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BGMは、一高第22回記念祭寮歌「霧淡晴の」 3番「力を刻む鐘あらば 古き壁画に響けかし 春をのがるる塔影の 雲の翅にかげろへば」は、法隆寺を想わせる。

 名刹巡り 奈良の寺

法隆寺と斑鳩の里の寺


 JR王子駅から法隆寺までは約1.5kmで、急ぐことがなければ歩く距離です。大阪出張の途中で急いでいましたので、駅前から法隆寺門前までバスに乗りました。法隆寺からはじめ、聖徳太子ゆかりの斑鳩の里の寺を「中宮寺」、「法輪寺」、「法起寺」の順に、いつもの背広・ネクタイ・ボストンバッグ姿でとぼとぼ歩きました。
 「聖徳太子は何者か、何故に皇位につけなかったのか」「聖徳太子一族は何故に蘇我氏に滅ぼされたのか」「何故に政治の中心飛鳥からイカルの群れ集う斑鳩の里に移住したのか」等など、興味あることはたくさんありますが、今回の古寺巡礼「法隆寺と斑鳩の里の寺」は、それらには触れません。寺の沿革、諸堂、仏像の簡単な説明を中心にします。非常に残念ですが、仏像の写真撮影は、禁止されています。写真は建物の外観中心となりますこと、予めお断りしておきます。なお、建立製作の年次など、古代のこの時代は、諸説紛々です。大雑把にご容赦願います。

法隆寺


 聖徳太子は601年(推古9年)頃、当時の政治の中心地飛鳥の地を去って、大和平野の西北・矢田丘陵を背にした「斑鳩の里」に居を定めました。その地に、父用明天皇のご遺願を継いで607年に建立されたのが法隆寺です。ただし、法隆寺は670年に全焼し(日本書紀)、現在の伽藍は7世紀から8世紀初めの再建とされています。再建であれ世界最古の木造建築物として、法起寺とともに世界遺産に登録されています(日本最初)。また、古代美術品の宝庫としての法隆寺の価値は、再建・非再建説に関係なく、微動だにしません。

 法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とする東院伽藍とに分かれています。

 
西院伽藍


南大門

 参道の杉並木を通り、最初にくぐる門が南大門(室町時代)です。寺は南面して建てられます。従って、南の門が玄関となります。

法隆寺南大門
    

法隆寺中門・五重塔 
                                    
中門・回廊
 
 法隆寺の伽藍配置は、法隆寺式といって、西に五重塔、東に金堂(本堂)があり、その外側を北正面に講堂、南正面に中門とつながった回廊が囲んでいます。左上の写真で右下の建物が中門、塀のように見えるのが回廊です(飛鳥時代)。
 中門扉の左右の金剛力士像(塑像、奈良時代)、東西に伸びた回廊の連子窓は、五重塔と金堂を重厚に守ってます。

金堂


金堂
 中門をくぐって右にある建物が金堂です。金堂とは本尊を祀る本堂のことです。本尊の仏像が金色であり金人であったため、金堂と呼ぶようになったのでしょう。金堂には、聖徳太子の病気平癒を願って造られた釈迦三尊像(飛鳥時代)、父用明天皇のために造られた金銅薬師如来像(飛鳥時代)、母穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来像(鎌倉時代)、それを守護するようにわが国最古の四天王像(白鳳時代)等、わが国を代表する国宝・重文の仏像がたくさん安置されています。中でも本尊の釈迦三尊像の光背には推古天皇31年止利仏師作の銘記があり、@杏仁形の目A上返りの口B耳たぶに貫孔がない等といった飛鳥仏の標準となっています。
 天井には、天人と鳳凰が飛び交う西域色豊かな天蓋が吊るされています。周囲の壁面には、世界的に有名な壁画が描かれていましたが、昭和24年、惜しくも焼損してしまいました。今は、パネルに描かれた再現壁画がはめ込まれています。

