旧制第一高等学校寮歌解説

彌生の丘四十五年

昭和10年第45回紀念祭寄贈歌 金澤醫大

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        ○
    彌生の丘四十五年
    自治の城()りしもろ人
    若き日の想ひに()えて
    惜しまずや今宵名殘ぞ
    惜しまずや今宵名殘ぞ
        
    若人よオリブの陰に
    月洩るる古寮の窓に
    刻み行け(しる)き跡あと
    (よす)がにも人生(ひとよ)の旅の
    縁がにも人生の旅の

        
    懷ひ出や古りていやまし
    三つ年や過ぎてなつかし
    丘こそは吾等がふるさと
    向陵の地!とはに忘れじ
    向陵の地!とはに忘れじ

        
    駒場なる向ヶ丘は
    俗巷(ちまた)去り澄むや朝風
    自由こそ若き誇りに
    高らかに伸びよ柏葉(かしはば)
    高らかに伸びよ柏葉
嬰へ短調、2拍子は不変。速度記号Adagioは、「ゆるやかに」「しずかに」という意味。
平成16年寮歌集で、次のように変更された。
1、「やよい」(1段1小節)          ミーラーラ     
2、「じちのしろもりしもろびと」(2段)    レーレドーレ ミーファーミ ドードシード ラー
3、「もえ」(3段3小節)            ファーファ  
4、「おしまずやこよ」(4段1・2小節)   レーレレーレ ドーシーシ 
5、「し」(5段1小節2音)           ミ  
6、「こ」(5段2小節2音)           ラ  
7、「り」(5段3小節4音)           シ  
寮歌の常として、皆が楽譜通りに歌うとは限らない。ましてこの歌のようにゆっくりと歌う歌は、なかなか合わないものである。


語句の説明・解釈

金沢醫科大學は、大正12年4月に金沢醫学専門学校(明治34年第四高等学校医学部を母体に設立)が昇格して発足した大學である。
この寮歌は、「自由こそ若き誇りに 高らかに伸びよ柏葉(繰り返し)」で終わる。この寮歌を最後に一高寮歌から「自由」の文字が消える。「誇の丘の三つ歳や 天翔け渡る自由に生き 橄欖の花散らふ下 眞理の實をば探してし」(昭和8年「古りし榮ある」4番)自由で元気な一高生は二度と見ることが出来なくなってゆく。

語句 箇所 説明・解釈
彌生の丘四十五年
自治の城()りしもろ人
若き日の想ひに()えて
惜しまずや今宵名殘ぞ
1番歌詞 彌生が岡45年の間、この自治の城を守ってきたもろ人よ。向ヶ丘三年の思い出に青春の血を滾らせて、今宵、向ヶ丘との最後の別れを惜しもうではないか。

「自治の城守りしもろ人」
 一高は俗界の俗塵を絶つため皆寄宿制度を採り、1年生から3年生まで全員が三年間向ヶ丘の寄宿寮に入寮し、起伏しを共にした。これを籠城という。その一高寄宿寮は、四綱領に基づき寮生による自治によって運営された。自治は先輩から後輩へ連綿として引き継がれていった。「自治の城」は、寄宿寮。「もろ人」は、歴代の寮生である。
 「四綱領」とは、寮開設にともない木下校長が寮生活において守るべき精神として示した四つの項目のことで、次のとおり。
          第一  自重の念を起して廉恥の心を養成する事
          第二  親愛の情を起して公共の心を養成する事
          第三  辞譲の心を起して静粛の習慣を養成する事
          第四  摂生に注意して清潔の習慣を養成する事

「若き日の想ひに燃えて」
 「若き日の想ひ」は、向ヶ丘三年に思いを馳せること。

「惜しまずや今宵名残ぞ」
 今宵が向ヶ丘での最後の紀念祭であり、向ヶ丘との最後の別れである。
若人よオリブの陰に
月洩るる古寮の窓に
刻み行け(しる)き跡あと
(よす)がにも人生(ひとよ)の旅の
縁がにも人生の旅の
2番歌詞 一高生よ、昼は橄欖の樹の下で、また夜は月の光のさす寮室の窓辺により、友と理想を語り合い、友情を固く誓った思い出を忘れないように、しっかりと胸に刻んでおけ。人生の旅の途中、奇しくも立ち寄った向ヶ丘の寄宿寮の思い出を。

