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      BGMは、新制東大昭和四十二年入選歌「こもれびのなかに」、素直に清らかに青春を謳った名歌です。

名刹巡り 奈良の寺
当尾の里の寺と石仏

 奈良県と境を接する京都府加茂町の「当尾の里」は、平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて浄土信仰の霊地として栄え、今も「石仏の里」として多くの人に親しまれている。私も、この里を今までに四回ほど訪れている。
 「当尾の里」は、行政的には「京都府」ではあるが、奈良の興福寺の別所であったところであり、仏教的には南都奈良の影響下にあった。この里の寺である「浄瑠璃寺」と「岩船寺」、それに「石仏」を奈良の寺として、以下に紹介しましょう。
 
 大阪倶楽部で開催された一高・柏葉寮歌祭に参加のついでに、久しぶりに奈良を訪れた。特に予定を決めてなかった。朝起きてみると梅雨前線が北上したとかで、近畿の空は晴れていた。難波で近鉄に乗り換え、奈良に向かう車中で、「今日は当尾の里を歩いてやれ」と決めた。
 奈良公園でしばらくぶらぶらした後、奈良交通バスの近鉄奈良駅13番乗り場から加茂行きNO111に乗車して、一路浄瑠璃寺に向かった。
昨年は土砂降りの中、随分と難儀したが、今回は梅雨時としては、ほぼ快晴で、天候的に恵まれた当尾の里散策であった。
 *写真は、平成18年7月9日撮影のものを中心に掲載するが、過去のものを使用することもある

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浄瑠璃寺

 真言律宗(大和西大寺が総本山)小田原山浄瑠璃寺は、奈良・興福寺の別所として創建された寺で、池を挟んで東に三重塔(国宝)、西に九体阿弥陀堂(国宝)が建っています。平安時代後期の浄土式伽藍が完全に残っている唯一の寺だそうです。
 浄瑠璃寺は、九体の阿弥陀仏を祀るとこらから、時に九体寺ともいわれる。
 

山門
 昭和の初めにこの寺を訪れた秋櫻子は「馬酔木より低き門より浄瑠璃寺」と詠んだ。春、参道の両脇一杯に白い花房が毀れんばかりに咲く様子を詠んだものだろう。今は夏、馬酔木に代わり、萱草の橙色の花が参拝者を迎えていた。
 この門をくぐると、そこは浄土の世界、四季折々の花が咲く浄土庭園へと旅人を誘う。

鐘楼
 山門をくぐって、すぐ左手にある鐘楼

 この寺では、まず東の薬師仏に、この世の苦悩の救済を願い、その前でふり返って池越しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝の姿だそうである。
 左手に曲がって、東の三重塔に向かうことにした。
 
  浄土池と三重塔
 三重塔は、 総高16.08m、平安時代 国宝。
1178年、京都の一條大宮から移築されたと伝える京都府唯一の平安時代に建てられた三重塔。

 この塔の本尊は秘仏薬師如来像(木造 平安時代 重文)。浄瑠璃寺という寺名は、この薬師仏の浄土である浄瑠璃世界からつけられた。すなわちこの寺の元の本尊である。

 薬師仏は西方浄土の教主で、この世の苦悩を救い、目標の西方浄土へ送り出す遣送仏である。東の三重塔は此岸の世界、まずは、この仏にお祈りし、しかる後に振り返って彼岸にある本堂の阿弥陀仏に来迎を願いましょう。

石段上の三重塔

                 


浄土池と阿弥陀堂

   
阿弥陀堂(南側参観入口))

