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  BGMは、一高大正九年寮歌「のどかに春の」。「若きがゆゑにあこがれの 丘にのぼりしこのほこり、・・・手をあげ舞ひて友よいざ、
 かたみに美酒くまんかな」。今も 一高生に広く愛唱されている。

古道を歩く 多武峯へ、そして飛鳥へ


夕されば小倉の山に鳴く鹿の 今宵は鳴かずいねにいけらしも(万葉集 巻八 舒明天皇)
 
私が、この歌を初めて知ったのは高校生の時であった。爾来、小倉の山、すなわち多武峯を訪ねたいと長く思っていた。飛鳥を歩く機会は何度かあったが、石舞台から、また初瀬から、遠くその方向を見上げるだけに終わっていた。
 厳寒の真冬ではあったが、ついにその日はやってきた。私は、多武峯観光ホテルに、震える声で電話して予約を取った。桜井から多武峯へ、一泊して、そして飛鳥へと、蘇我氏の興亡や大化の改新の歴史の跡を辿り、寒さもなんのその、額の汗をぬぐいながら歩いてきた。
*小倉の山は、舒明天皇の崗本宮近くでも三つある(斉藤茂吉)。しかし、私は多武峯であると思いこんでいる。

桜井から多武峯へ


 近鉄上本町(昔は、「上六」といっていたように思う)から桜井へは急行で約40分。さらに桜井から多武峯へは、奈良交通バスで約25分である。しかし、桜井駅からのバスは便数も少なく、また途中、安部文殊院、聖林寺、崇峻天皇陵にも寄ってみたいと思っていたので、歩くことにした。距離にして、約5.5キロ、寺川にそって多武峯道を南へ南へ歩けばよい、たいしたことはなかろうと思っていた。
 

安倍文殊院


安倍文殊院
 国道165線を東へ、このまま進めば山田・磐余の道で、飛鳥へと続く。すぐ南に転じてしばら行くと日本三大文殊の一つ安倍文殊院。最近では、ボケ封じや陰陽師安倍清明の寺として訪れる人が多い。
 安倍寺は、645年の乙巳(いっし)の変で左大臣になった安倍倉梯麻呂の創建である。中世は東大寺末寺であったが、16世紀後半に兵火で焼失した。発掘調査では、金堂・塔・講堂・回廊等が発見されており、法隆寺様式の伽藍であった。
 現在の安倍文殊院は、この安倍寺跡南西の地に再興され、鎌倉期の文殊菩薩像(快慶作)等を伝える。
 この寺の近くに土舞台といって、聖徳太子が百済の味摩之に命じて少年たちに伎樂舞を習わした跡がある。近年、演劇発祥の地として、演劇関係者から顕彰されている。
 

談山神社一の鳥居


談山神社一の鳥居

二の鳥居(受付)
 南へほどなく進むと、広い通りの向こうに大きな石の鳥居が見えてくる。談山神社の一の鳥居(1724年再建)である。二の鳥居は、山上、談山神社の受付横にあり、一の鳥居からは5キロ以上離れている。もうすぐ談山神社と思ったら大間違いである。

 一の鳥居の傍らに、一基の町石(丁石とも)がある。ここから多武峯の摩尼輪塔にいたるまで、一丁毎に町石が52基おかれていた(「桜井のかたよりはじまりて、たむのみね迄、瓔珞の五十二位という事を、一町ごとにわかちて・・・」本居宣長・菅笠日記。現存31基)。
 
 摩尼輪塔は、菩薩が五十二級の修行を終えて、悟りを得て如来になった姿を表している。一の鳥居のところの初石は、まだ「迷い」の町石ということになる。

 多武峯参りが盛んだった頃、急坂の登り道を前にしたこの辺は、参拝者の休みどころであったろう。今は、そのような施設も面影もないが、昔の旅人に倣い、私も、ひと休憩することにした。
 

町石

摩尼輪塔

聖林寺

 一の鳥居を後にして、寺川沿いに多武峯街道を進む。途中、寺川を渡り坂を登ると、十一面観音像(国宝 木心乾漆)で有名な聖林寺である。712年に藤原鎌足の長子定慧により、妙楽寺(現談山神社)の別院として建立された。度々の火災に会い、衰微していたのを鎌倉時代には三輪山の慶円上人が、また江戸時代には三輪山の玄心和上が再興した。聖林寺は、三輪山とは、縁浅からぬ間柄であった。
 
