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BGMは、第一高等学校明治四十五年第二十二回紀念祭寮歌「霧淡晴の」。私は猿沢の池を訪れるたびに、この寮歌の3番の歌詞「春をのがるる塔影の 雲の翅にかげろへば」を大きな声で歌うことにしている。

   

名刹巡り 奈良の寺   
興福寺

 

 今回の奈良の寺は、猿沢の池にその塔影を映して古都奈良の象徴ともなっている興福寺です。
昔は大阪への出張の時によく訪れたものであるが、今は平城寮歌祭に参加の時等に、年に1、2回訪れるぐらいである。
 
 興福寺は、現在、天平の伽藍復元を目的に、興福寺境内整備計画を進めている最中である。完成すれば、南大門・中門・中金堂・回廊等が極彩色に彩られた華麗で壮大な姿で甦ることでしょう。
 
 以下、現在の興福寺を簡単に見ていくことにしましょう。なお、いつものことながら、年代や堂塔・仏像の説明は、大雑把なもので、説明に誤りや思い違いがあるかもしれません。この点は、ご容赦くださるようにお願いします。
 
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猿沢の池から五重塔を望む
 奈良公園と混然一体となった興福寺(法相宗大本山)には、山門もなければ塀もない。伽藍の中心中金堂を欠き、広い境内に堂塔があちこちにポツンポツンと散在している、まことに纏まりのない姿となっている。これが奈良・平安時代にあれほど栄華を誇った藤原氏の氏寺で、中世には東大寺を除く大和の国を支配下に治め、ほしいままに権勢を誇った大寺の今の姿である。

 興福寺は、藤原氏の始祖藤原鎌足が造らせた釈迦三尊を妻の鏡女王が安置するため、山背国宇治郡に建てた山階寺が始まりといわれる。寺は、壬申の乱の後、飛鳥に移り厩坂寺と称し、さらに平城遷都後は、奈良(左京三条七坊)の現在地に移って興福寺となった。
 奈良時代の伽藍配置は、三条大路に面する南大門から入ると、中門・金堂が、その後ろに講堂と三面僧坊があった。東には東院仏殿院と称された五重塔と東金堂があり、西に北円堂と西金堂が配されていた。平城京を見渡す地に、所謂七堂伽藍の整った堂々とした威容を誇っていたのである。
 
 興福寺は、治承の兵火をはじめ、しばしば火災にみまわれ、多くの堂塔が焼失した。しかし、その都度、諸堂を再建してきたが、鎌倉末期以降、寺運の衰えとともに、再建がままならなくなった。
 
 江戸時代には幕府から2万1000石の寺領を認められたものの、1717年には講堂・金堂ほか主要堂宇を焼失し、寺の中心である中金堂も粗末な仮堂が建てられただけで、現在に至るまで講堂・中門・回廊等の復興はなっていない(最近、講堂跡に薬師寺の前金堂を移築)。
 
 明治維新後の神仏分離では、その被害はかってないほど甚大で、この歴史ある大寺も一時は無住の寺院とさえなった。国宝館の地に建っていた鎌倉再建の食堂はじめ、多くの堂宇は破壊され、寺宝は散逸した。五重塔が二束三文の値段で売りに出されたり、ロープを掛けて倒されそうになった話は、あまりにも有名である。

 現在、来る平成22年の興福寺創建1300年完成を目指し、興福寺境内整備計画が進められてる。平成10年から中門・回廊跡の発掘調査を開始し、平成12年から現中金堂(仮堂)解体、基壇の発掘調査を実施してきた。その結果に基づき、創建当初の中金堂を再建するというものである。
 
 以下、簡単に現在の興福寺の境内をぶらぶら歩いて見ましょう。

 *写真は平成19年9月30日のものを中心に、過去のものも掲載。

奈良公園で草を食む鹿

             


境内の案内 
 寺の表玄関は南大門であり、この門から境内に入って、金堂にお参りするのが本道である。しかし、現在の興福寺には南大門も(中)金堂もない(講堂跡に薬師寺から移築された仮金堂があるが、工事中のためお参りできない)。
 
