旧制第一高等学校寮歌解説

芙蓉の雪の

昭和10年第45回紀念祭寮歌 

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1、芙蓉の雪の吹雪して  大利根の流れ曠野(かうや)行く
  春萬山の花霞      秋千谿に紅葉散る
  此處東海の神州の   都ぞ清き聖苑に
  國の護りと聳え立つ  見よ八寮の自治の城

2、柏の梢そよぐ時     月影踏みて逍遥に
  友と誠を語りたり    橄欖の香の流る時
  櫻散り敷く花の床    面は希望に輝きし
  三年の夢の幸樂よ   永久(とは)追懐(おもひ)に殘れかし

3、嗚呼先人の魂こもる  陵を去る日の近きかな
  縹渺遠き武藏野に   黎明(あかつき)の城築くべく
  永き調べの自治の歌  護國の旗の紅に
  鐵腕撫して鵬鯤(ほうこん)の    圖南の翼養はむ 
譜に変更はなく、現譜と同じである。最終行「國の護りと聳え立つ 見よ八寮の自治の城」(5段5小節以降)はゆっくり歌う。


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
芙蓉の雪の吹雪して 大利根の流れ曠野(かうや)行く 春萬山の花霞 秋千谿に紅葉散る 此處東海の神州の 都ぞ清き聖苑に 國の護りと聳え立つ 見よ八寮の自治の城 1番歌詞 冬は富士山の雪が吹雪いて、利根川がゆっくりと原野を流れて行く。春は多くの山に霞がかかって、秋は多くの谷に紅葉が散る。四季の移ろいが趣深く美しい、ここ日本の都の向ヶ丘に、一高の八寮の自治の城が国を守ろうと護國旗を掲げて聳え立つ立つ。

「芙蓉の雪の吹雪して 大利根の流れ曠野行く 春萬山の花霞 秋千谿に紅葉散る」
 利根川の流れを夏とすれば、武蔵野の四季の情景を詠んでいる。
 「萬山」、「千谿」は、たくさんの山や谷という意。「芙蓉」は、富士山の雅称。
 「芙蓉の雪の精をとり 芳野の花の華を奪い」(明治35年「嗚呼玉杯に」2番)

「此處東海の神州の 都ぞ清き聖苑に」
 「東海」は、中国からみて東方の海の国日本。「清き」は世俗から離れた。「清き聖苑」は、俗塵を絶って籠城する向ヶ丘。

「國の護りと聳え立つ 見よ八寮の自治の城」
 一高の校旗は護國旗、一高の建学精神は護國である。「八寮の自治の城」は一高寄宿寮。東・西・南・北・中・朶・明・和の八つの寮があった。寄宿寮は、四綱領に則り寮生の自治により運営された。寄宿寮は、また、1年生から3年生まで全員に入寮義務のある皆寄宿制度であった。この皆寄宿制度を籠城といい、寄宿寮を俗塵を防ぎ、自治を守る「城」と称した。
柏の梢そよぐ時 月影踏みて逍遥に 友と誠を語りたり 橄欖の香の流る時  櫻散り敷く花の床 面は希望に輝きし 三年の夢の幸樂よ 永久(とは)追懐(おもひ)に殘れかし 2番歌詞 柏の梢が風にそよぐ時、月明かりを頼りに逍遥に出かけ、橄欖の花の香が漂う時、その木の下で友と胸襟を開いて理想や悩みを語りあった。多種多才な寮友と起伏しを共にして、一高生の顔は希望に輝いていた。向ヶ丘の三年は、今まさに過ぎようとしているが、友よ、向ヶ丘の幸せで楽しかった思い出は、決して忘れてはいけない。

「柏の梢そよぐ時 月影踏みて逍遥に 友と誠を語りたり 橄欖の香の流る時」
 「柏」は武の、「橄欖」は文の一高の象徴。「逍遥」は、とくに何をするという決まった目的もなく、気分転換のために山野や川のふちなどを歩くこと。ここでは寮内や不忍の池の辺りにぶらぶらと散歩に出かけること。「誠」は本心。悩みや理想等、心を開いてなんでも話し合った。

「櫻散り敷く花の床 面は希望に輝きし」
 「櫻散り敷く花の床」は、寮室での起伏しを美化した表現と解す。「櫻」は同室の寮生・一高生。「散り敷く」は、各人が頭を並べて床を敷くの意であろう。本郷一高の寮の窓際近く、桜の木が多く植栽され、桜の時季には花びらが寮室に舞い込んでくるほどであったのも事実である(本郷・一高卒の園部達郎大先輩に確認)。
 「夕べ敷き寝の花の床 旅人若く月細し」(明治36年「綠もぞ濃き」1番)