 1107年に建立された浄瑠璃寺の本堂阿弥陀堂(国宝)。九体阿弥陀仏を祀るため横長となっており、正面11間、側面4間。
移築説もあるが、昭和の調査では、その痕跡は認められなかった。1663年に桧皮葺から現在の瓦葺に葺き替えられた。
 堂の前に浄土の池を配し、対岸からこのお堂の柱間に垣間見る阿弥陀仏を礼拝する方式で、九体の阿弥陀仏それぞれの正面に板扉がついている。現在のように、お堂に入って、直に九体の阿弥陀仏を拝むことなど一般には出来なかったわけである。
 太陽が真東から出て、真西に沈む彼岸の中日、太陽が三重塔・薬師仏の真後ろから昇り、阿弥陀堂の中央、中尊阿弥陀仏目指し夕日が沈む。金色に輝く阿弥陀仏を池越しに拝した人々は、この世のものとは思われない西方浄土の世界に酔いしれたことだろう。
 末法思想が広まり浄土信仰が盛んとなった平安後期には、「観無量寿経」の教えにもとづき九体阿弥陀堂が30ほども造られたようですが、現存するのは、この浄瑠璃寺だけである。
 本尊は、九体阿弥陀如来像(国宝 平安時代 寄木造 漆箔)。中尊は丈六像で来迎印(下生印)、他の八体は半丈六象で定印(上生印)。「観無量寿経」では、人の往生の段階には、下は「下品下生」から、上は「上品上生」まで九つあるというこです。この考えから九体の如来を祀ったということです。なお、「上品」「下品」という言葉は、この仏教用語からきているようです。
 この他に、本堂には四天王象(国宝 多聞天と広目天は国立博物館に寄託、堂内には持国天と増長天のみ)、秘仏・吉祥天女像等があります。特に吉祥天女像は、「ふくよかなお体、華やかな彩色が木の柔らかさと相まって、無垢な少女」をよく表現しているといわれており、是非とも一度、拝したいと思っている(「濃艶なお姿」と見る向きもあります)。
 
 


 浄瑠璃寺は、関西花の寺霊場第十六番の寺でもある。春の馬酔木が有名ですが、その他にも見るべき花がたくさんあります。
境内に咲く花々を以下に掲載して、浄瑠璃寺を終え、野仏を見ながら岩船寺へと向かいます。
ガクアジサイ キンギョソウ キキョウ 萱草 羊草


石仏

   浄瑠璃寺から岩船寺までは、約1.5kmの距離で、片道徒歩約30分である。この山道のあちこちに石仏や石塔があり、巡拝者の心を癒してくれる。
 隠棲した南都の僧侶や、あるいは大寺のあり方に飽き足らない修行僧がこの地に庵や仏堂を建て修業する傍ら、庶民の間に信仰を広めていった。彼等は浄財を集めて石仏や石塔を建てた。当尾の里に石仏・石塔が多いのは、篤い民間信仰の名残であるといわれている。

 交通の不便なこの里では、奈良行のバスの時刻までは、たっぷり間があるので、私は今回も岩船寺から折り返し浄瑠璃寺まで往復することにした(岩船寺からも奈良や加茂行きバスは出ているが)。その方がじっくり石仏を二度も観賞することが出来るからである。


首切り地蔵
 上記案内板の手前を左に200mほど行くと「首切り地蔵」の石仏があります。
弘長2年(1262年)の銘があり、次に紹介する「やぶの中三尊」とともに、銘のある当尾の石仏の中では最古のものである。

 首があるのに何故首切り地蔵と言うのか? それは、首のくびれが深いからだとも、また処刑場にあったからだともいわれているようです。

やぶの中三尊
 案内板のところに戻ってきて真向かい、道の向こう側に「やぶの中三尊」があります。弘長2年、1262年の銘あり、首切り地蔵とともに当尾の里最古の石仏です。

 正面に地蔵菩薩、向かって右に錫杖を持つ十一面観音、左の岩には阿弥陀如来坐像が彫られています。

 
地蔵菩薩立像

阿弥陀如来坐像
 あたご灯篭を右に折れ、のどかな山道を進む。傍らの姫女苑の花には白い蝶が舞っていました(下の左2枚の写真)。
 道の突き当たりの手前、右側に「からすの壷二尊」があります(「からす」とは、鳥ではなく、どうも「唐臼」の意味のようです)。
 正面に阿弥陀如来坐像」(1343年)、左側面に地蔵菩薩立像」(1343年 注意しないと見落とします)が彫られています。

 阿弥陀仏の横には、線刻の灯篭、火袋に灯明を供えることができるそうです。

 突き当たりの「からすの壷」(下写真左から3枚目)を左に折れ、山道(下写真最右)をどんどん進んでいきます。昨年訪れたときには、瀧のように水が流れており、随分難儀しました。






案内板

わらい仏

ねむり仏
 やがて、左「岩船寺」、まっすぐ「わらい仏」の案内板のある三つ角に差し掛かります。わらい仏までは、すぐなので「わらい仏」に寄りました。
わらい仏」は、当尾の石仏の中で最も知られた阿弥陀三尊像である。右に観世音菩薩、左に勢至菩薩を従え、浄土への来迎を示しているとされる。わらい仏の左横に「ねむり仏」(地蔵石仏)、「この石仏は永い間土の中で休んでおられます。それでいつの間にかねむり仏の名がついた」とのことです。

