旧制第一高等学校寮歌解説

梓弓

昭和9年第44回紀念祭寮歌 

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1、梓弓春さり來れば    とよみ出づ生命(いのち)の調べ
  櫻花吹雪わたりて    萠え出でぬ岡邊の綠
  今日しもぞ紀念の宴   頬燃ゆる若き友等は
  感激の杯擧げて     四十四の光榮を祝へる

2、見よ高く篝火(かヾりび)は燃え   まどゐする窓の赤きに
  うつろなる心抱きて    われ友と丘に上りぬ
  「今宵こそ祭なりしか   去年我も立ちて舞ひにき」
  若さこそ誇なりしを    感激は生命(いのち)なりしを

3、荊棘(いばら)なる人生(ひとよ)旅路(みち)に めぐみなる岡の三つ(とせ)
  自由(まま)にして胸うちひらき 物怖じず眦見さけ
  われ想ひわれ疑へり   われ叫びわれ戰へり
  柏蔭(かしかげ)は力なりけり     橄欖は叡智(ちえ)を香りき

4、八寮の甍は古りぬ    神さびて影や尊し
  幾人(いくたり)憧憬(こが)れ登りて   幾人(いくたり)か偲びて去れる
  傳統(つたへ)なる自治の流に   我も亦心清めぬ
  祝はなむ紀念の祭    篝火(かがり)燃え友等集へり 
暗い世を吹き飛ばすような力強く調子の良い曲。平成16年寮歌集で次のような変更があった。

1、「とよみいーづ」(1段5小節・2段1小節)    ラーソーー(とよ)|ミーレドーー(みいづ)
2、「ほほ」(4段5小節1・2音)            レーファ
3、「わか」(5段2小節2・3音)            ソーソ
4、「しー」6段2小節4音)               ミーソ(スラー)  
5、「わえる」(6段5小節)               レーミドー  
6、フェルマータ  「とよみいづ」(2段1小節)と「もえいでぬ」(3段3小節)の各最後にフェルマータ追加(これで合計10箇所となる)


語句の説明・解釈

語句 箇所 説明・解釈
梓弓春さり來れば とよみ出づ生命(いのち)の調べ 櫻花吹雪わたりて 萠え出でぬ岡邊の綠 今日しもぞ紀念の宴 頬燃ゆる若き友等は 感激の杯擧げて 四十四の光榮を祝へる 1番歌詞 春が廻って来て、甦った新しい命がうごめきだした。向ヶ丘では、満開の桜が吹雪き、若草が芽吹いて青々としている。さあ、今日は、待ちに待った紀念祭の宴の日だ。頬紅に燃える若い一高生は、感激の杯を上げて、第44回紀念祭を祝っている。

「梓弓春さり來れば」
 「梓弓」は、もともと梓の木(カバノキ科の落葉喬木)で作った弓であるが、弓の縁語から「音」「引き」「はる」などにかかる枕詞。この寮歌の作詞・作曲者とも弓術部。「さり」は、時・季節が移りめぐってくる。
 万葉0016 「冬ごもり春さり来れば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ」

「とよみ出づ生命の調べ」
 「とよみ」は、音が鳴り響く意だが、ここでは春に甦る命の蠢きをいう。「生命の調べ」は、春に甦った命の律動。「生命の調べ」は寮歌と解し、「とよみ出づ」を、辺りに寮歌の音が響きわたるとも解せないことはないが、ここでは春甦る万物の命の形容とする。

「四十四の榮を祝へる」
 「四十四の榮」は、寄宿寮が開寮44周年を迎えたこと。「祝へる」の「る」は、完了存続の助動詞「り」の連体形。命令形(「祝へ」)を承ける。連体止めは、感動・詠歎・強調の働きがある。
見よ高く篝火(かヾりび)は燃え まどゐする窓の赤きに うつろなる心抱きて われ友と丘に上りぬ 「今宵こそ祭なりしか 去年(こぞ)我も立ちて舞ひにき」  若さこそ誇なりしを 感激は生命(いのち)なりしを 2番歌詞 見よ、篝火は高く燃え上り、宴の部屋の灯は点って窓は赤く、本来なら浮き浮きした気分になるはずなのに、憂鬱な心が晴れないまま、友と一緒に向ヶ丘にいる。「あっ、そうだ。今宵は紀念祭だったのだ。去年の紀念祭には、自分も元気に立って舞ったものだった。」 若さこそ一高生の誇りだったのに、感激こそ生きてる証だったのに。このむなしい気持ちは、一体、なんなのだ。

