旧制第一高等学校寮歌解説
大風荒れて |
昭和10年第45回紀念祭寮歌
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1、大風荒れて雲を捲き 今混沌の 滿蒙中亞平蕪原 長眠覺むる曉の鐘 春はめぐりて 2、あだし俗世のぞよめきを 離れて 柏の 太平洋の浪叫び 胡地吹く風の荒びては 護國の旗を手に取りて 健兒立つべき時は來ぬ 3、彌生ヶ丘に咲き誇る 櫻黙して語らねど 我等が幸を壽がむ 駒場の森の下蔭に 理想の種を蒔かんとて 我等が行手光あり |
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譜に変更はなく、現譜と同じである。ただし、「春はめぐりて」の「て」(4段2小節3音)の2分音符は、昭和50年以降の寮歌集では4分音符となっているが、誤植であろう。 |
語句の説明・解釈
語句 | 箇所 | 説明・解釈 |
大風荒れて雲を捲き |
1番歌詞 | 台風が荒れて、空に雲は渦を巻き、海に巨濤が飛沫を上げて雨を呼んでいる。今、混沌とした世界に、天皇のご威光がほのかにさし出した。満洲蒙古中国のアジアの平原に、日本と満州国が共存共栄する新しい東亜の朝がやってきて、アジアの長い眠りを醒ます鐘が鳴り響いている。新しい東亜の朝を告げるめでたい時に、益々栄えゆく向ヶ丘に春は来て、今日、紀念祭の日を迎えた。 「大風荒れて雲を捲き 洪濤湧きて雨を呼ぶ」 「大風」は室戸台風を踏まえる。「洪濤」は、大きな波、巨濤。昭和9年9月21日に室戸台風が来襲して、死者・行方不明は、3,036人にのぼった。 この年、東北地方は凶作のため娘の身売り・欠食児童・自殺などが多く惨憺たるあり様であった。一方、都会は、軍需景気で工場は拡張し、熟練工は不足する好景気に沸いていた。住友財閥を中心に大財閥の満洲進出が始まった年である。 「今混沌の五大洲に 神光ほのにさし出でつ」 「神の光」は、御稜威。天皇の威光。混沌の世界に、秩序をもたらす光。「つ」は、動作・作用・状態の完了を示す助動詞(終止形)。「五大洲」は、アジア州、アフリカ州、ヨーロッパ州、アメリカ州、オセアニア州の総称。 「混沌とした世界の中でいかに対処していけばいいか、導きの光がほのかに見えてきた」(一高同窓会「一高寮歌解説書」 「滿蒙中亞平蕪原 長眠覺むる曉の鐘」 「平蕪原」は、草の生い茂った平野。「長眠覺むる曉の鐘」は、日本と満州国が共存共栄する新しい東亜の朝を告げる鐘。昭和9年3月1日、溥儀(清国ラストエンペラー)を皇帝として満州国が帝制を実地した。同11月1日、満鉄、大連・新京間(翌年ハルピンまで延長)に特急アジア号の運転が始まった。最高時速130キロの特急アジア号は、満州の荒野を日本の夢と希望を乗せて汽笛を高響かせながら疾走した。 「春はめぐりて彌生の 丘の祭に響くなり」 「春はめぐりて」は、春が来て。「彌生」は、栄えゆく。 |
あだし俗世のぞよめきを 離れて |