岩船寺への岩道

不動明王立像

野菜のつるし売り
 「わらい仏」から、少し戻って、岩船寺を目指し案内板を右に折れる。急傾斜の手すり付きの岩道がしばらく続く。やがて左に折れる道を下っていくと大きな岩に線刻された「不動明王立像」に至る。確か昨年までは、「岩船寺奥の院」なる表示があったように思うが、今は降り口の手すりに「コース」という表示があるのみである。岩船寺パンフレットにも「奥の院」の記載はない。
 岩道を上り、もと来た道に戻り左に進む。やがて人家があり、つるし売りのおばさんに声を掛けられた。当尾の里も訪れる度に俗化して、名物の無人のつるし売りが少なくなっている。
 もうすぐ岩船寺である。

岩船寺


 真言律宗高雄山岩船寺は、創立は天平元年(729年)、聖武天皇の発願で、行基により建てられたと言う。岩船寺と号したのは、空海の姉の子で岩船寺中興の祖智泉大徳の頃、813年のことである。その後、堂塔伽藍が整備され、最盛期には広大な寺域に39の坊舎があった。しかし承久の変(1221年)によって、大半を失った。江戸時代に本堂や本尊の修復をしたが、老朽化が激しく、本堂は昭和63年に再建、三重塔も大修理が平成15年に完成し、極彩色の壮麗な姿を取り戻している。
 岩船寺は、また関西花の寺霊場十五番札所で、「アジサイ寺」として有名である。境内には25種、5000株の紫陽花が門から奥の鐘楼まで咲き乱れる。今年は花の時期が10日ほど遅く、三重塔、石塔、阿字池を背景に境内一面に咲く紫陽花を観賞できたのは幸いであった。
 

山門
 山門をくぐると、両脇に紫陽花が寄りかかるように咲いている。その奥の高台に三重塔がかすかに見える。
紫陽花の奥に三重塔

本堂
 紫陽花の道を阿字池の手前で右に折れると、すぐ本堂である。
昭和63年4月2日落慶した堂内には、四天王立像に守られた本尊阿弥陀如来坐像(平安時代 重文 ケヤキの一本造 伝行基作)が座す。本堂に上がり、台座に座った高さ2m84cmのこの大きな本尊を見上げる。小さな肩幅に太い腕、どっしりしたひざの張り、その安定感に圧倒される。ぶ厚い唇ながら,小さな口元も愛らしい。私の好きな阿弥陀仏である。

 可愛らしいといえば、少し太っちょで子供っぽい十二~将(木造 室町時代)もこの本堂で見ることができる。本堂には他に重文の普賢菩薩騎馬象像(平安時代)。
 

三重塔
 総高18.26m、室町時代 重文。
 岩船寺は南北に長い窪地に立地している。三重塔は境内奥の高台に東面して建つ。当初の塔は、仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで建立されたと伝えられているが、現在の塔は、1442年に再建されたものである。
 平成の大修理(平成15年に落慶)で、朱塗りの綺麗な塔に生まれ変わり、紫陽花と美を競うかのごときである。

 初重の内部には来迎柱を立て、須弥壇と来迎壁を設けているとのことであるが、内部の拝観は出来なかった。

鐘楼より三重塔を臨む

十三重石塔
 阿字池の左手前に十三重石塔が建つ。 総高6.3m 石造 重文 鎌倉時代。

 十三重の塔は、初七日から三十三回忌に至る13回の追善供養のためにつくられるものである。1314年、妙空僧正の造立と伝えられている。

 この他に境内には、石室不動明王立像五輪塔(ともに鎌倉 重文)の石造物がある。石室不動明王立像は、眼病に霊験あらたかとかで、多くの参拝者がある。

 三重塔の上には鐘楼が、さらに山道を登っていくと、大きな岩の貝吹き岩に辿り着く。この岩からの見晴らしは素晴らしいが、今回は登らなかった。貝吹き岩とは、この岩に上って、法螺貝を吹いて、全山に通報したからといわれている。昨年は、この岩の上に上って、弁当を食べ、大きな声で寮歌を歌った。岩船寺のよき思い出となっている。

 最後に、このアジサイ寺に咲く紫陽花を紹介しておこう。

 岩船寺前の店で草餅を買って、食べながら浄瑠璃寺までぶらぶらと帰り、バスに乗って奈良へ。近鉄に乗り換え、新幹線で帰ってきました。
 柿の葉寿しをおかずに、車中で飲んだビールのおいしかったこと、いつものとおりです。


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