「三年の夢の幸樂よ 永久に追懷に殘れかし」
 「三年の夢の幸樂」は、過ぎ去らんとしている向ヶ丘三年の幸せで楽しかった思い出。「かし」は、強く相手に念を押す意。
嗚呼先人の魂こもる 陵を去る日の近きかな 縹渺遠き武藏野に 黎明(あかつき)の城築くべく 永き調べの自治の歌 護國の旗の紅に 鐵腕撫して鵬鯤(ほうこん)の 圖南の翼養はむ 3番歌詞 嗚呼、先人の魂のこもる本郷の向ヶ丘から去る日が近づいた。見渡す限り広い武蔵野に新しい向陵を築くために、伝統の自治と唐紅に燃える護国の精神で以て、鵬鯤(ほうこん)のように逞しい英雄の腕を鍛え、南の大海を目指したという鵬のように大志を抱いて大業を企てる心を養おう。

「嗚呼先人の魂こもる 陵を去る日の近きかな」
 この年の9月には、一高は本郷から駒場に移転することが決まっていた。

「縹渺遠き武蔵野に 黎明の城築くべく」
 「縹渺」は、広く限りのないさま。「城」は寄宿寮。「黎明の城」は、駒場の地に築く新向陵。

「永き調べの自治の歌 護國の旗の紅に」
 「永き調べの自治の歌」は、長い伝統の自治。「護國の旗」は、一高の校旗・護国旗。唐紅に燃える深紅の旗である。

「鋨腕撫して鵬鯤の 圖南の翼養はむ」
 「鵬鯤」は、想像上の大鳥と大魚。転じて、非常に大きい事物、または英雄のたとえ(荘子、逍遥遊)。「圖南の翼」の「圖南」とは、鵬という大鳥が九万里も高く空に舞いのぼり、南の大海に飛んで行こうと企てた話(荘子、逍遥遊)。大志をいだいて南方に行くこと。遠征または大業を企てること。
 「圖南の翼千萬里 高粱實る満洲の」(大正6年「圖南の翼」)1番)
 「この年(昭和10年)駒場移轉のあるべき年なり。移轉大事業を今夏に控へ向陵史上一大轉囘期に直面せり。誠に狂瀾の時流にし、卓立不羈炳乎たる傳統と不滅の精神とを移植し、新しき歴史の創設者たる任を果すか、或は世の弊風に染み萎微沈滞巷間の輕薄な輩に堕するかは一途に我等一千の柏葉健兒の双肩にかゝれるものあり。」(「向陵誌」昭和10年1月)
乾坤春は繞り來て 星影流れ霜うつり 傳統(つたへ)の歴史四十五の 光榮(はえ)の祭ぞ今宵こそ 敷きて舞はんか歌筵 見よふけわたる銀燭に 集ふ男の子等頰赤く まどゐに通ふ(たま)の橋 4番歌詞 嗚呼、星霜移り、今年も春が巡って来て、伝えの自治の歴史は、今年45年となった。光栄ある自治寮の誕生を祝う紀念祭は、今宵、催される。紀念祭では、寮歌を歌いながら、一緒に舞おうではないか。見よ、燭の灯はいよいよ輝きを増し、紀念祭に集う一高生の頬は赤く映え、紀念祭を祝う一高生の心は、輪になって一つにつながって行く。

「乾坤春は繞り來て 星影流れ霜うつり 傳統の歴史四十五の 光榮の祭ぞ今宵こそ」
 「乾坤」は天地。「星影流れ霜うつり」は、星は天を一周し、霜は年ごとに降るからという考えで、年月が経過し。
 「星霜うつり人は去り 梶とる舟師は變るとも」(明治35年「嗚呼玉杯に」4番)

「敷きて舞はんか歌筵」
 「筵」は宴席、ここでは紀念祭の意であるが、紀念祭の2月1日は真冬で、寮庭は雪で泥濘んでいることが多く、ために実際にも筵を敷くことは少なくなかった。
 「明くれば2月1日冴えたる陽光は銀床に碎け馥郁たる梅花黄鳥の夢を破りぬ。」(「向陵誌」昭和10年)*「銀床」とある。積雪を意味する。

「見よふけわたる銀燭に 集ふ男の子等頰赤く」
 「銀燭」は、銀の燭台という意味もあるが、ここでは光輝く灯の意。

「まどゐに通ふ靈の橋」
 「靈の橋」は、心と心を繋ぐ橋。紀念祭を祝う一高生の心は、輪になって一つに繋がっていく。この状態を「魂の橋」と詠んだ。一つ心にの意である。

