的な、死の問題は、経験や人との関係のなかで発見し抱えていくしかなく、教育は考える材料や機会を提供するだけだと思います。
教材という面では、「難病の子どもたち」、「障害のある子どもたち」のシリーズに加えて、「脳死の子どもたち」、「植物状態の子どもたち」、という本も、作ってほしいと思います。脳死と診断されてから、心臓停止まで何ヶ月もかかる子どもたちや、生まれてまもなく植物状態になる子どもたちも、います。
「道島根通信」の授業では、日本臓器移植ネットワークの臓器提供意思表示カードを生徒に配布しています。別に、記入させるためではなく、考える材料にしています。
私は、「脳死否定論に基づく臓器移植法改正案について(てるてる案)」(「現代文明学研究」、2000年)で、学校で「死の準備教育」の授業中に、臓器提供意思や末期医療の選択を表示するカードを提示して説明してもよいが、その場で生徒に配布してはならない、と述べました。これは、脳死診断後の治療続行または停止の選択でも、臓器提供の意思表示でも、その記入内容や携帯を保証人以外に表明する義務はないとする「他者の意思の尊重」、臓器提供は本人の同意の意思表示を必須とするという、「臓器提供拒否の意思を表示しない自由」を守るためです。
てるてる案より
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現行の臓器移植法では、第3条で、「移植医療について国民の理解を深めるために必要な処置を講ずる」ことを、国及び地方公共団体の責務としている。
第3条(国及び地方公共団体の責務)
国及び地方公共団体は、移植医療について国民の理解を深めるために必要な処置を講ずるよう努めなければならない。
この条項に則り、末期医療選択カード、臓器提供意思表示カード、チェックカード、臓器提供意思登録カードについて定める。
(略)
・15歳以下の人への末期医療選択カードの配布
少年少女の教育や保育や医療を行なう機関にも、末期医療選択カードを置いてもよい。
しかし、15歳以下の人が、末期医療選択カードを自由に取ることができないようにする。
教育や保育や医療を行なう機関は、末期医療選択カードを置いていることを、サービスの対象となる少年少女に広く告げてもよい。
しかし、末期医療選択カードを広く配布してはならない。必ず、本人の希望が表明されてから、教育や保育や医療に携わる職員が、ひとりひとり、末期医療選択カードを手渡して、そのときに、本人にわかるように、末期医療のことを説明する。それは、死の準備教育とは別のもので、死の準備教育を受けている人に対しても、受けていない人に対しても、末期医療について、説明する。そして、地域の救急医療体制と末期医療と移植医療を説明する冊子に、説明した人の署名をして、末期医療選択カードと一緒に渡すようにする。
末期医療選択カードを、死の準備教育の授業で配布してはならない。しかし、実物を示して説明するのは構わない。
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でも、ほんとにだいじなのは、「葛藤」を、共有できることではないでしょうか。
岡田篤志さんの論文で、USAの病院のチャプレンは、移植を待つ人も、脳死の人の家族も、両方、話を聴いてあげて、両方支えてあげるし、そのうえ、コーディネーターとちがって脳死移植推進を目的としていないので、そのぶん、思う存分葛藤するはめになるのだけど、彼らはその葛藤をよいものだといっている、そこが、コーディネーターと違う、と述べられていました。
「臓器提供とドナー家族の悲嘆心理 内外の文献研究から」岡田篤志
大阪大学大学院医学系研究科医の倫理学教室『医療・生命と倫理・社会』第二号,62-82頁、2003年、3月20日
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このような姿勢の違いは、提供の拒否に際しての反応にも表れている。OPOスタッフは「怒り」すら感じる場合があるという。OPOスタッフは臓器提供を「市民の義務」と考えており、また、提供拒否によって自分たちの使命が否定されたと感じるからである。他方、グリーフサポートを優先するチャプレンたちは、「評価は差し控える」nonjudgmentか、あるいは移植医療に積極的であるチャプレンでも「残念である」regretに留まるという。また、チャプレンは家族の精神的、心理的な福利を第一に置くために、臓器獲得に関しては「脇に置く」ことを心がけているにしても、同時に、移植の必要性にも配慮しないわけではない。移植待機患者にも精神的サポートを行っているチャプレンにとっては特にそうである。そこで、チャプレンたちは、移植待機者への配慮と移植可能な肉親の死を看取る家族へのグリーフサポートとの間で、「葛藤」tensionを経験していると述べている。しかし、興味深いことに、チャプレンたちは、この「葛藤」をよきものであると捉えているという。
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私も、他の人も、脳死のこどもを看取った記録「剛亮生きてや」と、心臓移植を待っていたこどものドキュメンタリー「ふたつの命」(放送後、そのこどもは死んでいる)と、両方見ると、直接患者さんたちの話を聴くチャプレンほどじゃないけど、葛藤を感じます。
そういう葛藤を、共有するのが、本来あってほしい授業だと思います。
2003/09/06(土)臓器移植法学習会の報告
〜NHK特集「剛亮生きてや」(1987年)とKTVドキュメント「ふたつの命」(2003年)を見る〜