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BGMは、一高第48回記念祭千葉医大寄贈歌「夕霧は」 2番「葛城の丘の静寂に 星屑は木梢に揺れぬ」 ただし、この「葛城の丘」は千葉の葛城である。

古道を歩く 葛城古道


 葛城古道は、当麻を起点として葛城山の東麓を二上、葛城、金剛と南下する古代の道です。沿道には古代の豪族葛城氏・鴨氏ゆかりの神社や史跡が多く残って、もう一つの山の辺の道といわれています。
 近鉄御所駅から葛城ロープウエー行きバスに乗り「櫛羅口」で下車、そこを起点に、鴨山口神社六地蔵九品寺高丘宮跡一言主神社長柄極楽寺高天彦神社高鴨神社の順に、バス停「風の森」まで約12キロを歩いてきました。



畦道や小高い丘に咲く彼岸花
 澄み切った青い空には白い雲が浮び、田圃には黄金の稲穂が垂れ、そこかしこに真っ赤な彼岸花が群れ咲いていました。誠に長閑な田園風景でした


九品寺千体仏
 バスを櫛羅口で降りると、すぐ大山祗神ほか三神をを祀る鴨山口神社があります。右折し葛城ロープウエー乗場方向に向かい、しばらくすると大きな六地蔵の石仏。葛城古道の案内板があり、ここでその日の道程を再確認しました。左折し、右手に葛城山を見上げながら、彼岸花の群咲く畦道を20分ほど歩くと行基開創の古刹で千体仏で有名な九品寺に着きます。この千体仏は、南北朝時代城主楢原氏が南朝に味方して戦った時に、地元の人々が慰霊のために奉納したものが始まりといわれています(写真)。

 


高丘宮跡から大和三山
 九品寺から葛城氏の本拠地であったという高丘宮跡を経て人言主神社へ。高丘宮跡は綏靖天皇の宮跡伝承地、碑柱のみで何もありませんが、コスモスが咲き乱れ、ここからの大和盆地の眺めは絶景です(写真)。

 中大兄皇子が「香久山は畝傍ををしと耳成と相争ひき・・・」と詠ったあの大和三山が当たり一面に咲き乱れるコスモスの花の上に浮かんでいるようでした。5世紀、大和の国を代表して朝鮮問題で活躍した葛城襲津彦の娘で仁徳天皇の皇后となった磐之媛が「あおによし奈良をすぎ をだて大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家のあたり」と詠ったのは、この辺りのことだったのでしょうか。




一言主神社
 一言主神社は葛城の大神。古事記によると、この神に葛城の山中であった雄略天皇は、「恐し、我が大神、・・・・大御刀また弓矢を始めて、百官の人等の服せる衣服を脱がしめ、拝みて奉りたまひき」と丁重に崇敬の意を表しています。葛城氏の勢力が強く天皇といえども、葛城の神を尊重しなればならなかったのでしょう。
 
 「一言主神」とはもともとは託宣が短いことからきているようですが、今は「願い事をひとことだけ聞いてくれる神」といわれ、地元の人には「いちごんじさん」と親しまれているようです。境内には乳房に似た大きな気根が多数垂れ下がる大銀杏があり、有名(坂東第29番札所千葉寺境内にも気根が垂れ下がった大銀杏があります)。

 一言主神社から代官屋敷中村家や葛城酒造等の古い街並みの残る長柄の集落をへて重厚な鐘楼門(写真)を持つ極楽寺へ。ここからは御所市内はもとより、大和盆地も一望のもとです。ここで、しばらく休憩の後、山道を登っていくと花の寺として人気のある橋本院、近くに天孫降臨の伝説の地高天原の石碑があります。天孫降臨の舞台は宮城県・高千穂の峰が有名ですが、ここにも伝説があるのですね。そしてほどなく豪族葛城氏の祖神を祀る高天原神社(写真)に着きます。参道をおおう鬱蒼とした杉の老木、苔むした鳥居、思いのほか小さな拝殿は、静寂の中にひっそりと佇み、神話の世界に引き込みます。
 
 再びもと来た山道を下り右折、左方遥かに畝傍山を眺めながら、しばらく道なりにどんどん歩いていくと、古代の豪族鴨一族の氏神で、京都の上賀茂・下賀茂神社の総社である高鴨神社(写真)に着きます。重文の桧皮ぶきの本殿もさることながら、この神社は宮司が大事に育てた桜草で有名です。


極楽寺鐘楼門
高天原神社
高鴨神社

  ここで、私の葛城古道は終わり、常に強い風が吹くという風の森峠(実際は平坦)を通って、国道24号線のバス停「風の森」まで、頬にこ心地よい風を受けながら田舎道をぶらぶら歩いて帰りました。

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