 天平の名作国宝十一面観音像は、もともとはこの寺のものではなく、三輪神社の神宮寺のひとつ大御輪寺の本尊であった。明治の廃仏毀釈の際に、縁の下に捨てられていたのを「誰もいらないなら、わしがもらおう」と聖林寺の住職(当時)がもらってきたとか、フェノロサが発見し、住職と相談して聖林寺に移したとかいう話が伝わっている(和辻哲郎「古寺巡礼」、白洲正子「十一面観音」)。最近の寺のホームページでは、神仏分離令の時に大御輪寺から聖林寺に移し、次いでフェノロサと岡倉天心により秘仏の禁が解かれたと少し話が違う。それはともかく、戦前の住職の話では、小僧の時に、三輪からこの地まで、フェノロサも付き添って、この像を荷車で運んできたという。聖林寺の急坂を登るのに随分苦労したことであろう。
 
 寺の本尊は子安延命地蔵尊像である。本尊ではないこの十一面観音像は、本堂の隣の部屋に、厨子ともいえぬ粗末な板囲いの中に長く入れられていた。今は昭和34年に観音堂が建てられ、そこに安置されている。私が寺を訪れたのは真冬のこととて、他に誰も参拝者はいなかった。決して広いとはいえない観音堂で、間近にじっくりと時間をかけて、この像を眺めることができた。私たち衆生をあらゆる苦難から救ってくれる慈悲深い観音様、人間の姿をされながらも決して人間ではない現実を超越した理想像としての観音様、確かにこの十一面観音像は、世間が絶賛するだけあって、すばらしい。しかし、どこか寂しげで、どこか違う。仏様には、仏様にふさわしい居場所がある。「これを三月堂のやうな建築の中に安置して周囲の美しさに釣りあわせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう」(和辻哲郎)。文化財保護のために作った観音堂は、余りに立派過ぎ、古色蒼然とした天平仏を安置するには不似合だという感じを禁じ得なかった。
*廃仏毀釈で十一面観音とともに、もう一体「地蔵菩薩像」(国宝)が大御輪寺から聖輪寺に持ち込まれた。聖林寺では、「寺に二つの地蔵は不要」との理由で、引取りを断ったそうである。地蔵菩薩像は、場所を得て、現在法隆寺金堂に安置されている。
 


聖林寺石柱標識

聖林寺山門

本堂から三輪方向を望む

聖林寺境内
 左の写真の標識に従って、山腹の高台目指し、細い道を進む。石段を登ると写真中央上の山門に着く。
 山門をくぐると、すぐ本堂である(写真中央下)。前庭に石造りの十三重の塔と灯篭があって、四季折々の花が咲いて美しいとの評判である。私が訪れた冬のこの時期は、南天の赤い実がとても綺麗だった。
 
 聖林寺は山の中腹の高台にあるので、本堂からは三輪山、箸墓、山之辺の道等一望することが出来る。しかし、あいにくの天気で、見晴らしはよくなく、残念であった(写真右上)。

崇峻天皇陵


 聖林寺を後に、多武峯道をさらに登る。このあたりからバス道(桜井吉野線)となるが、バスには乗らず歩く。倉橋の集落に入り、中ほど細い道を右に曲がると、崇峻天皇の倉梯柴垣の宮跡倉梯岡上陵がある。
 崇峻天皇は、欽明天皇の皇子、母は蘇我稲目の娘の小姉君で、蘇我馬子の甥にあたる。用明天皇の死後、蘇我馬子の物部守屋討伐軍に加わり、即位した。のち大臣の馬子と不和になり、東国の調進上を口実に誘い出され、馬子の命を受けた渡来人東漢直駒により暗殺された。
 歴代天皇のうち、文献ではっきりと暗殺されたと記録の残っているのは、この崇峻天皇だけである。馬子の傀儡であることに不満を持った崇峻天皇が、馬子を殺して政治の主導権を握ろうとした。崇峻天皇は、献上のイノシシを見て、「いつになったら、このイノシシの頭を切るようにして、いやな男を殺すことができるのだろう」ともらした。天皇の寵愛を失った后の大伴小手子がこれを密告し、逆に馬子に先手を打たれ殺されたと「日本書紀」は伝える。げに恐ろしきは、女の嫉妬である。
 崇峻天皇の遺体は、殯も行われず、その日のうちに、その場に埋葬されたとも、また馬子の報復を恐れ、七日七夜の間、放置されたままであったとか、誠に哀れな話である。
 御陵は、宮跡のすぐ前にあり、木が生い茂っただけの盛り土もない天皇の墓としては粗末なものである。崇峻天皇陵としては、他に藤ノ木古墳説等がある。藤ノ木古墳説は、聖徳太子が母の穴穂部間人皇后の同母兄弟である穴穂部皇子と崇峻天皇(泊瀬部皇子)の二人の死を哀れみ、法隆寺の斑鳩の里に葬ったものという。