 私は、いったん猿沢の池に出て、五重塔を遠望した後、南円堂に至る東側の階段を登る。階段途中、地蔵様のある左手に曲がると、前方に三重塔が木の間に見える。三重塔から北に右折して北円堂に至る道をぶらぶらと歩む。興福寺で一番好きなスポットである。北円堂を右折西進すれば右側が西金堂跡、柵の前方が中金堂の計画地、その左手講堂跡に薬師寺から移築された仮金堂が柵越しに見える。右折南進すると右手に西国九番札所でもある南円堂。南円堂から西進すると南大門跡中門跡を経て、五重塔東金堂に至る。東金堂を右に西進すると左手食堂跡に国宝館がある。少し戻って、東金堂と五重塔の間の道を西進すると右手南側に柵越しに大湯屋を垣間見ることが出来る。
 
 ここから菩提院大御堂に行くには、西進してすぐの交差点を右折、南下して三条通を右折少し東進すると左手にある。
 以上が私が興福寺境内をぶらぶらする時の凡その道順である。
  
 興福寺は、治承の兵乱はじめ、いくたびかの災禍により、創建当初の建物は、何も残っていない。その他の仏像等の文化財も多く焼失した。しかし、幸いにも北円堂・三重塔・五重塔・東金堂・大湯屋・南円堂・仮金堂は再建されて残り、なおも多くの国宝・重要文化財を今日に伝える。興福寺は、薬師寺と並ぶ南都六宗は法相宗大本山の名刹である。

    

三重塔


お地蔵様から三重塔を望む
 南円堂に至る東階段の途中を左に折れると、そこに赤いおべべを首に掛けたお地蔵様がならぶ。南円堂や五重塔の雑踏をよそに、ここは人の姿もほとんどなく静かである。私はしばし休憩をとり、お地蔵さまに旅の無事をお祈りする。そして木の間に見える三重塔をじっくりと眺める。

三重塔
 三重塔(国宝)は、本瓦葺きの高さ19メートル。平安時代(1143年)に崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子によって建てられた。治承の兵火で焼失し、再建されたが(建物の様式などから13世紀初頭)、再建の記録は一切ないという。
 心柱は二層目で止まっていて、平安創建のため、木割も五重塔に比べ細い。
 四天柱間は対角線上に板を張り、千体仏を描いている。
 塔の組物は、三手先が普通であるが、初層の面積を広くとるため初層は出組となっている。

北円堂

北円堂  三重塔からなだらかな坂道を少し上ると、突当りが北円堂(国宝)である。
 八角円堂は、聖徳太子を祀った法隆寺夢殿を例にとるまでもなく、故人の冥福を祈るために建てられものが多い。塔と金堂を一つにしたものと考えらている。北円堂とは、南円堂に対する後の呼称で、もともとは円堂院というのだそうである。
 *1139年には、東円堂も建立されている。
 この北円堂は、興福寺の創建者藤原不比等の追善供養のため、その一周忌(721年8月)に元明太上天皇と元正天皇が右大臣長屋王に命じて建てさせたもの。治承の兵火の後、1210年ごろ再建されたのが現在の北円堂で、興福寺では三重塔とならび最も古い建物である。四方に扉を開き、他の四面を連子窓とするのは夢殿と同じである。軒はあまり他に例のない三間で、地垂木は六角形の断面で古い形を伝える。 
 内陣には、鎌倉再建時、運慶一門により造立された仏像(桂造)のうち、中尊弥勒(国宝)と無著(国宝)・世親(国宝)が残る。両脇待と四天王像は失われた。
 北円堂の有名な四天王像(木心乾漆像 791年作 国宝)は、もと大安寺にあったものを何時の頃か興福寺に持ってきたものである。
 無著・世親は5世紀頃のインドで法相の教学を確立した兄弟の学僧である。兄の無著は老相でうつむき加減に、弟の世親は顔を上げ胸を張った姿に造られ、好対照である。ともに日本の肖像彫刻中の最大傑作といわれている。