「まどゐする窓の赤きに」
 「まどゐ」は、マト(円)ヰ(座)の意。 輪になって座ること。團樂。又、楽しみの会合。「窓の赤き」は、祭りの灯がともっていること。すなわち室内では友等が集まって紀念祭を祝っていることを意味する。

「うつろなる心抱きて われ友と丘に上りぬ」
 「うつろなる心」は、むなしい心。晴れない心。「丘に上る」は、向ヶ丘に登るで、普通は一高に入学することだが、ここでは、向ヶ丘に登って、その状態が続いていること。「ぬ」は、完了存続の助動詞(終止形)。
 「溟滓る胸の扉を秘めて 空虛に醉はん時もがな」(昭和5年「溟滓る胸の」1番)

「今宵こそ祭なりしか 去年我も立ちて舞ひにき」
 「」括弧は、強調。昨年の紀念祭では、あんなに無邪気に元気に紀念祭を祝えたのに、今年は、祭りを祝う気分にもなれない、と強調するためであろう。「しか」は、回想の助動詞「き」の已然形。・・・だった。「き」の承ける事柄(今宵こそ祭)が確実に記憶にあるということ。あっ、そうだ。今宵は紀念祭だったのだ。已然形止めは余韻・余情を残すために使われる。

「若さこそ誇なりしを 感激は生命なりしを」
 若さこそ我ら一高生の誇りであり、感激こそ生きている証であったはずなのに。「なりし」の「し」は、回想の助動詞「き」の連体形。「を」は接続助詞(格助詞の転用)で、順接にも逆接にも使われるが、ここでは「・・・のに」の逆接。活用語の連体形(ここでは「し」)を承ける。
荊棘(いばら)なる人生(ひとよ)旅路(みち)に めぐみなる岡の三つ(とせ) 自由(まま)にして胸うちひらき 物怖じず眦見さけ われ想ひわれ疑へり われ叫びわれ戰へり  柏蔭(かしかげ)は力なりけり 橄欖は叡智(ちえ)を香りき 3番歌詞 山あり谷ありの厳しい人生の旅路で、向ヶ丘の三年だけは、幸せそのものであったはずだ。かっては、思いのままに誰に気兼ねすることもなく、また何も恐れることもなく、真実を追求し、疑問に思ったことは素直に疑い、対校戦では雄たけびを発し戦った。柏葉は力を誇示し、橄欖は知恵の香を放っていた。一高が一高らしく文武両道に輝いていた昔が懐かしい。

「荊棘なる人生の旅路に めぐみなる岡の三つ年」
 「荊棘なる人生の旅路」は、厳しいことの多い人生。「めぐみなる岡の三つ年」は、幸せな向ヶ丘の三年。
 「橄欖の森柏葉下 語らふ春は盡きんとす 嗚呼紅の陵の夢 其の香其の色永劫に 旅行く子等の胸に生き 強き力とならん哉」(大正3年「黎明の靄」2番)」

「自由にして胸うちひらき 物怖ぢず眦見さけ」
 「胸うちひらき」は、気分爽快に。誰に気兼ねすることもなく。「眦」は、目尻のことだが、ここでは目。「見さけ」は(サケは遠ざけるの意)、遠くをはるかに見る。真実を追求しの意。
 
「われ想ひわれ疑へり われ叫びわれ戰へり」
 「われ想ひわれ疑へり」は、デカルトの「我思う、故に我在り」を踏まえてか。「り」は、完了存続の助動詞(終止形)。
 「向陵精神の中心はその眞理を探究し將来社會的にまた政治的にも働きかくる潛勢力を養ふの點にその本質を存す。」(「向陵誌」辯論部部部史ー倉田百三「向陵精神の再認識」昭和8年5月29日)