崇峻天皇陵


 崇峻天皇陵を後に、再び多武峯道に戻る。ここから談山神社までの約3キロは、見る所もこれといってなく、ただ、ひたすら歩くのみである。しかし、この辺りから坂は徐々に急となっていった。桜井の駅を降りた時、5,6キロの距離を歩くなどたいしたことはないと高を括っていたが、やっと間違いと気づいた。道路が整備されバスが通る広い道となっても、山道は山道、基本的には昔と傾斜は変わらない、平地とは異なるのである。多武峯まで、行き交う人も誰もいなかった。私は、この坂道を片足を交互に両手で持上げるようにして必死にあえぎあえぎ登った。やっとの思いで、バス停多武峯前の屋形橋(写真下左)に辿り着いた時には、私は疲れきっていた。昔の遊び人に倣い、私も少し、休むことにした。

          雲雀より上にやすらふ峠かな     芭蕉


談山神社


屋形橋

東大門
 屋形橋は、寺川にかかる屋根付の朱塗りの欄干の橋である。その昔、松尾芭蕉や本居宣長が談山神社を訪れた時も、この橋を渡ったという。

 ここから鬱蒼とした杉並木の参道が続き、ほどなく談山神社の総門東大門に至る。東大門は両袖付高麗門本瓦葺きで、神社には珍しい城郭風の構えである。この門をくぐったところに下乗の石標が建つ。この辺りから両側に石垣の屋敷跡が続く。神仏分離令で取壊された寺院跡であろうか、それとももっと昔、興福寺衆徒との争いで兵火に焼かれた跡であろうか。往時の盛んであった頃の多武峯の姿が偲ばれる。
 
やがて52番目で最終の町石ともいうべき摩尼輪塔が参道左手に立つ。私も疲れた疲れたとばかりは、言っておれないが、そこは生身の人間である。摩尼輪塔のように、悟りを得た菩薩には、到底なれない。次に、多くの石灯籠が立つ中でも、後醍醐天皇が1331年に寄進した石灯籠がひときわ目立つ。灯籠寄進の年に、後醍醐天皇は笠置山で捕らえられ、翌年には隠岐に流されている。この悲劇の天皇は、何を願かけて藤原鎌足を祀る談山神社に灯籠を寄進したのであろうか。
 
二の鳥居・入山受付の手前参道を摩尼輪塔を過ぎたあたりで、左に曲がりしばらくすると、鎌足の次男藤原不比等の墓と伝える石造の十三重の塔がある。

後醍醐天皇石灯籠

藤原不比等の墓

 談山神社は、大化の改新の功臣藤原(中臣)鎌足を祭神とする神社である。唐から帰朝した鎌足の長子定慧が攝津にあった父鎌足の墓を由縁深い多武峯に移し、弟の不比等とともに十三重の塔(678年)講堂(679年)を建立したのが談山神社の始まりである(創立の年は、本殿が創建された701年とする)。多武峯寺と称され、また天台宗妙楽寺と号した。中世には、藤原氏の氏寺である奈良興福寺衆徒としばしば争い、また南朝の遺臣が多武峯に拠ったため、足利氏の討伐を受けるなど兵火により、堂舎はたびたび焼かれた。
 明治2年の神仏分離令により、一山の僧侶は皆復飾して神官となり、多武峯寺、妙楽寺はその名を失い、談山神社と改称された。
談山神社の談山とは、中臣釜足と中大兄皇子が神社の裏山で、密かに大化の改新の謀を「談り(かたり)合った」という故事による。
 本殿裏山談い山(566メートル)には「大化の改新」談合の碑があり、大和平野を一望する後破裂山(607メートル)は藤原鎌足の古墳と伝う。やがて事件の舞台となる蘇我蝦夷・入鹿屋敷のある甘樫丘、板蓋宮を眺めながら、乙巳の変やその後の改新の諸政策について、あれこれ二人で話し合ったことだろう。若き日の鎌足と天智天皇の侃侃諤諤の熱のこもったやりとりが、そこらから聞こえてきそうである。