西金堂

西金堂跡に屯する鹿  前述のとおり、創建当初の興福寺の西には、北円堂と西金堂があった。今の北円堂と南円堂の間で、その跡地は鹿が屯する草地となっている。
 
 西金堂は、光明皇后の発願により、母橘三千代の供養のため、一周忌の734年に建てられたものである。他の堂塔同様に何回かの火災のたびに再建されたが、江戸中期の1717年の火災で焼失した以降は再建されることはなかった。

 西金堂のあったことを知らない人でも、興福寺の阿修羅像(八部衆像の一つ)は知っているだろう。八部衆像や十大弟子像(ともに天平 脱活乾漆造 国宝 )は、西金堂の本尊に随待していた群像であるといわれている(寺には現在、八部衆像は八体そろっているが、十大弟子像は六体のみ残存)。ただし、これらの像についても、興福寺本来の仏像ではなく、他の寺から持ってきた「願安寺古像」との伝説もある。  
 八部衆とは釈迦に帰依した古代インドの異教の神々のことで、ちなみに阿修羅もインドラ神(帝釈天)等天上の神々に挑む悪神であった。その阿修羅を眉間に苦悩を秘めた三面六臂の異様な姿に作りながら、全体としてはスリムに、また無垢で清楚な表情にまとめているは、見る人を魅了してやまない所以であろう。

 運慶の三男康弁の作で仏前に燈籠を掲げる国宝の龍燈鬼・天燈鬼、法会等で打ち鳴らす梵音具の一種である銅造華原磬(国宝)も西金堂ゆかりの品である。

 西金堂の本尊釈迦如来像(丈六木造再興仏)は、江戸の火災で焼けてしまい、頭部だけを残す(重文)。
 
 その他、、西金堂伝来の仏像として、益田家旧蔵の梵天・帝釈天二像が、米国・サンフランシスコ東洋美術館に保管されているという

南円堂


南円堂
 巡礼者の香煙の絶えることのない西国第九番札所として有名な南円堂(八角円堂)は、藤原冬嗣が父内麻呂の追善供養のために813年に建てたものである。
 藤原摂関家の中でも北家の力は強く、北家の覇権を確立した冬嗣ゆかりの南円堂は、興福寺の中でも特別の地位にあった。さらに、本尊の不空羂索観音菩薩がまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で、特に藤原氏の信仰を集めたという。

 江戸中期の1717年の大火災で、一山伽藍の中心である金堂さえも仮堂で忍ばなければならなかった興福寺の中で、南円堂唯一つだけ再建されたのは、どのような事由があったのでしょうか?
 
 創建時の本尊等は、治承の兵火で焼失したが、天平の古像に代わり、本尊不空羂索観音(秘仏 国宝)、法相六祖像(国宝)、四天王像(国宝)が1189年康慶一門の手により忠実に再興された。

 南円堂の前に立っていた燈籠(国宝)は、台石のみを残し、国宝館に移されている。平安時代にこの燈籠の写しが、宇治の平等院鳳凰堂前に造られたとか、古来より有名な燈籠であった。

 左下写真は、南円堂を北円堂前から撮ったものである。雑踏の表とは違って、静寂の南円堂を見ることが出来ます。南円堂を訪れる方は、是非、裏側にも廻って下さい。ここからみる五重塔も、また、いいものです。

 


中金堂跡周辺


仮金堂(旧薬師寺金堂)
 南円堂から五重塔へと歩くと、左側は工事中で基壇の上に礎石が並ぶ。その奥に現在の仮金堂がある。ただし、工事中で柵が回らされており、中に入ることはできない。
 
