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BGMは、一高第22回記念祭寮歌「霧淡晴の」 3番「力を刻む鐘あらば 古き壁画に響けかし 春をのがるる塔影の 雲の翅にかげろへば」.。

名刹巡り 奈良の寺   

薬師寺

「青丹よし寧楽の都は咲く花の にほふがごとく いま盛りなり」 とうたわれた奈良の都、平城京は南北に貫く朱雀大路により左京と右京に分かれる。右京(すなわち西の方)のうち、特に今も長閑な田園地帯が残っている西大寺から唐招提寺、薬師寺の辺りを西ノ京というようです(恥ずかしながら学生の頃は、京都のどっかと勘違いしていました)。京都から、また大阪から近鉄の急行に乗って、西大寺で橿原方面行きの普通電車に乗り換える。二つ目の西ノ京駅で降りれば、唐招提寺、薬師寺は、進行方向左側すぐである。今は遠く坂東の地にあって、この地を訪ねることとてままならない。一片の雲を眺めては、大和の国の空高く聳える塔や金堂を思い出だし、懐かしんでいる。せめて本ページで、あの薬師寺や唐招提寺を訪ねることにしよう。そして流れる雲を追いかけながら西の京周辺をぶらぶら歩いてみることにしましょう。
 まずは薬師寺から。

     

西に約1キロ、勝間田池から金堂と東西両塔を眺望する。
遠景の山は若草山。
山の麓に大仏殿の甍、興福寺五重塔がかすかに見えるんですが、この写真では無理ですね。
 夏の暑い日、私は大安寺経由で、猿沢の池まで一人汗をかきかき、歩いて二度ほど帰ったことがあります。

薬師寺巡拝をすまし、南門を出て東に、観音池から秋篠川に向かう。振り返ると東西両塔が民家の屋根上に聳えていた。急ぐ旅でもないので秋篠川沿いにぶらぶら歩いた。平城京跡でしばしの休みを取った後、夕暮れせまる中、西大寺へ。京都行き近鉄急行に乗り、新幹線に乗換え帰京。
 薬師寺は、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って造られたが、平城遷都に伴い718年、藤原京から現在地(右京6条2坊)に移された。その昔、東大寺や興福寺等とともに南都七大寺の一つであったこの寺は、今も興福寺とともに南都六宗のひとつ法相宗を修養する大本山である。
 六条大路に南門を開き、金堂の前に東・西二塔を有する薬師寺の広壮華麗な佇まいは、「竜宮つくり」と呼ばれていたそうである。しかし、度重なる火災、特に1528年の戦火で東塔と東院堂以外の建物は、悉く灰燼に帰し、金色の薬師三尊像は、輝きを失い黒いお姿に変わってしまった。白鳳・天平の往時の姿の伽藍を再建すべく、昭和42年、高田好胤管長(当時)を盟主とする一山僧侶の献身的勧進が開始された。金堂・西塔・中門・回廊に続き、最近では平成15年には大講堂が復興再建された。大和の空に東西二塔が聳え、金堂・講堂の甍が燦然と輝く白鳳・天平の姿をようやくにして取り戻したのである。
 *平城京移転に伴い、藤原京にあった薬師寺の建物(東塔)が移築されたのか、新たに建築されたのかは論争のあったところだが、発掘調査により新築と判明した。

南門・北門

 


 北門

南門
 近鉄西の京駅利用の場合は、通常北側の受付入口から境内に入るが、寺の玄関は本来南門である。南門、中門を経て塔や金堂前面に向う。南門は一間一戸四脚門で重文。もとは西院の西門であった。もともとの南大門は桁五間で、現在の門は、ちょうどその中心にのっているという。

中門・回廊


                                   
中門・回廊と西塔

中門・回廊と東塔

  東西二塔・金堂は、中門(南)と講堂(北)を結ぶ回廊に囲まれる。中門は昭和59年に復興再建された。薬師寺の回廊は複廊といって、3本柱の真中に壁や連子窓を配し、その両側を通路とする。現在、第3期工事中。
 平成3年には中門に二天像が復元された。