十三重の塔

拝殿
楼門・拝殿本殿 入山受付をすませ、二の鳥居をくぐって、石段を登った右側に楼門・拝殿・本殿がある。楼門・拝殿・東西透廊で本殿を囲む壮麗で特異な形式。本殿は、朱塗り極彩色で、将軍家光が日光東照宮創建の際、手本にしたといわれる。拝殿は唐伝来の伽羅木の格天井が有名。拝殿内で多武峯縁起絵巻等展示していたが、私の注目は「百味の御食」。1438年、時の管領畠山持国により堂舎を焼かれ、神像も橘寺に難をさけていたが、1441年(嘉吉元年)やっと多武峯に戻った。爾来、今日まで嘉吉祭(毎年10月第2日曜日)として、その喜びを伝えている。百味の御食とは、氏子が穀物で作ったお供え物のこと。色彩豊かで、まるで雛祭りのお供えもののようである。

十三重の塔
 藤原鎌足の廟所。高さ約17メートル、わが国唯一の木造の十三重の塔である。唐の清涼山宝池院にあった十三層の塔を模したものといわれる。

神廟拝所
 妙楽寺の元講堂。十三重の塔(廟所)の正面に位置する。内部壁画の羅漢と天女像が有名。

摂社東殿
 鏡女王・定慧・藤原不比等を祀るが、もとは定慧を供養する本願堂で、1619年造替の本殿を1668年に移築したもの。今は「恋の神様」として、特に若い女性に人気がある。

楼門

新廟拝所(旧講堂)

本殿

百味の御食

摂社東殿


 ここ多武峯は、古くから、初瀬と吉野の中宿として、さらには京都と熊野の中宿として、訪れる人が跡を絶たなかったという。春は桜、秋は紅葉の名所でもある。「飛鳥の京を去ること遠からぬこの多武峯山中」は、密かに謀を談ずる恰好の場所だったのだろう。
 明日は、多武峯から飛鳥に歩く。ホテルの大浴場で、ゆっくり今日の疲れを癒して、明日に備えることにした。
 


多武峯から飛鳥へ

 翌日は、多武峯から飛鳥石舞台まで下り(約5キロ)、その後は、その時の気分により飛鳥を適当に散策して、橿原神宮駅から近鉄に乗り、京都経由で帰京との大雑把な日程を組む。
 
 多武峯観光ホテルを出て、左へ。やがて西大門跡を右の道をとり、飛鳥は石舞台を目指す。道は、山間のハイキングコースで、下り一方の細い道である。道端には所々に石仏があり、それらを観察しながらのんびりと歩けばよい、道もそれなりに整備されているはずと思っていた。しかし、その考えは甘かった。前年に、大きな台風がこの地を襲い、あちこちに大変な被害をもたらした。千古斧を知らざる三輪山の神聖な木々が倒れ、秀麗な姿が無残にも損なわれた。室生寺の五重の塔も倒れた大木で大破損した。この台風で、多武峯の山も相当に痛めつけられたとみえる。何箇所かで、一抱えも二抱えもある風倒木が道を塞いで私のいく手に立ちはだかった。私は、風倒木の下をくぐったり、よじ登って乗り越え、あるいは迂回した。私は、生来の方向音痴で、よく道に迷う。この時もそうであったかもしれないが、とにかく相当に難儀をした。

 1キロ以上もそういう山道を歩いた。やがて冬野川のせせらぎの音が聞こえるようになって、視野が開けてくる。山間の小径から林道のような道に出た。そのまま進んでいくと左側にこんもりした森が見えてくる。気都倭既神社である。
 645年乙巳の変の時、、板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺した中臣鎌足が入鹿の首に追われてこの森に逃げ込み、「もうここまでは追ってこぬだろう」といったとか。それで、この森のことを、「もうこの森」という。鎌足がその時に腰掛けたという石ものこっているが、もちろん作り話であろう。ただし、ここは、多武峯と飛鳥の中間点で、休憩にはちょうどよい場所である。鎌足も中大兄皇子も、多武峯への行き交いの途中、この森で休憩したことは、充分にあり得る。
 もうこの森から石舞台へは2.4キロ、ただひたすら坂道を黙々と下っていくだけである。真冬のこの時期、花もなければ緑もない。冬野川のとうとうとした流の音のみが耳に残っている。