 西金堂は、710年から714年頃に藤原氏隆盛の基礎を築いた藤原不比等により営まれた。興福寺には金堂が三つあるが、不比等ゆかりの西金堂が寺の中心であり、最も重要な建物である。しかし、6回にも及ぶ焼失再建の後、金堂は1717年、享保の大火災で焼失して以来、仮堂のままである。
 今、仮金堂が建っているところには講堂があった。講堂は、747年に藤原仲麻呂が牟漏女王・父武智麻呂の菩提を弔うために建てたものであったが、享保の大火災で中金堂等と共に焼失して以後、再建されていない。

 天平の伽藍を復元するのが、興福寺の永年の悲願であったが、前述のとおり、現在、中金堂の復元を中心事業として境内整備計画が進められている。その計画で、享保の再建から赤堂として親しまれてきた仮金堂は取壊され、講堂跡に薬師寺から旧金堂を移築し、ここに本尊の釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像、四天王像を移座した。
 
 境内整備計画が完成した時には、南から北に南大門、回廊を廻らした中門・金堂、講堂が一直線上に並ぶ。さらに講堂の東・西・北に三面僧坊が、西東には鐘楼と鼓楼が向い合って建つ。
 平成22年には、「青丹によし寧樂の都は咲く花のにほふがごと」き壮麗で堂々とした姿を見せてくれることであろう。
 

平成22年完成を目指し、境内整備計画が進む

五重塔


五重塔
 五重塔と東金堂も天平の創建以来、焼失と再建を繰り返してきた。現在の建物は、ともに室町時代応永の火災後、復興されたものである。かっては東院仏殿院と呼ばれ、周りは回廊や築地で囲まれていて、西回廊に二つの門が開いていたという。

 五重塔(国宝)は、聖武天皇の皇后藤原安宿媛(光明皇后)が730年に建てさせたものである。塔の高さは、総高50.1メートルで、京都・東寺の五重塔に次ぐ二番目の高さを誇る。創建塔は、高さ15丈1尺であったというから、現塔は1割ほど高くなっている。
 
 塔は、5度の焼失・再建を経て、1426年に元興寺の塔を写して再建されたようであるが、応永の時になって古の昔の姿に戻したのではなく、再建にあったては、常に旧規によることを目的としていた。興福寺五重塔は、創建時の様式をよく守った純和様である。初層内部には床を張り、四天柱間には四方仏を安置している。

 猿沢の池に映す塔影は、古都奈良の象徴となっており、人を古の昔に誘うに充分な風情を漂わせている。 
 この五重塔も、明治維新後の廃仏毀釈の嵐の中で、売払われ、取壊されそうになったことは前述した。どうしても取壊すことが出来なかったため、金属だけでも取る目的で焼き払おうとしたが、類焼を恐れた付近住民の反対で焼失を免れたという。興福寺に行くことがあったら、五重塔の各層四隅に架かっている風鐸をよく見てほしい。各層とも風鐸が不足していますね。廃物稀釈の災難のために失われたらしいです。 
 興福寺の塔としては、五重塔と三重塔だけであるが、春日の社には、12世紀に東西二塔の所謂春日御塔が建てられた。しかし、1411年の応永の雷火により両塔は焼失し、林間に聳える美しい姿を再び見せることはなかった。

東金堂


東金堂
 東金堂(寄棟造 本瓦葺 国宝)は、聖武天皇が726年、先皇元正天皇の病気平癒を祈願して建てた。
  
 現在の建物は、創建以来6度の被災・再建の後、1415年再建されたものである。基壇上に立って、前面1間は唐招提寺と同じように吹き放し、屋根は寄棟、組物は三手先とするなど、創建当初の様式をよく伝えている。内陣は土間の床に石造りの須弥壇、その上に再建時に新たに鋳造された薬師如来像と脇侍日光・月光菩薩(重文)が立つ。この日光・月光菩薩は有名な仏頭とともに山田寺から奪ったものといわれている。
 