 昭和10年の紀念祭は、紀念すべき本郷最後の紀念祭であったので、本郷に名残を惜しんで盛大に行われた。「一高自治寮60年史」では、2月1日に、式典のあと向陵碑の除幕式、2日に一般公開となっているが、「向陵誌」では、一般公開の日を2月1日と記している。一般公開の雑踏の中で、西寮前で、除幕式や午餐会を催すことは不可能と思われるので、「向陵誌」の「2月1日 一般公開の日なり」は、「2月2日 一般公開の日なり」の誤植であろう。以下に、昭和10年2月に行われた本郷最後の紀念祭の模様を「向陵誌」の記事を抜粋して紹介する。
 「1月31日 待ちに待ちにし紀念祭のイーヴなり。向陵最後の紀念祭なれば感慨一入深く、自治燈赤々とゆらぎ、寮歌吟嘯の聲陵頭に漲りぬ。思ひ思ひに惜別の心を胸に秘めぬ。」
 「明くれば2月1日冴えたる陽光は銀床に碎け馥郁たる梅花黄鳥の夢を破りぬ。春日廻りて建寮四十五の祭の日を迎ふ。・・・此の日嚶鳴堂に盛大なる式典を催す。満堂の先輩寮生、自治生誕を祝ふ中にも搖籃の丘を去る一抹の悲愁を湛へたり。校長、生徒主事の祝辭に次ぎ文相祝辭ありてより勤續25年以上の職員に記念品を贈呈せり。午前十時半莊嚴裡に式典を終了し向陵碑除幕式を行ふ。」
 「思ふに木下校長により自治の礎定りて、護國旗の下文武を修練し忠君愛國の精神を養成し社稷に奉ずる事四十有餘年、其間先輩諸兄相警め相扶けて向陵の精華を發揮せし所以を偲ぶ時一度此の岡に上りし者誰か感慨に打たれざらん、記念碑を建立するは固より歴史の囘顧にのみ耽り野老尊大の誹を受くるが如きは互に愼しむ所にして建立の趣旨も亦これに存せず、唯燃ゆる愛惜の念を一片の貞石に託し以て向ヶ丘の地に訣別の意を表はさんとするものなり。増田副委員長除幕式式辭を朗讀し續いて宇都宮紀念祭準備委員議長碑文を朗讀し關根委員長序幕を行ふ。」
 「除幕式後西寮前庭にて午餐會を催す。先輩寮生陸續として來り、相擁し相語り愛惜の情に咽び、又、憂寮の熱血迸りては悲憤慷慨共に粉骨碎身自治寮隆盛に盡力せん事を盟へり。軍樂に代る(陸軍戸山学校軍楽隊はこの年演奏を急遽取止め)一高管弦樂団(小松清氏指揮)は一段の和氣を加へ奏で出づる旋律に萬馬相和し歡盡くる所を知らず。・・・諸先輩愛寮の念に燃え向陵精神の精髄を駒場の地に新生建設せん事を衷心より希望せられたり。」
 「2月1日(2月2日の誤植か?) 一般公開の日なり。舊寮を腋狹み新天地に勇躍せんとする一高生を象りたる正門アーチ先づ都人を驚かす。本郷臺上最後の紀念祭なれば早朝都人寮内に殺到したり。午後に至れば門前の雑踏如何ともす可からず。爲に午後3時一旦正門を閉鎖したり。觀衆爲に本郷通に溢れ交通は途絶せられ且又老幼の危險を思ひ遂に果斷以て正門を再び解放し雪崩打つ觀衆を先ず野球場に導きて、適宜處置せんとしたり。・・・さすがに午後4時閉門と共に平穏に歸し始めたり。」
 「夕昏迫れば篝火炎々として沖天に舞ひ力ある自治の歌、別離の愁ひを秘めつゝも新生の意氣にに溢れたり、窓邊に倚れる友の頬は希望の色に紅く、櫻樹の陰に語らふ友は感激の涙にくれたり。然れども紀念祭の盛大なる所以は歡衆の多きに非らず、又虛僞の感激、皮相なる空元氣の故にも非らず。思ふに紀念祭は往々にして本末轉倒、醉歌享樂を以て第一義と考ふる傾きあるは最も遺憾とする所なり。須らく傳統の形骸に捉はれず、向陵精神に則り紀念祭の根本義に思を致して自治千歳の進展を計る可し。」
                        

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