 その冬野川が稲淵川と合流して飛鳥川となる辺り、島の庄に有名な石舞台がある。

*以下の写真には、前年秋に飛鳥を訪れた時のものも使用することがある。

 

石舞台


石舞台
 この巨大な石積は、島の庄に屋敷を構え島大臣と称された蘇我馬子の桃原墓という説が有力である。
 古墳上部の封土は失われ、天井石が露出した姿は、素朴で飛鳥を代表する遺跡となっているが、時の天皇をも凌いだ馬子の権勢に思いを致すとき、哀れをさそう。
 石舞台の名前の由来は、この巨大石の形状からとされているが、その昔、狐が女に化けて、この石の上で踊ったとか、旅芸人が舞台代わりにしたとか、言われている。

 石舞台も公園となり、周りに柵がはりめぐされ、有料となった。昔は、自由にこの舞台に上り、弁当を食べたりする人も多かったが、今は禁止だそうである。
 

         

石舞台から北に歩を進め、岡寺酒船石飛鳥寺へ。南にもどり、板蓋宮跡を経て西へ。川原寺橘寺の順に歩いた。


岡寺


岡寺如意輪観音

岡寺本堂
 岡寺は、663年、義淵僧正が草壁皇子の宮を下賜され創立した寺で、正式には龍蓋寺という。西国33ヶ所の第7番札所である(徳道上人の観音巡礼順では、長谷寺が1番、岡寺が2番であった)。本尊は、わが国最大の塑像「如意輪観音像」である。
 この寺の近くに農地を荒らす悪龍がいた。義淵僧正は、その法力でもって、この悪龍を小池(本堂前の龍蓋池)に封じ込め、大石で蓋をしたという。この伝説が「龍蓋寺」の由来である。
 万葉集に「大君は神にし座せば水鳥の多集く水沼を京師となしつ」とあるように、飛鳥のこの辺りは、湿地帯がおおく、宮を築くには大規模な土木工事を必要としたことであろう。飛鳥川も稲淵川と冬野川が合流する辺り、今はそれ程の川でもなさそうだが、昔は暴れ川だったのではないか。義淵僧正は、灌漑工事や埋立て工事に何らかの役割を果たしたことが、龍蓋伝説として後世に伝えられたのではないか等、さらには石舞台の封土もこの川の洪水により流し去られたのではないか等、勝手にあれこれ思いをめぐらしながら、酒船石へと向かった。
 

岡寺仁王門


酒船石


酒船石
 飛鳥には、用途不明の不思議な石造物が多い。この酒船石もそのひとつである。
花崗岩の表面を平らに削り、水路状の溝と浅い穴が彫られている。酒の醸造に用いられたらしいということで、酒船石と呼ばれている。昼尚暗い竹やぶの前に、ひっそりと置かれている。
 平成12年、酒船石の北側低地に亀型石造物が発見されたことから、水を用いた何らかの宗教的儀式で使われた祭祀の場との見方が高まっているが、いまだ定説を得てない。


飛鳥寺


               飛鳥寺(安居院)
 飛鳥寺は、わが国最初の本格的仏教寺院。神道派の物部氏を倒し勝利した崇仏派の蘇我馬子の発願。588年に起工し、596年に塔が完成している。1塔3金堂の飛鳥式伽藍配置をもち、東西2町、南北3町の広大な寺域を占めていた。蘇我氏が滅亡した乙巳の変の後も、官寺として優遇された。平城京遷都後も元興寺に寺籍を移すが、本元興寺として12世紀末まで伽藍を保っていた。しかし、寺運は平安時代後半以降、衰微の一途を辿り、1196年の火災により、最後に残った塔と本尊の鞍作鳥作釈迦如来像(飛鳥大仏)を安置する中金堂までが焼滅した。
 
 本尊は、この火災で大きな被害を蒙った上に、長く雨ざらしのまま放置され、また体内に金が入っているとの噂から盗賊に壊されたりして、荒れ放題であった。元禄になって現在の安居院が中金堂と同じ場所に再興され、やっと大仏を奉安する場所ができたという。
 