「若人よオリブの蔭に 月洩るる古寮の窓に 刻み行け著き跡あと」
 「オリブ」は、橄欖のことで、一高の文の象徴。「刻み行け」は、寮室の窓の壁に思い出の落書を書き残す意ではなく、「橄欖の下で」、「月洩るる」とあることから、友と理想を語り合った向ヶ丘の思い出を忘れないように胸に刻むことと解した。「著き」は、明瞭で紛れることがない。

「縁がにも人生の旅の」
 一高生は、若き三年間を眞理の探究と人間修養のために向ヶ丘の寄宿寮に旅寝する。三年経てば、向ヶ丘を離れ、また別の旅に出かける。
 「奇しき縁のありと聞く 同じ柏の下露を くみて三年の起き臥しに 深きおもひのなからめや」(明治40年「仇浪騒ぐ」2番)
 「本意は『人生の旅の縁にも』というべきところ。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
懷ひ出や古りていやまし
三つ年や過ぎてなつかし
丘こそは吾等がふるさと
向陵の地!とはに忘れじ
向陵の地!とはに忘れじ
3番歌詞 思い出というものは、古くなるほど、益々懐かしくなるものである。向ヶ丘三年の思い出は、向ヶ丘を離れて年が経つにつれ、懐かしさが増す。向ヶ丘こそは、我等一高生を育ててくれた揺籃の地であり心の故郷である。向ヶ丘の地を決して忘れてはいけない。

「懷ひ出や古りていやまし」
 「懷ひ出」は、向ヶ丘三年の思い出。「いやまし」は、彌増し。

「丘こそは吾等がふるさと 向陵の地!とはにわすれじ」
 「じ」は、推量の「む」の否定形。「忘れじ」の主体が一人称の時は、「・・・ないつもりだ」。二人称の時は、「・・・てはいけない」。三人称の時は、「・・・ないだろう」。ここは先輩から後輩に送る寄贈歌であるので、二人称を受けると解し、「忘れてはいけない」とした。
 「わがたましひの故郷は いまも緑のわか草に」(大正5年「わがたましひの」1番)
 「われらの命の芽生えの地 われらの心のみのれる地 かのふるさとをし忘れめや 向ヶ陵をし忘れめや」(大正5年「われらの命の」1番)
 「近時傳統を再検討せんとするの氣運全寮に漲り、長髪美髪問題又通學生と皆寄宿制度の問題等頻りに起りぬ。即ち渡邊五郎等が批判精神の再興を論じ、併せて長髪問題に及べり。この批判精神の再興は、この丘を去りて駒場に移轉するの日間近に迫れる頃再び盛んに起りしものにして、當時の文藝復興の氣運と併せて、蓋し思想搖籃の地向ヶ丘に對する最後の衷心の餞ならん。」(「向陵誌」昭和10年)
駒場なる向ヶ丘は
俗巷(ちまた)去り澄むや朝風
自由こそ若き誇りに
高らかに伸びよ柏葉(かしわば)
高らかに伸びよ柏葉
4番歌詞 新向陵・駒場は、街中から遠く離れ空気も澄んでいることであろう。自由こそ若者の誇りである。一高生よ、その地で、自由に伸び伸びと過ごして高らかに成長せよ。

「駒場なる向ヶ丘は」
 一高は、この年の9月に、東京帝国大学農学部との敷地交換で、本郷から駒場に移転を予定していた。駒場の地が本郷と同じく「向陵」と正式に命名されたのは、昭和10年9月14日、駒場移転の日である。ちなみに、大正8年帝国大学令の改正により、東京帝国大学農科大学等の各分科大学は、それぞれ帝国大学の学部となった。

「俗巷去り澄むや朝風」
 駒場は、前述のとおり東京帝国大学農学部の敷地だった。駒場は、江戸時代は、将軍家の鷹狩の場であり、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」といわれた本郷と比べれば、駒遊ぶ田園であった。
*「かねやすまで」とは、塗り壁瓦葺の江戸の町は「かねやす」までという意味であって、駒込・巣鴨あたりまでは江戸町奉行の支配下であった。ちなみに1657年の明暦の大火(振袖火事)は本郷丸山本妙寺の失火から発したものである。

「高らかに伸びよ柏葉」
 「柏葉」は一高の武の象徴。ここでは、一高生をいう。
                        

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