東塔・西塔


東塔
 ゆく秋の大和の国の薬師寺の 塔の上なるひとひらのくも   
                               佐々木信綱

 東塔は、白鳳・天平文化を伝える唯一の薬師寺の遺構である。
法隆寺のところで説明したように、塔は釈尊の仏舎利を納めるためのものであり、もともとは一塔あれば足りる。白鳳時代、仏舎利塔とは別に、釈尊の教え(経典)を納める経塔の概念が起こり、藤原京のもとの薬師寺において、初めて二塔が相対する伽藍様式が採用された。現薬師寺の塔には移建説もなおあるが、裳階等の一部の部材を除いては、寺が平城京移転後の天平2年に新造されたものとされる。このうち、西塔は、1528年の戦火により金堂・講堂等とともに惜しくも焼失したが、東塔は残り、ひとり白鳳時代の威容を今日まで伝えている。
 この三重の塔は、高さは34メートルで、優に5重の塔に匹敵する高さである。一見、六重の塔に見えるが、それは各階に裳階(もこし)と呼ばれる小さな屋根が付いているからである。大小の屋根の組合せと、他の五重塔・三重の塔に類をみない各層の逓減率(二重は初重の七割強、3重は初重の4割一部強)は、塔に律動的な美をもたらした。、ためにこの塔は「凍れる音楽」(フェノロサ)という愛称で親しまれている。
 水煙は、塔の頂にある相輪上部の装飾で、火災に遭わないようにとの願いが語源といわれている。東塔の水煙は、24人の天人達が天衣を風に靡かせながら、笛を吹き花を散華して合掌する姿を彫刻した工芸的にもすぐれた作品である。大複製品が北入口すぐの東僧坊(その昔は東院堂に)に置かれている。じっくりと観察したいものである。

西塔
 もともと薬師寺は、金堂の前に東西二基の塔を配し、それらを回廊で囲んだ「薬師寺式伽藍配置」の寺である。昭和56年、西塔が再建復興されて、450年ぶりに大和の国の薬師寺に二つの塔がそろった。西塔は東塔の綿密な調査に基づき復元された。東塔には今はない連子窓(東塔は白壁)が各層に設けられたほか、最上層の屋根の傾斜が異なっている。鮮やかな丹青が施され輝かしいばかりの姿が甦った。。塔の心礎には、平山画伯の将来した仏舎利が安置された。
 創建当初、塔の内部には、釈尊の生涯を物語る塑像(東塔には前半生を示す因相、西塔には後半生を示す果相)が安置されていた。塑像は、文化勲章作家澤田政廣氏により復元奉安された。

東塔相輪

西塔相輪

金堂

金堂  現金堂は、昭和46年起工式、昭和50年落慶のもの。「竜宮つくり」といわれた裳階を多用した壮麗な外観が西ノ京に甦った。
 前述のように、1528年の兵火で、金堂は焼失した。焼け残った薬師三尊像は、慶長の昔に建てられた仮屋で雨露をしのいできた。「今一度、白鳳の姿に」と再建復興に先頭にたって苦労してきた高田管長以下一山の慶びは、如何ばかりであったろうか。
 金堂は、ご本尊様をお祀りする寺の中心で、神聖な場所である。金堂内部には住職交代の時とか、掃除の堂童子しか入ることを禁じられていたという。
 
 本尊は薬師如来(白鳳時代)、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩をしたがえる(いずれも国宝 銅造)。天武天皇が皇后の病気平癒を祈りお造りになった本薬師寺本尊なのか、平城薬師寺で新鋳したものかは定説を得ていない。いずれの年代のものであれ、この薬師如来像は、理想的な仏の姿を触知的に具現しており、「白鳳彫刻の終点であり、天平彫刻の出発点」の作品として高く評価されている。漆黒のような肌色は、火災の影響のためなのであろう。脇侍の日光・月光菩薩は、ともに腰をひねったお姿で(インドで始まった「三曲法」という彫刻手法)、写実的で引締まった身体の線が強調されている。本尊台座にはギリシャの葡萄唐草文、インドの福神像、中国の四方四神、周囲にはペルシャの蓮華文が彫られている。奈良時代、東西交流の国際性を示すものである。

月光菩薩像

薬師如来像

日光菩薩像
*この金堂薬師三尊像の写真は、寺の許可を得て堂外から撮影したものである。

講堂

大講堂

 平成15年、金堂・西塔に続き、ついに大講堂が落慶した。
 金堂が本尊を奉安する場所であるのに対し、講堂は、もともと集会所とも呼びべき学問道場で、多くの僧侶等が出入りした。そのため、法隆寺のページでも説明したように、講堂は金堂よりも大きな建物となる。復元された大講堂も、正面41メートル、奥行20メートル、高さは17メートルと、薬師寺最大のお堂である。
 
 仏足石・仏足石歌(ともに国宝)は昔仏足堂にあったが、その後、金堂に、さらに最近は大講堂に移された。仏足石信仰上、また国文学上も貴重な作品である。

 講堂完成を記念し彫刻家中村晋也により釈迦十大弟子像を奉納され、仏足石の両脇に安置されている。

 薬師寺講堂には、何故か、金堂の本尊と同じ大きさ(丈六)同じ材質(銅像)の一見よく似た薬師如来像(最近,弥勒仏と改称)、脇待として日光・月光菩薩像(それぞれ法苑林・大妙相菩薩と改称)を従えた薬師(弥勒)三尊像が安置されている。この像は、どうも西院弥勒堂にあった弥勒菩薩像が、江戸時代、前の講堂復興とともに移安されたという説が有力である(他に唐招提寺講堂・高田寺弥勒説など有る)。制作年代も白鳳仏とするには、様式に無理なところが多く、異説が多い。
 