 興福寺は、治承の兵火の後、東金堂の本尊として、大化の改新の功臣で悲劇の主人公蘇我倉山田石川麻呂創建の山田寺から講堂の本尊を強奪し、1186年に東金堂本尊として移座した。その本尊は、1411年に五重塔に落下した落雷により、類焼焼失し頭部だけを残した。 仏頭(国宝)は、その残欠である。昭和12年、東金堂解体修理の時に発見され話題を呼んだ。
 この仏頭は、石川麻呂の冥福を祈るために造られたものであるが、丸顔で豊かに膨らんだ頬、くっきりとした目鼻立ち、小さくすこし突き出た唇に、若々しい円満具足した仏の姿を見ることが出来る。まさに白鳳時代彫刻の傑作である。この仏頭の数奇な運命を追いながら、また悲劇の主人公石川麻呂の冥福を祈りながら、しばし歴史のかなたに思いを馳せたいものである。
 
 木造板彫の十二神将像(国宝)も、もと東金堂に伝えられた像である。作風から11世紀前半を下らぬとみられている。躍動的で変化にとんだ身のこなしを示す像、内に力をこめて立つ像、ともに卓越した技で板彫りされている。
 その他、東金堂を代表する国宝の仏像としては、文殊菩薩像(木造)、維摩居士像、十二神将像(木造)がある。

 食堂跡
(国宝館)


食堂跡の国宝館
 明治8年に取壊された食堂(「じきどう」、僧侶が食事をするところ)跡に、昭和34年に、創建当初の食堂の概観を模した鉄筋コンクリート造の国宝館が建てられた。
 国宝館には、食堂の本尊千手観音菩薩像(国宝)をはじめ、興福寺の仏像・絵画・典籍等を収蔵・展示している。


大湯屋


大湯屋
 大湯屋は、東金堂・五重塔の西側、柵の中にひっそりと建つ。奈良・平安時代から存在はしたらしいが、現在の建物は、部材から東金堂や五重塔の再建と同じ頃、室町初期の建物である。古い寺院の湯屋としては、奈良でも東大寺と興福寺の僅か二例だけである。

 西面は入母屋、東面は切妻造となっており、東に何らかの建物があったことを思わせる。屋内は、地面に直接、鉄の湯釜を置く構造で、南北二つの釜が設置されている(ただし、北の釜は口縁の部分を残すのみ)。釜の大きさからいって(口径150センチ)、大衆浴場のようなものではなく、特別の少数の高僧だけしか入れなかったものと思われる。

 左の写真は、柵越しに撮影したもので、大湯屋内部は非公開である。


 40年ぐらい前に興福寺を訪ねたとき、昼飯に茶粥を食べた。境内の素朴な茶屋だったと記憶するが、定かではない。
 大湯屋の近くの交差点に斜交いに向い合って、茶粥の看板を掲げた茶屋が二軒あった。ずいぶんと高級そうだったので入らなかった。
 しかし、昔、食べた味が懐かしく、いつか食べてみたいと思っている。

茶粥の店

菩提院大御堂

 
菩提院大御堂
 伝では奈良時代の高僧玄ムの創建という菩提院大御堂は、五重塔とは三条通りを挟んで南側にあり、興福寺を訪れる人でも多くは見落としがちである。また、門は閉まっており、御堂内へは、入れない。
 左の写真は、門越しに撮ったもので、奥に見える鐘楼が、有名な「十三鐘」(昼夜12時に加え早朝勤行時にも打鐘)であろうか。

 また、この御堂の前庭には、近松門左衛門の浄瑠璃「十三鐘」で有名な石子詰め(春日神苑の鹿を誤って殺してしまった少年三作を石子詰の刑に処した)の塚がある。

 なお、最近の発掘調査の結果、このような大きな建物が建てられたのは、鎌倉時代初期のことで、この建物は玄ムの旧跡ではなく、玄ムを弔うための一院として造営されたものといわれている。現在の建物は、1580年に再建されたもの。

 これで興福寺の案内は終わりです。いつもの通り、猿沢の池でひと休憩して、夕闇迫る五重塔に別れを告げましょう。


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