五重塔


五重塔
 仏塔は釈迦の遺骨(仏舎利)を納めるために作られたもので、仏教寺院で最も重要な建物でした。しかし仏像が作られ、それを祀る仏殿が重んじられれるようになって後は、次第に寺の飾りのような存在となり、遂には元来一基であるべきものが東西2塔建てられたりするようになりました。。
 塔の形は、最初、土饅頭の上に日傘を立てた簡単なものでしたが、仏教が中国にはいり木造で建設されるようになって日傘は九輪となり、土饅頭は伏鉢となってわずかに屋上に名残を留めるようになりました。そのかわり基壇だけが次第に大きくなっていって遂に塔の本体のようになっていきました(中国の六朝時代)。中国には今はこのような仏塔は残っていないので、わが国最古の仏塔である法隆寺五重塔は仏塔史上、極めて貴重な資料となっています。
 この塔の高さは約31.5メートル、最上層は初層の半分の面積で、見る目に均整のとれた優美な姿でもって、堂々四囲を圧倒しています。
 初層の内陣には、東面に維摩居士と文殊菩薩の問答、北面に釈尊の入滅、西面に舎利の分割、南面弥勒菩薩の説法などの場面を表現する塑像群があります(奈良時代はじめ)。
 法隆寺の諸堂の中で、以上の金堂・五重塔・中門、回廊が飛鳥時代の建築物であり、世界最古の木造建築文化財です。共通する特徴としては、@エンタシスの柱 A撥蟇股(ばちかえるまた) B卍崩し勾欄(こうらん) C雲斗(くもと)雲肘木(くもひじき)を使っていることが挙げられます。このことから法隆寺のこれら建築物は、遠くギリシャの影響を受けた中国六朝時代の様式を伝えたものであるといえます。五重塔のところで述べたように中国にはこのような建築物が残っていない今、たんに古い建物というのみならず、東洋古代建築史上の貴重な資料といえます。そのゆえに平成5年,日本で初めて、世界文化遺産に登録されたのでしょう。

大講堂


大講堂

 当初の大講堂は落雷により焼失したため、平安時代(990年)に再建された比較的新しい建物です。仏教の学問をしたり、法要を行う施設で、寺内大衆が参集するところなので、金堂よりは大きく細長い平面を持っています。

 


経蔵

大講堂の東に鐘楼(平安時代)、西に経蔵(奈良時代)が同じく回廊につながった形で建っています。古代の位置を変えずに今に残るのは法隆寺だけといわれています。 


大宝蔵院

 大宝蔵院  回廊を出て、聖霊院と鏡池を過ぎたところを左折してしばらく行くと食堂の前に平成10年に落成した大宝蔵院があります。百済観音堂を中心に東・西宝蔵に分かれています。
 大宝蔵院には、由来不明の謎の像・百済観音像(飛鳥時代)、不吉な夢を吉夢に変えるという夢違観音像(白鳳時代)、寺伝では推古天皇の所持仏殿とされる玉虫厨子、光明皇后の母橘夫人念持仏と伝える阿弥陀三尊像はじめ百万塔九面観音像など国宝・重文のわが国を代表する仏教芸術品が多数安置されています。各仏像などの写真を掲載出来ないのは残念です。
百済観音:江戸時代に百済渡来の虚空蔵菩薩として紹介され、明治時代に観音の印である化仏のついた宝冠が発見されたので「百済観音」と呼ばれていますが、国産の楠製であることから日本で製作されたもののようです。日本の仏像には珍しい八頭身のすらりとした姿と優美でその慈悲深い表情は多くの人々を魅了してしまいます。
 大宝蔵院を南に戻り、左折。この辺りからの五重塔を背景にした東室・妻室のたたずまいが美しいという評判です(下写真左)。西院伽藍の東の門である東大門(下写真真中)をくぐって、真っ直ぐに歩いて行くと東院伽藍夢殿四脚門(下写真右)に着きます。
妻室・東室(聖霊院)五重塔 東大門
四脚門


東院伽藍


夢殿

 東院伽藍の中心である法隆寺夢殿は、聖徳太子が三経義疏の執筆に疲れたとき、仮眠をとって休養したところと伝えられていますが、この夢殿は、643年(皇極2年)蘇我入鹿の斑鳩攻めで太子の長子山背大兄王が宮に火を放って自殺した時に、焼失したものと思われます。現在の夢殿は、739年(天平11年)に行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲んで、法隆寺の東にあった荒れ果てた斑鳩宮の跡地に建てたものです。
 八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘仏救済観音(飛鳥時代)が、その周囲には行信僧都、平安時代初めに東院を修理した道詮律師の像が安置されています。
救済観音:800年以上も秘仏であったが、明治17年フェノロサにより厨子が開かれ像容が明らかになった。
「われわれを最もひきつけたのは、この製作の美的不可思議であった。正面から見るとこの像はそう気高くもないが、横から見るとこれはギリシャの初期の美術と同じ高さだという気がする」(フェノロサ)