「柏蔭は力なりけり 橄欖は叡智を香りき」
 「柏葉」は一高の武の象徴、「橄欖」は文の象徴であることを踏まえる。「けり」は回想の助動詞(終止形)。「き」は回想の助動詞(終止形)。ともに過去のよき日を回想する。
 「みどりしたゝる柏葉は 岸にしげりて橄欖の 實は美しう星のごと」」(明治39年「太平洋の」1番)
 「マルスの神は矛執りて ミネルバの神楯握り 我等を常に守るなり」(明治35年「混濁の浪」)
 「橄欖の花散らふ下 眞理の實をば探してし 柏の瑞枝繁き蔭 面は理想に輝きし」(昭和8年「古りし榮ある先人の」4番)
 「護国旗や徽章に 『柏葉』と『橄欖』によって象徴されている文武両道の理念を、このように表現している。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 
八寮の甍は古りぬ 神さびて影や尊し 幾人(いくたり)憧憬(こが)れ登りて 幾人(いくたり)か偲びて去れる 傳統(つたへ)なる自治の流に  我も亦心清めぬ 祝はなむ紀念の祭 篝火(かがり)燃え友等集へり  4番歌詞 八寮の甍は苔むし、その佇まいは神々しい風格が出てきた。ごく一部の者が許されて憬れの一高に入学し、そのうちの何人かは、左翼思想のために一高に思いを残して学半ばにして去っていった。自治寮に入寮して、先人から伝えられた自治の流れに自分もまた心を清めることが出来た。さあ、紀念祭を祝おう。祭りの篝火は燃え上り、友らが集まった。

「八寮の甍は古りぬ」
 「八寮」は、一高の八つの寄宿寮(東・西・南・北・中・朶・明・和寮)。

「神さびて影や尊し」
 「神さび」(カムサビの転)は、神神しい不思議な様子を示す。古びる。

「幾人か憧憬れ登りて 幾人か偲びて去れる」
 社会主義思想のために学校から処分され、退学して行った者を偲ぶ。「幾人か憧憬れ登りて」は、一高に憬れて厳しい選抜試験を突破して入学して。「幾人か偲びて去れる」は、社会主義思想取締りで退学処分を受け、学半ばにして向ヶ丘を去って行った。「去れる」は、連体止めである。「る」は、完了存続の助動詞「り」の連体形。命令形(「去れ」)を受ける。
 「昭和8年3月6日 学校左翼学生5名の処分発表。除名1、停学1、戒飭3。1月27日から本富士署に大量検挙され取り調べを受けていたものの一部。この後、卒業の前日3月30日にさかのぼって数名の処分発表があり、次いで5月6日、除名2、停学2、さらに12月18日除名2を出して、一高の左翼学生組織は壊滅し、運動は終息した。」(「一高自治寮60年史」)
 「昭和8年2月1日、紀念祭を行ふ。近時左翼思想の事やかましく昭和7年9月頃より検擧さるゝものの多く、或は4名、或は10名と續々丘より去り行く者あり。作冬夏にも亦15名の検擧を見、8年に入り紀念祭に又検擧を見る。寮内に於ても傳統を批判するもの多くその反動として護陵會なるもの一部の有志によりて結成されし事ありき。瓣論部は左翼検擧と共に大弾壓を受け一時事実上の潰滅を見しも近時復活の聲高まり昔日の隆盛を思ひてその建設に努力せしものありき」(「向陵誌」昭和8年)

「傳統なる自治の流に 我も亦心清めぬ」
 「自治」は、一高の伝統である。明治23年の寄宿寮開寮以来、先人から連綿として伝えれてきた。一高生は、自治共同の寄宿寮に入寮して人間修養に励み、勤倹尚武の清い心を身につけたのである。

「篝火燃え友等集へり」
 「集へり」の「り」は、完了存続の助動詞(終止形)。
 紀念祭について、向陵誌は、「昭和9年2月1日第44回紀念祭を行ふ」と、前年紀念祭と同じく簡単に記すのみである。
                        


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