2番歌詞 | 俗世間の雑踏から離れて、三年の間、柏の森に旅寝して、少し物思いに耽っていたが、その間に、日本を取り巻く国際環境は、たいへん厳しくなっている。日本がワシントン条約の破棄をアメリカに通告して日米関係は緊張の度を高め、中国では、満州国が建国され、帝制を敷いたが、中国は、日本に激しく反発し、反満抗日の武装闘争を中国各地で展開している。今こそ、一高生は、護國旗を捧げて、国を守るために起つべき時である。 「あだし俗世のぞよめきを 離れて三年向陵の」 「あだし俗世のぞよめき」は、俗世間のざわめき。「離れて三年」は、俗塵を避けるために向ヶ丘に籠城して俗世間から離れて生活したこと。一高では、1年生から3年生まで全員が寄宿寮に入寮する全寮制であった。 「柏の杜に憩ひつつ 暫し想ひに耽りしが」 「柏」は、一高の意。「柏の森」は、向ヶ丘。「憩ひつつ」は、旅寝。寄宿寮に入寮して。 「太平洋の浪叫び」 日米関係が緊張し、深刻化していったこと。 昭和9年12月3日、日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を決定して、同29日、米に通告した。これにより、日米の緊張関係は、ますます深刻化して、日本を仮想敵国とするアメリカの「オレンジ作戦」は現実味を帯び、太平洋戦争へと突き進んでいった。 「胡地吹く風の荒びては」 「胡地」は、えびすの国の地。転じて未開の地。ここでは満洲、さらに中国全土のこと。「風の荒びて」は、中国各地で起きた反満抗日の武装闘争をいう(特に中共軍による)。 昭和9年 3月 1日 満州国帝制実施(皇帝溥儀)。 10月10日 国民政府の第5次包囲攻撃により、中共軍主力、瑞金を放棄し、 北上抗日に出発、大長征(昭和10年末陝西へ)。 11月 7日 (中国)東北人民革命軍成立。 12月20日 蒋介石、『外交評論』に「敵か友か」発表。対日国交調整打診。 「護國の旗を手に取りて 健兒立つべき時は來ぬ」 「護國の旗」は、一高の校旗・護國旗。 「護國の旗をひるがへし 我等立つべき時は來ぬ」(明治35年「混濁の浪」4番) |
彌生ヶ丘に咲き誇る 櫻黙して語らねど 我等が幸を壽がむ 駒場の森の下蔭に 理想の種を蒔かんとて |
3番歌詞 | 彌生が岡に今を盛りと咲き誇っている桜は黙って語らないが、この地を去る我等一高生の幸せを、きっと祝ってくれていると思う。移転先の駒場の森に、理想の自治を築こうと、古い桜の木によりかかって駒場の地に思いを馳せる時、我等の行く手は洋々としており、本郷と別れることなど何を嘆くことなどあろうかと決心がついた。 「駒場の森の下蔭に 理想の種を蒔かんとて」 一高は、昭和10年9月に本郷から駒場へ移転することが決まっていた(東京帝國大學農学部と敷地の交換)。「理想の種」は、理想の自治の種。理想の新向陵の建設を目指す。 「老櫻に寄りて想ふ時」 「老櫻」は、「彌生ヶ丘に咲き誇る櫻」。「老櫻に寄りて」とは、彌生が岡と歴史を共にして、彌生が岡のことを知り尽くしている桜。「黙して」語ることのない桜に、そっと耳をあてて聞いてみたのであろう。 「我等が行手光あり 別離をなどか嘆かむや」 「光」は、希望の光。「別離」は、本郷・向ヶ丘との別れ。 |
若き理想の火を抱き 遠く星座を仰ぎ見て |