 満身創痍のこの本尊は、わが国初の本格的な丈六の金銅仏であるが、ほとんどの部分が後世の補修で、当初の部分は、わずかに頭部の鼻から上、右手の指3本に過ぎない。それでも中国の北魏様式をうけ、面長で杏仁形の目、アルカイックスマイルをたたえた唇等から、もとの格調高い仏像の姿を思い描くことができる。
 

飛鳥大仏

   入鹿首塚、後方は甘樫丘
 飛鳥寺の西広場に入鹿の首塚と伝えられる五輪塔(花崗岩、様式から見て南北朝時代のものか)がある。飛鳥川を隔てて真西に甘樫丘があり、蘇我蝦夷・入鹿の上宮・谷宮と呼ばれた城のような屋敷があった。飛鳥板蓋宮で入鹿の首を討ち取った中大兄皇子・中臣鎌足の軍勢は、ここ飛鳥寺に拠って、蘇我氏と対戦する。入鹿の首が板蓋宮からこの地まで飛んできた話は嘘だろうが、入鹿の首塚がここにあっても不思議ではない。入鹿の首をここまで持ってきて、甘樫丘の蘇我氏側に討ち取った証を示し、降伏を求めたことは想像に難くない。
 飛鳥寺を後にして、田圃道を南に明日香村役場の方向に戻る。途中、田圃の真中一画に石敷きの遺跡公園がある。伝飛鳥板蓋宮で、645年乙巳の変の舞台である。ただ、ここには4期の宮殿遺構が重複し(岡本宮・板蓋宮・後岡本宮・浄御原宮)、それぞれ比定する宮は確定していない。現在の遺跡公園は、天武天皇の飛鳥浄御原宮という説が有力である。
 

 飛鳥郵便局のところで右に折れ、以後、基本的には近鉄岡寺駅方向に西に歩く。右に川原寺跡、左に橘寺が見えてくる。
 川原寺、橘寺の後は、亀石天武・持統天皇合葬陵鬼の俎板・雪隠吉備姫王墓・猿石欽明天皇陵橿原神宮の順に歩く。
川原寺橘寺



川原寺
橘寺
橘寺二面石
 川原寺は、かっては飛鳥四大寺の一つで、南大門・中門・東西回廊・2金堂・1塔・1講堂・3僧坊を擁する大伽藍であった。創建については、660年代に天智天皇が母斉明天皇の冥福を祈って川原宮跡に建立したという説が有力。写真の手前は中門の、右上奥は塔の基壇である。
 中金堂跡に建つ現弘福寺の本堂周辺には、瑪瑙といわれた大理石の礎石が残り、往時の豪壮さがうかがえる。
 寺跡は、史跡公園として整備されており、休憩スポットとして人気がある。
 橘寺は、聖徳太子創建七ヶ寺の一つで、太子生誕の地、父用明天皇の別宮が営まれた地という。606年、太子がこの地で、「勝鬘経」を講経すると、蓮の花が降って1メートルも積もる奇瑞が起こった。これを聞いた推古天皇が寺院の建立を命じたという話が伝わっている。もともとは、川原寺に対する尼寺であったと考えられている。
 発掘調査では、東西に軸線をもち、中門・塔・金堂・講堂が一直線上に並ぶ四天王寺式の大伽藍跡が確認されている。平安時代以降、何度かの火災で堂宇を失い、1506年には多武峯衆徒の焼討ちにあった。現在の本堂、観音堂等は、江戸時代に再建されたもの。
 なお、本堂脇に二面石があるこの石に刻まれた二つの顔は、古代日本版ジギルドとハイドともいうべき人の善と悪二面相を表しているという。

亀石


亀石
 亀によく似たこの巨石が何のために作られたのかは不明である。川原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石ではないかとの説があるほか、次のような伝説が有名である。
 
 昔、大和が湖であった頃、対岸の当麻と川原が争い、湖の水を当麻に取られてしまった。そのため、湖に住んでいた多数の亀が死んでしまった。亀を哀れに思った村人達が亀の形を石に刻んで供養したそうである。
 今、亀石は南西を向いているが、もし西を向き当麻をにらみつけた時、山と盆地は泥沼になるという。
天武・持統天皇合葬陵
 天武天皇(大海人皇子)は、兄天智天皇の後継をめぐり、大友皇子と対立、いったんは吉野に逃れるが、672年、壬申の乱で大友皇子に勝利して、翌年飛鳥浄御原宮で即位した。岡寺のところで引用した万葉集の歌に、「おおきみは神にしませば」とあるように天皇を中心とした中央集権国家体制を押しすすめるとともに、仏教統制の強化や修史事業に力を注いだ。国号を倭から日本に改めたのも天武天皇説が有力である。
 