薬師如来(弥勒仏)像

東院堂

東院堂  東院堂(国宝)は、養老年間に吉備内親王が元明天皇のために発願建立されたもので、もともとは寺の東、観音池辺りにあったという。もとの建物は火災で焼失し、弘安年間の1285年頃、再建された。その後も何回か修理を受け、享保年間の1730年頃、現在の場所に、南から西に向きを変え、基壇の上にのせて建てかえられた。
 奈良時代の寺の床は通常、土間であるが、東院堂は板敷きで、禅宗様の桟唐戸(さんからど)や大仏様の木鼻(きばな)がみられる点に、鎌倉時代の仏堂の特徴を示すという(ために東院禅堂とも呼ばれた)。
 
 ご本尊は聖観音菩薩像(国宝 白鳳時代 銅造)、その周りを四天王像が守る。和辻哲郎の解説をまつまでもなく、白鳳の仏像は一般に赤ん坊のように頭が大きく、顔つきも幼い。しかし、この像はよく均整が取れ、胸や腰の肉付も豊かである。悲劇の主人公有馬皇子をモデルにした像と伝えられる。直立不動のこの像の悲話に思いを致すとき、気品あふれた若さのうちに、奥深い人間の業というものを感じることであろう。東院堂の石段を上って靴を脱ぎ、板間を進み、この像の前で静かに合掌しよう。  金堂薬師三尊像とは、特に造像技法上から同系の工房で制作されたものと考えられている。

聖観音と四天王像(東院堂)

休ヶ岡八幡宮


 興福寺に春日大社、東大寺に手向山八幡宮があるように、薬師寺にも南門を出て、駐車場に向かう途中に神仏が混合した休ヶ岡八幡宮がある。ここには、普段は見ることが出来ないが、光明皇后をモデルにしたという秘仏の「吉祥天女画像」(国宝)、奈良国立博物館に寄託されている「神功皇后座像」(国宝)、「僧形八幡神座像」(国宝)がある。

                              玄奘三蔵院 

 北入口にもどり、玄奘三蔵院に向かう。この新しい伽藍は、法相宗の宗祖慈恩大師の師で薬師寺が法相宗の始祖と崇める玄奘三蔵の遺徳を称えるため、本坊の北側に造営され、平成3年に落慶した。
 中央の玄奘塔には玄奘の遺骨と坐像(大川逞一作)を祀り、その後ろの大唐西域壁画殿には、平山郁夫の筆になる大作「大唐西域壁画」を納める。

                    
礼門、ここから玄奘塔へ進む。

玄奘塔、額には印度での求法の目的を果たすまでは故郷の長安には帰らぬという固い決意を示す「不東」の二字(高田好胤筆)。


玄奘塔には玄奘三蔵の遺骨を納め、大川逞が制作した玄奘三蔵坐像を安置する 玄奘塔の後ろには大唐西域壁画殿。平山郁夫が30年の歳月をかけて完成した玄奘三蔵求法の壁画を絵身舎利としてお祀りする。

 

玄奘三蔵の遺骨と慈恩寺

 ところで、どうして中国は唐の時代の高僧玄奘三蔵の遺骨が異国の日本にあったのでしょう。
 第二次大戦中、中国に駐留した日本軍が南京で土木工事中、偶然に、この玄奘三蔵の遺骨を発掘した。南京政府に届けたところ、その分骨が日本仏教会に贈られた。遺骨は、玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典の漢訳に従事した西安の大慈恩寺と同じ名前をもつ埼玉県岩槻の慈恩寺に納められた。慈恩寺は坂東札所12番の寺、この寺から歩いて約10分のところに高さ15メートル御影石造りの十三重の塔に遺骨が納められ、今日まで守られてきた。遺骨は、ここからさらに薬師寺に分骨されたということである(慈恩寺でも確認済み)。分骨された方が本家より立派な伽藍を建て、派手に宣伝していることについては、いささか抵抗を感ずるのは、私だけであろうか。

 ここに慈恩寺と本家玄奘塔の写真を紹介しておこう。

玄奘塔

坂東第12番札所慈恩寺

慈恩寺の玄奘塔全景

 

薬師寺のページを終えるに際し、もう一度、こころの故郷大和の国は薬師寺の塔に別れを告げよう。


水鳥の浮かぶ大池から金堂・双塔を望む

東院堂横から塔を望む
蛇足

 人は、何故に古いものを尊ぶのか、新しいものを好むのか?また、古きがゆえに尊いのか?新しければ、それでいいのか?悪いのか?
 薬師寺の新旧二つの塔を見るにつけ、そのことを思わざるをえない。


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