4番歌詞 | 若い一高生は、胸に燃えるような理想を抱いて、夜空遠く黙示する星を仰ぎ見ながら向ヶ丘に憬れてきた。今日は、その向ヶ丘の最後の紀念祭の宴の宵である。友と別れの寮歌を歌えば、旅行く若い一高生の胸に感動がこみ上げてきて、息をする度に思い出が次々に甦ってくる。ほんとうに感に堪えない今宵の紀念祭である。 「若き理想の火を抱き 遠く星座を仰ぎ見て」 「星座」は、天球上の恒星を幾つかのグループに区分したもの。ここでは黙示をまたたく星。「高く」ではなく「遠く」という語から、天の一番北の北極星のことか。この星は、正義・真理・針路を黙示する。 「憧憬の丘最終の 饗宴の祭今迎へ」 「憧憬の丘」は、向ヶ丘。「饗宴の祭」は、紀念祭の宴。 「別離の歌を奏づれば 若き遊子の血は燃えて」 「別離の歌」は、寮歌。「遊子」は、家を離れて他郷にある人。旅人。ここでは一高生。 「息吹に溶くる追憶に 感懐盡きせぬ今宵かな」 「息吹に溶くる追憶」は、息を吐くたびに思い出が飛び出してくる。すなわち次から次に走馬灯のように思い出が甦って来る意。 |
年は流れて四十五の 古き草木を月照らし 星影冴ゆる向陵に 燃ゆる篝火天をつく |
5番歌詞 | 時は流れて開寮45年の間に生い茂った草木を月は照らし、星の光が澄んだ向ヶ丘に、篝火が天をつくように煌々と燃え上った。我が魂の故郷・向ヶ丘の長年の悲願であった、対三高戦四部全勝という夢がついにかない、「あなうれし」と喜びの凱歌があちこちに湧き起った。さあ、若い一高生よ、一緒に杯を上げて、欣喜雀躍して舞おうではないか。 「年は流れて四十五の」 「四十五」は、開寮四十五年をいう。 「搖籃の丘の夢亂れ 制覇の歌の溢れては」 「搖籃の丘」は、向ヶ丘。向ヶ丘は、一高生の心を育ててくれた揺籃の地である。 「幸多きわが搖籃に めぐり來ぬ紀念のまつり」(大正13年「曉星の」追憶) 「我が搖籃の故郷と 今宵別れの花筵」(昭和10年「嗚呼先人の」3番) 「自治の生誕を祝う中にも搖籃の丘を去る一抹の悲愁を湛へたり。」(「向陵誌」昭和10年2月) 「夢亂れ」は、夢が乱れ咲いた。多くの夢がかなったの意。「制覇」は、悲願の対三高戦四部全勝。四部(野球・端艇・陸運・庭球)による対三高戦は大正13年に始まった。翌年、一高は、思いがけなく四部の戦いで全敗を喫した。爾来、この不名誉を挽回し雪辱を期すべく、全寮挙げて血の滲むような練習と應援に明け暮れた。昭和4年、5年、7年、8年には三部優勝したが、あと一歩のところで涙をのんだ。切歯扼腕、捲土重来を期すこと幾度か、その度に四部全勝への思いは、ますます火と燃え上った。それだけに、この年の四部全勝優勝は、まさに長年の悲願達成であった。寮生はいうに及ばず先輩、教職員も含めて全一高関係者が欣喜雀躍し、その喜びは凱歌「あなうれし」の大合唱となったのである。「制覇の歌」は、四部優勝した時に歌われたのは凱歌「あなうれし」。「對三高戰四部全勝歌」は、「一高自治寮60年史」には、9月11日の根津神社での大祝勝会に合せ作詞作曲されたとある。 「陵上幾多先人が 切歯長蛇を逸したる 遺業をいかで繼がざらむ 見よ大旆の指すところ 多年の望遂に成る」(昭和9年「橄欖永久に香る下」1番) 「この夏陸運は神宮原頭に62.5對51.5庭球は7對2端艇は瀬田川に13挺身の大差を以て、野球京極球場に19對0を以て、完全に三高を壓倒し向陵多年の宿望たりし四部全勝の偉業は完成せられ、赤旗徒らに聲なく『あなうれしよろこばし』、幾度か相擁して歌ひし感激は男の子一千の胸に強し。」(「向陵誌」辯論部部史昭和9年度) 「嗚呼茲に四部全勝はなれり。白旗京洛の地に席捲し王城の舊都には赤旗なし。