 持統天皇
は、天智天皇の二女。天武天皇と結婚し、草壁皇子を生んだ。壬申の乱により天武が即位した後は皇后となり、政治を補佐した。天武亡き後は、ライバル大津皇子(母は持統の姉大田皇女)の謀反事件を処理し、草壁皇太子の即位を熱望していたが、皇太子の死去により、690年正式に即位した。飛鳥浄御原令施行、藤原京遷都等、夫の遺業を継いで律令国家体制建設に努力した。697年孫の文武天皇に譲位、702年に死去した。天皇として、初めて火葬が行われ、夫天武天皇の檜隈大内陵に合葬された。
 
 鎌倉時代にこの陵が盗掘に合った時に、遺骨が引出され、その辺りの道にばら撒かれたという。永遠の愛を誓った筈の持統天皇の予想もしていなかった事態であろう。

天武・持統天皇合葬陵
鬼の俎板・雪隠

鬼の俎板

鬼の雪隠
 封土を失った古墳の石室で、俎板は底石、雪隠が蓋石である。646年の薄葬令の規制に合わせて作られている。
 
 霧が峰といわれるこの一帯には、鬼が住み道行く人に霧を降らせ、迷ったところを捕らえて俎板の上で料理し、雪隠で用をたしたという伝説が残っている。
猿石と吉備姫王墓
 吉備姫王は、孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の母にあたる。
明日香村島に拠点を置き、貸稲(いらしのいね。律令制による「出挙」以前に行われた稲の貸付制度)の経済活動を行っていた。中大兄皇子の祖母にあたり、蘇我氏を倒した乙巳(いっし)の変では、中大兄皇子を財政的に援助したという。

 猿石は、江戸時代に欽明天皇陵の南側の池田から掘り出された石造物。吉備姫王墓の柵内に置かれている。
 この猿石も、何のために作られたのかは謎のままである。この近くに飛鳥京の迎賓館のような施設があり、そこの飾り物ではなかったか、という説もある。

猿石と吉備姫王墓
欽明天皇陵
 欽明天皇は、6世紀中葉の天皇。継体天皇の皇子で、母は仁賢天皇皇女の手白香皇女である。治世中に仏教公伝(538年と552年の2説)があり、また562年には任那官家が新羅に滅ぼされた。

 継体天皇と欽明天皇の間には、異母兄安閑・宣化天皇が即位したという説と(古事記・日本書紀)、継体死後、直ちに即位したという説がある(上宮聖徳法王帝説・元興寺縁起)。また、両王朝並存した時期があったとする説もある。これらから、継体天皇晩年から皇位継承と朝鮮半島との外交交渉をめぐり対立が生じ、内乱が発生したとする説も出ている。百済本記は、継体天皇が死んだ531年に、日本の天皇・太子・皇子の死を伝えている。
 
 欽明天皇は、敏達・用明・崇峻・推古の4代の天皇の父である。敏達の母は宣化天皇の皇女石姫であるが、用明・崇峻・推古の母は、蘇我稲目の娘堅塩姫と小姉君である。渡来人をバックに朝廷で力を持ってきた蘇我稲目と結び、宣化天皇の皇女を后に立て、また大伴金村の息子大伴狭手彦を重用し、安定した政権を樹立した。

欽明天皇陵

橿原神宮外拝殿

橿原神宮紀元祭
 これで、私の古道を歩く「多武峯へ、そして飛鳥へ」は終わりです。
最後に、大和三山は畝傍山の麓にある神武天皇を祀る橿原神宮(明治23年創建)にお参りしました。折りしも紀元祭の日にあたり、多数の参拝客で混雑していました。帰りの近鉄は、私にしては、奮発して特急で京都まで帰りました。新幹線で缶ビールをがぶ飲みしたのは、言うまでもありません。

 香具山は畝傍ををしと耳梨とあらそひき神代より斯くなるらし 古もしかなれこそうつそみも妻を争ふらしき
                      中大兄皇子


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