夢殿

舎利殿・絵殿

舎利殿・絵殿

舎利殿(鎌倉時代)は、聖徳太子が2歳の時に合掌した掌中から出現したという舎利を安置しています。絵殿には聖徳太子一代の事績を描いた障子絵があります。

中宮寺

 夢殿の東北に接し中宮寺があります。中宮とは皇后を意味します。父用明天皇の皇后で母であった穴穂部間人皇女の菩提を弔うために聖徳太子が建てた日本最古の尼寺です。旧地は斑鳩宮を挟んで、東に僧寺である法隆寺、西に尼寺である中宮寺という配置で、現中宮時の東400メートルのところに土壇が残っています。伽藍配置は焼失した元の法隆寺・若草伽藍と同じ、四天王寺式(南に塔、北に金堂を配す)であったといいます。聖徳太子や山背大兄王の頃は、斑鳩の里に四つの塔(法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺のそれぞれの塔)が聳えていたことになります。中宮寺が現在地に移ったのは慶長年間(1596〜1615年)で、この頃から宮家の女を住職に迎える門跡寺院となり、現在に至っています。

 本尊の国宝・弥勒菩薩半跏像(飛鳥時代、寺伝では如意輪観音。平安時代以降、聖徳太子を観音の化身とする信仰が強くなったが、その影響か)は昭和43年に新しい本堂が出来て、その正面奥に安置されています.
昭和38、9年頃、大学生の時に初めてこの像を見たときは、暗い古びた畳の間の仏壇に置かれていたように記憶しています。エジプトのスフィンクス、ダ・ヴィンチのモナリザと並んで「世界の三微笑像」との評価もあるようですが、それよりも「考える像」として、ついつい頬ずりしたくなるような右手指先の繊細な仕草は、京都太秦の広隆寺弥勒菩薩とともに見る人を魅了します。同じ考える像でもロダンの「考える人」は、地獄に落ちてゆく罪人を傍観する孤独な男の像です。これに反し、この半跏像は衆生をいかにして救済しようかと思索する慈悲深いやさしい像です。美術的にも飛鳥・白鳳の木彫りの中で最も成熟した段階を示すものと高い評価を受けています。この像は、今表面は黒光りしていますが、もとは彩色されていたようです。
 
 もう一つの中宮寺の国宝は、622年、聖徳太子追悼のために、その妃橘大郎女が、太子の往生した天寿国の様子を3人の渡来人に下絵を描かせ、それを采女に刺繍させた「天寿国曼荼羅繍帳」。わが国最古の刺繍物で、鎌倉時代に信如尼が夢告により法隆寺綱封蔵で発見したという。江戸時代に13世紀の模作を含む断片をつなぎ合わせて今に至ることから「残欠」とも呼ばれる。

中宮寺入り口

本堂


法輪寺

 中宮寺を出て、北へ900メートル程とぼとぼ歩いていくと法輪寺に着きます。
 法輪寺は、山背大兄王が聖徳太子の病気平癒を祈って、弟の由義王とともに622年(推古30年)に建立したという伝えを持つ山背大兄王ゆかりの寺です(他に670年建立説あり)。ここにも飛鳥式の三重塔があります。この塔は昭和19年に落雷により焼失しましたが、昭和50年に、もとのまま復興され、再び斑鳩の空に甦っています。小説「五重塔」を書いた幸田露伴の娘で、同じ小説家の幸田 文が復興に随分尽力された様子が、テレビで放映されたことがありました。もうあれから、四半世紀以上、経つのですね。



法起寺

 法輪寺から東へ700メートル歩くと法起寺です。聖徳太子の遺命により、622年(推古30年)に山背大兄王がこの地にあった岡本宮を寺に改めたというのが、この寺の起源といいます。この寺にも飛鳥式の美しい三重塔があります。塔の露盤銘によると685年に着手し706年に完成したといいますから、この三重塔は山背大兄王の時代のものではありません。高さは約24.5メートル、三重の面積は初重の面積の丁度半分となっています。高さは違いますが、法隆寺の五重塔と平面の大きさは、ほとんど等しく、その初重、三重、五重をとって、初・二・三重の大きさとしています。従って、各重の縮小度は大きく安定した姿となっています。遠くから見れば見るほど美しい塔です。


 これで法隆寺と聖徳太子ゆかりの斑鳩の里の寺の案内は終わりです。この写真を撮った日は、時折、粉雪の舞い散る寒い日でした。法隆寺への帰り道、確か「ここから三塔が見渡せます」という場所がありましたが、もう夕闇が迫って暗かったせいか、私の勘違いか、法隆寺・法輪寺・法起寺の三塔を一望にした記憶がありません。最後に、三塔の写真を横列に並べて、せめてもの私の慰めとします。

 


法隆寺五重塔

法輪寺三重塔

法起寺三重塔


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