我等の歡喜これに勝る事あらんや。多年望みて遂に成らざりしも宿望は遂に成れり。健兒の意氣は天を衝き茲に向陵史上未曽有の勝利をなせり。實に我等手の舞ひ足の蹈む所を知らず、胸底に刻まれし勝利の歡喜は本郷史上最後の華と言ふべし。本郷臺上より去るに臨んで吾人はこれを大いなる向ヶ丘への餞と爲すものなり。8月20日大阪中之島中央公會堂に於て大阪一高會近畿大會を開き四部全勝の法悦に浸れり。9月11日夜酒樽を圍み對三高戰四部全勝大祝勝會を根津權現に開きぬ。勝利者の有する陶然たる法悦に浸り將來への飛躍を誓ひぬ。」(「向陵誌」昭和9年) 「昭和9年8月19日 対三高戦四部全勝(陸運、庭球、端艇、野球)。翌日には、大阪中之島中央公会堂で大阪一高会主催の大祝勝会。東京に帰り、9月11日 根津大権現で大祝勝会。対三高戦四部全勝歌「橄欖永久に香る下」が作詞作曲された。」(「一高自治寮60年史」) 「今村委員長 『終局的目的だった四部全勝を達成した。心ゆくまで祝杯をあげよう』 西垣団長 『向陵史上燦然と輝く四部全勝を達成した。選手諸君、ありがとう。応援団諸君、ありがとう』 京都府警察部長・安岡正光先輩 『勇敢なる四部よ。あんまりヒドい勝ちだ。徹底的に呑め。ただし、京都にいることを忘れるな。皆の安全はわれわれが守っとる。ただし、こちらからは手をだすな』 大阪府刑事課長・綱島覚左衛門先輩『15年前の応援団長二人だ。勝ってかぶとの緒を締めよ。明日、中の島で開く大阪一高会にぜひ出て来い』 あとはもう乱舞、高唱、壇上の演説など耳に入らず。8時過ぎるころ、綱島先輩の発声で万歳三唱、会を閉じた。一行は電車で新京阪四条大宮駅まで行き、四条通を東進した。二人ずつ肩を組み、いよいよ新京極に入る。『あなうれし』の凱歌をとめどなく歌い、感激と興奮のうちに、京洛隨一の繁華街、新京極を蹂躙し、北上して宿舎丸屋旅館前に円陣を張り、再び乱舞した。・・・ 翌20日、大阪市中之島の中央公会堂で大阪一高会近畿大会が開かれた。寮委員、応援団幹部と四部選手一同は、特に招待を受け、寮生も多数参加した。さしもの大会堂も数百名の会員と寮生で一杯になった。大会が、宿願四部全勝の一大祝勝会と化したことはいうまでもない。最後に西垣団長の音頭で『玉杯』を大合唱、大会の幕を閉じた。」(「一高應援團史」) 「(9月11日)午後6時半、寮生は根津権現境内に続々とつめかけた。参会者には、すしと『全勝』の文字を刻んだ菓子、果物が渡された。生ビールも十分に用意された。委員長あいさつで始まった祝賀会では、大村文夫野球部主将、北原秀雄陸運主将(のちの駐仏大使)がともに『ありがとう、ありがとう』を連発、奥野誠亮庭球部主将(のち文相、法相)は、来年は『9対0で勝つ』と誓った。 西垣団長に続いて立った森校長は『ノーモンク、理屈なしに愉快だ』と手放しで喜ぶ。・・歴史的な大祝宴も、8時過ぎ、田畑団長の音頭で『あなうれし』、四部部歌、『玉杯』二唱、万歳三唱で閉会。隊伍を整え、『あなうれし』で乱舞しつつ、本郷通りを三丁目まで練り歩き、9時ごろ帰寮した。西寮前庭には、前日とりこわしたばかりの正門の古材がうず高く積まれていた。この古い歴史を秘めた材木を燃やし、その周りを躍りながら、再び凱歌をくり返した。かがり火が消えるとともに、四部全勝の興奮と感激はようやく静まった。」(「一高應援團史」) |